僕たちは始まってもいない





終章 空にまいあがれ





11.STAR TRAIN





 虫の知らせという物は、本当にあるのかもしれない。その日アスカは、いつもより三十分ほど早く目覚めた。また寝入るのにも中途半端だと思い、そのまま早朝ランニングの準備をして早めに家を出たところで、バッタリと碇シンジに出くわした。
 シンジは自転車を抱えて出掛けようとしている様子だったが、少々荷物が多く、大きめのバックパックを背負っている。思わずアスカは問い掛ける。
「アンタ、どこに行くの?」
 シンジは、少々口籠りながらも、ハッキリと言った。
「第3新東京市に行くんだ」

「は? 第3新東京市?」
 アスカは一瞬、自分の聞き違いかと思った。しかしシンジの表情は変わらない。
「自転車で?」
 シンジは黙って頷く。
「アンタひとりで?」
 シンジはまた頷く。
「ここから何キロあると思ってんのよ」
「二百キロ位かな」
 シンジは、顔色を変えずに答えた。
「学校は?」
「休むよ。届けは出した」
 無意味な質問だと、アスカ自身も言った後で思う。
「何日掛かると思ってんのよ」
「往復三日間で」
 アスカは言葉を失った。言葉の端々から、シンジの固い決意が感じ取れる。
 そうなると、アスカの決断は早い。
「わたしも行く」
「え?」
「わたしも行くって言ってんの。七分で準備するから、ちょっと待ってなさい」

 そう言い残して、アスカはシンジの返答を待たずに部屋に飛んで戻る。そうして七分後キッカリに、サイクルジャージを身に付け、ロードバイクを抱えて姿を現した。
 口をポカンと開けたままのシンジを前に、アスカは反論を許さない勢いで言い放つ。
「さ、行くわよ!」

 早朝の引き締まった空気の中を、ふたりは二百キロ先の目的地に向けて出発した。前を行くのはシンジ。間を空けずにアスカがすぐ後ろを走る。
 有無を言わさない勢いのアスカに気圧された形のシンジは、未だ疑問符が頭の中を飛び交っていた。どうしてアスカは一緒に行くと言ったのか。すべてはそれに尽きる。

 自分のことを心配して? ――それは違うと思った。
 トレーニングに良いと思ったから? ――それもない。
 旅行気分で気分転換? ――もっとありえない。

 一筋縄ではいかないふたりの関係。そのキーポイントである第3新東京市。この三日間はどうなってしまうのだろう。アスカの登場はシンジの心を揺り動かした。

 出発してから二時間弱。右手に大きな湖が見えてきた。シンジもアスカも、自転車トレーニングの際に度々使用してきたルートだ。シンジは国道を外れ、湖畔のパーキングに車輪を向ける。公園の駐輪場にロードバイクを停め、ヘルメットを取ってふたりは公園のベンチに腰を下ろした。
 まだ早朝の雰囲気が漂う辺りには、人通りは殆どなかった。向こうから白い通学ヘルメットを被って自転車に乗った女子中学生が、通学鞄を前籠に入れて先を急ぐように立ち漕ぎをしながら走ってくる。その少女はスカートを翻しながら、アスカとシンジをチラリと見て通り過ぎていった。
 数分の間、何も言わずに湖畔を見つめるふたり。それを破ったのはアスカだった。
「シンジさ」
 ん? と顔だけで反応するシンジ。
「あそこに行って、どうするの」
 顔を合わせずに、ふたりとも湖畔を眺めている。やや間をおいてシンジが答えようとしたときに、アスカがそれを制した。
「やっぱりいい。行けばわかるんでしょ」
 シンジはアスカの横顔を見て、「うん」とだけ言う。

「そろそろ行きましょ。まだまだ先は長すぎるくらいなんだから」
 アスカは立ち上がり、ヘルメットを被り、グローブを付ける。シンジも黙って頷くと、ロードバイクに跨り、またペダルを踏み始めた。
 朝日は昇り切り、日差しが強くなってくる。その中を淡々と走るふたり。国道と言いつつも道幅は狭く、片側一車線の道が続いていた。時折、大きなトラックが地響きを立てて二台を追い越していく。
 そのうちにアスカは、シンジが必要以上に車道寄りを走っていることに気づいた。大きな車両が近付いてきたときだけ、左側一杯に寄って道を開ける。そしてまた右に寄って走る。
『シンジ、わざと目立とうとしている?』
 シンジのその位置は、アスカを庇うかのように思えた。アスカはふと、浅間山での顛末を思い出す。
『生意気に、無理しちゃって』
 だがそれは、決して悪い気分ではなかった。アスカは口元に笑みを浮かべたまま、シンジの背中をパンと叩いてやりたい衝動に駆られる。
 アスカはギアを一つ上げ、重くなったペダルを踏み込んだ。

 アスカは走りながら、湖畔でシンジに手渡された補給食を、サイクルジャージの背中から取り出した。
『少しでもお腹が減ったらこれを食べるといいよ。体力が保たないから』
 一旦は断ったアスカだが、シンジの強い勧めと、逆に足手まといになるリスクを考えて、それを受け取った。包装を破ってバー状のそれを一口二口とかじり、ドリンクで流し込む。一息つくアスカ。またペダルに力を籠める。
 時刻は十一時になろうとしていた。出発してから既に六時間近く。最初の湖畔と、その後に一度の休憩を挟み、ふたりは九十キロ近くを走破していた。シンジは国道を逸れて右手に折れ、細い道を進み、川を見下ろす公園でロードバイクを停めた。

「ここで昼ごはんにしよう」
 ロードバイクを柵に立て掛けて、ヘルメットを取りながらシンジはアスカに言う。アスカは肩で息をするように大きく空気を吸い込んだ。カツカツとサイクルシューズのビンディングの音を響かせて、シンジは少し先のベンチに向かう。アスカもヘルメットとグローブを外しながら、後に続いた。
 木陰のベンチに腰を下ろしたシンジは、バックパックの中身を探り、奥底から固形の栄養食と、小さな弁当箱を取り出した。
「量は少ないけど、固形食ばかりじゃ味気ないから」
 そうしてシンジは、アスカに弁当箱を手渡す。
「飲み物を買ってくる」と言い残して、シンジは少し先の自動販売機に向かった。その後姿を見送りながら、アスカは弁当箱を開ける。薄切りレモンが乗ったチキンの塩焼きに茹でたブロッコリー。それにスクランブルエッグ。それらが小さな弁当箱にギュッと押し込められていた。
 程なくして、ペットボトルを両手に持ってシンジが戻ってくる。右手の一本をアスカに手渡すと、その隣に座った。キリリと音を立てて、ペットボトルの蓋を開けるシンジ。ゴクゴクと音を立てて三分の一ほどを一気に飲み干す。
「ぷはぁ~」
 大きく息を吐き出したシンジに、アスカは思わず吹き出してしまう。
「アンタ、なんだかオジサンみたいよ」
 何故だかツボに入ったようで、アスカはケタケタと笑いが止まらない。不思議そうな顔でその様子を見るシンジ。
 ひとしきり笑ったあとで、アスカは眼下の川に視線を移す。
「なんだか、ミサトのことを思い出しちゃった」
 その声は淋しそうでもあり、懐かしそうでもあり。
「ミサトさん、いつも美味しそうにビールを飲んでたよね」
 シンジも同様に、川を眺める。川のせせらぎはふたりの心も洗うようだった。

