お汁粉狂想曲









 上


 それは早朝からセミの鳴き声が響き渡る、良く晴れた土曜日のことだった。時刻は午後二時前。部屋の主である葛城ミサトは[[rb:仕事 > ネルフ]]に行き、学校が休みのシンジとアスカは何をするでもなく、リビングで暇を持て余している様子だった。
 シンジはリビングの壁を背にしてフローリングにぺたりと座り込み、イヤホンをしながら雑誌を読んでいる。どうやら天文雑誌のようで、惑星直列云々の単語が並んでいた。アスカはフローリングに敷かれたラグマットの上でクッションを抱えるようにしながらうつ伏せに寝そべって、脚をブラブラ揺らしながらタブレット端末を弄っていた。アスカは薄手のブラトップにショートパンツという格好で、そのむき出しの手足や胸元は、最初こそ免疫のないシンジの顔を赤くさせたが、今はすっかり慣れて――いたわけではなかった。ただシンジは、心の動揺を表に出さない術を、少しだけ学んだのだった。
「ねぇ、シンジ。"おしるこ"ってなに?」
 そんなシンジの胸中を知らぬかのように――実際知らないのだろうが――アスカは、シンジをチラリと眼だけで見て言った。シンジはアスカの声と視線に気づいて、イヤホンを外した。
「え、なに、アスカ」
 頬を膨らませるようにしたアスカは、シンジにジロリと顔を向けた。
「聞いてなかったの? おしるこよ、おしるこ。おしるこってなに?」
「お汁粉?」
「そう、おしるこ。今読んでる小説にいきなり出てきたんだけど、どんなものだかわかんないのよね。食べ物だってことはわかるんだけど」
 アスカはゴロリと転がって上を向き、手にしたタブレット端末を腹の上に置いた。金色の長い髪が無造作にラグマットの上に広がり、胸の膨らみがその姿をささやかに主張する。無防備なその様子に、シンジの心臓はトクッと跳ねた。それを隠すように、平静を装ってアスカに答える。
「ああ、そういうこと。お汁粉っていうのは、お餅を甘く煮た小豆の汁の中に入れたやつだよ。あ、お餅は知ってる?」
「聞いたことはあるけど、よくわかんない」
 アスカはブスッとした様子で、視線を天井に固定したままにしている。
 アスカは最近、表情の変化を隠さないようになった。シンジと同居を命じられて直ぐの頃のアスカは、常に不機嫌な様子であり、更に言うべきことには、そこにはその年代の少女らしき感情の起伏は見受けられなかった。だが最近のアスカには、少しずつではあるが、そこに移り変わりが見られるようになっていた。つっけんどんな態度を常とするのは変わらないが、そこには年頃の少女の顔色が見え隠れするようになり、今もまた寝転んだその姿には、年相応の表情が顔を覗かせている。日々を共に過ごしている同居の少年はその変化には気づいていなかったが、それでもシンジは目の前の姿に少し眉尻を下げるようにして、口を尖らせたアスカに伝える。
「お餅は、もち米をついて粘っこくしたものだよ。丸めたり、伸ばして切ったりして、食べやすい大きさにするんだ。英語だと"Rice cake"だったかな」
「なにそれ。全然イメージが沸かないんだけど」
 半ば拗ねたような口調のアスカは、益々仏頂面になって、上を向いたままでジロリとシンジを瞳の動きだけで見た。
「ごめん、説明が下手で。お餅はお正月に食べるのが普通だから、今の時期はあまり売ってないんだ」
 眉尻を下げて縮こまるような仕草をしたシンジは、言い訳のように答えた。寝転んだままでシンジを一瞥するようなアスカの視線を気にして、上目がちに落ち着かない様子を見せる。アスカはシンジのその姿に、眉の動きだけで肩をすくめるようした。アスカはまたタブレット端末を手に取り、その画面に視線を戻す。
「まぁいいわ。バカシンジに聞いたわたしがバカだったってことね」
 アスカは身体を返して、シンジに背中を向けた。頭の上を掻きながら、はははと力なくシンジは笑ったが、その目に笑みはなかった。髪がラグマットの上に落ち、背中の半分ほどが露わになったアスカの白い素肌を、シンジはじっと見つめる。十数秒ほどが経ち、シンジはひとつ、コクリと息を呑むようにした。
「お汁粉、用意したら食べる?」
「え?」
 シンジのその一言に、アスカはタブレット端末を弄っていた指の動きを止めた。背を向けていた身体をぐるりと捻ってシンジに向かい、まじまじとシンジの顔を見る。
「お汁粉、食べてみたい?」
 アスカを見つめるシンジの顔は、あくまでも真顔だった。その真っ直ぐな視線にアスカは虚を突かれたような顔つきになると共に、胸にチクリと細い針で突かれたような痛みも覚えた。自然と声のトーンを抑えてしまう。
「まぁ……無理しなくていいわよ。季節ものなんでしょ」
 そのアスカに、シンジはややぶっきらぼうにも聞こえる声色で応える。
「でも、探してみるよ。ちょっと出掛けてくる」

