「無理、ですよ」
 見るからに、碇シンジは困惑していた。
「いや、やってくれ。これは監督命令だ」
 対する北原は、腕を組みながらシンジに言う。
「スポンサーのE−PROJECTさんの意向なんだ。碇、お前がレースを出来ているのは、スポンサー有っての事だろう。そのあたりを良く理解してくれ」
 北原の言葉に、シンジは俯いたままだ。
「碇、お前も多少なりとも契約金を貰っているんだから、プロって訳だ。プロならプロらしく、役目は果たさないとな」
 北原の語尾がやや強くなる。
 暫く沈黙していたシンジであったが、俯いた顔をやや上げると、ボソボソと言うのだった。

「わかりました。やって、みます」

「よし、そうじゃなくっちゃな。なに、別に大したことじゃないさ。ただいつものように走ってくればいいだけだからな」
 嬉しそうに北原はシンジの肩を抱く。シンジはそんな北原を見、思うのだった。

 『出来る事をやるだけ、か』



















僕らは始まってもいない

第拾話
ユキ



















 朝靄の立ちこめる、早朝のサーキット。
 多数のスタッフが忙しく動いている。新谷もトランスポーターよりマシンを降ろし、走行前の整備を行っていた。

 いつもの見慣れたサーキットであったが、いつもとは違う人々と雰囲気が、あたりに満ちていた。

「なんだか凄いわね」
 スタッフの働く様子をピットで遠巻きに見ていたアスカは、誰に言うでもなく独りごつ。

 その時、トリコロールに彩られた大型トレーラーが、パドックにゆっくりと入ってきた。
「お、HRCのご到着だ」
 新谷も整備の手を止め、隣に停車したトレーラーを見上げた。
「HRCも来る予定だったんですか?」
 少しばかり驚きの表情で、アスカは新谷に問う。
「なんだ、知らなかったのか?関口ヒデキも一緒に走るんだぞ、今日は」
「しかしHRCも太っ腹だよな。E−PROの依頼に二つ返事でOKだったらしいぞ。ロードレース界の発展の為って事らしいんだけど、有り難い事だよ」
 新谷は腕を組んで、一人で大げさに頷いていた。

 その頃、トレーラーの脇に、一台のロードスターが停車した。低いシートから身を浮かせて降り立った彼は、チームHRCのエースライダー、関口ヒデキ。
「おはようございます」
 彼はサングラスを外すと、一同の顔を見渡しながら挨拶を交わす。
「おはようございます」
「おー、おはようさん」
 異口同音に挨拶を交わす皆。
「今日はよろしく」
 差し出されたヒデキの右手を、シンジはゆっくりと握り返す。ヒデキの掌は柔らかく、やや冷たかった。

「惣流さんも、よろしくね」
 シンジの隣のアスカに、ヒデキは微笑みかける。
「あれ、アスカちゃんの事知ってたんだ」
「ええ、この前デートに誘ったんですよ。早速振られましたけどね」
 新谷の問いに、ヒデキは苦笑いを見せる。
「おーおー、そりゃ当然、無理だよ無理」
 笑い飛ばす新谷と一緒に、ヒデキも笑う。
「でも、僕は諦めちゃいないですよ」
 ヒデキは笑いながら、そう付け加える事を忘れなかった。その本気とも冗談とも付かない口ぶりに、新谷は苦笑いし、アスカは呆れ顔を隠さなかった。
 その中でシンジだけは、会話を交える事はもちろん、顔色を変える事もなかった。

「あら、皆さんお揃いですね」
 立ち話に興じる輪の外から、声が聞こえる。
 一同が声の方を向くと、現れたのは本間ユキ。今日のもう一人の主役である。
「おはようございまーす。初めまして、本間ユキです」
 彼女は皆に向かって、深々とお辞儀をする。
「碇君、今日はよろしくお願いします」
 もう一度ペコリと頭を下げたユキは、右手を真っ直ぐにシンジに差し出す。
 躊躇いがちにその手を握り返したシンジ。
 ユキの手は、小さく、柔らかく、そして暖かかった。

「頑張ろうね、碇くん」
 戸惑いがちのシンジを元気付けるかのように、ユキはまた笑うのだった。


 約三十分後。
 パドック内に立てたれた仮設テントの下に、一同は集まっていた。
「今回のCFの監督を務める、安田です。どうぞよろしく」
 三十代後半だろうか。挨拶をした男は一同を見渡して続ける。
「今回は皆さんご存じの通り、E−PROJECTさんのCF撮影です。キタハラレーシングさんと、HRCさんのご協力を戴き、レースシーンの撮影を行います」
「ドラマ仕立てのCMですが、今回の撮影に台本はありません。碇選手と関口選手には、いつも通り走って貰います。ただ、幾つかのパターンに合わせて走って貰いますので、その辺はこちらの指示に従って下さい」
 暫し、安田の説明が続く。
「以上ですが、よろしいですか。では、よろしくお願いします」