「せっかくだから食べてよ、アスカ」
 シンジに促されて、アスカは弁当に手を付ける。久しぶりのシンジの弁当は、飲み込むのが勿体ないくらいに美味しく感じられた。アスカはそのことにやや戸惑い、『空腹成分が加味されているからね』と思い込むことにする。
 半分ほど食べたアスカは、弁当箱をシンジに手渡す。
「ありがと。美味しかった」
 シンジはそれを戸惑い混じりに受け取ると、アスカの横顔を見る。
「ごめん、美味しくなかった?」
 アスカはシンジに向き直ると、ムキになって言う。
「そんなわけ無いでしょ! 美味しかったわよ、すっごく!」
 そうして、ハタと気づいたように顔を背ける。
「シンジのお弁当を全部食べちゃうわけにいかないじゃない」
 シンジは一瞬目を丸くするが、手渡された弁当箱に視線を落とした。
「そっか、ごめんね、アスカ。ありがとう」
 だがシンジはまた、少し戸惑いがちな素振りをする。
「でも、あの……」
「でも、なによ」
 そのシンジの様子に、アスカは顔を背けたままに反応した。
「箸が……」
「はし?」
 その言葉は、アスカにとって意味不明だった。
「アスカの使った箸を僕が使うと、あの、その……」
 言葉を濁すシンジに、アスカはその意味を解する。
「アンタばかぁ!? 今更何言ってんのよ!」
 そう言いながらも、アスカ自身も自分の顔の熱が上がることを自覚せずにいられなかった。
「うん、ごめん、頂きます」
 緊張したような声とともに、シンジは両手を合わせて弁当を食べ始めた。アスカはその様子を直視できず、顔を背けて遠くの丘陵を眺めるのだった。

 食事を終えたふたりはベンチを離れ、川べりの堤防へ向かう。草むらに腰を下ろし、大きく寝そべって身体を休めた。川のせせらぎに加え、鳥の鳴き声が聞こえる。時折吹く風が、疲労したふたりの身体を撫でた。
「ダメ。気持ちよすぎて動きたくなくなっちゃう」
 シンジの右側で大の字になっているアスカが、思わず呟いた。うん、と相槌を打つシンジ。
 シンジは改めて、この状況を考えた。もし独りだったらどうだっただろうか。アスカの意図は分からないし、自分もアスカに目的を告げていない。ただ、少なくともシンジは、アスカの意図に疑心暗鬼になることは無かった。

「そろそろ行く?」
 名残惜しさを隠さずに、シンジは問い掛ける。
「うーん、そうね。名残惜しいけど」
 そういいながらも、アスカは勢いよく起き上がった。背と尻に着いた草をパンパンと落とし、大きく背伸びをひとつ。
「じゃ、行こう」
 クルリとアスカに背を向けて、シンジは歩き出した。アスカはちょっとした物足りなさを感じ、目の前の背中に、思わずバチンと平手打ちを見舞う。
「い、痛いよアスカ」
「気合付けよ!」
 カツカツとビンディングの音を響かせて、アスカはシンジの前に出る。
「行くわよ!」
 そう言うとアスカはロードバイクに跨ってペダルを踏み始め、シンジもアスカの後を追った。特に示し合わせたわけではなかったが、ここからはアスカが前を走る。

 そこから一時間半ほどを経て、更に三十キロを走破。百十八キロほどを走り切った。ドライブインでロードバイクに跨ったままに小休止しながら、ふたりはこの先の道を見上げる。
「ここからは登りが続くから、大変そうだね」
 シンジは行く先に見える山に目を遣り、アスカに言うでもなく呟く。
「終わらない登りは無い、でしょ」
 そうしてアスカは、またペダルを踏む。

 そこからの道のりは中々に厳しかった。ダラダラとした登り坂が続き、時折急な坂も現れる。必然的にペースもグッと落ちる。ギアを下げ、ケイデンスを下げないようにしながら、ふたりは懸命にペダルを回し続ける。
 十キロほどを登ると、その先にトンネルが現れた。出口は見えず、長いトンネルであることを窺わせる。ふたりはロードバイクを停め、シンジはアスカに告げる。
「このトンネル、三キロ位あるみたい。気を付けて行こう」
 アスカもトンネル入り口に目を遣り、コクリと頷く。ヘッドライトとテールライトを点灯し、アスカはペダルに力を込めて再出発した。
 トンネルの中は薄暗く、熱気を帯びた空気がヌルリと淀んでいる。道幅は狭く、車両がすぐ側を追い抜いていく。車両の音がトンネル内で反響して唸り声となり、恐怖心を煽る。アスカの背後を走るシンジは、意識して車道よりを走っていたため尚更だった。
 トンネルに入って五分ほど経った頃、前方のアスカの速度が急に落ちた。そのまま止まってしまうアスカ。
「アスカ、どうしたの?」
 アスカはロードバイクから降り、後ろのタイヤを確認する。暗いトンネルの中で後ろから様子を見るシンジには、その表情は良く見えない。
「パンク……」
 アスカはそこで固まってしまう。シンジもバイクを降り、アスカの後輪を触って確認する。タイヤは指でペコペコと凹む。
「どうしよう……」
 想定外の事態で戸惑うアスカに対し、シンジは意外なほどに落ち着いていた。
「とりあえず押してトンネルを出よう。ここじゃどうしようもないし、危ないよ」
 後方を確認しながら、シンジは続ける。
「出口まで二キロも無いと思うから、すぐだよ」

 走るとすぐの二キロも、自転車を押して歩くと結構長い。ふたりは歩きにくいサイクルシューズの音をカツカツとトンネルの中に響かせながら、出口を目指して足を速めた。車両が次々と、時にギリギリの間隔で、ふたりの横を通り抜ける。大きなトラックが、ふたりを踏み潰すかのように追い抜いていく。
 十五分ほど歩くと、その先に小さな光が見えてきた。それは正に希望の光に見えた。
 更に五分ほど掛けて、ふたりは何とか出口に辿り着いた。太陽の光が例えようもなく有り難く感じる。トンネルを出たところの脇道に入り、ふたりはヘナヘナと道端に座り込んだ。
「あはは、怖かったぁ~」
 シンジは力無く笑う。その笑いには疲労と安堵が混じっていた。それはアスカも同じだった。シンジの顔を見て、思わずヘヘヘと笑ってしまう。アスカは、シンジは、お互いの顔を見合わせて、座り込んだままに笑いあった。
「でも、どうしよう」
 少し落ち着いて、アスカは改めてパンクしたタイヤを触る。
「うん、ちょっといい?」
 シンジはバックパックの中をゴソゴソと探り、小さなバッグを取り出した。そしてアスカのロードバイクに取り付き、後輪を外し始める。
「ちょ、シンジ、アンタ修理できるの?」
 驚きを露わにするアスカに、シンジは手を止めずに作業を続ける。
「出る前に教えてもらったから」
「教えてもらった?」
「うん、買ったところで相談して、いくつかの応急処置は教えてもらったんだ」
 アスカは改めて、この旅に対するシンジの覚悟を知る。きっと色々と考え、準備をしてきたのだろう。アスカは急に、自分の所在が無くなったような気持ちになった。
 シンジは二十分程は格闘していただろうか。アスカの素人目にも手際が良いとは思えなかったが、それでも最後にボンベを接続して空気を入れ、パンク修理が完了した時は、アスカは感動を禁じ得なかった。
「できたよ、たぶん大丈夫」
 そう言って立ち上がるシンジに、アスカは呆然とするしかない。
「ありがと……シンジ、凄いね」
 嘘偽りなく、アスカは心の内を表す。
「ちゃんと教えてもらったから……ちょっと不安だったけど、出来たみたいでよかった」
 そう微笑むシンジに、アスカの心は小さく警告音を立てる。その場に立ちすくむアスカ。その心を隠すようにアスカは身を翻し、シンジに背を向けた。
「ゴメン、わたしが急に行くって言ったから、予定が狂ったわね。これ以上迷惑を掛けたくないから、わたし、帰る」
 シンジから顔を背けたままに、アスカは自分のロードバイクに飛び乗ろうとする。それに対するシンジの動きは早かった。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 シンジはアスカの左手を掴み、強引にアスカを引き留めた。アスカの身体はグラリとバランスを崩し、その場でよろけてしまう。
「あ、ごめん、アスカ」
 シンジは掴んだ腕をそのままに、バランスを崩したアスカを支えた。姿勢が落ち着いたところで、パッとその手を離す。
「でも、せっかくここまで来たんだから、一緒に行こうよ」
 シンジの笑顔が、今のアスカには辛く映った。シンジに力強く掴まれた左腕が熱い。
「いいの。シンジひとりで行って」
「良くないって」
「いいのよ」
「良くないよ!」
 シンジは急に声を荒げる。