 シンジが出掛けて行った後の部屋で、アスカは一人、シンと静まり返った空気を全身に、そして心に感じていた。いつもは気にしない蝉の声が、妙に耳についた。何をするでもないシンジがいなくなっただけで、何故このように感じてしまうのか。何故わたしはあのように言ってしまったのか。アスカは自問自答し、自分に言い聞かせるしかなかった。
『わたしは特別、だからわたしは独り。あのバカなんて気にしてられないのよ、アスカ』



 下


 時刻は午後四時過ぎ。シンジが出て行ってから、既に二時間が経過していた。
「あのバカ、何処まで行ったのよ。そんなに探し回っているわけ?」
 その言葉とは裏腹に、アスカの蒼い瞳には灰色の影が浮かんでいた。時計の針を見返す回数が増え、その間隔は次第に短くなっていく。
「ったく、あのバカ!」
 限界を感じたアスカが腰を上げようとしたところで、ガチャリと玄関の鍵が開く音がして、続いてシュイン、トンと玄関扉の音が響いた。
「ただいま~」
 帰ってきたその声に、力の入ったアスカの肩はへにゃりとその強張りを失った。その声の主は部屋に入ってくるなり、屈託のない笑顔をアスカに見せる。
「ごめん、晩御飯の食材とかも買ってたら遅くなっちゃった」
 シンジの表情は買い物に出て行った時とは裏腹に、福引で特賞を当てたような浮かれ顔の如く、アスカには見えた。弁明しながらもそんな笑みを零すシンジを見て、アスカはホッと胸のつかえがとれたように感じつつも、同時に、その笑みにピクリとこめかみに走るものも覚えた。『まったく、なにやってたのよ』といら立ち交じりに言いかけたアスカは、トクリと小さく鳴ったものに気づき、胸のあたりに生まれたそれに戸惑う。「別に心配なんかしてないわよ」と吐き捨てるようにしながらも、買い物袋を両手にしたままにキッチンに向かったその姿から、目が離せなかった。
『夕食の食材くらいでこんなに時間が掛かるわけないでしょ。ホントにバカなんだから』
 その気持ちをシンジの背中に視線でぶつけたアスカは、両手でパンと腰を叩いて立ち上がり、キッチンに向かったシンジの後を追った。無言で彼の持つ買い物袋のひとつをひったくるようにして、取り出したものを冷蔵庫の中にパッパッと仕舞い始める。シンジは少し目を丸くするようにして、アスカのその姿を呆けたように見つめていた。