「いつも通り、普通に走ってこい。練習だと思ってな」
 新谷の声に小さく頷くと、シンジはコースへ出て行く。
 その後ろ姿を見送った後に、やや間をおいて、ヒデキもコースに入っていった。
 二人の姿を、ビデオカメラは追う。

 メインストレートを疾走するシンジのマシン。ツーストロークサウンドを響かせて、彼は一コーナーへ消えていく。
 三十秒程の後、トリコロールカラーに彩られたヒデキのマシンが姿を現した。シンジと同じように、カウルに体を押し込め、一直線にメインストレートを駆け抜ける。

 約十分が経過した頃、シンジがピットに帰ってきた。
 E−PROJECTのチームシャツを纏い、リアスタンドを持ってシンジを待つ彼女。
 それは、金髪の彼女ではなく、黒髪の彼女、本間ユキだった。

 ピット前でエンジンを止めたシンジのマシンに、ユキはスタンドを掛ける。
(アクセルの)開け口がちょっと過敏で、開け辛いです。あと、ブレーキングでフロントが沈むのがちょっと速い気がします」
 シンジの言葉に新谷は頷くと、ガソリンタンクを外し、キャブレターのセッティングに入る。一分半程で調整を終えると、続いてフロントサスペンションのセッティングを変更し、シンジにマシンを託す。
 傍らで新谷の作業を見ていたシンジは、ユキに視線を送る。ユキがスタンドを外したマシンに跨ると、新谷に背を押されて、シンジは再度コースインしていった。
 ビデオカメラは始終、その光景を記録していた。

「碇の奴、真剣だな」
 シンジを送り出した新谷は、誰に言うでもなく呟く。
「関口と走るから、か」
 新谷は腕を組み直すと、シンジが消えた一コーナーへ一瞥を与え、ピット内へ戻っていった。

 ストップウォッチを左手に握り、時間を確認しながらサインボードを提示するのは、シンジのスタンドを手にしていた彼女、本間ユキだった。
 シンジのマシンがメインストレートに姿を現す。
 彼はヘルメットを僅かに右に向け、ユキの出すボードを確認すると、カウルに潜り込んでメインストレートを走り抜けた。

「凄い……」
 一コーナーへ消えて行くシンジを見送った後、ユキの口から驚きの言葉が吐いて出た。
「ここから見ると、全然――違う」
 ユキの口は堅く結ばれ、その表情は緊張感に満ちていた。

『碇君は、何を考えて走ってるんだろう』
『好きだから走る、それだけなのかな』
『何のために走っているんだろう』

 サインボードの表示を変えながら、彼女の思いは巡る。

『あの子はいつも、何を考えているんだろう』

 ユキはまた、サインボードを出してシンジのマシンを待つ。


 チェッカーフラッグが振られ、三十分のセッションが終わった。
 二台のマシンは、隣り合ったピットにそれぞれ帰ってくる。

 ヘルメットを脱いだシンジに、ユキが手にしたタオルを差し出す。
「お疲れさま」
「ありがとう」
 シンジは僅かに表情を崩すと、大きく息を吐きながら、溢れる汗を拭った。

「碇、良い感じで走ってたな」
「そうですね、悪くないと思います」
 新谷の問いに、シンジは小さな声で答える。
 しかし、彼が次に呟いたその言葉を聞く者は、なかった。
「そうじゃないと、関口さんには付いていけませんから」



 その頃、メインストレートを挟んでピットと反対側に位置するメインスタンドに、アスカはいた。
 時折吹く南風に長い金髪をなびかせ、頬杖を突いてその様子を遠目に眺めている。

「そう言えば、シンジの走る様子を外から見るのって初めてね」
 アスカは一人、ボソリと呟いた。

「なんだ、普通に走ってるじゃない」
 幾多の色が混じり合った想いに打たれながら、彼女は所在ない様子で、脱ぎかけた右足のスニーカーをブラブラと弄ぶ。

「まったく」
 脱ぎかけのスニーカーをつま先に引っ掛けたまま、足を組む彼女。

「何しに来たんだろ」
 スニーカーが、ポトリと落ちた。
 脱げたスニーカーに気を払う事もなく、焦点の定まらない瞳で、ストレートの向こう側の光景を眺めるアスカ。

「来なきゃ良かった」

 確かに、彼女の出る幕は、そこにはなかった。



 暫しの後。
「それでは、次は二台で一緒に走って下さい。良い絵を期待してますよ」
 監督の安田に促され、まずはヒデキが、そしてすぐ後に続いてシンジがコースに出て行く。
 まずは一周。ランデブーを楽しむように、二台は連なって走る。
 続いて二周目。ユキの出すサインボードを確認したシンジは、ヒデキの後を追い、一コーナーを目指す。
 三周目。ヒデキは、メインストレートで背後のシンジを確認する。

