僕たちは始まってもいない





第三章 この愛は始まってもいない





5.Sweet Refrain





 翌日の夕刻。少女は玄関前で躊躇していた。どんな顔をすればいいのか。アイツはどんな顔で出迎えるのか。昨晩から困惑を極めていたが、それは今の今になっても変わらなかった。
『ええい、わたしたるものが!』
 意を決して呼び鈴を押す。
「はーい」
 インターホン越しにその声が聞こえた。アスカは何も言わず、その場に立ち尽くす。キィと音を立てて玄関扉が開く。
 一刻の間。相対した二人は、玄関先で固まった。
「お、おかえり」

 硬い笑顔を作りながら、少女に向かって揺れる声で、少年は、言いたかった、言おうと決めていた言葉をなんとか発し、沈黙を破った。
 少女は少年のその言葉にやや面食らったような表情を見せ、顔を伏せる。ボソリと何かを呟く少女。両手に大きな荷物を抱え、面を上げぬまま、アスカは大げさに一歩を踏み込んだ。
 アスカが想像していたように、部屋の中はこざっぱりとしていた。アスカの部屋と同じ造りだが、やはり他人の部屋だ。戸惑いを背中に出したままのアスカに、シンジは後ろから声を掛けた。
「アスカの部屋はあっちを使ってよ。空けておいたから。布団だけ、アスカの部屋から持ってきてもらってもいいかな」
「わかってるわよ。アンタの布団を使おうなんて思ってないから」
 口を尖らせるアスカ。シンジは苦笑いを浮かべる。
「そんなことより、晩御飯はちゃんとあるんでしょうね」

 キッチンから包丁の音、味噌汁の匂いが漂ってくる。リズミカルなまな板を叩く音を耳にしながら、アスカはぼんやりとテレビのニュースを眺めていた。だがその瞳は画面を追っておらず、心はそこにはないようだ。
 あのころを想い出さずにはいられない。
『でも、あのころには戻れないのよ』
 少年の真意が、少女には理解できなかった。戸惑いと苛立ちしかなかった。だがこれは約束だ。一ヶ月だ。アスカは自らにそう言い聞かせた。

「お待たせ。できたよ」
 シンジの声がアスカを呼ぶ。
「何を作ろうか迷ったんだけど……」
 テーブルの上にはハンバーグに粉吹き芋。マカロニサラダにヒジキ煮。ハンバーグの上には和風ドレッシングが掛かっていた。白いご飯に豆腐の味噌汁。アスカにとっては、久し振りの手作り料理だった。
「久し振りに作ったから、自信はないんだけど……」
 弁明するかのようにシンジは頬を掻く。
「久し振り?」
 アスカの言葉は疑問符交じりだ。
「うん、一人分って作る気にならないし……」
 そのシンジの答えにアスカは、ふーん、と曖昧に答えた。

「「いただきます」」
 揃って手を合わせる二人。アスカはふと、この習慣が日本に来てからの物であることを思い出す。かつてアスカは上司であり保護者であった女性に問うたことがある。なぜ手を合わせて「いただきます」と言うのかと。
「これはね、生き物の命をいただきます、と言う意味なのよ」と、彼女は答えたのだった。

 久し振りの少年の料理は、やはり掛け値なしに美味しかった。そしてそれは、なにより心に沁みた。温かい料理。他人と食べる食事。たとえその相手が碇シンジであったとしても。
「だいじょうぶかな……」
 自信なさげに問い掛ける少年に、少女はぶっきらぼうに返す。
「アンタ、もっと自信を持ちなさいよ」
 そう言った後に少し後悔するアスカ。どうしてわたしはこんな物言いしかできないのか。シンジの顔をちらりと見て、付け加える。
「心配しなくても、十分に美味しいわよ」
「よかった!」
 シンジは心底嬉しそうな顔をする。その笑顔は、少女の心をチクリと刺した。

「アスカ、お風呂湧いたけど、入る?」
「先に入って」
 無愛想に答えるアスカ。シンジのひとつひとつに、アスカはイライラする。シンジは気に留める様子もなく、先に入るねとバスルームに消えていった。

 ややあって、頭をタオルで拭きながら、Tシャツに短パンと言う姿のシンジが現れた。シンジからシャンプーの匂いが漂う。自分ではない匂いがする。
「あがったよ」
 アスカは無言で立ち上がり、自室から着替えと洗面用具を持ってバスルームに向かった。バスルームで溜息をひとつ。着衣を脱ぎ、浴室の扉を開ける。湯けむりと水蒸気と床に溢れた水に熱気。先ほどまで人がいたその証拠。忘れていたその湿気。
「ふん」
 アスカは張られた湯の中に浸かることなく、シャワーだけで入浴を済ませた。

 入浴後、アスカはシンジと同じ部屋でテレビのバラエティ番組を見ていた。というより眺めていた。人気があるらしいその番組だが、少なくとも今のアスカには興味を惹かれなかった。やや間隔をあけて座っているシンジも、特に面白そうにはしていなかった。アスカは自室に籠っても良かったのだが、それも悔しく感じ、半ば意地でシンジと同じ空間に身を置いていた。
「そろそろ寝る?」
 シンジの視線の先の時計は、十一時を回っていた。
「そうね」
 意識してか、低いトーンでアスカは答える。
「おやすみ」
「おやすみ、アスカ」
 長いような短いような、一日が終わる。



     ※



 翌朝五時。
 アスカは目覚めた。いつもならば早朝のランニングに行く時間だ。だがアスカは、再び布団に潜り込む。
 小一時間ほど経って、アスカの隣の部屋から物音がし始めた。どうやらシンジが起きたようだ。
 顔を洗いに出てきたシンジは、アスカの部屋の方をじっと眺める。物音はなく、アスカはまだ寝ているのだろうとシンジは思う。なるべく物音を立てないように身支度をしたシンジは、朝食の準備を始めた。
 アスカは、布団の中でシンジの音を聞いていた。歩く音、顔を洗う音、包丁で何かを切る音、フライパンで焼く音。自分以外の音。いつしかアスカは、再びまどろみの中に落ちていった。

 アスカが気づいた時は、シンジは既にいなかった。今日は月曜日だ。学校に行ったのだろう。時刻は八時半を少し過ぎていた。
 ダイニングテーブルには、網状の蠅帳(はえちょう)が掛けてあった。中には、食べやすいようにワンプレートにまとめられた朝食。クラシカルな蠅帳を使うあたりが妙に少年らしいと、少女は思う。プレートの隣には弁当箱が置いてある。弁当箱の上にはメモが一枚。
『アスカへ 良かったら食べて下さい シンジ』
 アスカは暫し、食事とメモを交互に見ると、蠅帳(はえちょう)を掛け直し、着替えてランニングに出掛けた。シンジに自分の努力は見せたくなかった。
 一時間ほどのランニングと基礎トレーニングの後、アスカは軽くシャワーを浴び、蠅帳を捲る。そして遅い朝食をとった。
「生活パターン、考えないとな」
 昼過ぎ。弁当箱を持って、アスカは出掛けた。特にあてが有った訳ではないが、身体を陽の下にさらして歩きたい気分だった。四十分ほど歩き、目についた公園で弁当を広げる。蓋を開けると、得も言われぬ感傷が湧いてくる。戻れるはずがない、その感傷に胸が締め付けられる。
 弁当は、やはり美味しかった。そしてその味は、アスカの心をまたチクリと刺した。

 夕方。学校が終わると、シンジはスーパーで購入した夕食の食材を手に帰宅した。
「ただいま」と玄関を開けると、「おかえり」と素っ気ない返事が、意外にも返ってきた。玄関には見慣れぬスニーカーが一足。シンジは改めて、アスカの存在を想う。
 スーパーのビニール袋を片手にキッチンに入ると、洗った弁当箱が置いてある。
「お弁当、ありがとう。美味しかった」
 向こうからアスカの声がした。シンジは言葉が見つからず、「うん」とだけ応えた。



     ※



 同居三日目の朝。シンジが朝食の準備をしていると、アスカが姿を現した。
「あれ? おはよう」
 シンジは目をぱちくりさせる。
「なによ、わたしが起きてくるのが意外?」
 不貞腐れるように応えるアスカ。
「いや、そうじゃないけど……昨日も遅かったし、もっと遅く起きてくるのかと思って」
 シンジは慌てて弁解するように言った。
「昨日が例外なのよ」
 プイと、シンジに背を向けるアスカ。
「顔洗ってくる」

「「いただきます」」
 揃って両手を合わせる二人。
 特に会話があるわけではない。もの静かなダイニングには、音量を絞ったテレビのニュースが流れていた。
 ふとシンジは、アスカの箸遣いをじっと見た。
「なによ、何か気になる?」
 シンジの視線に気づいたアスカは、少しばかりつっけんどんな言い方をする。
「あ、ごめん。ただ、アスカって箸の使い方が綺麗だなって思って」
 鮭のバター焼きを捌いていたアスカの箸が止まる。
「なによ今さら。昔は散々一緒に食べてたじゃない」
 そう言ってまた、箸を動かすアスカ。器用に鮭の皮を剥き、一まとめにして口に運んだ。
「そうなんだけど……なんだか気になっちゃって」
 シンジの言葉にもその顔を見ることもなく、アスカは味噌汁をすする。
 そのアスカも、シンジの食事の仕方で気づいたことがあった。一言で言うと、シンジは品が良い。咀嚼音を出さない。魚の捌き方もきれいだ。食べ散らかさない。気になるような嫌な部分が無かった。『これだけは助かるわね』とアスカは思う。

「「ごちそうさまでした」」
 二人はまた手を合わせる。
「食器は洗っておくからいいわよ」
 そのアスカの言葉にシンジは内心驚いたが、それを面に出さないように「ありがとう」とだけ言う。
 時刻は八時十分前。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
 無表情なアスカの声を背に、シンジは家を出た。だがその足取りは軽く、良い一日になる気がした。

 シンジを見送った後、アスカはランニングに出掛けた。いつものルーティンワークを済ませ、帰宅してシャワーを浴びた後は、特にやることは無くなっていた。それでもアスカが隣の自宅に戻ることは無かった。

 学校が終わった帰り道。シンジは昨日一昨日と同じように、食材を買うためにスーパーに寄った。今までには無かった習慣だ。
「今日はこれにしよう」
 野菜数種と特売の刺身を籠に入れ、会計を済ませて帰宅した。
 食事のあと、初日と同じように、シンジの後に入浴するアスカ。張られた湯船に浸かることもなく、今日もシャワーだけで済ませた。



     ※



 二人が同居を始めて最初の週末がやってきた。今日はいつものHサーキットで練習走行がある。
 午前中の走行も無事に終え、昼休みになった。
「皆さんのお口に合うか分かりませんけど……」
 遠慮がちに、シンジが弁当を開ける。異口同音に聞こえたのは感嘆の声。今日はシンジが、北原親子の分まで弁当を作って持参していた。もちろんアスカの分も。
「碇、ホントにコレ作ったのか?」
 エイジが呆気にとられるように言う。
「久し振りに料理をしたから、あまり自信がないんだけど」
 照れを隠すようにシンジは答えた。
 食事というものは良いものだ。誰もがリラックスできる。特にサーキットと言う緊張を強いる場所では尚更のこと。この時だけは緊張感から解放される。
「いやぁ、美味かった! 碇、ごちそうさん!」
「ホントに美味かったぞ、碇、ありがとな」
 北原親子は本当に嬉しそうだ。
「そう言ってもらえると、僕も嬉しいです」
 二人の笑顔に、シンジは微笑む。アスカはその様子を、黙ったままにチラリと見た。

 午後の走行が始まる。今日はアスカ担当のメカが不在のため、エイジが二台のメカニックを務めていた。エイジの父親である北原監督も適時手伝っている。
 アスカとシンジの二人は、時には単独で走り、時には追走しと言う感じで、チームメイトらしいコンビを組んだ走らせ方をしていた。相変わらずシンジの走りは荒っぽく、アスカの走りはスムーズだった。だがタイムは同等なのが面白い所だ。