「これ、今食べるの?」
 アスカのその声に、シンジははっと我に返って、アスカの手にあるものを見る。
「あ……ごめんね、アスカ。お餅はやっぱり売ってなかった」
 眉を八の字にして、顔中に申し訳ない気持ちを出したシンジは、アスカが差し出したそれを受け取った。
「だから、代わりじゃないんだけど……」
「え、おしるこの?」
 蒼い瞳をクルリと回して、アスカはシンジの顔をパッと見返す。
「うん、気分だけでも。ちょっと待ってて」
 シンジは手にした袋から、アイスバーを二本、取り出した。それはその昔から絶えることなく売られている、小豆色のパッケージでお馴染みの"あずきバー"だった。
「これって、アイスじゃないの……あんた、わたしを嵌めようとしていない?」
「え、どうして?」
 訳がわからないといった様子で、シンジは思わずアスカの顔を正面から見た。アスカはそのシンジの視線に戸惑ったように、一瞬口ごもる。
「だ、だってこれ、あまりの固さに顎を痛めたとか歯が欠けたとかいうアイスでしょ。あんた、わたしのことを――」
「あー、違う違う! 確かにそんなこと言われるアイスだけど……でもアスカ、良く知ってるね」
 シンジは苦笑交じりに眉尻を下げて、アスカに呑気な笑顔を見せる。アスカがなぜあずきバーを知っていたのか。それは冷凍庫の中にあったそれ――おそらくこの部屋の主が買ってきたものだ――を先日コッソリと食べたからだ。その時の固さと少しの後ろめたさを思い出したアスカは、それらを覆い隠すように矢継ぎ早に言う。
「そんなことはどうでもいいのよ。やっぱりさっきのことを根に持ってわたしを嵌めようとしているんでしょ」
「さっきのことって、なにかあったっけ?」
 シンジはキョトンとした様子でアスカを見返す。出ていく前のシンジの姿を思い出していたアスカは、逆に少したじろいで言葉に詰まった。
「だって、あんた……」
 アスカは二の句を継ぐことができない。口ごもるアスカを横目に、シンジは嬉々とした様子であずきバーの袋を破いた。
「まぁいいや。あずきバーでね、ちょっと作ろうと思って」
 シンジはお椀を二つ取り出して、それぞれにあずきバーを二本ずつ入れた。それらを電子レンジに入れて、スイッチを操作する。
「時間は……三分じゃ短いかな。三分半にしよう」
 真剣な顔でブツブツと呟くと、シンジは電子レンジのスイッチを入れた。ぐるぐると回るあずきバーのスティック。ふたりは言葉もなく、それを眺める。三分半は長い。だがアスカはイライラする姿も見せず、しかしただ待つのも間が持たない様子で、シンジの横顔をチラチラと見る。そのシンジはアスカの視線にも気づかず、何かを考えるように、回る二つのお椀をじっと強く見つめていた。程なくして電子音が鳴り、シンジはお椀を取り出す。すっかり氷から解放されたあずきバーのスティックをそこから取り出して、ぺろりと味見をした。
「うん、温度はちょうどいいね。ちょっと塩を入れた方がいいかな」
 シンジはパラパラと食卓塩を振りかけ、スティックで掻き回した。再びスティックで味見をして、満足そうに頷くシンジ。
「うん、こんなもんだね。で、ここにこれを……」
 シンジが袋から取り出したのは、これまた古より親しまれている"雪見だいふく"だった。そのパッケージをペラリと開けて白いそれを取り出し、一つのお椀に一つずつ、月のようなそれをペチャリと入れた。
「ちょっと加熱したほうがいいかな。十秒位で……」
 二つのお椀は再び、電子レンジの中でくるくると回った。二つの黒い眼と二つの蒼い眼は、それをじっと見つめる。チンと電子音が鳴り、シンジは二つのお椀を取り出した。
「うん、できた。お汁粉もどきのお汁粉アイス」
 ニコニコと邪念のない笑顔を見せながら、シンジはそれをアスカに差し出した。
「もちろんホントはアイスの大福じゃなくてお餅なんだけど、お餅がどうしても手に入らなくて。小豆はあったけど、煮込むのに時間が掛かるしね。だからインチキっぽいんだけど、雰囲気位は味わえるかなって思って」
 アスカは手渡されたお椀を、ポカンと小さく口を開けたままにじっと見つめた。仄かに暖かなお椀の中では、焦げ茶色の夜空の中に真っ白な月が綺麗なコントラストを描いていた。
「食べてみてよ」
 促されるままにダイニングテーブルに着き、手渡された箸で、アスカはあずき汁の中の白いだいふくをツンと突いた。アスカが上目遣いにシンジの様子をチラリと伺うと、その様子をニコニコと眺めていたシンジと、パタリを目が合った。アスカはすぐに目を伏せると、お椀を両手に持って、おずおずと口に運ぶ。
「甘い……」