「ここまで一緒に来て……今さら帰るなんて、そんなのないよ」
 辛く、悲しそうな顔を、シンジはする。
「迷惑なはずがない。アスカが一緒で、楽しかった。嬉しかった」
 アスカは顔を背けたままに、それでもシンジの声をじっと聞く。
「僕はアスカに、一緒に来て欲しい」
 そこでシンジは、何かを考えるような素振りを見せた。
「本当は、アスカにも来て欲しかった。でも言えなかった。だから、アスカが行くって言ってくれて、嬉しかったんだ」
 シンジは今朝のことを思い返す。
「走り始めた時、なにがなんだかわからなかった。どうしてアスカが一緒に来るって言ったのか、理由がわからなかった。でも僕は、やっぱり嬉しかった。一緒に走って、お弁当を食べて、独りじゃないっていいなって思った」
 シンジは向こうを向いたままのアスカに、ハッキリと言う。
「僕は、アスカと一緒に行きたい」

 黙ったままにシンジの言葉を聞いていたアスカは、そこで問い掛ける。シンジに、そして自分に。
「あそこにわたしと行く意味が、あるのね」
 シンジは強く頷く。
「アスカとじゃなくちゃ、ダメなんだ」
 アスカはひとつ、大きく息をする。
「わかった。ごめん。もう言わない」
 泣き出しそうな形相だったシンジは、その言葉に緊張を緩めた。改めてアスカに向かい、泣き笑いのような表情をシンジは見せる。
「ったく、わたしがいなくなりそうだったからって、泣くんじゃないの!」
 そう言ってアスカもまた、プイと横を向く。シンジの強張った頬は緩み、目尻も下がった。
「じゃ、そろそろ行こうか。もう一息だよ」
 シンジは右手を握り、アスカの方に突き出す。アスカもそれに、握り拳を合わせた。
「うん、行こう」

 山の尾根沿いをぐるりと回り、短いトンネルを二本くぐる。そうすると少し開けた山村に入り、その先にあった短いトンネルを抜けて進むと、右側に大きな湖が現れた。急に涼しい風が吹いてくる。前を行くアスカは少し速度を落とし、右手に広がる湖畔を眺めながら走った。
 停まって眺めたい気持ちもあったが、それより先を急ぎたかった。時刻は既に十六時を過ぎている。本日の目的地まで、あと十七キロ。
 湖に別れを告げてしばらく行くと、久しぶりに街中に入った。ハンドルに取り付けたナビが示す残距離は、いよいよ一桁になった。疲労の蓄積は半端ではないが、自然と足の回転は上がっていく。既に大きなアップダウンもない。最後の力を振り絞ってペダルを踏むと、交差点の向こうに、いきなり大きな湖が現れた。
「着いた……」
 アスカはそう呟くと、そのまま後ろを振り返る。後ろの顔にも安堵感が広がっている。湖畔直前の赤信号で止まり、アスカは振り返って右手を振り上げ、シンジにガッツポーズを見せた。シンジも大きく頷いて応える。
 信号が青になる。アスカとシンジは湖畔を左手に見ながら、流すようなペースで本日の目的地に向かった。
 到着したのは、湖から数百メートル離れた森の中にある、小ぢんまりとしたペンションだった。ふたりはホッと胸を撫で下ろす。時刻は十六時四十五分。出発からここまで十二時間近くを要し、走行距離は百四十五キロになっていた。

「すみませーん」
 ペンションの玄関を開けてシンジが声を掛けると、中から女性が現れた。
「二部屋で予約していた碇ですけど……」
「あ、碇さん、ようこそいらっしゃいました」
 そこで彼女は、少し困った顔をする。
「何度かお電話したんですが……」
 慌ててバックパックを探って携帯電話を取り出すと、確かに五件の着信履歴があった。
「ご用意していたお部屋で漏水がありまして、一部屋しかご準備できなかったんです。申し訳ありません」
 そう言って深々と頭を下げる彼女。
「すぐ近くのペンションに一部屋を用意させて頂きましたので、よろしければそちらを……」
「同じ部屋にふたりじゃダメですか?」
 シンジの後ろからアスカがひょいと顔を出し、突然に言った。え、と言う顔をする少年と彼女。
「弟と一緒でも別にいいですよ。その方が安いでしょ?」

 通された部屋は和洋室で、シングルベッドがふたつに八畳ほどの畳があった。アスカは荷物をドカリと置くと、大の字になって寝そべる。
「あー疲れた。もう動きたくない」
 そのまま寝入ってしまったかのように、アスカはピクリとも動かなくなる。シンジは戸惑いがちに部屋の隅に荷物を置き、アスカから少し距離を置いて、畳の上に腰を下ろした。
 い草の匂いが僅かに漂う。なんとなく落ち着かないシンジは、テレビのスイッチを入れた。夕方のバラエティ兼ニュース番組をいくつか回し、適当な所でチャンネルを固定する。その間にも微動だにしなかったアスカだが、いきなりガバリと起き上がってバックパックを漁り始めた。ひとつの袋を取り出すと、押入れを開け、浴衣を取り出す。
「お風呂、入ってくる」
 アスカはシンジの顔を見ずに、そそくさと部屋を後にして大浴場に向かった。

 大浴場と呼ぶには少々小さい浴場だったが、手入れが行き届いている様子に、アスカは好感を持った。一刻も早く湯に浸かりたかったが、汗まみれの自分の身体を鑑みて、まずは身体と髪をしっかりと洗い、それからゆっくりと湯の中に身体を沈めた。
 足を思い切り伸ばす。浮遊感が心地良い。アスカはふと、自分がここにいることの不思議さを想った。何しろ、朝のランニングに出るつもりだったところまでは、全く予定していなかった今日の道程なのだ。仮にいつもの時間に起きていたならば、今頃は部屋でゴロゴロしていたことだろう。それがまさか、シンジと一緒に自転車で、しかも百四十キロもの距離を走るとは。
「こういうのも、悪くないわね」

 部屋に残されたシンジは、悶々としながらアスカの戻りを待っていた。この状況に緊張しない男子がいたら、捕まえて問いただしたいものだ。だが同時に、シンジはアスカとの同居生活も思い出す。アスカはきっと、あの延長線上のつもりなんだろう。そう考えると少し楽になるとともに、残念な気持ちも湧いてくる。

 暫くして、濡れた髪をアップにまとめ、浴衣を纏ったアスカが戻ってきた。
「あー、いいお湯だった。シンジも入ってくれば」
 アスカはシンジを直接見ずに、目の前の座卓に投げ掛けるように言った。アスカはそのまま腰を下ろし、足をひとまとめに折り曲げて座る。アスカの見慣れない浴衣姿とその仕草を直視できず、シンジはバタバタと浴衣を抱えて逃げるように部屋を出て行った。
 口まで湯に浸かりながら、シンジは思う。
『意識するなって言ったって……無理だよ』

 腹いっぱいの夕食をとり、部屋に戻ってきたふたり。正直な話、部屋でやることは何もない。暇つぶしの物も持っていない。テレビも面白いわけではない。特に今回は温泉旅行に来たわけでもなく、明日の最終目的地到着こそがタスクだからだ。やるべきことと言えば、明日に備えてしっかり休養を取ること。そうは言っても、やはり互いに、初めての状況を意識せざるを得ない。
 だがシンジには、アスカに告げなければならないことがあった。
 畳の上で座椅子に座りながら、座卓の向こう側のアスカを見る。その視線に気づいたアスカは、視線だけで「なに」と訴える。