 走行の合間に、アスカの姿が見えないことを確認して、エイジがシンジに聞く。
「お前たち、何かあった?」
「何かって?」
 少しドキリとするシンジ。それを顔に出さないように答える。
「なんだか雰囲気が違う気がしてさ。この前のレースの時なんか、目も合わせなかっただろ」
 シンジは前回のレースの事を思い出す。確かにあの時は、アスカの傍に行くことさえ躊躇われていた。
「あの時はレースだったし……」
 曖昧にシンジは言う。
「ふーん。惣流もそうなのかなぁ」
「え?」
 疑問符を浮かべるシンジ。
「惣流の雰囲気も、なんか違うんだよね。なんかこう、刺々しさが減ったというか」
 エイジはアスカのマシンを眺めて言う。
「ここだけの話、俺、惣流の事がちょっと苦手だったんだよね。アイツ、全然笑わないじゃん? 勝っても表情を変えないし、なに考えてるんだろって思ってた」
 エイジは視線を少し上げ、何かを考えているような素振りを見せる。
「でも、なんだかちょっと、変わったかな、なんて思ってさ」
 シンジは今日のアスカの様子を思い浮かべたが、エイジが言うようなアスカの様子の変化は、特に思い浮かばなかった。
「碇には分からないか。まぁいいや、気にしないでくれや」
 エイジはそう言って、立ち上がりざまにシンジの肩を叩く。
「次、最後の走行だぞ」
 走行終了後、一同はEプロのガレージに集まっていた。目の前には二台のマシン。
「これがMoto3のマシンだ。NSF250R」
 低く構えたカウリングに、太いアルミ製のフレームとスイングアーム。見るからにしっかりとしたサスペンション。前後のタイヤは溝の無いスリックタイヤ。エンジンの下には大きなサイレンサー。車体はコンパクトだが、シンジとアスカが今乗っているNSF100と比べると、迫力が全く違う。
「跨ってみろよ」
 エイジの声に促され、シンジとアスカは各々のゼッケン番号が貼られたマシンに跨る。体を伏せ、ストレートを走るイメージをするシンジ。アスカは体をマシンの上で上下左右に動かし、コーナーリングのイメージを作っていた。
「どうだ、乗れそうか」
 二人に聞いたのは北原監督。シンジとアスカは、黙って頷いた。シンジはしっかりと言い切る。
「自信は無いですけど、やってみます」







6.Let Me Know





 翌朝の朝食後のこと。
「アスカ、ちょっとこれ見ない?」
 シンジが手にするのは一枚のディスク。
「北原君が貸してくれたんだ。Moto3のビデオだって」
 そう言うとシンジは、プレイヤーにディスクをセットする。アスカは「ふーん」とあまり興味が無いような素振りを見せるが、それでもテレビの前に座った。
ディスクの中身は、オートバイの世界選手権の映像だった。昨日、Eプロのガレージで見て触ったマシンが出ている、Moto3というクラスだ。それらのレースを初めて見た二人は、言葉を失った。自分たちが想像していたものを遥かに超える世界が、そこにあった。
「これに……出るの?」
「バカね、いきなり出られるわけないじゃない。これ、世界選手権なんでしょ」
 思わず漏らしたシンジの呟きに答えつつも、アスカも努めて冷静を装わなければならなかった。
『これが世界……』
 四十分ほどのレースが終わった。思わず溜息を吐く二人。そうしていると、映像は次のクラスへと移った。
「次はMotoGPクラスです」アナウンサーが告げる。
 吸い寄せられるように画面に見入る二人。かくして始まったMotoGPクラスの様子は、先程のMoto3映像の衝撃冷めやらぬ二人の度肝を抜いた。そのレースは、同じ人間の仕業とは思えなかった。有り余るパワーにより最高速度は時速三七〇キロに迫り、肘どころか肩まで路面に擦りつけるようにオートバイを寝かせ、極太の前後タイヤを激しくスライドさせる。異次元の、世界の頂点がそこにあった。
「凄いね……」
 ようやく口を開いたシンジ。アスカも言葉に詰まり、「そうね」とだけ呟く。
 シンジは自然と、自分がそのマシンに乗った様を想像しようとした。だが、とてもじゃないが、それはイメージできるものではなかった。自分の心がフワフワと浮遊して落ち着かない。
 アスカもまた思う。シンジに勝ちたいがために始めたレース。それだけが目的だった少女。でも、世界にはとんでもない連中がいる。心臓を鷲掴みにされたような気がした。

「来週、ちゃんと乗れるかな」
 こわばった表情から、シンジが漏らす。
「こんなの、やることは一緒でしょ」
 シンジの顔を見ずに、語気を強めるアスカ。
「そっか、アスカは凄いね」
 何気なく発せられたその言葉は、少女の気持ちを苛つかせる。
「Moto3じゃ、絶対に負けないから」

 その言葉にシンジは直接応えず、テレビの画面を見遣る。ちょうどエンドテロップが流れているところだった。再生を止め、ディスクを取り出すシンジ。
「アスカは、いつまでレースをやるの?」
 その問いはアスカにとって、突然だった。反射的にアスカは答える。
「そんなの、アンタに勝つまでよ」
 取り出したディスクをケースに仕舞いながら、目を合わせずにシンジは言う。
「そうだね、そうだったね。アスカはそのためにレースをしているんだよね」
「アンタは何のためにしているのよ」
 シンジの返答に不満を露わにしながら、アスカも問う。
「僕は……」
 ひとつ間を置いて、それを想い出すようにシンジは言う。
「最初は、ただ面白かったから。北原君に誘われて乗ってみたら、面白かった。どうしてか結構速かったみたいで、みんなが喜んでくれた。僕が走ることでみんなが喜んでくれたんだ。それが嬉しかったんだ」
 シンジのその言葉に、アスカは呆れ気味に、ひとつ息を吐く。
「……アンタ、変わってないのね」
「うん。でも」
「でも、なによ」
「でも、レースをやろうと決めたのは、僕だ」
 シンジのその言葉に、アスカはピクリと瞼を動かした。
「監督に、最初に言われたんだ。『エイジが強引に誘ったかもしれないが、自分で走ろうと思わないのなら、止めた方がいい』って。『レースは危険が伴う。金だって掛かる。それでもやりたいか』って」
 その時のことを思い返しながら、シンジは淡々と、しかしはっきりとした口調で言った。
「監督の言うとおり、最初は北原君に誘われたから走っていた。でも」
 シンジは、背けていた顔をアスカに向けた。アスカの顔には、僅かに驚きが浮かぶ。
「でも、色々考えても、やっぱり僕は走りたかった。だから、レースをやってる」
 一呼吸おいて、シンジは続けた。
「そして、それでみんなが喜んでくれる」
 そして、アスカの眼を見て、シンジは告げた。
「だから僕も、アスカには負けないよ」
 アスカは毒気に当てられたように、すぐには言葉が出てこなかった。驚きと戸惑い、そして腹立たしさがアスカの心中で混ざり合った。だが混乱しつつも毒づけるあたりは、少女が少女たる所以か。
「ふん、生意気ね。来週が楽しみだわ」



     ※



 部屋に戻ったアスカの耳からは、先ほどのシンジの言葉が離れなかった。『僕だ』という意志が込められた言葉。そしてそのときのシンジの眼は、いつものような、相手の心を探るような眼ではなかった。
「シンジのくせに、生意気」
 扉一枚隔てた向こうにいる少年に対し、少女の心は複雑に揺れ動く。ベッドに寝転び、枕に顔を埋めるアスカ。
「バカシンジのくせに……」

 シンジもまた、扉ひとつ向こう側のアスカのことが、気になって仕方がなかった。
『アスカはなんで、僕に勝ちたいんだろう』
『アスカはレースをしていて楽しいのかな』
『アスカは、どうしたいんだろう』
 そうしてシンジは、また想う。
『アスカは、この生活をどう想っているんだろう』
 扉の向こうに、返事は無い。

 シンジとアスカの共同生活は、ある意味順調に過ぎていた。衝突することもなく、罵り合うことも無い。賭けの結果として同居を言い出したシンジとしても、もちろん不安だらけだった。思わず言ってしまった家族のやり直しだが、果たしてどうなってしまうのか、一日も持たないのではないか。アスカを迎えるそのときまでは不安でしかなく、何度も止めたいと思った。だが止めるということもまた、アスカの怒りを買うことは明確だった。
 一週間ほどが経った今、それは杞憂となっていた。アスカは特に反発することもなく、シンジの事を無視するわけでもない。食器洗いや掃除の手伝いまでしてくれたりもする。しかし……。
 この生活は、いったい何なのか。

 それはアスカとて、大差は無かった。シンジから持ち出された同居。家族をやり直したいという提案。思わず眩暈がした。コイツはまだあのころに囚われているのか。あれは幻想に過ぎなかったのに。ママゴトだったのに。
 しかし、賭けに負けたアスカとしては、それを反故にすることはプライドが許さなかった。シンジが何を考えているのかはさっぱり理解できなかったし、理解したくも無かったが、一ヶ月という期限を切られたのは、正直助かった。一ヶ月を我慢すればよいのだ。そして、ふたりで生活する限りは、多少なりとも協力することが必要だとも思っていた。お互いが無駄に傷付かないためにも。
 平穏なふたりの生活は、かように微妙なバランスの上に成り立っていた。



     ※



 翌月曜日の夕方。帰宅したシンジが、見慣れぬものを手にしていたことに、アスカが気づいた。アスカの視線に気づいたシンジは、言い訳をするように口にした。
「これ? ヘルメットだよ、自転車の」
「そんなの、見ればわかるわよ。アンタ、自転車なんて乗ってたっけ?」
 シンジは手持ち無沙汰にヘルメットをプラプラとさせながら答える。
「うん、今日からね。学校帰りに引き取ってきたんだ」
「なんで? バス通学でしょ」
「そうなんだけど、自転車にしてみようかな、って」
「なんでよ」
 シンジのその答えに、アスカは不満を隠さない。
「うん、北原君に勧められたんだ。自転車はトレーニングにいいって。だから明日から自転車で通学しようかと思って」
 シンジが言う『トレーニング』と言う言葉に、アスカは少し面食らった。シンジも努力をしようとしているのか。もしかすると今までも、自分の知らないところでなにかをやっていたのかもしれない。アスカは戸惑いつつ、疑問を投げ掛ける。
「……結構距離がなかったっけ?」
「二十キロくらいかな? 慣れれば大したことないって言ってた」
「ふーん」
 納得したのかしていないのか、アスカは曖昧に言う。
「で、どんな自転車なのよ」
「ロードレーサータイプのやつ。ちょっと無理して買っちゃった」
 頬を掻きながら、シンジは少し戸惑い交じりに言う。
「結構高いんじゃないの? そういう自転車は部屋の中に入れておくんじゃないの?」
「いいの?」
「いいも悪いも、アンタの部屋でしょうが」
 呆れ顔のアスカ。
「そうだけど、アスカもいるし……」
「気にしないわよ。取ってきたら」
「ありがとう、そうする」
 嬉しそうに、シンジは外へ飛び出していく。どうやら外の駐輪場に置いておいたようだ。
「まったく、変なところに気を遣うのよね」
 アスカがブツブツ言っている間に、シンジが自転車を文字とおりに抱えて戻ってきた。その自転車はドロップハンドルのロードバイクで、見るからに軽そうであり、本格的であった。
「これ、買ったの?」
 アスカは素直に驚いた。
「う、うん」と、シンジは少しオドオドする。
「アンタ、時々思い切ったことするわよね」
「まぁ……多少はお金も有ったし、無駄にはならないと思ったから」
 確かに二人とも、WILLEからは十分な額の恩給が出ていたため、生活に困ることは無かった。しかしながらそれを無駄遣いする二人でもなく、現在の二人はそれの多くを、レース活動に注ぎ込んでいた。

「ふーん、わたしも乗ろうかな」
「え、アスカも?」
 アスカのその言葉に、シンジは驚きを露わにする。
「なによ、悪い?」
「あ、いや、そんなことないけど、なんだか意外だなって思って」
 不貞腐れたようなアスカに対し、慌てるシンジ。
「だってMoto3になったらもっと体力が要るでしょ。女はただでさえハンデがあるんだから」
 意外そうな顔をするシンジに、口を尖らせてアスカは言った。
「アンタの買った店、教えなさいよ」
 こうして翌日には、二台のロードバイクがリビングに並ぶことになった。



     ※



 ロードバイクを買った翌日のこと。シンジを見送り、早朝のランニングとトレーニングを終えたアスカは、小振りなバックパックにタオルとシンジの弁当を入れ、ロードバイクで出掛けた。
 初めてのロードバイクは新鮮だった。いわゆるママチャリとはまったく違う乗り物であることを、一漕ぎするごとに実感した。ペダルを踏んだ分だけ加速する。身のこなしも軽い。その疾走感は、オートバイでサーキットを走るのとはまた別の感覚だった。サーキットを走っている時には感じている余裕もない風の匂いや、空気の感触、何より新しい風景に出会えることは、新鮮な喜びだった。
 気づくとアスカは、二十キロほどを走っていた。手ごろな休憩場所を見つけ、背負ったバックパックから弁当を取り出す。色々とあるが、シンジの弁当は、アスカの毎日の楽しみのひとつになっていた。
 弁当箱を開けると、そこには見事に偏った白いご飯とおかず群が。
「ありゃ~、まぁ仕方ないわね」
 そう呟きつつも、『味は変わらないし』と弁当を口に運ぶ。

 気持ちの良い風が吹く。
 アスカはふと、今の状況を想う。もし、もう一人の自分が俯瞰でこの状況を見ていたら、一体どう思うのだろうか。同居している男の子を送り出し、ランニングの後に自転車に乗り、そして弁当を食べている。なんと穏やかなことではないか。これは幸せのカタチなのではないか? そんなことが頭をよぎったアスカは、頭を振り、そのイメージを吹き飛ばそうとする。
「これは、ただのゲームよ。一ヶ月限りの」
 そうしてまた、弁当を口に運ぶ。その味が、アスカの心に染みた。