 シンジは変わらず、にこやかな笑みでアスカの様子を見ている。アスカはもう一口あずき汁を口に運ぶと、コトリとお椀をテーブルに置いた。そして雪見だいふくを箸でそっと摘み、あずき汁にくぐらせるようにする。それをゆっくりと口に運び、半分ほどをパクリと噛み切った。バニラアイスの甘みと冷たさが、ふわっとアスカの口の中に広がった。アスカは目を丸くして、思わずシンジの顔を見る。シンジは変わらずほころんだ顔で、自分のお椀には手を付けずにアスカの様子を眺めていた。アスカの顔で、熱いものがパッと弾けた。
「ちょ、ちょっとあんたも食べなさいよ! わたしのことばかり見てないでさ!」
 顔の熱さを消し飛ばすかのように、アスカはまくし立てるように言う。
「あ、ごめんごめん。アスカの様子が気になって。うん、頂きます」
 シンジは後ろ頭を掻くようにして、ばつが悪そうな顔を見せる。箸を取り、カプリと一口で雪見だいふくを頬張った。
「うん、いけるね、これ。お汁粉かって言われるとちょっと違うけど、これはこれで美味しいよ」
「あ、なによ! おしるこじゃないの、これ!」
 アスカは火照った顔を振り払うかのように、必要以上に声を張り上げた。そのアスカに、シンジはまた首をすくめるようにする。だがそこには、先ほどのような落ち着きのない面持ちは浮かんでいなかった。シンジは頬を崩しながら、アスカに向かう。
「ご、ごめん。あくまでもお汁粉風ってことで許してよ。でもお餅以外は似たようなもんだし、美味しくない? 思い付きの割には良かったかなーって思うんだけど」
 アスカは耳のあたりの熱さに戸惑いながら、シンジに食って掛かるようにする。
「なに? 思い付きだったわけ?」
「あ、うん。だってアスカが食べたそうだったし、なんとかならないかなって思って」
 シンジはあっけらかんと答えた。シンジのその言葉を聞いたアスカの脳裏には、スーパーでウロウロしながら考え込むシンジの姿が、目の前で見たかのように鮮やかに浮かんできた。アスカはまた、キュッとこみ上げてくるものを覚える。アスカは顔のみならず、むき出しの白い肩のあたりまでも紅潮し始めていた。だがシンジはそんなアスカの様子に気づくこともなく、のほほんとしている。アスカは益々言葉に窮して、条件反射のようにシンジに対した。
「な、そんなに食べたそうになんかしてないわよ!」
「そう? なら僕の思い込みだね。でも、アスカが喜んでくれたみたいだから……良かった」
 シンジは透明な笑みを、アスカに向けた。アスカは一瞬、その笑みに表情を奪われた。しかしすぐにそこから顔を背けるようにして、お椀に視線を落とす。
 アスカも、甘いお菓子は食べたことがないわけではない。見るからに高級な物も、それなりの機会で食べたことはある。しかしそれらは、アスカの心には何の痕跡も残さなかった。しかし、この、シンジが目の前で用意してくれた安価で簡単なお汁粉もどきは、アスカの心に、確実に何かを刻み込んでいった。アスカは半分だけ残っている雪見だいふくを見ながら、ポソリと呟くように言う。
「……今度は本物のおしるこを用意してよね」
「うん、お正月になったらね」
 シンジは、うつむいたままのアスカに向かって、すうっと毒気を浄化するような笑顔を見せた。アスカはその笑顔を見ることもできず、半月になっただいふくを見つめたままに、口を尖らせてボソボソと言う。
「正月って"Neujahr"のことでしょ。まだ半年以上先じゃない」
「楽しみは先にとっておいた方がいいでしょ」
「あんたが忘れそうだから心配なだけよ」
「アスカのことなら忘れないよ」
「なっ……!」
 シンジからスルリと出てきたその一言は、アスカの心の奥底にあるそれを、一気に覆い尽くした。それはアスカを形作っているそれ、そのものだ。独りで生きようとしたそれ、そのものだ。その言葉の熱量に曝されたアスカは、暫し、口先一つ動かすことができなかった。
 そんなアスカの心の内にはまったく気づかない様子で、シンジは口元を引き締めるようにしてアスカに向かい、その真っ直ぐな眼で、顔を伏せたままのアスカを見つめる。
「お正月にね。約束するよ」
 それはとても小さくて、取るに足らないことのように思える約束だった。だがそれは確かに、少女が明日を待ち望むことができる約束になった。その時、少女は間違いなく、まだ見ぬ日々への望みを胸に抱いたのだ。
 アスカは顔を上げ、シンジの顔を正面からキッと射るように見て、その瞳に揺れる希望を乗せて言った。

「バカシンジのくせに……生意気ね。忘れたら、一生赦さないわよ」



 その年に、ふたりの正月は終ぞ来なかった。災厄が天から降りてきて、大地が赤く染まったのだ。
 だがその年の正月は来ずとも、年月は変わらず巡りゆく。何年も、何十年も。ふたりが本物のお汁粉を味わえる正月も、きっとやって来るだろう。
 少年の、少女への約束と共に。
 少女の、少年への想いと共に。



   【了】




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