「今回の目的なんだけど……」
 アスカはピクリと眉を動かし、テレビの方を向いていた首をシンジの方に向けた。アスカにはそのシンジの顔は、なにかを内に秘めているように見えた。
「お墓参りのつもりで来たんだ」
 アスカにとってその一言は、にわかに理解できなかった。ポカンと口を開け、は? といった表情になる。
「もちろんお墓があるわけじゃない。でも、一度ちゃんとあの場所を見て、みんなに話をしておきたかったんだ」
 呆気にとられているアスカに、シンジは表情を変えずに言う。
「もしかしたらアスカは、そんなの意味がないって言うかもしれないけど、でも僕は、ちゃんと言葉にしておきたかったんだ」
 そうしてシンジはやや目を伏せ、弱い声色になる。
「ただの自己満足だけど……」
 黙って聞いていたアスカは、肩をすくめてやれやれと言う表情を見せる。
「まぁーったく、このわたしを泣いて連れてきたと思ったら、お墓参りとはねぇ。相変わらず内罰的よね、シンジは」
 しかしその言葉と裏腹に、アスカの瞳には刺々しさは無かった。アスカは身体を捻って座卓の向こうのシンジに向き直り、両腕を座卓の上で組んでシンジに向かう。
「でも、それも悪くないわね」
 アスカは少し、柔らかい表情になった。
「わたしも、話したいことがあるしね」

 その夜は疲労も手伝い、ふたりとも熟睡することができた。早朝までまったく目を覚ますことなく、静かな夜が過ぎていった。







12.SEVENTH HEAVEN





 翌朝はしっかりと朝食をとり、午前十時にペンションを後にした。連泊するつもりだったので、殆どの荷物は宿に置いたまま。身体は軽い。最終目的地までは、四十キロ弱だ。山の尾根沿いを緩やかに下って少し行くと、開けた市街に出た。道幅も広く走りやすい。この辺りまでは極めて速いペースで二台は進んだ。
 市街を抜け、目の前にそびえる山に向かう。道路は片側一車線になり、次第に勾配もきつくなってくる。しかし息が切れるほどの斜度ではなく、ゆるゆるとした登り道が続いている。車の量も少なく、緑の中を淡々と登るのは、なかなかに気持ちが良い。
 山道に入って五十分ほど。目の前には短いトンネルが見えてきた。前を行くシンジは、思わずペダルを踏む力を強めた。
 二百メートルほどのトンネルを抜けた。暗いトンネルから眩しい外界に出た。道は左に曲がり、正面は深い谷になっている。その谷に面した小さな展望台は、第3新東京市跡地を見晴らす舞台となっていた。
 その小さな展望台にシンジは車輪を向けた。アスカも後に続く。

 眼下には、かつて第3新東京市であった筈の大きなクレーターが、ポッカリと口を開けていた。そのクレーターは火山の火口よりもはるかに深く、その深さはここからでは測り知れない。
 その景色は、ふたりの心を一瞬のうちに奪い去った。言葉を失い、その場に立ち尽くすことしかできなくなる。

 一台のオートバイが背後を通り過ぎた。
 どちらともなく、顔を見合わせるふたり。シンジはようやく、その口を開いた。

「アスカは、何が起こったのか、知ってる?」
 アスカは無言で首を横に振る。
「詳しいことは、僕も知らない。たぶん、誰にもわからないんだと思う」
「僕が知っていることは……」
 肩を落としたシンジのその様子は、まるで懺悔をするかのようだ。
「最期の戦いがあって、アスカが傷ついて、僕が壊れて、そして逃げた。世界が終わろうとしていた」
 ポツリポツリと、言葉を探すように、シンジは続ける。
「でも、アスカだけが、僕の傍にいた。あのアスカが本当のアスカだったのか、それとも僕が作り出した幻だったのか、僕には今でもわからない」
 シンジはアスカから視線を逸らし、足元の石ころをじっと見た。
「そのアスカを、僕は……」
「僕は、この手で……」
 アスカは黙ってシンジの横顔を見る。その顔には、自分自身に対する憎しみが溢れていた。
「アスカを、殺そうとしたんだ。僕のこの手で」
 ああやっぱり。アスカはそう想った。しかしそこに、怒りは湧いてこなかった。哀れみもなかった。憎しみもなかった。その『アスカ』が自分だったのか、それともシンジが生み出した幻だったのか、それはアスカにもわからなかったし、そんなことはどうでも良かった。
 アスカが見つめていたシンジの横顔は、嗚咽を堪え、今にも崩れ落ちそうだった。そのシンジの横顔は、アスカにひとつの決意をさせた。アスカは目の前の景色に目をやる。

「わたしのママの話、してなかったわよね」
 突然、アスカは言った。両手を血が滲むほどに握り締め、歯を食いしばっていたシンジは、アスカのその言葉に、ピクリとその身を震わせた。
「前にちょっと話した義理のママじゃなくて、本当のママ」
 胸の中の想いを棚上げしたかのように、まるで他人のことのように、アスカは淡々と続ける。俯いたままのシンジの顔は、虚をつかれたような表情に変わる。

「わたしのママはエヴァの研究者だった。でもある時事故で、魂を持っていかれちゃった」
 シンジは思わず顔を上げ、アスカの横顔を見た。アスカは眼下のクレーターを見たままに、それでもシンジの視線を受け止めながら続けた。
「それからのママは、人形をわたしだと思って生きて」
「最期には、わたしの目の前で死んじゃった」
 感情を失ったかのように、アスカはアッサリと言った。シンジはそのアスカの横顔から、目が離せない。
「わたしはママに、ただ抱きしめて欲しかった」
「でも、それは永久に叶わない」
 アスカは、達観したかのように語った。
「だからわたしは、エヴァに乗るしかないと思ったの」
 アスカのその言葉は、ただ淡々と流れた。それ故、シンジの心にそれは、すうっと流れ込んできた。
「これを話したのは、シンジが初めて」
 変わらずアスカは、谷を見たまま、静かに言う。
「そういうことよ」

 アスカは何かを吹っ切ったような目をして、眼下の風景を見つめていた。
「同じことを何回も言うのは好きじゃないからね」

 シンジは視線を、アスカの横顔から眼下の景色に移す。何かを想うように暫く動かずにいたシンジは、そして両手を合わせ、静かに目を閉じる。シンジのその様子を見、アスカも倣って手を合わせた。

「僕はまた間違えるところだったね」
 シンジのその表情からは、既に自分への憎しみは消えていた。
「アスカ、ありがとう」

「なにもしてないわよ、わたしは」
 ただ淡々と、アスカは告げた。
「ま、シンジには、わたしがいてちょうどいいのかもね」

「……うん」
 シンジはただ頷く。そこにあったのは、ふたりの確かな気持ちだけ。

「それにさ」
 アスカは、いま思いついたように続ける。
「わたしたちみたいな危険分子は、一緒にいた方が都合がいいんでしょ、何かとね」
 他人事のようにサラリと口にするアスカ。
「シンジだって気づいているでしょ、監視されてるの」
「……うん、でもそれは――」
 シンジを制してアスカは続けた。
「わかってる。わたしたちが自由に動けるのもそのおかげ」
 アスカは自らに言い聞かせるように、小さく頷いた。
「でも、今だってどこで見られてるかわかんないわよ?」
 上を見上げて天を指すアスカ。少し冗談めかして言う。
「空から見られているかもね」
「あの赤木リツコの弟子だからね、マヤは。GPSくらい埋め込まれていても不思議はないんだから」
 シンジはとっさに、首筋に手を当てる。
 そう言いながらも、アスカは軽く笑みを湛えていた。シンジもつられるように、空を見上げる。
 空は青く、どこまでも高かった。

 シンジはアスカに向かい、右手を差し出す。
「これまで、ありがとう。これからもよろしく」
 アスカは目を丸くし、そして苦笑する。
「なによ。今さら改まっちゃって」
 そう言いながらも、差し出された手を握るアスカ。その笑顔を見ながら、シンジは子供のような笑顔で言った。
「『なかよくなるためのおまじない』だよ」
 ふたりはその手に、しっかりと力を込めた。この手は離してはいけない。その想いは同じだった。

 ややあってから、シンジは右手を緩めてスルリとアスカの手を放した。軽い失望を感じたアスカだが、それが膨らむ前に、シンジは右手でアスカの左手を奪った。指と指を絡め、お互いを感じられるように、シンジはアスカを強く握る。
 そのまま横に並んで、シンジはアスカに語り掛けた。
「さっき、みんなに話したよ」
「……なんて?」
「今までありがとうって。僕はバカシンジだけど、これからは、アスカとちゃんと生きていきますって」