 空になった弁当箱をバックパックに仕舞い、アスカはまたペダルを漕ぎ始める。何処に行ってもいい。その自由が、アスカには新鮮だった。
 あてもなく気の向くままに更に走り、夕方近くに帰宅する頃には、サイクルメーターは六十キロ近くを記録していた。

「今日は自転車に乗ったの?」
 夕食時に、珍しくシンジがアスカに話し掛けた。
「乗ったわよ。せっかく買ったんだし」
 そう言った後に『ちょっと棘があったかな』とアスカは考えた。だがシンジは、気にする素振りも見せずに話し続ける。
「ふーん、何処まで行ったの?」
「別に、何処ってわけじゃないわ。適当に走っただけ」
「何キロくらい乗ったの?」
 シンジがここまで聞いてくるのは珍しいなと思いながら、アスカは答える。
「大体六十キロくらいかな」
「六十キロ! すごいね!」
 シンジは舌を巻いたように言った。
「僕なんか、往復の四十キロでクタクタだよ」
「ま、もともとの鍛え方が違うってことでしょ」
 当然のような顔をするアスカに、シンジは苦笑いを浮かべるしかなかった。

「はぁ~、流石に疲れたわね」
 そう言いながら、ザッと身体をお湯で流すと、湯船に浸かるアスカ。
「筋肉痛にならないようにしないと」
 自分で足をマッサージしながら、ふと気づく。
 アスカは同居開始から初めて、シンジの家の浴槽に浸かったのだ。今までは意識して湯船を避けていたのだが、今日は心地の良い疲労感から、無意識に湯に浸かってしまった。
「わたし……ホントになにやってんだろ」
 アスカは湯に深く沈みながら、自分自身に腹を立てるしかなかった。



     ※



 週末がやってきた。
 シンジとアスカの二人はTサーキットにいた。目の前では二人のメカニックが、二台のレーシングマシンNSF250Rの走行前の暖機運転をしている。レーシングスーツに着替えた二人は、それぞれのメカニックが扱う二台のマシンを、その後方からじっと見ていた。
 サイレンサーから響く排気音は、二人が今まで乗っていた100ccのミニバイクとは、全く違った迫力を持っていた。辺りが震える音圧。それは否応にも、マシンのポテンシャルを想起させる。

「午前中の講習会の内容は大丈夫だな」
 監督の北原が二人に確認する。
「なら、今日は体慣らしだ。タイムは気にせず、無理しないように走ればいい。まずはマシンとコースに慣れること、それが今日の目的だ」
 北原監督の言葉に、黙って頷く二人。その表情はやはり、強張り気味だ。シンジは、隣のアスカをチラリと見る。その視線に気づいたアスカは、それを感じつつも一歩を踏み出し、マシンに歩み寄る。メカニックからスロットルを受け取ったアスカは、それを軽く煽る。爆音が腹に響き、音圧が背筋を刺激する。言いしれない不安が、アスカを包む。アスカの様子を見て、シンジもエイジからマシンを受け取り、シートに跨り、スロットルを撚る。腹に、尻に、背中に、音と振動が響く。シンジはガソリンタンクに身を預けるようにしてピタリと伏せる。エンジンの鼓動が腹と顎に伝わってくる。シンジは思った。
『早く乗ってみたい』

 走行開始三分前。二人はヘルメットを被り、走行準備のできたマシンを受け取る。クラッチを握り、ギアを入れ、ゆっくりとクラッチを繋いでピットレーンへ向かった。
 走行開始一分前。ピットレーンでシグナルグリーンを待つ二人。心臓の鼓動が高鳴る。
 走行開始。多くのマシンがコースに雪崩込んでいく。シンジとアスカはその群れを見送った後、ゆっくりとコースインしていった。前を行くのはアスカ。シンジは間を空けずに追走する。初めてのマシン、初めてのコース。さしものアスカも、序盤はペースを抑え、後続にラインを譲りながら走行していた。それでもストレートはスロットルをカチリと全開にし、そのパワーを開放する。
 十分ほどが経過した。
『そろそろね』
 アスカはメインストレートで振り返って後方を確認する。背後にはシンジ。その後ろはライダーはおらず、クリアだ。
『よし』
 アスカは第一コーナーを睨み、今の全力をそこに叩きつける。

 シンジはコースインからこちら、アスカの背中を見て走っていた。アスカがペースを上げた後も、離れずに追走していく。シンジにとって今のアスカは、ちょうどよいペースメイカーになっていた。
 二十五分間の走行時間も、残り五分と少し。アスカのライン取りが少し乱れてきた。恐らく疲れがきているのだろう。シンジはバックストレート中頃で、風除けにしていたアスカの背後から飛び出す。追い抜き様にシンジはアスカをチラリと見遣る。アスカもシンジに視線を向ける。最終コーナー手前でシンジはアスカの前に出、そのままコーナーを抜けてメインストレートに姿を表した。
「お、碇が前に出たな」
 ピットレーンでタイムを計測していたエイジは、ラップチャートに記録しながら呟いた。
「ホント、いいコンビだよ、あの二人は」

 シンジに抜かれても、アスカは悔しさを感じなかった。ヘルメット越しにシンジの意図がわかったような気がした。
 第一コーナーへアプローチしていくシンジ。それを追走するアスカ。アスカは思う。なるほど、追走するのは遥かに楽だ。先程より確実に速いペースで第一コーナーを抜ける。続くS字コーナー、第一ヘアピンも同様にクリア。前の周回より確実に速いペースにも遅れることはない。コース後半に入り、バックストレート。シンジの背後にピタリと入り、シンジのマシンを風除けに使う。その背中と、その向こうの最終コーナーを睨みながら走る。
 だがアスカはシンジを抜こうとはせず、そのまま走行を終えた。ピットに戻ってくる二人。

「お疲れさん」
 二人のメカニックが出迎え、マシンを受け取ってスタンドを掛ける。すぐにタイヤのエア圧をチェックして、タイヤの様子を確認。タイヤウォーマーを掛ける。
 シンジとアスカはヘルメットを取り、流れる汗をタオルで拭いながら、その様子を見ていた。
「どうだった、初めてのMoto3は」
 アスカのメカニックの榊が問う。
「そうですね、やっぱり違いますね」
 表情を崩さずに、アスカは答える。
「やっぱりパワーがありますし、車体もタイヤもすごい。限界なんか全然わかりません」
 少し疲れた様子でアスカは言う。
「碇はどうだ」
 アスカの様子を見ていたシンジに、エイジは聞く。
「うん、惣流と同じで、今日はまだなにもわからないよ。ただ、凄いマシンだってことはわかった」
 アスカに対し、シンジの表情はやや明るい。
「でも、楽しかったよ」
 ほぅ、と軽い驚きを表に出す二人のメカニック。そして背後でそれを聞いていた監督の北原は言う。
「二人とも、初走行としては十分に合格点だ。落ち着いて走っていたし、周りも見えていた。良かったぞ」
 その言葉にアスカも、硬い表情を若干和らげた。
「次の走行も気を付けて走れよ」

 二本目の走行も無事に終わった。二人の今日のタイムは、コースレコードの約四秒落ち。それでも、二人のメカニックと監督は満足げな表情だった。帰りの車中も話が弾む。
「やっぱり体力が必要ですね」
 会話の中でシンジが言う。
「今日の二本目なんか、力が入りませんでした」
 それはアスカも同感だった。最後には身体をうまく支えられず、集中力も落ちていたことを実感していた。
「それは正しくもあり、間違ってもいるぞ」
 北原が口を挟む。
「もっと大きいマシンならともかく、Moto3ではそこまで体力は必要としない。もちろん、ミニバイクよりは身体を使うけどな」
 北原は余計な言葉を足さず、淡々とアドバイスをする。
「お前達が体力不足を感じているのは、まだマシンをちゃんとコントロールできていないからだ。うまく乗れるようになれば、そこまで疲れないさ」
 そんなものか、と二人は思う。しかし体力は有って悪いことはないとも、二人はまた思った。

 その晩。アスカの提案で夕食はコンビニ弁当とした。流石のシンジも疲労困憊の中で夕食を支度するのは辛かったので、有り難くその申し出を受けた。向かい合って弁当を食べる二人。
 ふと、アスカの箸が止まり、シンジの顔を見る。シンジもアスカの視線に気づき、顔を上げた。アスカはいつもの無愛想な口調で、シンジに言った。
「アンタ、わたしを抜いた時に『付いてこい』って言ったでしょ」
「あ、いや、言ってはないけど……」
「やっぱり。シンジにクセに生意気」
 ブスッとした口調ながらも、その目に険しさはなかった。シンジもそれ以上言葉を重ねることはせず、やや表情を崩す。
「ほら、やっぱり。まぁ今日のところはいいわ。勝負ってわけじゃないしね」
 言葉にしないシンジの心の内を、アスカは察した。
「勝負は本番まで取っておきましょ」
 アスカも表情を僅かに和らげた。僅かではあるが、それは同居を始めてから、いや、シンジに再会してから初めて見せた、力が抜けたアスカの表情だった。







7.Hold Your Hand





 翌日曜日。ふたりはそれぞれの自転車を駆り、トレーニングを兼ねたサイクリングに出掛けた。もちろん別々に。
 アスカは一纏めにした金髪をなびかせて、山へ向かっていた。今日のルートは山道を含む七十キロほどの予定だ。
 天気は快晴。真っすぐに降り注ぐ日差しが痛さを感じさせるほどだ。それでもアスカの気分は上々だった。購入以来毎日のように乗っているロードバイクだが、毎回新鮮な喜びがあった。夕立に降られたこともあったが、それさえも楽しかった。自分の足でどこかに行くことが、これほどに楽しいことだとは。少しずつ広がっていく自分の世界。所詮は自転車の行動範囲ではあるのだが、それでもそれが広がっていくことは、今までの生活では成しえないことだった。
「こればっかりはバカシンジに感謝しなくちゃね」
 思わずアスカは呟き、そうしてペダルを踏む。

 気づくと、後ろに一台のロードバイクが走っていた。いつからだろうか。後ろに付いているということは、自分よりもペースが速いに違いない。アスカは先を譲ろうと、左手を挙げてペースを落とす。
 すると後続のロードバイクは一気にアスカの前に出、追い抜き様に「頑張って」と声を掛けた。ぐんぐん加速していく青いロードバイク。
「あれは……ガチだわ」
 呆れるような感心するような呟きを漏らすアスカ。
「どこの世界も凄い人は凄いのね」

 それからしばらくして、見晴らしの良い休憩所を見付けたアスカは、そこに車輪を向けた。するとそこには先客が一人。それは先程アスカを追い抜いて行った、青いロードバイクだった。
「おっ、こんにちは」
 先方もアスカを認めて挨拶を交わす。ペコリと会釈をするアスカ。
 年の頃は高校生くらいだろうか。ピッタリとしたサイクルジャージから日焼けした四肢がのぞいている。彼の視線がアスカの上から下まで動いたところを、アスカは見逃さなかった。眉間にしわを寄せ、無視して去ろうとするアスカに、彼は慌てた。
「あ、ごめんごめん。こんなに可愛い子だなんて思ってなかったから驚いてさ。悪かったよ」
 軽口を叩く彼。
「ね、何処まで行くの? 良かったら一緒に走らない?」
 そう来たか。彼の言葉にアスカは、再び渋い顔をする。
「あなたと私ではペースが違いますから、別々に走った方がいいと思います」
 刺々しい言葉を残し、アスカはその先にあるトイレに向かった。背後で彼が何かを言おうとしていたが、アスカは完全にそれを無視した。アスカはふと思ってしまう。
『シンジと一緒ならナンパされることも無いのかな』
 だが、ふたりでロードバイクを走らせることもまた、想像できなかった。

 用を済ませて戻ってきたアスカを待っていたのは、先程の彼だった。アスカは一瞥もせずに、自分のロードバイクに跨がろうとする。
「ちょ、ちょっと待って。ごめん、さっきのことは謝る」
 慌てたように青いロードバイクの彼が言う。その声があまりに真剣だったので、アスカは動きを止め、顔だけを彼の方に向けた。
「オレってダメなんだよな、舞い上がるとつい調子のいいことを言っちゃう。さっきのことは謝るよ、ごめん」
 そう言って頭を下げる彼。
「……なんですか」
 頭を下げられているのもバツが悪いアスカは、意識して声のトーンを抑えて言った。
「あぁ良かった! 口を利いてくれた!」
 アスカの声に勢いよく頭を上げた彼は、嬉しそうな顔をする。
「俺は相羽シュン。高校二年生。自転車部」
「君は?」
「あなたに名前を言わなくちゃいけないんですか。要件はなんですか」
 突き放すようにアスカは言う。
「……」
 少々口籠った彼は、急に直立不動になり、アスカに向き直る。
「あなたに一目惚れしました! 名前と連絡先を教えて下さい!」
 これには流石のアスカも目を丸くした。ここまでストレートに告白されたのは、アスカも未だかつて経験がなかった。耳まで真っ赤になってアスカを見つめる彼。その表情は極めて真剣そのものだ。しかし……。
「ごめんなさい。あなたのことはなにも知らないし、そういう事言われても、困ります」
 そう言って顔を背けるアスカ。彼は力が抜けたように姿勢を崩し、両手で頭を掻く。
「ははは、そうだよな。ごめん、突然こんなこと言って。変なやつだよね、俺」
 しょんぼりと項垂れる彼。最初の軽い軟派な印象は、既に微塵もなかった。
「でも、今言わないと、絶対に後悔すると思ったから。君には迷惑をかけたね。ごめん」
 顔を伏せ、アスカに背を向けて立ち去ろうとする彼。その背中に向けて、アスカは一言、口を開いた。
「惣流・アスカ・ラングレー」
 彼の足が止まる。
「私の名前です」
 アスカの言葉に、彼は振り向かずに答えた。
「ありがとう。やっぱり君のこと、好きだ」
 そうして、自分の青いロードバイクに飛び乗るようにして、彼は走り去っていった。後には、少しくすぐったいような、少し腹立たしいような、いくつかの感情に揺れ動くアスカが残された。