「さあ、そろそろ行こうか」

 ヘルメットの中で不敵な笑みを浮かべたヒデキは、迫る一コーナーにアプローチして行く。
 その時シンジは感じていた。ヒデキの背中から発せられる、力のようなものを。

「速い」

 シンジの背中にも、力が入る。

 二台のカメラが待ちかまえるS字コーナー。
 後方を走るシンジのマシンが、ヒデキのインを突く。半ば無理矢理にヒデキのインに入り込んだシンジのマシンが、ヒデキと軽く接触した。
 しかしヒデキは意にも介さず、次のコーナーへのアプローチでシンジのインを突き、一瞬のうちにトップを取り戻す。
 ヘアピンでもシンジは抜きに掛かるが、ヒデキは素晴らしいハードブレーキングでシンジのパッシングを許さない。
 裏のストレートでは、ヒデキのスリップストリームに入り込むシンジ。ストレートエンドのブレーキングでヒデキを抜こうとアタックするが、ヒデキはラインを変え、シンジのアタックを無に帰す。
 そして二台は四度、メインストレートに戻ってきた。
 重なるように走り抜ける、トリコロールのマシンとディープブルーのマシン。
 二台のマシンは、絡み合うようにホイールトゥホイールの接近戦を演じる。
 それはまるで、先日のレースの続きを演じているかのようであった。



「勿体ない、こりゃカネが取れるぞ」
「あ、監督、いつの間に来ていたんですか」
 モニターに見入っていた新谷は、突然現れたチーム監督の北原に驚きを見せた。
「最初からいたさ。ずっと最終コーナーのあたりで見ていたんだ」
「碇の奴が心配だったから見に来たんだが、杞憂だったようだな」
 満足げに頷くと、北原は腕を組み、またモニターに見入った。



「あっ……!」
 先程から何度、声を上げそうになった事だろう。ユキは両手を握りしめ、サインエリアに設置されたモニターに食い入っていた。握りしめられたユキの白い手は、更に白くなっている。
 シンジとヒデキのデッドヒートは、先程から絶えることなく続いていた。

『怖い』
 いつしかユキの脳裏は、恐怖が支配しつつあった。

『どうして碇君は走るんだろう』
『本当に……』

『あの子は、どう思っているんだろう』

 ユキは、震えそうになる両手を、肩を、体を、必死に押さえていた。


 彼らのバトルは、チェッカーフラッグが振られるその時まで続いていた。
 最終ラップの最終コーナー、シンジは最後のアタックを試みる。
 ブレーキングでシンジのマシンは、ヒデキのイン側に並び掛けた。フロントホイールがヒデキの体の真横まで来る。
 しかしヒデキは、シンジの上を行った。
 半車身程のリードを保ったまま、ヒデキはアウト側から被せていく。

 結局最後まで、シンジはヒデキの前に出ることなく、チェッカーを受ける事となった。



 連なって駆け抜けた、二台のマシン。
 ユキは二台が消えていったコーナーの先を、じっと見詰めていた。

 彼女の黒い瞳には、何が映っていたのだろうか。
 彼女の脳裏には、何が巡っていたのだろうか。



            ・
            ・
            ・



 ピットに戻るシンジ。
 ピットで待つユキ。

 シンジの姿を認めると、ユキは手にしたスタンドを力無く落とす。
 スタンドの奏でた乾いた金属音は、マシンのエンジン音に掻き消された。
 エンジンを止め、ゆっくりと戻ってきたシンジのマシンに、ユキは駆け寄る。

 そしてユキは。
 マシンに跨ったままのシンジを抱き締め。
 ヘルメットを被ったままのシンジを見詰め。


 そのヘルメットの口元に。

 静かに、唇を合わせた。


 ヘルメット越しのキス。
 ユキの瞳から、一筋の涙が零れる。


 刹那、時は、静止した。



            ・
            ・
            ・



「ごめんね、突然」

 沈黙を破ったのは、ユキだった。
 ユキの仕草に促され、シンジはヘルメットを脱ぐ。
 額の汗が、頬を伝った。

「でも、嬉しかった」

 一滴(ひとしずく)の涙が、またユキの頬を流れた。
 ユキは、涙に笑みを重ね、シンジの瞳を見詰める。

「帰ってきてくれて、ありがとう」








 二人のドラマをアスカは、遠く離れたスタンドより眺めていた。

 それは彼女にとって、現実感のない、スクリーンの向こう側の出来事だった。










「バッカみたい」














 自嘲的な言葉は、風に流されて消えていった。




























 第拾壱話へ


 [Web拍手]






 TOP PAGEへ
 EVANGELION NOVELS MENUへ





感想メールはまで
またはからお願いします