 そうしてシンジは、また天を見上げる。
『ミサトさん、また一緒に暮らしたいです』
『父さん……いつかちゃんと話がしたい』
『ありがとう、綾波。さようなら、カヲル君』
『みんな、これからも見ていて』

 アスカもまた、天を見上げた。
『わたしはもう大丈夫』
『心配しないで、ママ』
『加持さん、ミサト、そっちで仲良くね』
『みんな、ありがとう』

 ふたりはゆっくりとペダルを踏み、辺りを走った。周囲は惨劇の色があちこちに残り、通行止め、立ち入り禁止の場所も多い。ひとつひとつのそれらを確認するように、ふたりは進む。顔をしかめてしまうところ、胸が痛くなる場面も数多くあった。だがふたりは、それらを胸の中に丁寧に仕舞う。
 十五歳になる少年少女には重すぎたそれらは、これからもふたりを苛むかもしれない。だが、その手を離さない限り――。



   ※



 その夜はまた、前夜とは違った夜だった。ふたりは昨日と同じ部屋に、ふたりで泊まっていた。ふたりは平静を装っていたが、心の内は相手の一挙一動が気になって仕方がなかった。ロクな会話もなかったが、そのことに気づく余裕さえなかった。
 時刻は二十二時になろうとしていた。

「シンジ」
 アスカはポツリと呟くように言う。
「な、なに?」
 挙動不審にならないように努力したつもりのシンジだが、それは隠し切れない。
「もう寝ようか。明日も五時出発でしょ」
「……そうだね、寝ようか」
 アスカの実務的な言葉にやや肩を落とすも、シンジも時計を見て応える。

 一メートルほどの間隔をあけて隣り合ったシングルベッドに、ふたりはそれぞれ横になった。しかし相手の僅かな音に、動きに、どうしても神経を尖らせてしまう。
 そうやって、縛られたように時間は過ぎていく。
 その縛りを破ってアスカは、シンジに背を向けながら言った。

「シンジはさ」
「……」
「シンジはわたしのこと、大切にしてくれてるよね」
「……うん。でも」
「でも?」
 アスカは背中のシンジに問い掛ける。
 シンジは、アスカの心の内にあるものがわかったような気がした。その想いはきっと、自分と同じだ。シンジはそう感じた。
「アスカを……」
 ひとつ息をのみ込んで、シンジは天井に向かって、自分の心の中にあるものを告げた。
「アスカを自分のものにしたいと思うことだって、ある」
 シンジの言葉に、アスカはキュッと身を固くする。
 アスカのその様子は、シンジには窺い知れなかった。シンジは天井を見ながら言う。
「でも、それは今じゃないんだ。アスカにとっても、僕にとっても」

 その言葉にアスカはごろりと身を返し、シンジの方に向き直った。アスカの視線の先に有ったシンジの顔は、アスカを待つように、アスカの方を向いていた。照明が落とされ、天窓から差し込む僅かな光の下では、その表情を直視することはできなかった。だがアスカにはそのシンジの表情が、目の前にあるかのようにわかった。

『ありがとう、シンジ』
『ママ、見てる?』







13.Dream Fighter





 シンジとアスカが三日間の旅から帰宅してから二週間後。アスカがデビューウィンを飾った次のレースで、シンジは完璧なレースを見せた。ポールポジション、独走優勝、国内ライセンスのコースレコードの三冠を奪取。手が付けられない速さだった。アスカはシンジに続き二位となった。
 その次のレースでもまた、シンジは優勝を飾る。予選一位はアスカ、二位がシンジであったが、二台はデッドヒートを繰り広げ、最終ラップでアスカが僅かにミスを犯す。結果、前戦に引き続いてシンジが優勝、二位がアスカとなった。
 そのレースの二週間後。練習後のミーティングで、監督の北原が告げた。「一ヶ月後の全日本選手権最終戦に、チームEプロで二台をエントリーさせる」と。
 全日本選手権には通常、地方選手権で成績を残し、国際ライセンスを取得しないと出場できない。シンジもアスカもまだ国内ライセンスである。しかしながら『ユース枠』が規定されており、一定の成績を残した若年層の選手は、国内ライセンスでもエントリーが認められることになっていた。ふたりはその枠でのエントリーが認められたのだ。

 レースウィークの木曜日早朝、というより水曜日の深夜二十六時。いつものように、北原親子がシンジとアスカを迎えに来た。携帯電話が鳴り、ふたりが各々玄関から出てきたところで、シンジはアスカの姿を見て唖然とする。

「あ、アスカ……その髪……」
 アスカはフッと笑みを見せると、あっけらかんと、些細なことだと言わんばかりに答えた。
「空気抵抗になりそうだし、走るときに邪魔だからさ、ザクっと切っちゃった。軽くてサッパリした」
 背中まで伸ばしていたアスカのロングヘアーはすっかり消え去り、首筋が覗くショートヘアーに、アスカは変身していた。
「でもねぇ、ちょっと短くなりすぎちゃったみたい。なんだかファーストみたいじゃない?」
 そう言って髪先を弄りながらアスカは笑う。驚きのあまり固まっていたシンジだが、アスカのその仕草と笑顔に我に返る。
「うん……ビックリしたけど、でも似合ってるよ」
 今度はアスカの動きがギシリと固まる。だがすぐさまそこから立ち直ったアスカは、シンジに一歩近付き、シンジの顔を覗き込んで一言。
「ふーん、シンジも女の扱いに慣れてきたってことかな? 怖い怖い」
 そうしてアスカは火照った頬を冷やすように、バッグを担いで階段を勢いよく駆け下りた。アスカの顔に胸を高鳴らせたシンジも、その姿に慌てて後を追いかける。

 いつものようにバンに乗り込んだアスカを見て、北原親子もまた仰天した。その様を見てアスカは頬を膨らませる。
「んも~! シンジ! 面倒だから説明して!」



     ※



 明けて金曜日。特別スポーツ走行が行われていた。初めて走る全日本選手権。レベルの高さをふたりは実感していた。
 シンジもアスカも速いライダーの技術を盗むために、走行中に彼らの背後に付こうとする。しかし彼らはそれを察すると、すぐさまペースを落とし、ふたりにその走りを決して見せなかった。つまりそれは、シンジとアスカが彼らに認められていることを意味する。
 二本目の走行後、シンジとアスカはチームテントの下で、顔を突き合わせてノートPCを覗き込んでいた。手元には、順位とタイムを記録した公式通知のペーパーがある。
 シンジはそれを見ながら、自分たちとの差を確認する。
「やっぱりみんな速いね」
「でも、歯が立たない程じゃない」
 アスカはノートPCの画面に表示された、自分たちの走行データを睨みながら言った。
「遅いところはわかった。後は修正するイメージをつくるだけ」
「アスカさ、一ヘアのブレーキングって……」
 ふたりだけの打合せは続く。

 翌土曜日。予選が始まった。歴戦の猛者はクレバーで、シンジやアスカが背後に付くとすぐにアタックを止めてしまう。そしてチャンスを逃さずに一発でタイムを出す。
 先にピットインしていたシンジを追うように、アスカもピットに入ってきた。マシンを降りたアスカは、ツカツカとシンジに歩み寄る。
「予定通り、共同戦線で行くわよ、シンジ」

 メカニックが微調整を終えたマシンを受け取ったアスカは、同様の調整作業を終えたシンジのマシンの後を追ってコースインする。連なって走る二台の白いマシン。ストレートでは相手の背後にピタリと付いて空気抵抗を減らし、トップスピードを上げる。そしてストレートのみならずコーナーでも二台はギリギリまで接近し、ほぼ一塊となって駆け抜ける。互いの動きを百パーセント理解し、完全に信頼しているからこその仕業だ。
 連なったままに三周を走破。次の周のメインストレートで、後ろにいたアスカがシンジの前に出る。追い抜きざまにアスカは、シンジにアイコンタクトを送る。
 アスカはそのまま第一コーナーへ。シンジもアスカの背後にピタリと付く。互いに引っ張り合い、タイムアップを図る二台。