 アスカはペダルを踏みながら、先の彼のことを思い出していた。印象に残っているのは、直立不動の姿勢と、真っ赤な耳。
『いい人、なんだろうな』
 もちろん、それ以上の感情は無い。しかし、少しだけ体が軽くなったような気がしていた。アスカは、ペダルへ込める力を少し増して、回転数を上げた。

 その頃シンジは、早めの弁当を広げていた。目の前には大きな湖畔が広がっている。風は無く、じっとりとした湿気が漂うが、木陰に入ると少しばかり熱気も和らぐ気がした。
 食べやすく荷崩れしないように、具を工夫したおにぎりが四個。小さめのタッパーに詰めた豚肉とゴーヤの梅干し和えと卵焼き。連日の気温を考え、痛まないように気を遣ったつもりのメニューだ。ボーっと湖畔を眺めながら、おにぎりを口に運ぶ。多めに入れた梅干しの酸っぱさが、頬に染みる。
 シンジはふと、同居人のことを想う。
「アスカも食べてるかな」
 アスカと同居を始めてから日課となった弁当作り。帰宅してから空の弁当箱を見ることは、シンジの喜びのひとつとなっていた。
「そう言えば、アスカの好き嫌いって聞いたことがないな」
 毎日残さず食べてくれる少女。それ故それに、気づくこともなかった。シンジはふと、あのころを思い出す。
「わたし、嫌いなものは殆ど無いんだけど、カリフラワーだけは苦手なのよね……」
 二人の保護者であったあの彼女と共に、外出先で入ったファミリーレストラン。サラダに入っていたカリフラワーを、アスカはシンジに押し付けたのだった。
「カリフラワー、この前入れたよな……」
 もちろん、それが残されていたことはなかった。シンジは、弁当箱に入っていたカリフラワーを見たときの、アスカの様子を想像する。思わず、シンジの口元が緩んだ。

「ただいま」
「お帰りー」
 帰宅したアスカを、シンジの声が出迎える。部屋に入ったアスカが見たのは、不器用な格好で大判の絆創膏を貼ろうとしているシンジの姿だった。
「アンタ、何してんの。怪我したの?」
「あ、うん。ちょっと転んじゃって」
 右肘に左手で大きな絆創膏を貼ろうとしているものだから、どうにもぎこちなく、苦労している様子。
「ちょっと待って。貸しなさいよ」
 ツカツカと歩み寄ったアスカはシンジから絆創膏を受け取ると、シンジの右肘に貼ろうとして、その動きを止める。
「これ、痛くないの?」
 それは見事な擦過傷で、結構な具合に皮膚が削られている。
「ちょっと痛いけど、でも大丈夫だよ」
「お医者さんには……行ってないわよね」
「うん、そこまでのことじゃないよ」
「まぁ……でも用心しなくちゃだめよ。ちゃんと洗ったんでしょうね」
「う、うん、まぁ……」
 言葉を濁すシンジ。
「……もう一度洗った方が良さそうね」
 アスカはシンジの手を引き、洗面所に連れて行く。
「よーく流すこと。いいわね」
 有無を言わさぬ雰囲気のアスカ。シンジは言われるがままに流水で傷口を流す。歪むシンジの顔。
「まぁ、その辺でいいでしょ」
 アスカは傷口に触らないように、タオルで水滴を拭う。
「ちょっと待ってなさいよ」
 そうしてキッチンに向かうアスカ。すぐに戻ってきたアスカは、食品用のラップフィルムを手にしていた。
「擦過傷はこれに限る、そうよ」
 そうしてシンジの右肘をラップフィルムで巻き上げるアスカ。
「ワセリンがあればいいんだけど、とりあえずはこれでいいでしょ。はい終了」
 呆気にとられるシンジに向って、アスカは当然のように言う。
「あとで交換してあげるから、言いなさいよ」
 半ば固まりながら、シンジはアスカに向かう。
「あ、ありがとう……」
 和らいだ表情でシンジは言った。
「アスカがいて助かったよ。ふたりっていいね」
 その言葉に、アスカの表情は一瞬固まった。だがその表情を変えることもなく、アスカは言い放つ。
「なに言ってんの。貸しだからね、コレ」

「それにしても、なんで転んだのよ」
 少し落ち着いたアスカが、改めて問うた。
「猫が……」
「ねこ?」
「うん。なんで猫って飛び出して来ては固まるんだろうね。轢きそうになったよ」
「それを避けて転んだ、と」
「うん」
「はぁ、シンジらしいって言えばそうだけど、気を付けなさいよ。またボケボケっと走ってたんじゃないでしょうね」
「うん、そうかも。気を付けるよ」
 やや呆れ気味のアスカの言葉にも、シンジは素直に答えた。
「ま、わたしも気を付けないとね。アンタみたいにならないように」
 やれやれと言った様子で、アスカは首をすくめた。
「でも、その位で済んで良かったわね。来週はレースなんだし、それまでには治るでしょ」

「今日はわたしが風呂掃除をするからいいわよ」
 夕食をとりながら、アスカはシンジに顔を合わせずに言う。
「その怪我じゃ、やりにくいでしょ」
「あ、ありがとう。でも大丈夫だよ」
 戸惑いがちに言うシンジを、アスカは制する。
「いいから。わたしがやるって言ってるんだから」
「そっか。ありがとう、アスカ」
「ま、今までやってもらってたしね。これからは交代でやりましょ」
 業務連絡のように、淡々と言うアスカ。それでもシンジの口元は緩んだ。
「その代わり、今日はわたしが先に入るからね」

 湯船に浸かりながら、アスカは思う。
 馬鹿な意地を張るのはもうやめよう。シンジの意図は相変わらずわからないが、無駄に虚勢を張る必要もない。アイツにだっていいところはある。
『許せないことも……あるけどね』



     ※



 一週間後の日曜日。Hサーキットではシンジとアスカが出場しているミニバイクレースが行われていた。プログラムは進み、二人が出場するメインレースの決勝が行われている。MCの実況がスピーカーから響く。
「シリーズ第八戦、エキスパートクラスの決勝は、前戦に引き続き碇選手と惣流選手のマッチレースとなっています!」
「ポールを取ったのは碇選手。しかし惣流選手は絶妙なスタートからホールショットを奪い、その後は一度も先行を許していません!」
「何度と仕掛ける碇選手を完璧に抑える惣流選手! チームEプロのマッチレースが続いています!」
「残り周回は三周!」
「あっと! 碇選手が仕掛けましたが、惣流選手、抑えました! 見事です!」
 アスカとシンジのマッチレースは、スタートから今の今まで続いていた。シンジを完全に抑えきって疾走するアスカ。一分の隙も見せない。
「いよいよ最終ラップ! おーっと、碇選手、一コーナーで仕掛けましたが、惣流選手、これを抑える! 今日の惣流選手は本当に凄い!」
「このまま碇選手を抑えきるのか! 惣流選手、変わらずトップです!」
「あーっと、いや、抑えた抑えた! 碇選手、抜けません!」
「さぁ、最終コーナー! 碇選手! 惣流選手! どっちか!」
「最後はぁー! 惣流選手だぁー! 優勝! 惣流選手、エキスパート初優勝です!!」

 MCの絶叫が響き渡る中、チェッカーフラッグを受けたアスカは、そのままゆっくりコースを一周する。それは勝者にだけ許される、特別な時間だ。アスカは天を仰ぐ。そうして左手を握りしめ、その手を天に突き上げる。
「惣流! やったな!」
 ピットに戻ってきたアスカを、メカニックの榊が歓喜の表情で出迎えた。
「本当に……ありがとうございました」
 ヘルメットを取る暇もなく、アスカは頭を下げ、榊と握手をする。
「マシン、本当に良かったです。完璧でした」
 そう言って、ヘルメットを取ったアスカ。そうして、初めての笑顔を見せる。張り詰めた集中力が解け、目元が緩み、口元も綻ぶ。
「勝てたのはマシンのおかげです。ありがとうございました」
 流れる汗もそのままに、アスカは喜びを隠さない。そうしてまた、両の手を握りしめる。
「勝った……!」
 喜びを噛みしめるようなその姿は、少女が初めて見せた、感情的な姿だった。そうしてアスカは、愛でるようにマシンに手を掛け、その場に座り込む。
「嬉しい……」

 同じピット内のもう一人のライダー。こちらも、初めて見せる顔をしていた。背中を丸めてキャンピングチェアに深く腰を落とした少年は、口を真一文字に結び、眼光鋭く、両手を固く握りしめている。エイジはその様子に驚き、声を掛けることも出来ない。
 数分の後、シンジは立ち上がってエイジのもとに歩んだ。
「ごめん、勝てなかった。マシンは良かったのに……」
 エイジは笑って、シンジの肩を叩く。
「いいさ、勝つこともあれば負けることもある。今日は惣流の日だったんだろ」
 そうしてまた、シンジの肩を両手で二度叩く。
「また次がある!」

 それまでアスカのことを見ることが出来なかったシンジは、そこでようやく、数メートル先のその姿に目を遣った。マシンの傍にぺたりと座り込んだ少女は、タオルを頭に掛け、その表情は窺い知れなかった。シンジは立ち上がり、少女のもとに歩む。

「アスカ」
 頭上から降ってきたその声に、アスカは面を上げる。そこには、悔しさの表情を隠さない碇シンジの姿があった。
「おめでとう、アスカ。速かった。今日は完璧に負けたよ」
 そうしてシンジは、右手を差し出す。
「優勝、おめでとう」
 アスカはやや戸惑いながら、それでも立ち上がり、シンジに相対する。そして、差し出されたシンジの右手に、戸惑うように自らの右手を合わせた。
「ありがとう」
 悔しさを滲ませるシンジに、アスカは戸惑う。
「こんなときってなにを言えばいいのか、わからないわね」
 この言葉に、シンジは初めて、口元を緩めた。
「喜べば、いいんじゃないかな」
 息を呑むアスカ。悔しさが浮かんだままに、それでも顔を歪めて笑おうとするシンジの顔を見る。そのまま暫く、視線を合わせるふたり。ふたりの間には、激しい闘いを終えた後の連帯感と共に、今までのふたりの経緯も重なり、喜びと悔しさ、達成感と後悔、そして互いへの敬意等々、一言では表し切れない空気が満ちていた。
 シンジの顔を見ているうちに、次第に、アスカの胸の奥から、熱いものがこみ上げてきた。
「……った」
 また、顔を伏せるアスカ。
「かった……」
 二回目の声は少し大きく。
「勝った」
 三回目は少し力強く。
「勝った!」
 四回目は肩を震わせて。
「わたし、勝った!!」
 五回目は絶叫。
「シンジに勝った!!」
 シンジの、チームメンバーの前で、初めて感情を爆発させるアスカ。
「勝ったよぉ……」
 そうしてまた、シンジと右手を繋いだままに、アスカはその場にへたり込んだ。シンジはその手を軽く握り直し、アスカに祝福を伝える。
 そしてシンジは頬に笑みを浮かべると、繋がれた右手を少しずつ解いて、両の手を合わせてアスカに拍手を贈った。
 アスカは頭上から、両手を叩く音を聞いた。その音は少年から周囲に広がり、ピット全体に響き渡っていく。
 今までに感じたことのない熱が、身体中を巡る。それは首から頭へ。そして目頭へ伝わる。
 アスカは、瞼に溜まる熱を感じていた。熱は頬へと伝い、流れ落ちる。
 それは、少女が初めて流した、歓喜の涙だった。
『わたし……嬉しくて泣けるんだ』



     ※



 レースが終わり、一日開いた火曜日。
 夕食の後、ふたりはなにをするでもなく、リビングで空間を共有していた。テレビでは流行りらしいドラマが映し出されている。
 不意にアスカが言った。
「明日までね」
 それがなにを意味するのか、言うまでもなかった。シンジは一瞬の沈黙の後、口を開く。
「……そうだね」
 その言い草に、なにか感じるものがあったのだろうか。アスカは続ける。
「この一ヶ月、満足した?」
「満足?」
「そ。シンジがなにを考えてるのか知らないけど、家族のやり直しってやつには満足したのかしら」
 アスカの言葉は、やや挑発混じりに聞こえた。
「わたしにとっては無意味な一ヶ月だったけどね」
 その一言に、シンジの顔は歪む。
「アスカだって……」
 その一言を、アスカは聞き逃さない。
「わたしだって、なによ」
「別に、いい」
「なによ、言ってみなさいよ」
「いいって言ってるだろ」
 アスカの怒りは沸点を突破した。
「えっらそうに! アンタはいつもそう! 何様のつもりよ!?」
 右手を振り回し、激昂するアスカ。
「もうウンザリ。アンタの家族ごっこにはね!」
 アスカのその様子に、シンジは抑え気味な声で言う。
「そうだね、もう終わりにしよう」
「ふん! それが偉そうなのよ!」
「だったらどうしたらいいんだよ」
「そんなの、自分で考えなさい!」
 アスカはシンジに背を向けて。
「もう寝る」
 派手な音を立て、自分の部屋に引き篭もるアスカ。
 残されたシンジは、独り呟く。
「そんなの、僕だってわかってるよ」
 湖に張った氷の厚さは一見わからない。丈夫そうに見えて、安全なように見えて、気づくと割れた氷水の中に落ちていたりする。一見平穏なふたりの関係は、もう、限界を超えつつあった。

 翌朝。アスカはいつものように起きてきた。対面しつつも会話を交わさず、顔を見合わせることもなく、朝食をとるふたり。
 シンジは、静かに言う。
「弁当、置いておくから」
「うん」
「夕方までに、家に帰ってくれていいから」
「わかってるわよ」
「じゃ、いってきます」
「いってらっしゃい」
 いつものようにシンジを送り出すアスカ。これも最期かと改めて思いながら、アスカはこの一ヶ月を追想する。
 最初は、どうなることかと思った。あり得ないと思ったし、いつまで続けられるのかと疑問だらけだった。しかし一旦始めてみると、それは危惧していたものとは違っていた。もちろん自分の努力もあったが、シンジの気配りも有り、穏やかな時間が流れていた。あのころよりもずっと平穏な日々。そうしているうちに、意地を張る自分が馬鹿らしく思えた。
 そして、レースに勝った。シンジに勝った。シンジの悔しがる顔をみた。それは自分にとっても、シンジにとっても、初めての感情だったと思う。色々なものを乗り越えて、なにかしらの繋がりのようなものも感じていた。
 だからなのだ。
 だから、この家族ごっこが許せなくなったのだ。
「ゲームは、どこまで行ってもゲームなのよ」
 その呟きは、アスカの中で木霊した。

 夕方。
「ただいま」
 帰宅した少年を待つ声は、もうない。シンジは抱えたロードバイクをスタンドに掛けた。もう一台のロードバイクが無くなったせいか、部屋が妙に広く感じた。
 部屋を見渡し、大きく息をひとつ。
「今日はカップラーメンでいいか」

 隣の自宅に戻ったアスカは、シンジの部屋の玄関が開いた音を聞いた。チラリと時計を見て、いつもの時間だと思うアスカ。ベッドに寝転んで、手元のタブレットで暇つぶしをする。日課のロードバイクも、今日は車輪が回ることはなかった。







8.Take me Take me





 一ヶ月のアスカとの同居の後、シンジは再び元の生活に戻っていた。いつものように起床し、朝食をとり、学校へ行く。帰宅後はテレビをぼぉっと見たり、音楽を聞いたりする。変わったことは、朝食がシリアルになり、昼食が購買のパンになり、夕食がレトルトや冷凍食品になったことか。
 アスカの言葉が、度々シンジに響く。
『もうウンザリ。アンタの家族ごっこにはね!』
「家族ごっこか」
 確かにそうだった。この一ヶ月も、そしてあのころも。
「あのころは、あれが家族だと思ってたけど」
「初めての家族だと思ってたけど」
「家族ごっこじゃ、ダメだよね」
 シンジは、アスカとの一ヶ月を振り返る。
 アスカがどう思っていたのかは、シンジにはわからなかった。それでも、その時間と空間は、少年にとって大切な時間だった。
 だが、少年も気づいていた。それは偽りだ。家族ごっこだ。ふたりがそれを演じていただけだ。
「家族って、難しいな」
 その週末には、Moto3の二度目の走行が予定されていた。ふと、シンジは思い出す。
『ほら、やっぱり。まぁ今日のところはいいわ。勝負ってわけじゃないしね』
 あの空間は仮初めだったのだろうか。今度はアスカに、どんな顔をして対すればいいのだろうか。否応なく、週末はやってくる。

 サーキットの朝は早い。午前五時にはサーキット入りし、六時には準備を始める。逆算すると出発は夜中になる。深夜二時、二人の携帯電話がそれぞれ鳴り、シンジは、アスカは、荷物を持ってそれぞれのアパートを出る。
 玄関先で、顔を合わせるふたり。
「……おはよ」
 先に声を掛けたのはアスカだった。「おはよう」と戸惑いがちにシンジも答える。
 ふたりは階段を降り、迎えに来たバンに乗り込んだ。
「おはようございます」
「おー、おはよう」
「おはようさん」
 車通りの殆ど無い街道を、バンは走り始めた。
「サーキットまで寝てていいぞ。遠慮しなくていいからな」
 北原監督のありがたい言葉に、シンジとアスカは目を閉じた。寝るつもりはあまりなかったシンジだが、アスカにどのように対すればいいのかがわからなかった少年にとって、それは福音とも言えた。
 そのような中、シンジはいつしか浅い眠りに落ちていく。

 紅い瞳を見た。
 琥珀色の水槽を見た。
 漂う綾波レイを見た。

 ビクリと体を震わせ、ハッと目覚めるシンジ。思わず周囲を見渡し、車中にいる自分を確認する。
「お、碇、起きたか? もうちょっと寝ていろよ」
 運転席から監督の北原が言う。
「あ、ありがとうございます。そうします」
 小声でそう答えるシンジ。アスカはシンジの隣でシートに深く腰を掛けたまま、その様子を薄目を開けて見ていた。
『また綾波の夢か……』
 アスカとの同居生活の間はほとんど見ていなかったその夢を、シンジはまた見るようになっていた。少年の心を縛り続けるその少女――綾波レイ。少年が、エヴァに乗るきっかけとなったその少女。それは淡い恋心だったのだろうか。惣流・アスカ・ラングレーに対する気持ちとはまた違った気持ち。ひとつだけ言えるのは、少女もまた、少年にとってかけがえのない存在であったことだ。
 シンジはゆっくりと顔を振り、再び瞼を閉じた。

 その少年は、時折シンジの夢にヒョッコリと顔を出す。少年はいつも、にこやかにシンジを見つめている。その少年は、綾波レイと同じ紅い瞳を持っていた。
 今日の少年は、歌を唄っていた。

「恐いのかい?人と触れ合うのが」
「好きってことさ」
「僕は君に逢うために生まれてきたのかもしれない」

 気づくとあたりは薄明るくなっていた。シンジは自分の状況を理解するのに、幾ばくかの時間を必要とした。
「お、碇、起きたか?」
 助手席からエイジが声を掛ける。
「もうすぐだぞ。ちょうどよかったな」
 意識して大きく瞬きをするシンジ。隣を見ると、頬杖を突いたアスカが、流れる窓の外を眺めていた。

 本日の練習走行は二十五分間の枠を三本の予定だ。一本目は無事に終了。シンジとアスカはともに、前回のタイムを一秒弱短縮していた。
 時刻は十一時過ぎ。二回目の走行が始まった。コースイン直後は北原監督の指示通りにシンジが先行、アスカが後追いとなっていたが、途中でアスカはピットイン。メカニックと短い打ち合わせとマシンの調整を行った後、再度コースに出ていった。
 単独で走るアスカは、数周の後に一台のマシンに追い付いた。そのライダーのペースは明らかにアスカよりも遅く、アスカはハイスピードの最終コーナー入り口で追い抜く算段を立てて走っていた。バックストレートを全開で走る二台のマシン。速度は時速二百キロを超える。アスカはピタリと前のマシンの背後に付き、追い抜くタイミングを計る。しかしアスカは、追い抜く予定だったブレーキングポイント直前で、前のマシンから白煙が上がるのを見た。
 ピットレーンから最終コーナーを凝視していたクルーは、砂煙と共に転がる二台のマシンと二人のライダーを見た。
「あれ、惣流じゃないか?」

 シンジが第二ヘアピンを立ち上がりバックストレートを全開で走っていると、途中のポストでイエローフラッグが振られ始めた。それはこの先の最終コーナーで転倒があったことを示している。
『転倒か』
 オートバイのロードレースには転倒はつきものだ。他人の転倒そのものには不感症になってしまう。シンジは僅かにペースを落としたが、それでもほとんどレーシングスピードのままに最終コーナーへ。
 しかしシンジはそこで、砂にまみれたゼッケン23の白いマシンと、倒れて動かない、アスカの姿を見る。
『!!』

 程なくしてレッドフラッグが提示され、転倒者を回収するために走行が中断された。多くのマシンと共にシンジもピットロードへ戻る。エイジにマシンを預けたシンジは、ヘルメット越しにエイジに叫んだ。
「アスカは、アスカは大丈夫!?」
 エイジは受け取ったマシンにスタンドを掛けながら、シンジに答える。
「まだわからない。今は榊さんとオヤジが様子を見に行った。救急車もそろそろ戻ってくると思う」
 メカニックの責務としてシンジのマシンにタイヤウォーマーを巻き、走行の準備をし直しながらエイジは言った。
「マシンは用意しておくから、碇も惣流を迎えに行ってこい」

 レーシングスーツのまま医務室に走るシンジ。走りにくいレーシングブーツが何度も足をもつれさせる。数百メートル先の医務室の前には、北原監督とアスカのメカニックの榊がいた。程なくして救急車が到着する。
 救急車のバックドアが開くと、中には一人のライダーがいた。担架に寝かされたまま運び出されたのは、アスカではなかった。そうしている間に、もう一台の救急車が到着した。同様に、担架で運び出されるライダー。白いレーシングスーツに金髪のその姿は、間違いなく惣流・アスカ・ラングレーだった。担架を追うように面々は医務室に入っていく。
 最初に運び込まれたライダーは、自分の力で起き上がり、医師の診察を受けている。アスカも、ゆっくりとであるが、担架から自力で立ち上がった。集まった人々は、ほうっと息を吐く。だが、様子がややおかしい。ぼぉっとしているようで、反応が鈍い。医師の問診にも曖昧に答えている。
「はい、ちょっと出て下さいね」
 そこでシンジらは看護師に診察室から追い出された。医務室の外で待つしかないシンジと北原。メカニックの榊はアスカの様子を確認後、クラッシュしたマシンの対応のためにピットに戻っていった。

 暫くして、アスカが診察室から出てきた。足取りは若干おぼつかないが、それでもしっかりと歩いている。北原は医師に状況を確認するために、医務室に入っていった。
「アスカ、大丈夫!?」
 シンジの問い掛けに、アスカは焦点の合わない目でシンジを見た。
「シンジ? アンタその恰好はなに? 新しいプラグスーツ?」
「ミサトは?」
「それより、ここはどこ?」

 驚きのあまり固まっているシンジに、医務室から出てきた北原が言う。
「頭を打って、脳震盪を起こしているようだ。記憶の混乱もそのせいだろう。このまま病院で医者に診せるから、悪いが惣流の着替えを持ってきてくれるか」

 シンジが走ってピットに戻ると、中断された走行が再開していた。何事も無かったかのように多くのマシンがメインストレートを全開で走り抜ける。心配そうな表情で待っていた二人のメカニックに対し、シンジは状況を簡単に説明。バンの中からアスカの荷物を運び出し、医務室に戻る。
 レーシングスーツから私服に着替えたアスカは、そのまま救急車で病院に搬送されていった。監督の北原も、榊の車を借りてそのまま同行した。救急車を見送ったあとで、榊はシンジとエイジに声を掛ける。
「よし、こっちも撤収だ。そのまま惣流の病院に行くぞ」

「どうも、前を走るマシンのエンジンブローに巻き込まれたらしい。相手が謝りに来たよ」
 北原の代わりにバンを走らせながら、榊が言う。後部座席のシンジは、身を乗り出すようにして榊に聞いた。
「あっちのライダーは大丈夫なんですか?」
「ああ、大した怪我ではないそうだ」
「そうですか……」
 シンジはホッと、少しだけ胸を撫で下ろした。車のルームミラー越しに、榊はその様子を見る。
「ほとんど全開のまま突っ込んじまったらしい。一歩間違えればヤバかった」
 榊の声は、いつもより抑え気味だ。その声に、シンジの背筋はゾッと冷える。
「ただ頭を結構打っているみたいだから、それが心配だな」
 シンジは、シールドが吹き飛び、大きく傷が入ったアスカのヘルメットを思い出す。
「まぁ、ちゃんと受け答えもしていたし、大丈夫だよ」
 努めて明るく、エイジはシンジに言った。シンジは何とか笑おうとしたが、上手くいかなかった。