 四十分間の予選が終了した。
 結果、アスカが五位。シンジが六位。二列目のスターティンググリッドを確保した。ポールポジションは昨年のチャンピオン。アスカとのタイム差はコンマ四秒ほど。アスカとシンジのタイム差はほぼゼロだ。

 予選終了後には、複数のメディアがふたりを取材に来た。弱冠十五歳と十四歳の少年少女は、今回のレースの台風の目となりつつあった。そのメディアの中には当然のように、先日のウェブ媒体の記者もいた。
「やあ、やっぱり凄いね!」
 彼は嬉しそうに、アスカとシンジに話し始めた。今回のレースに掛ける意気込み、初めての全日本の感想など、一通りのことを聞いた後に、彼は「ミニバイクの時から応援しているからさ、頑張ってよ! 表彰台、期待しているよ」と言い残して去っていった。
 アスカは、隣のシンジの顔をそっと窺う。その様子に気づいたシンジは、アスカに向かって力強く頷いた。その様子にアスカもひとつ頷いて、そしてフフンと不敵に笑う。
「表彰台? バカ言わないでよ。狙うのは優勝よ」

 明けて決勝日。夜半に軽く降った雨の残りもなく、強い日差しが降り注ぐ快晴の日曜日となっていた。時刻は午後一時十五分。メインストレートのグリッド上には色とりどりのマシンが並び、選手紹介が始まっていた。
「次は予選五番手、弱冠十四歳の女性ライダーです。チームEプロジェクト、惣流・アスカ・ラングレー選手!」
 アスカはマシンに跨ったまま、右手を挙げて観客に応える。
「惣流選手はユース枠での出場ながら、なんと五番手をゲット! 惣流選手、今の心境は?」
 マイクを向けられたアスカは、物怖じすることなく宣言する。
「まずは、支えて頂いている皆さんに感謝します。そして走るからには優勝を狙います」
 マイクを持ったMCはニヤリと笑う。
「いやぁ、いいですねぇ~! 若者はこうでなくちゃ! 惣流選手に期待です!」
 隣のグリッドでアスカの様子をじっと見ていたシンジに、MCがマイクで喋りながら歩み寄る。
「さぁ、続いて予選六番手。同じくチームEプロジェクトからユース枠でエントリー。碇シンジ選手! 碇選手も若い! 十五歳です!」
 観客席からの拍手に、右手を小さく振ってシンジは応える。
「チームメイトの惣流選手に一つ先を行かれましたが、碇選手、決勝はどのように戦いますか!?」
 向けられたマイクに向かって、シンジはしっかりと言った。
「まずは皆さんにありがとうございますと言わせてください。僕一人ではここに立てていません」
 一呼吸置き、息を吸い込んで、シンジは続けた。
「決勝では、惣流選手に負けないように精一杯走ります。そして、勝ちます」
 アスカもまた、シンジのその様子をしっかりと見ていた。シンジの『勝ちます』宣言を聞いてもアスカは、それを意外とは思わなかった。
 アスカはまた、前方のコースに視線を戻し、精神を集中する。

 グリッド上では三十三台のマシンが、その唸り声を上げる時を、今や遅しと待っていた。隊列は整い、前方ではレッドフラッグを持ったオフィシャルが足早に退去していく。
 三十三人のライダーはシグナルを睨む。
 レッドシグナルが点灯。そして消灯。レーススタート!

 アスカとシンジは絶妙なクラッチミートを見せ、スルスルと前に出る。全日本レギュラーライダーに比べてやや不利なマシンパワーは、ふたりの軽い体重が補った。アスカは三番手。シンジはそのすぐ後ろに続く。
 ここでもアスカとシンジの共同戦線は続く。二台は束になって二位の選手を追いかける。だが流石はこの位置を走る全日本ライダーだ。速い。束になったとて、今は付いていくのがやっとだ。
 スタートから三周が経過。トップはポールポジションからスタートの昨年のチャンピオン。そこに予選三番手の選手が続き、その後にアスカとシンジが連なる。その後ろはやや間隔が開き。コンマ五秒ほどの差が生じていた。
 五周が経過。アスカもシンジも動かない。不気味な程に淡々と、先頭の二台に付いて走る。
 そのまま固まったように、レースは動かない。タイムの変動も殆ど無く、まるでリピート再生のように周回は進み、十周を終えようとしていた。残り周回は二十周。
 更に五周が経過。まだ先頭集団は動かない。まるでルーティンワークのようにレースは進む。
 この集団をコントロールしているのは、実は三位と四位の二台であった。一糸乱れぬ連携走行により、二位の選手はそのプレッシャーを受け続ける。トップを奪う余裕もなかったが、仮に仕掛けようとしてもその僅かな隙を後方から狙われる恐れがあり、迂闊に動けなかった。またトップの昨年度チャンピオンもペースを落とすわけにもいかず、また一旦先頭を譲るわけにもいかず、後方から追い立てられるようにして走らざるを得ない。
 三番手のアスカと四番手のシンジは、冷静に状況を把握しながら走っていた。残り周回は十二周。バックストレートを一筋となって疾走する四台のマシン。
 最終コーナー手前でアスカが動いた。二位のマシンの背後から飛び出し、イン側に滑り込む。間髪入れずにシンジもアスカに続き、二台は順位を一つずつ上げた。

「おーっと、最終コーナーで順位が動きました! 惣流選手が二位に浮上、碇選手も続いて三位へ! 見事な連係プレイです!」
 メインストレートを駆け抜ける四台のマシン。ワッと観客席が沸く。

「あと一台」
 アスカは前方のマシンを睨みながら、スロットルを全開にする。
 アスカもシンジも、これまでの周回でトップライダーの走らせ方を十分に学習していた。集団で走る効果もあり、予選を超えるハイペースでラップタイムは刻まれていく。
 昨日のふたりだけの作戦会議を思い出しながら、アスカは、シンジは、その先のコーナーに向かって走る。

「いい? 何が何でもトップに食らい付いて、その後ろに付くのよ。最初は抜く必要はない。わたしとシンジの二台でトップ集団の背後について、そのタイミングを待つ」
「うん。最初に前に出た方が引っ張る」
「そう。もし上手く抜けたとしても、そのまま共同戦線を張る」
「勝負は最後の三周、だね」
「そう。わかってるじゃない」

 二十一周目の第一ヘアピン。トップの昨年チャンピオンは僅かなミスを犯した。激しいプレッシャーに晒された為かはわからないが、ほんの僅か、百分の数秒ほど、ブレーキングタイミングが遅れる。それは些細なミスと言っても許されるものだが、後続の二台はそれを見逃さなかった。僅かに空いたイン側の三十センチほどのスペースに、アスカは躊躇なく飛び込んだ。チャンピオンマシンを押しのけるようにギリギリでかすめていく、アスカのマシン。アスカと一弾となって走っているシンジもそれに続き、二台はイン側の縁石の上を走り抜ける。その二台はあまりに接近していたため、流石のチャンピオンも、後に続くシンジのアタックを防げなかった。
 沸く観客席。アスカ、トップに浮上。二位にシンジ。残りは八周。

 作戦通りに、二台は一糸乱れぬ編隊走行を見せる。ベストタイムは更に塗り替えられ、後続の二台はジワジワと遅れていく。残り周回は三周。三番手に位置する昨年チャンピオンとの差は、コンマ六秒にまで開いていた。
 メインストレートでアスカとシンジは、ピットレーンから差し出される、二枚のサインボードを確認する。そこにはともに、GO!とだけ示されていた。
 ここから、真にふたりだけのレースがスタートした。