 病院に着いたシンジらは、待合室で北原に迎えられた。
「今、CTで精密検査をしている。もうちょっと掛かるらしい」
「ア……惣流の状態はどうですか」
 落ち着かない様子でシンジは北原に問い掛ける。
「まぁ見た目には問題ない。ただ、記憶だけが飛んでしまっているみたいだな。同じことを繰り返して言っていた」
 言葉を失うシンジに、エイジは言う。
「大丈夫だって。俺も記憶を飛ばしたことあるけど、こうやってピンピンしているからさ」
「ひとまず、検査室の前まで行こう」
 北原に促され、一行は検査室へ向かった。

「惣流さんの関係者の方……あ、お父様ですか?」
 検査室から出てきた看護師が、北原を捕まえて問い掛けた。
「いえ、父親ではありません。チーム監督の北原と言います」
「そうですか。では北原さん、ちょっと中へどうぞ」
 検査室の中へ入っていく北原。残されたシンジら三人はどうにも心細い。
 程なくして北原が診察室から出てきた。顔には安堵の様子が見える。
「検査結果は問題ないそうだ。記憶の混乱もなくなって、今日のこともちゃんと思い出したらしい。打ち身が少々ある程度で、骨にも影響なしだ」
 ほぉっと胸を撫で下ろす一行。一気に緊張が緩む。
「な、言っただろ!」
 エイジはシンジに向かって大げさに笑いかける。シンジもつられて表情を崩す。
「念のため、今日一日は入院して、問題がなければ明日には退院して良いそうだ」
「良かったな、碇!」
 一気に表情が明るくなったシンジに、エイジは笑い掛けた。
 看護師が彼らの後方から声を掛けてきた。
「碇シンジさん、いらっしゃいますか?」
「あ、はい」
 笑顔のままに振り向いたシンジに、その看護師は事務的に言う。
「一応、今晩は惣流さんの付添いをお願いしたいんですが……大丈夫ですか?」
「え、僕ですか?」
「ええ、惣流さんが、『付添いなら弟に頼むので大丈夫です』と言っておられたんですが……弟さんですよね?」
 一行は、四つの顔を見合わせるだけだった。

 アスカは安静が必要とのことで、検査室から病室にそのまま移された。看護師に促されて一行は病院のロビーに戻り、シンジを残してそのまま帰っていった。シンジは、看護師に連れられて、アスカの病室に向かう。
 その病室は四人部屋だったが、そこにはちょうど、アスカ以外の患者はいなかった。アスカに諸々の情報を伝え、看護師は去っていく。
「アスカ、大丈夫?」
「心配掛けたわね、大丈夫よ。ここの病院が大げさなの。もうどこも痛くないのに」
 肩をすくめたアスカは、やれやれといった様子でシンジに答えた。
「そうか、良かった……」
 アスカのベッドサイドに立ったままに、シンジはうまく言葉が出てこない。
「悪かったわね、付添いまで頼んじゃって」
「あ、そうだ。それだよ。僕、アスカの弟なの?」
「仕方ないじゃない。だって看護師さん、家族の人はいますか、なんて言うんだもん」
 言葉にならず、口を開けたままのシンジ。
「色々面倒だからさ、弟がいるから大丈夫です、って言っただけよ」
 悪びれもなくアスカは宣う。
「この前の貸しがあったじゃない」
 そこまでアッサリと言われると、シンジも逆に力が抜けてしまう。
「まぁいいけど……弟か」
「細かいことは気にしないの」
 誤魔化すようにそっぽを向くアスカ。そこでシンジはようやく、肩の力が抜けたような気がした。
「うん、アスカが無事ならいいよ。なにか欲しいものはある? 買ってくるよ」
「炭酸水」
「わかった。レモン味のやつだね」
「うん、お願い」
 頷いてシンジは病室を出ていった。

「はぁ……」
 うな垂れて肩を落とすアスカ。まさかこんなことになるとは。転倒や怪我はレースには付き物だとは頭ではわかっていても、自分に降りかかるとは思っていないのがライダーだ。
「参ったわね」
 それは、自分の転倒のことか。それとも明日までの入院のことか。それとも。

 程なくして、シンジがペットボトルを二本持って帰ってきた。右手の一本をアスカに手渡す。アスカはそれを受け取ると、一気に喉に流し込む。炭酸がサワサワと喉の奥で弾けた。ふぅ、と大きく溜息をつくアスカ。
「シンジ」
 ベッドの上に視線を落としたまま、アスカは言う。
「適当なところで帰っていいわよ。お医者さんにはうまく言っておくから」
「そんなこと、できるわけないだろ」
 シンジは驚きの声を上げる。
「わたしなら大丈夫だから。シンジに迷惑を掛けたくない」
「迷惑なんかじゃない! 僕は帰らないよ」
「無理しなくていいって」
「無理じゃない! 僕はアスカが心配なんだ。傍にいたいんだ」
 必死に、半ば怒りながら、シンジはアスカに対した。
「帰れって言われたって帰らないからね」
 立ち上がっていたシンジは、ドカリとパイプ椅子に腰を下ろし、腕を組んでそっぽを向く。
 その様子にアスカは、俯いたままに、小さく呟いた。
「ごめん。……ありがと」

 病院の常として、夜は早い。寝慣れない時間に消灯時刻を迎えたアスカは、夜中に目を覚ました。シンジのことが気になり、ベッドから少し離れた壁沿いに座っているシンジの様子を、気づかれないようにそっと窺う。看護師が厚意で臨時ベッドを用意してくれたが、シンジはそれを使ってはいなかった。常夜灯にぼんやりと映し出される少年は、パイプ椅子に腰掛け、イヤホンを耳にしていた。
 狸寝入りを決め込んだアスカが暫く様子を探っていると、シンジはどうやら眠ってはいないようだ。時折自分の方に視線が向くことを、アスカは認めた。
 アスカはホッとする自分を自覚した。それに腹を立てることもなく、そのまま瞼を閉じて、再び眠りに落ちていく。

 シンジは、いつの間にか寝入ってしまっていた自分に気づいた。腕時計を見ると午前二時過ぎ。物音を立てないようにゆっくりと立ち上がったシンジは、ベッドサイドへ歩む。
 アスカは規則正しい寝息を立てていた。そのまましばらくアスカを見つめるシンジ。常夜灯の僅かな明かりの元ではその表情は窺えないが、苦しそうな様子が無いことに、シンジはすっと胸が軽くなる。
 アスカの様子に胸を撫で下ろしたシンジは、吸い寄せられるように、その首筋に魅入った。想起される少女の首の感触。シンジの背筋に冷たいものが走る。
 シンジはそれから逃げるように背を向け、アスカのベッドから離れた。

 次にアスカが目覚めた時、あたりは明るくなっていた。時刻は午前五時。自分の体内時計に苦笑しつつもアスカは上半身を起こし、ベッドの傍のシンジを見る。
 シンジはイヤホンをしたままに、パイプ椅子の上で船を漕いでいた。声を掛けようとして、思い留まるアスカ。アスカは暫し、ゆっくりと揺れるシンジを眺めていた。

 それからややあって、シンジは目を覚ました。いつの間にか眠ってしまった自分に、シンジは気づく。あたりは既に明るく、時計を見ようとして面を上げると、ベッドのアスカが自分を見ていることに気がついた。

「おはよう」
 アスカからの言葉に、シンジは戸惑いながら返す。
「お、おはよう……」
 気のせいだろうか。アスカは、肩の力が抜けたような顔をしていたように、シンジには思えた。それは初めて見るような、アスカの顔だった。
 そのアスカの脳裏には、あの時のシンジの言葉が浮かんでいた。思わず反応してしまった、あの時の言葉。シンジが何気なく発したその言葉。その言葉がアスカの中で木霊した。
『ふたりっていいね』







9.Party Maker





 アスカの転倒騒ぎから二週間。チームEプロは再びTサーキットにいた。メカニックの二人は走行を終えた二台のマシンの撤収準備をしている。前回大転倒を喫したアスカだが、本日の走行は問題なく、前回のベストタイムを更に一秒近く短縮していた。
「転倒の悪いイメージは無さそうだな」
 メカニックの榊が、アスカに確認するように言う。
「はい、だって覚えていませんから」
 あっけらかんと、他人のことのようにアスカは言った。
「気づいたら病院のベッドの上だったので、逆に良かったです」


「……と言う訳で、今日の結果なら大丈夫だ。再来週のレースに出場する」
 最後のミーティングで、北原監督が面々の前で宣言する。
「正直、練習不足は否めないが、実戦こそが最大の練習だからな。碇、惣流、頑張れよ」
 そうして出場した、地方選手権Moto3の初レース。今まで出場していたミニバイクレースとは規模も雰囲気も異なり、ひとつ上のステージであることを、ふたりは実感していた。
 シンジとアスカは走るたびにタイムを更新し、非凡な才能を周囲に知らしめる。予選の結果はシンジが三位、アスカが五位。好スタートを切ったシンジは、一周目を二位でクリア。そのままトップに食らいつく。アスカも三周目にはシンジに追いつき、トップを走るランキング一位の神田選手、二位のシンジ、三位のアスカの順で周回を重ねる。
 全十八周のレースも残り七周。三台の順位は変わらず、付かず離れずの間隔でレースは進んでいた。三人は、メインストレートでサインボードに示された残り周回数を確認する。
『あと六周』
 まず動いたのはアスカだった。第一コーナーでシンジのインを突き、二位に浮上する。シンジはそのままアスカの背後に付いた。アスカはその勢いのまま、トップの神田選手に仕掛けるが、今一歩届かない。その後も神田選手は鉄壁の走りでトップを死守。残りは四周となる。その周の第二ヘアピンで、シンジがアスカに仕掛けた。ラインをクロスさせ、コーナー立ち上がりでアスカを交わし、そのままバックストレートへ。シンジはスタートからトップを走り続ける神田選手の背後にピタリと付け、前のマシンを風避けにして空気抵抗を減らすスリップストリームを最大限に活用する。アスカもその背後に付き、三台はその間隔をギリギリまで詰め、一塊となってバックストレートを疾走する。接触寸前まで互いの間隔を詰める三台。
 最終コーナー直前でシンジはラインを変え、トップの神田選手のインをこじ開けるように突き、ブレーキングをギリギリまで遅らせてトップに躍り出る。シンジのアタックで僅かに空いたスペースにアスカも飛び込み、二台は連なって神田選手をパッシング。メインストレートへその姿を現した。残り三周。
 アスカは何度となくシンジに仕掛けるが、シンジは鉄壁の走りでアスカの追い抜きを許さない。アスカは、シンジは、無心でチェッカーを目指す。その時のふたりには闘争心以外に何もない。持てる力をすべて引き出して、一センチでも相手より前に出るだけだ。そこに余計なものが入り込む余地はない。さもなくばここで走る資格はない。
 シンジを追ううちにアスカは、バックストレートへ続く第二ヘアピンの加速で、自分に僅かなアドバンテージが有ることに気が付いた。その周、目論見通りに第二ヘアピン立ち上がりでシンジの背後にピタリと付き、ギリギリまでシンジに接近してバックストレートを疾走する。ストレート半ばでアスカはシンジの背後から飛び出してパッシング。そのまま最終コーナーへ突入する。
 アスカは背後に迫るシンジのプレッシャーを感じ取りながら、百分の一秒でも早く、一ミリでも先にチェッカーを受けるために全神経を集中する。それはシンジも同じ。目の前のアスカをどうやって抜くか、どのようにして先にチェッカーを受けるか。考える事はそれだけだ。残りは二周。

『絶対に来る。どこで? 最終か?』
 アスカはシンジのアタックを予期しながら走る。その周の最終コーナー。
『!!』
 バックストレートでアスカのスリップストリームに入ったシンジは、最終コーナー入り口でアスカのインを突く。そのアタックを予期していたアスカはラインをイン側に振ってラインを塞いだが、シンジはその更にインを突く。シンジはアスカの前に出るが、無理をしたラインのために加速が鈍り、ラインをクロスしたアスカと横並びでメインストレートに現れた。そのまま第一コーナーへ。
 第一コーナーではイン側のアスカが前に出る。そのままS字コーナー、第一ヘアピンへ。
 第一ヘアピンで再びシンジがアスカのインを突く。今度はアスカもブロックはせず、そのままシンジを前に出す。まさしくテールトゥノーズの勢いでシンジを追走するアスカ。
 第二ヘアピン。ややイン寄りのラインを取ったシンジに対し、アスカは立ち上がり重視のラインを取る。そしてバックストレートへ。アスカのマシンはピタリとシンジのマシンの背後に付け、飛び出す瞬間を狙いながら走る。
 
『アスカは絶対に来る。でも押さえる!』
『シンジを絶対に抜く!』
 そして最終コーナーへ。アスカは作戦通りに、シンジのスリップストリームから飛び出し、シンジのインを突く。それを予期していたシンジは限界のブレーキングでアスカの鼻先を押さえようとする。ハイスピードの最終コーナーを折り重なるように並走する二台。二台の間隔は殆ど無く、手を伸ばせば届きそうだ。ベストラインを通ったのはアスカだが、シンジも何とか持ちこたえる。だがじわじわと前に出るのは、ゼッケン23のアスカのマシン。