 第一コーナーでいきなりシンジは動く。アスカのインを突き、遂にこのレースで初めてトップに立った。観客席では悲鳴のような歓声が上がる。アスカはシンジのアタックを予期していたかのように、抜かれた後もシンジの背後にピタリと付く。抜かれたことによるタイムロスは殆ど無い。
 その周の第二ヘアピン。アスカが自信を持つコーナーだ。そこでアスカは、シンジと自分の差異を確認しながら走る。抜けるポイントでもあえて抜かず、シンジを前に置いたままにする。
 メインストレートを連なって走る、二台のマシン。先程までと異なり、ストレートでも左右に蛇行し、相手を牽制しながら走る。MCの実況を、観客の声援とマシンの爆音が掻き消していく。残り二周。
 アスカはそのまま動かない。シンジの後ろにピタリと付いたまま、シンジのミスを誘うようにプレッシャーを掛ける。シンジはそのプレッシャーを跳ね返すように、全周囲に意識を広げ、すべてをそこに曝け出す。
 アスカは得意な第二ヘアピンでも前に出ない。バックストレートでは、シンジのマシンの後輪に自らの前輪をぶつけるぞと言わんばかりに接近させ、更にプレッシャーを掛ける。シンジはそれを嫌がり右に微妙にラインを変えるが、アスカもそれに倣ってシンジの背中を逃さない。
 アスカの心は躍った。他に類のない高揚感。自分のすべてを集結し、そこに叩き込むようして走る。身体中の細胞が沸き踊るが、頭は極めて冷静だ。
 シンジもまた、激しいプレッシャーに晒されながらも、この上ない充実感を得ていた。自分のすべてを駆使して走る。身体も、頭も、持てるすべてを動員し、ただ速く走ることだけにそれらを注ぎ込む。
 最終コーナーで、アスカはシンジのインを突いた。シンジはアスカのラインを塞ぎ、そのパッシングを防ぐ。しかしこのアスカのアタックは、この後への陽動だった。
 アスカはシンジの背後に付いたまま、メインストレートを駆け抜ける。
 第一コーナー、S字コーナー、第一ヘアピンでもアスカはまだ動かない。シケイン、高速の左コーナー、そして第二ヘアピンでもまだシンジの背後から抜け出さない。バックストレート。シンジは背後に付くアスカを嫌い、左から右へ蛇行する。しかしアスカはそれを逃さない。
 最後の最後、最終コーナー。シンジは背後のアスカが、右にラインを変えてインを突いてくると予期していた。インを押さえるようにラインを変えるシンジ。だがアスカはそこにいない。
『アウト!?』
 アスカはシンジのラインを読んでいた。いや、シンジにそのラインを『走らせ』た。そのためにレースを逆算して組み立てた。インを塞ぐシンジに対し、アスカは大外からアプローチしていく。インからアウトに膨らんでいくシンジのマシンと、アウトからインへアプローチしていくアスカのマシンがクロスし、二台の位置が入れ替わった。
 二台ともベストではなく、苦しいライン取りとなる。タイヤがジリジリと滑り出す。だがふたりはそこからスロットルを開ける。並走したまま最終コーナーを立ち上がる二台。イン側のアスカのマシンが、アウトにいるシンジのマシンを押し出すように、カシャンと接触した。しかし二台はそのままスロットルを戻さない。火花を散らすむき出しの闘争心。シンジは外側の縁石に乗り上げる。
 勝敗を決したのは、最終コーナーへのアスカのアプローチだった。この一瞬の為だけに、アスカは三周を組み立ててきたのだ。クロスするラインでわずかに早く加速体勢に入ったアスカは、カウリングの中に限界まで小さく身を潜り込ませ、引きちぎらんばかりにスロットルを開ける。アスカのマシンがジワジワと前に出ていく。車速が伸びる。
 アスカの全身で、血液が沸騰した。歓喜が爆発した。

「来たぁ~! 惣流選手だぁ~! 優勝はぁ~惣流、惣流選手!!」
 MCが絶叫し、サーキット中が大歓声に包まれる。
「全日本ロードレース選手権最終戦、Moto3クラスを制したのは! ゼッケン23! 惣流・アスカ・ラングレー選手!! チームEプロジェクト!」



 レースは終わった。観客は惜しみなく、スタンディングオベーションをふたりに贈った。誰もが予想しなかった少年少女の優勝争い。それは、ふたりの未来を切り開くものとなった。
 アスカはゆっくりと、喜びを噛み締めるようにウィニングラップを走る。シンジは暫く、アスカのその後姿を見て敗北を噛み締めていた。しかしシンジは車速を上げ、アスカの横にマシンを並走させる。
 ヘルメットのシールドを上げ、シンジはアスカに視線を送る。アスカも同じくシールドを上げ、シンジに応える。ふたりの視線が絡み合う。
 シンジは左手をアスカに差し伸べた。アスカも併せるように、シンジに右手を差し出した。
 シンジはアスカの手を取り、その手を観客席に向かって大きく振り上げた。
 観客席の拍手が、ふたりを包んでいく。



     ※



 表彰台に登ったアスカら三人は、多くの報道陣がカメラとマイクを構えるレース後の記者会見の場に、その姿を現した。

「それでは、入賞者インタビューに入りたいと思います。まずは、優勝の惣流選手。今の気持ちをお願いします」
 いくつものフラッシュがアスカに向かって光る。アスカはタイヤメーカーのキャップを被り直し、一呼吸してから答え始めた。

「まずは、ここまで支えてくださった皆さんに、心から感謝したいと思います。何も知らないわたしのような子供を、この場に立たせてくれたすべての方に、お礼を言いたいです。本当にありがとうございました」
 そうしてアスカは、深々と頭を垂れる。アスカの脳裏には、レースチームスタッフへの感謝はもちろん、それまでの十五年間弱の想いもが詰まっていた。

「わたしは、ここにいる碇選手に勝ちたくて、レースを始めました。最初はレースには全然興味はなかった。でも碇くんが楽しそうに走っているのを見て、腹が立ったんです」
 アスカは隣に座るシンジを見て、想いを馳せるように笑った。
「碇くんをなんとか負かしたくて、勝ちたくて、レースを始めました。レースは別に好きじゃなかった。だから、碇くんに勝ったら、とっととレースは辞めるつもりだったんです」
 そう言って笑うアスカに、会場からはどよめきが起こった。
「でも……」
 アスカは少しの間、面を伏せる。そしてまた顔を上げ、満面の笑みで言った。
「でも、レースって面白いですね。辞められなくなっちゃいました。だから、行けるところまで行こうと思います」
 そうしてまた、アスカは大きくひとつ息をする。
「最後にもう一度。皆さん、本当にありがとうございました。そして碇くん。レースを教えてくれてありがとう。これからも頑張ります!」

「惣流選手、ありがとうございました」
 司会が次に進めようとするが、思い出したように一つ 、アスカに聞いた。
「そういえば惣流選手、今回のレースの前に長い髪を切ったそうですが、それはこのレースに向けての意気込みということですか?」
 アスカは少し驚いたような表情を見せた後で、肩をすくめて笑った。
「ええ、でも大した効果はなかったので、また伸ばそうと思います」
 会場はドッと笑いに包まれた。

「ありがとうございました。では、次は二位に入りました碇選手。今の気持ちはどうでしょうか?」
 シンジはレーシングスーツのファスナーを気にして触り、小さく咳払いをしてマイクに向かった。
「正直に言って、メチャクチャ悔しいです」
 真顔で、悔しさを露わにしながらシンジは言う。
「惣流選手も言ってましたけど、惣流選手とは、あの、色々有りまして……あ、でも、別に殺し合いをしたわけではないです」
 シンジのその言葉は冗談と捉えられたのだろう。会場が再びドッと沸く。
「悔しいですけど、でも、僕がここにいるのは、やっぱり惣流選手がいたからです。だから、惣流選手には感謝しています」
 シンジは、右隣りのアスカに微笑みかける。
「そして、僕をここまでにしてくれた、多くの方々に、感謝したいです。たった十五年ですけど、今までいろいろなことがあって、ほんとうにいろいろあって……」
 シンジは言葉に詰まって、少し俯く。アスカはシンジの様子を気にして横を向くが、シンジは面を上げ、前を見て言った。
「生きてきて、良かったなぁ、って思います」
「本当に、ありがとうございました」
 万感の思いを込めて、シンジは頭を下げた。



     ※



 エヴァンゲリオンがなくなった後、日本には何事もなかったかのように、四季が戻ってきていた。季節は十一月末。気温はグッと下がり、厚手の上着が必要になっていた。

 碇シンジは、隣から響くドタバタ音を気にしていた。
 ドンドンドンドン!
 今度は明らかに意識的に壁を叩いている。シンジは溜息をひとつ吐くと、玄関から外に出、隣の部屋のインターホンを押す。
「アスカぁ~。入るよぉ~」
「開いてるから入ってー!」
 ドアノブを捻ると、たしかに鍵は掛かっていなかった。
「アスカぁ、不用心だよ? せめて鍵くらい掛けようよ」
「今だけよ、今だけ。シンジを呼ぶつもりだったからさ」
 そう言いながらも、アスカは手を止めない。
「出発の準備、大変そうだね」
「見ればわかるでしょ! だからシンジを呼んだの!」
 アスカは、スペインへ飛び立つ準備をしていた。そしてシンジは、アスカの意外な側面を知った。ハッキリ言って、アスカは荷造りと整理が下手だ。
『この部屋を引き払うわけじゃないんだから、そんなに大げさにしなくてもいいのに』
 シンジはそう思いつつも、手際よく荷物の梱包を手伝い始めた。
「でもCEVか。一年間行きっぱなしなんだよね」
 シンジの声は、少し感傷混じりだ。
 アスカは全日本選手権優勝の実績と、それまでの異例に短いキャリアも認められ、来年度は、世界選手権を統括するFIMの主催によりスペインを起点に開催されるCEV――FIM CEVインターナショナル選手権にフルエントリーすることが決まっていた。CEVは世界選手権の実質的な登竜門であり、ここでの活躍が認められると、世界への道が拓けることになる。
「なに? シンちゃん、淋しい?」
 アスカは悪戯っぽい笑みを浮かべて、シンジを見上げる。
「会えない淋しさと、先に行かれた悔しさが半々かなー」
 あまりに当たり前のように答えたシンジに、アスカは逆にボンと顔が熱くなった。淋しいと言われて嬉しいことを、アスカは初めて知った。
 それを誤魔化すように、アスカは手元の荷物をまとめながら言う。
「でもシンジだって、アジア・タレントカップでしょ? あそこでチャンピオンを取れば、ほぼ確実に世界に行けるじゃない」
 アスカの言葉のとおり、シンジもまた、アジア選手権におけるアジア・タレントカップ(ATC)へのフルエントリーが決まっていた。ここで成績を残せば、メーカーのバックアップ込みで、世界選手権の扉が開くことになる。
「うん、頑張るよ」
 シンジはしっかりと、意思の籠もった顔で頷く。
「英語の勉強も頑張ってねぇ~」
 真剣に言うシンジをからかうように、アスカはまた笑った。

「それにしてもさ」
 アスカはしみじみと言う。
「WILLEがよく認めたと思わない?」
 シンジもそれは同感だった。海外への渡航を含めたふたりの計画をマヤに相談した時には、許されないかもしれないと思っていたのだ。だが予想外に返答は『OK』だった。シンジはその時のマヤの、穏やかな表情を思い浮かべる。
「うーん、これはやっぱり、わたし達にはGPSが埋め込まれていると考えるべきね」
 アスカのその冗談に、ふたりは顔を見合わせて笑った。おそらく、ふたりの為に骨を折ってくれている人が、決して少なくない人数いるのだろう。そしてふたりは、その厚意を受けることを学んだのだ。

 三日後。アスカはスペインに向けて飛び立っていった。特に別れの感傷もなく「じゃ、行ってくるから」とだけ言い残して。
 シンジも、見送りはしなかった。走っていれば、また逢えるから。
 
 ふたりは一年後の再会を約束して、それぞれの道を歩み始めた。
 だがしかし、ふたりの再会は、ひょんなことで早まることになる。







Epilogue.Challenger





「あづい……」
 空港に降り立った少女の第一声は、それだった。
「ホント、いつになってもこの暑さと湿気には慣れないわよね」
 少女は片手でパタパタと顔を扇ぐ。だが少女は、これからの自分の仕事を考え、身を引き締める。
「まったく、わたしも物好きよね。何を好き好んで、この暑さの中をグルグルと、八時間も走る気になったのかしら」
 サングラスを外した少女の顔には、碧眼が輝いていた。一時期短かった金髪は少し伸び、肩に軽く掛かるくらいになっていた。
 少女――惣流・アスカ・ラングレーは、七月の日本に降り立った。



     ※



 パパパパーン、パパパパーン。
 独特なファンファーレが流れ、舞台が整ったことが示された。実況のアナウンスが流れる。

「さあ、今年もやってきました、夏の祭典、鈴鹿八時間耐久ロードレース。グリッドには七十七台の千ccモンスターマシンが揃っています」
「今年も八時間後のゴールを目指し、七十七台のドラマが始まります。それではチーム紹介に参りましょう! ポールポジションは――」

 アスカは古巣のEプロジェクトから急遽招集され、鈴鹿八時間耐久ロードレース、通称八耐に出場することになっていた。八耐は一台の千ccのマシンを二人または三人で交代しながら走らせ、八時間でどれだけの距離を走れるかを競うレースである。世界選手権の一戦であり、日本はもちろん、世界でも名の通ったビッグタイトルである。
 Eプロでは碇シンジともうひとりのライダーを走らせる予定だったのだが、そのライダーがテストで転倒、骨折。急遽白羽の矢が立ったのが、アスカだった。契約の問題やスケジュールなど諸々の調整が必要だったが、それらをクリアして、アスカはこの地に立つことになった。

「次は九番グリッド、注目のティーンズ男女ペアチームです。チームEプロジェクト、ライダーは碇シンジ選手! 惣流・アスカ・ラングレー選手! なんと碇選手は十六歳! 惣流選手に至っては十五歳!」
「碇選手は今季、アジア・タレントカップのMoto3にフルエントリー中。そして急遽招集された惣流選手はスペインはCEVのMoto3にフルエントリー中。共に初めて乗るスーパーバイクを乗りこなし、見事! 予選九番手です!」

 八耐は独特なスタートの方法をとる。ライダーはマシンに跨ってスタートを待つのではなく、コースを横断してマシンに駆け寄り、そこからエンジンを始動してスタートを切るという、耐久レース独特の手順を踏む。メインストレートには七十七台のマシンが並び、コースの反対側にはライダーが待機をしていた。
 先頭から九番目には、チームEプロジェクトのチームメンバーとともに、レーシングスーツを身に纏った碇シンジの姿があった。傍らには、チームシャツを着た惣流・アスカ・ラングレーの姿。ふたりは、緊張感の中にもリラックスした様子で、スタートの時刻を待っていた。

 耐久レースは、時に人生に例えられる。様々なドラマが起き、それを乗り越え、ゴールを目指す。まさに人生そのものだからだ。若いふたりにとって、人生のゴールは漠然としすぎている。だが八時間後のゴールは明確だ。当然、負けるつもりで走ることはない。

「シンジ」
 傍らのアスカが、ボーッとした様子のシンジに話し掛ける。
「期待して待ってるからね」
 アスカのその言葉にシンジは、落ち着いた表情で、そしてしっかりと頷いた。
「期待に応えるよ、アスカ」
 そうしてふたりは、握り拳を合わせる。


 時刻は午前十一時二十九分。スタートまであと一分。

「さあ、スタートまで一分を切りました! みんなぁー! 準備はいいかぁー!」
 実況アナウンサーが盛り上げるように、観客を煽る。
「そろそろカウントダウン、行くよー!」
 グランドスタンドから、手拍子が始まる。コース中からカウントダウンの声が木霊する。
「十、九、八、七、六、五、四、三、二、一、レーススタート!!」

 シンジは走り始めた。八時間後のゴールを目指して。アスカにバトンを渡すために。



 このレースで、碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーは、何物にも代えがたい、とびきりの経験をすることになる。
 だが、その八時間のドラマを記すには、あまりに頁が足りない。
 よってそれはまた、別の機会に。










   <了>












  Thanks to:


  真心ブラザーズ
  Perfume








 




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