 アスカは、全身の毛穴が開いたような感覚を覚えた。
 シンジは、届きそうで届かない絶望を覚えた。
 先にチェッカーを受けたのはアスカだった。二番手はシンジ。その差、百分の七秒。

 観客席から拍手を受け、アスカはコースをゆっくりと一周する。シンジは、両手を上げて拍手に応えるアスカの背中を見ながら、自分も片手を上げて拍手に応える。
『くそっ……』
 決して甘く見ていたわけではないが、どこかで持っていた慢心。それを思い知らされた結果。シンジは敗北を噛み締める。
 アスカは、全身で解放感を味わっていた。何物にも代えがたいこの感覚。勝利の余韻。勝者だけに与えられる最上の喜び。

 ピットに戻ってきた二台を、クルーは拍手で迎える。
 アスカはメカニックの榊にマシンを預けると、ヘルメット姿のままに榊と握手。
「本当にありがとうございました。思い切り走れました」
 そうしてヘルメットを取った少女の顔は、初めての達成感に満ちた笑顔だった。

 シンジも、エイジにマシンを預ける。
「お疲れさん。良いレースだったよ」
 エイジはシンジの肩を叩き、シンジに声を掛けた。
「ありがとう。でも勝てなかった。僕のせいだ」
 落胆した声のシンジはヘルメットを取り、エイジに向かって言う。
「こんな思いはもうしない」
 そしてシンジは、隣のライダーに視線を向ける。ほぼ同時に、向こうのライダーもシンジの方を向いた。シンジの元へ歩み寄るアスカ。

「ありがとう、シンジ。楽しかった」
 悔しさを滲ませるシンジに、アスカは喜びに満ちた表情で右手を差し出した。シンジもアスカの顔を正面から見据え、差し出された右手を握る。
「おめでとう、アスカ。でも次は、僕が同じことを言うよ」
 悔しさに満ちた表情を崩さずに、そう言い切ったシンジ。アスカは一瞬目を丸くし、そして不敵に笑う。
「シンジのくせに生意気。次も勝つのはわたしよ」
 そうして右手に力を籠めるアスカ。シンジもようやく表情を緩める。余人の介入を許さないふたりの関係は、ここでも続いていた。







10.I still love U





 アスカの劇的なMoto3デビューウィンから五日後の夕方。アスカはシンジの部屋の玄関前に立っていた。少しの逡巡の後、インターホンのボタンを押す。部屋の中に呼び出しベルの音が響くが、中から反応は無い。もう一度ボタンを押すアスカ。だが結果は変わらない。
 アスカがこのような行動に出ているのには、もちろん理由がある。隣人の様子が今までとは違っていたからだ。古ぼけた木造アパート故、隣人の生活音は何となく聞こえてしまい、意識せずとも存在は感じ取れてしまう。しかしこの数日間、隣からは生活の気配を感じない。胸騒ぎがアスカを包む。
『こんなことなら鍵を返さなきゃよかった』
 自分の性格上、そんなことができないのは百も承知のアスカだが、そう思わずにいられなかった。もう一度インターホンのボタンを押すが、やはり応答は無かった。アスカの脳裏には、先日の場面が甦る。

 それは先日のレース後のことだった。アスカとシンジはウェブ媒体の取材を受けていた。滞りなく通り一遍のインタビューを受けた後、最後に記者が言った。
「いやぁ、君たち二人のコンビを見ていると、北原姉弟を思い出すよ。速かったんだぜ、二人とも。いつかは揃って世界に行くと思ってたよ」
「その北原君が碇君のメカをやっているんだから、碇君も惣流さんもそれ以上って事だよね。期待しているよ」
 その瞬間、シンジは凍りついたように表情を失った。それに気づいたアスカの脳裏に浮かんだのは、アパートの階段下に倒れていたシンジの姿。アスカの背筋に冷たいものが走ったが、シンジはその後、アスカに向かって、大丈夫というように薄く笑った。その様子を見て少し安心したアスカだったが――。

 アスカは記者とのやり取りを思い出しながら、僅かばかりの期待を込めて、インターホンのボタンをもう一度押した。返答は、やはりなかった。アスカは後ろ髪を引かれる思いで、自分の部屋に戻るしかなかった。
 それから暫くして、二十時を十数分回ったころ。アスカは、僅かな音を聞いた。風呂上がりの濡れた髪もそのままに部屋を飛び出したアスカは、歩み去ろうとする少年を見つける。
「シンジ!」
 アスカはその姿に叫んだ。
「アンタ、なにやってんの!」
 少年は足を止め、その場に立ちすくむ。突っかけたサンダルの音を響かせてアスカは少年の元へ数歩駆け寄り、少年の前に回り込んだ。俯いていた少年は、のそりとその顔を上げて、ぼそりと呟く。
「アスカ……」
 外廊下の薄暗い常夜灯に映し出されたその顔は、青白く、血の気が無かった。

「アンタ、どうしたのよ」
 アスカは静かに問う。その問いにシンジは、また面を伏せる。そのままふたりは、凍ったようにその場を動けない。
 アスカがその沈黙を破ろうとしたその時、シンジの口が動いた。シンジは俯いたままに、ボソリボソリとその言葉を漏らした。

「僕はダメだ」
「僕には生きている資格がない」
「僕はあのとき、死ぬべきだったんだ」
 身じろぎもせず、自分にぶつけるようにシンジは呟く。
「僕は、綾波を助けられなかった」
「僕は、カヲル君を殺してしまった」
 シンジは両の手をギュッと握りしめた。
「ミサトさんも死んでしまった」
「北原君のお姉さんだって死んでしまった」
「全部僕のせいだ」
「僕のせいでみんな死んでしまった」
 シンジの肩がワナワナと震え始めた。
「それなのに僕はのうのうと生きている。笑ってたりする」
「僕は、僕は!」
「僕は生きているべきじゃないんだ!」
「僕なんか、生きていたって仕方がないじゃないか!」
 そうしてシンジは、喉を裂くように叫ぶ。
「お願いだから誰か、僕を殺してよ!」

 アスカの目の前でシンジは頭を抱えて取り乱し、錯乱状態に陥った。放っておくと、どうにかなってしまいそうだ。
 シンジのその様子に、アスカの行動は早かった。考えるより先に身体が動いた。アスカはシンジの頬を両手で押さえ、顔を強引に正面に向かせた。その碧眼で、シンジの目を正面から見た。アスカが見たその瞳は、小刻みに細かく揺れている。
 アスカは迷わなかった。シンジのその鼻を右手で摘まみ、今にも叫び出しそうなその口を、文字通りに口封じとして、躊躇いもなく自らの唇で塞いだ。
 シンジの動きがピタリと止まる。その目は見開いたままだ。両の手は強張り、指先は不自然に力が入ったままに固まっている。それでもアスカはその行為を止めない。シンジの唇の熱を感じながら、アスカは唇を重ね続ける。
 呼吸ができず、次第に震えてくるその唇。シンジの肩を抱えたアスカの左手にも、その震えが伝わってきた。それを認めたアスカは、もう暫くシンジの呼吸を止めたままとし、頃合いを見てゆっくりと鼻を摘まんだ手を離し、その口を開放した。はぁ、と思わず大きく息を吸うシンジ。

「少しは落ち着いた?」
 押し殺した声のアスカに、シンジは目を白黒させたままに、答えることができない。アスカは冷静に、シンジの目を正面から見射る。
「なにがあったのか、言ってみなさい」
 茫然と立ちすくんだままのシンジ。アスカはひとつ息を吐くと、その手を引いて自分の部屋に連れていく。アスカの濡れ髪は、すっかり冷たくなっていた。
 アスカはソファーにシンジを座らせ、キッチンへ急ぐ。シンジの様子を気にしながらも手早く用意したその両手には、二つのマグカップが握られていた。
「ココアよ。飲みなさい」
 目の前に置かれた白いマグカップを、シンジはぼんやりと見た。僅かに白い湯気が立っている。アスカは自分の赤いマグカップを口元に運び、カップ越しにシンジの様子を窺う。
 シンジはおずおずとその手を伸ばし、マグカップを両手で包んだ。ココアの暖かさが掌に広がる。ゆっくりと一口、ココアを口に含む。甘さが喉に沁みる。もう一口、カップを口に運んだ。コクリと喉が鳴った。

「なにがあったの」
 抑え気味に、諭すようにアスカは問い掛ける。
 シンジの視線は、マグカップの中のチョコレート色から離れない。
 アスカは辛抱強く待つ。その間にも、アスカの視界からシンジが外れることはない。

 時計の針が二十一時に近づいた。
「晩ごはん、食べてないでしょ」
 アスカは突然にシンジに問い掛けた。だが、シンジからの返答はない。
「ちょっと待ってなさい。逃げるんじゃないわよ」
 アスカは表情を変えないままにキッチンへ向かい、なにやら調理を始めた。蛇口から水が出る音、湯を沸かす音、包丁がまな板を叩く音、何かを茹でる音。それらの音を耳にしながら、シンジはうずくまるようにソファーに腰を沈めたままだった。
 程なくして、ケチャップとバターの香りが漂ってきた。ジュージューと何かを炒める音がする。
 それからすぐに、アスカが両手に皿を持って現れた。シンジの前に出されたのは、二皿のナポリタンだった。
「おなかが空くとロクなことを考えないから、まずは食べなさい」
 シンジは戸惑いをそのまま口に出す。
「アスカが……つくったの?」
「あんたバカ? 見てのとおりよ」
 そう言い放ってアスカは、粉チーズを盛大に自分の皿に振りかける。
「アンタも要るでしょ」
 その返答を待つことなく、これまた盛大にシンジの皿に粉チーズを振りかけるアスカ。
「いただきます」
 シンジの返答を待つことなく、アスカは手を合わせて食べ始めた。それを茫然と見つめるシンジ。
「出されたものはちゃんと食べなさいよ」
 アスカのその言葉に、シンジはおずおずと皿に手を伸ばす。そして一口、ナポリタンを口に含む。
「美味しい……」
 シンジのその言葉にも、アスカは何も言わなかった。無言で食べるふたり。食器の音だけがカチャカチャと小さく響く。
「「ごちそうさまでした」」
 揃って手を合わせるふたり。アスカは二枚の皿を手に取り、キッチンへ下げる。ざっと洗う音が聞こえる。
「ちょっとは落ち着いた?」
 キッチンから戻ってきたアスカのその二度目の言葉に、シンジは小さく頷いた。
「そ。少し休めば」
 意識したように淡々と、アスカは言った。二人掛けのソファーに座らせたシンジを、アスカは視界の隅に置きながら、傍らの雑誌に手を伸ばす。
 その沈黙を破ったのは、シンジだった。

「……綾波の、夢を見るんだ」
 俯いたままに、シンジはポツリとその言葉を口にした。
「わたしのことは忘れてしまっていいの、って綾波が笑うんだ」
 シンジの言葉を、アスカは黙って聞く。
「そんな勝手な夢を、僕は見る。僕は、綾波のおかげで生きているのに……」
 その言葉は自らを嘲るようだった。
「外を歩くと、向こうに綾波がいる気がするんだ」
「綾波が、ずっと僕を見ている気がするんだ」
「綾波のことは忘れたくない。でも綾波を見ると、あのときのことを想い出すんだ」
 シンジはそこで、言葉を失った。

「あのとき……ファーストが、どうしたの」
 アスカのその言葉は、静かにシンジに問い掛けられた。その問いに答えたのか、シンジはポツリポツリと、アスカが知らない綾波レイの物語を紡いでいった。

 アスカが知っている綾波レイは爆死したこと。
 助かったと思われた綾波レイに再会したときのこと。
 だがその少女は『三人目』だったこと。
 綾波レイは代わりのいるクローンだったこと。
 綾波レイの形をした数多の魂の器を目撃したこと。
 赤木博士がその器をシンジの目前で壊したこと。
 シンジが心を通わせた綾波レイは、もう何処にもいないこと。

 シンジから語られたその顛末に、アスカは呆然となるしかなかった。それは、アスカが知り得なかった綾波レイの物語だった。アスカの脳裏には、エレベーターの中で対峙した『ファースト』の姿が蘇った。
 言葉を失ったアスカを前に、シンジはもう一人の、アスカが知らない少年の事を語り始めた。

 綾波レイと同じ紅い瞳を持った少年――渚カヲルと出逢ったこと。
 渚カヲルは、シンジを好きだと言ってくれたこと。
 生まれてはじめて、人から好きだと言われたこと。
 だがその少年は第十七の使徒だったこと。
 少年を消さねば人類が滅ぶと少年自身に言われたこと。
 その少年も、シンジに消されることを願ったこと。
 シンジは、その少年を手に掛けたこと。

「僕は、綾波と、カヲル君のおかげで生きている。でも僕は……」
 シンジはそれ以上、言葉にできなかった。

 アスカの脳裏には、あのときのシンジの姿が、自分の想いが、再会してからのふたりの出来事が、洪水のように一気に流れ込んできた。
 アスカは今、あのときのシンジがわかった。あのときのシンジの苦悩を。あのときのシンジが求めていたものを。そして今尚、シンジの心はあのときに囚われていることを。
 アスカは今、あのときの自分がわかった。自分が何故シンジを憎んだのか。自分が何を欲していたのか。自分が今尚持ち続けている、シンジへの感情は何なのか。
 シンジと再会してからのアスカの日々。シンジを憎み、腹を立て、シンジを叩きのめすためにレースを始めたアスカ。シンジを追い掛けたアスカの日々。ふたりが仮初めの家族となった日々。病室でアスカを看守ったシンジの姿。ふたりが争い、アスカがシンジに勝った日。アスカが初めて流した喜びの涙。アスカのシンジへの憎しみは、いつしかその姿を変えていた。

 あのときの少年はひたすらに、少女を求めた。自分を見て欲しい、自分を大切にして欲しい、自分に優しくして欲しい。それは一方通行な、欲しがるだけの望み。欠けた少年の心を補完するためだけの願い。

 あのときの少女はただ、自分を見て欲しかった。助けて欲しかった。抱きしめて欲しかった。アイツが全部わたしの物にならないのなら何もいらなかった。それは渇望するだけの、果たされることのなかった想い。
 少年も少女も、互いが欲しかった。でもそれは一方的に求めるだけの欲でしかなかった。今までふたりが、いくら願っても手に入れられなかったもの――。
 少女は想った。アイツが自分を欲の対象としてみているなんて、死ぬほどキモチワルイ。少女が求めるものは、ただ自分を包み込んでくれる愛だった。
 少年は想った。人に認められたい。愛されたい。でも人は怖い。少女も怖い。理解できない。したくない。ならば消してしまえ。壊してしまえ。

 アスカは、目の前でうずくまるシンジの姿を見る。背中を丸め、面を伏せ、すべてを拒絶するようなその姿を見る。
 アスカの胸の中で、目の前のシンジの姿が、あのころのシンジの姿が、かつての自らの姿と重なった。
 シンジの姿に、自分の内にあるものが、投影されているように思えた。
 アスカは今、わかった。碇シンジのことが。惣流・アスカ・ラングレーのことが。

『わたしも、シンジも……同じだったんだ』

 揺れ動いていたアスカの心。その動きは次第にくるくると回る回転運動となり、心のエネルギーとなって巻かれていく。巻かれたゼンマイが開放されたように、それは新たなエネルギーとなり、止まっていた歯車を回し始める。エネルギーを失っていたアスカの時計が、今、動き始めた。

 アスカは語り始める。あのころの、そして今の自分の想いを、シンジに伝えようと。
「わたしね」
 正面を向いたままのアスカは、隣でうずくまるシンジの背中に、静かに語り掛ける。
「わたしね、ずっと、シンジの事を憎んでいた」
 突然語られた、アスカの心の内。俯いたままのシンジは、小さく震えた。
「わたしはこんなに頑張っているのに、どうしてみんなはシンジばかりなんだろうって想ってた」
 アスカは遠いものを見るように、目の前の壁に目を遣った。
「シンジさえいなければ、みんながわたしを見てくれると想ってた」
「シンジを見て、イライラしてた」
「シンジなんか、いなくなってしまえばいいとも想ってた」
「わたしを助けてくれないシンジなんか、消えてしまえと想ってた」
 アスカは淡々と語る。
「でも」
 なにかを思い出すように、アスカは目を閉じる。
「でも、そんな自分が一番嫌いだった」
 アスカは身じろぎせず、顔を僅かに伏せて続ける。
「なにもできず、それなのにシンジを憎む自分が赦せなかった」
 アスカは、脇腹に回した右手に力を込めた。シャツをキュッと握り締める。
「自分なんか、どうでもよくなった」
「それが、わたし」

「アスカは悪くない」
 アスカの言葉を遮るように、苦しそうにシンジは言う。
「悪いのは僕だ。僕は自分を赦せない」
 嗚咽を押さえながら、絞り出すようにシンジは続ける。
「僕は時々、綾波やカヲル君のことを忘れそうになる。綾波やカヲル君の事を忘れて、笑ってたりする」
「僕は、綾波とカヲル君のおかげで生きているのに。僕には笑う資格なんて無いのに」
 少しの間が空く。シンジは抱えた膝の間に顔を埋めたままに、吐き出すように言った。
「アスカにだって……そうだ。僕はアスカに、言っていないことがある」
 アスカはピクリと眉を動かす。
「僕は、アスカを……アスカを見捨てて……」
 シンジの脳裏には、食い散らかされた弐号機が浮かぶ。
「最期には、アスカを……」
 シンジはそこで、言葉に詰まる。アスカは、顔を伏せたシンジの首筋を見つめたまま、シンジの言葉を待つ。
 シンジは怒りしかない口調で、自分に、アスカに告げた。
「……アスカを、消そうとしたんだ」
 シンジは自分に対して虫酸が走るといった様子で、喉を震わせた。
「傍にいて欲しかったのに、アスカが怖かったんだ」
 抑えきれない嗚咽と共に、シンジはそれを吐き出した。
「僕は、ずるくて、臆病で、卑怯者で、最低なんだ。僕が笑う資格なんて、生きていく資格なんて、ないんだ」
 アスカは腰を浮かし、シンジに身体を向ける。表情を変えずに、シンジの姿を見つめながら、しかしはっきりとアスカは言い切った。

「でも今、わたしはここにいる」
 アスカが見つめていた、シンジの首筋がピクリと動いた。
「シンジがわたしに何をしたのか、知らない。知りたいとも思わない」
「でもわたしは、今ここに、シンジの目の前にいる」
 アスカは、声のトーンを変えぬままに、シンジの首筋に向かって言う。
「シンジには、わたしの姿が見えないの?」
 アスカは淡々と続けた。
「シンジはわたしに酷いことをしたかもしれない」
「でもわたしだって、シンジに酷いことをした。お互いさまなんて言わない。言えない。でも」
 こみ上げる思いを抑えるようにして、アスカは言った。
「でも、わたしたちは今、こうして生きている。みんなのおかげで、生きている」
 面を伏せたままのシンジに、アスカは想いを込める。
「言葉にしないと伝わらないから、敢えて言うわよ」
 アスカは小さくうずくまったままのシンジに向かって、その想いを伝える。

「わたしはシンジを赦す。あのときわたしを助けてくれなかったシンジを、わたしは赦す。たとえ世界中が碇シンジを責めても、わたしだけはシンジを赦す。だってあのときは仕方がなかった。シンジも、わたしも、自分しか見えてなかった。必死だった。必死で生きた。あれ以上、どうしようもなかった」
 シンジの反応はない。それでもアスカは、その背中にアスカの想いを投げ掛ける。
「わたしも、惣流・アスカ・ラングレーを赦す。だからシンジも、碇シンジを赦して欲しい。あのときのことを忘れるわけじゃない。笑う日が来るとも思えない。でも、わたしは、あのときのシンジを赦す」
 アスカの言葉はシンジに伝わっているのだろうか。アスカは重ねるように、伝えたい、伝えねばならない想いを吐露する。

「そして今、わたしはシンジに生きて欲しいと想う。わたしと一緒に生きて欲しい。笑って欲しい。わたしは今、そう願ってる」

 アスカは静かに、しかししっかりとした口調で、自分の想いを言葉に乗せた。その眼には新たな光が宿り、シンジの背中を見つめている。アスカの願いを届けるように。
 その願いはシンジに届いたのだろうか。時計の秒針がくるりと一周する頃、シンジは少し、顔を上げた。

「ミサトさんに……」
 小声でシンジは言った。その言葉には、震えはなかった。
「ミサトさんに、言われたんだ」
「しっかり生きて、それから死になさいって。あんたまだ生きてるんでしょ、って」
 シンジの瞼に浮かんだのは、かつての保護者の姿。ガサツで、いつも無理をしていて、時に怖かったけれど、でも優しかったその彼女は、少年を送り出し、息絶えた。彼女の笑顔が、シンジの胸の内に浮かぶ。
『あなたが護った街よ』
『頑張ってね』
『おかえりなさい』
 シンジは、消え入りそうな声で呟いた。
「僕は……生きてもいいのかな」
 アスカはそのシンジの様子をじっと見つめたあとで、少し突き放すように言った。
「アンタ、ばか? 人はね、生きているだけで価値があるのよ」
 そして、アスカは目元を緩める。その顔は憑き物が落ちたかのようであり、その眼にはもう、暗い影はなかった。
「わたしも、今、わかったんだけどね」
 シンジはアスカの言葉に、ゆっくりと面を上げた。隣に座るアスカの碧眼が、シンジを見つめていた。ふたりの視線が、お互いを認めるように交わった。
 凍り付いていたふたりのときが、ゆっくりと流れ始めた。

「『いただきます』っていい言葉よね」
 突然のアスカの台詞に、シンジは戸惑いを見せる。
「差し出された命に感謝する、ってことなんでしょ。ミサトに教えてもらった」
 アスカとシンジの脳裏に蘇ったのは、かつての保護者との生活。家族ごっこだったと思っていた、その生活。それはほんとうに、無意味な家族ごっこだったのだろうか。
「だからね」
 アスカはシンジから視線を外し、前を見て続けた。
「だからわたしたちも、生きている限りはちゃんと生きなくちゃいけないんだと思う」
 アスカはまたシンジに視線を戻し、和らいだ表情を見せた。
「これも、今、思ったんだけどね」

 言葉を必要としない、ふたりの時間が過ぎていく。
 ふたりの脳裏には、あのころの記憶と想いが、楽しいこともあった日々が、しかし満たされなかったふたりの心が、必死に生きたあのころの想いが、そして再会してからの日々が、大河のように強く、淀みなく流れていた。
 動き始めたふたりの時計は、しっかりと音を立てながらときを刻み始めた。

「今日は泊まっていきなさい」
 唐突なアスカの台詞に驚きの顔を見せたシンジに、アスカは口を尖らせて言った。
「アンタに何かあったら、わたしの寝覚めが悪いからね」
 自分の心の内を誤魔化すように、アスカは床を指差しながら言い放つ。
「言っておくけど、アンタの寝床はここよ」
 ソファーを追いやって出来たスペースに毛布を敷き、クッションを枕に横になるシンジ。毛布からは自分ではない匂いが漂う。寝付けないままに瞼を閉じるしかないシンジは、隣の部屋の扉が開く音を聞いた。トントンと足音が近付いてくる。その足音はシンジの背後で止まり、そのままそこから動かない。シンジの背中に緊張感が走る。
 ドスン。腰を下ろす音と振動、そのまま寝そべる仕草を感じた。背中に人の気配を覚える。
「バカシンジ、起きてるんでしょ」
 背後から、アスカの声が聞こえた。
「今晩は隣で寝てあげるから、ありがたく思いなさい」
 アスカは両手で毛布をギュッと握りしめる。
「この前の借りを返すから」
 それきり、アスカはなにも言わなかった。ただそこにいるだけだった。
 シンジが背中に感じるのは、触れるでもない体温と、存在そのもの。それはようやく溶け始めたシンジの心を、緩やかに、優しく暖めていった。

 時刻は午前五時の少し前。明るくなってきた外からの光に、シンジは目を覚ました。ムクリと起き上がると、傍らには一人の少女の姿があった。毛布に包まったその姿を見、そしてまた、シンジはその首に目を奪われる。
 手に残るその感覚は、消えはしなかった。だがその畏れは少し、影を潜めつつあった。
 程なくして、少女が目を覚ました。少女の視界に少年が映る。
 一瞬、少女の頭は混乱した。顔中が熱くなる。
「エッチ! なにしてんのよ!」
 咄嗟に平手打ちを見舞う少女と、それを見事に食らう少年。乾いた音が響く。
「アスカ……酷いよ」
 情けない表情で頬を押さえる少年に、少女はハッと状況を思い出す。
「ご、ゴメン……。つい咄嗟に……」
 バツの悪そうな少女の姿に、少年は苦笑いを浮かべるしかなかった。しかしそれは、久しぶりの少年の笑顔となった。

 アスカが作った朝食を、ふたりは向かい合って食べる。
「もし」
 アスカがポツリと口を開いた。
「もし何かあったら、少しは頼って。少なくとも、戦友でしょ」
 アスカのその言葉に、シンジは口元を緩める。
「ありがとう、アスカ」
 シンジは、心の澱が消えたかのような、穏やかな表情で返した。そのシンジに向かって、アスカは表情を引き締めて、言葉を紡ぎ出す。
「わたしも、シンジにひとつ、謝らなくちゃいけないことがある」
 アスカはシンジをまっすぐに見て続けた。
「『無意味な一ヶ月だった』って言ったこと、あれは嘘」
「シンジのご飯は美味しかった。お弁当は楽しみだった。ロードバイクを教えてくれて感謝している」
 アスカはその碧眼を、シンジにしっかりと向ける。
「わたしにとって、無意味じゃなかった」
 そのままじっと、シンジを見つめるアスカ。
「でも」
 シンジから視線を逸らし、面を伏せてアスカは告げた。
「でも、やっぱりダメ」
「もう、一緒には住めない」







 


終章 空にまいあがれ