僕には何も無い
生きている理由も、その価値も
生きている資格が無い




西暦二〇一五年の七月
あの最後の戦いのとき
僕は生き残ってしまった





そして、それからの僕は、ただ生きているだけだった
生きている人形だった
でも僕は人形とは違って
お腹が減れば何かを食べた
それはとても卑しい行為にみえた
でもどうしようもなかった
そんな自分に、程々嫌気が差していた
死のうかとも思った
でも、できなかった
ますます僕は、自分が嫌になった






時に西暦二〇一九年三月。僕は十七歳になっていた






唯一、そんな僕の興味を惹いたのは、バイクだった

何故かは解らない

以前の僕だったら、絶対にそんな気にならなかっただろう
だってそうじゃないか、あんなうるさくて危ないもの


でも僕は、何故か惹かれた
朝も夜も真昼も問わず、狂ったように乗り回した
そんな僕は、何時の間にかバイク乗りの間で有名人になっていた

僕に、レースをしないか、と誘う人が現れた
僕はそんなものに全く興味はなかったけれど
その誘いに乗った



そんな僕の様子を、彼女はいつも見ていた
惣流アスカラングレー
エヴァンゲリオン弐号機専属操縦者
同居人
初めてキスした人
でもそれは、すべて過去の事だった
今の僕には、全く関心がなかった
もちろん、同居もしていない
でもアスカは、僕の隣に住んでいたけれど




アスカは、何かと僕の面倒を見てくれた
僕らは高校生になっていた
アスカは毎日、僕を迎えに来てくれた
僕は学校なんて行きたくもなかったけれど
アスカは僕を引きずるようにして、毎日学校に連れていった



学校での僕は、完全に浮いた存在だった
友達もいなかった
かつて友達と呼んだ人も、どこかへ行ってしまった



でも


そんなことは、全く気にならなかった



どうでもよかったんだ







生きている事も




















僕らは始まってもいない

第壱話
おわり、そして、はじまり















 碇シンジは、練習走行のためにサーキットに来ていた。今日は三十分の走行が二本ある。彼が初めてここを走ったのは、ちょうど半年前の事だった。一回目の走行を控えてストレッチをするシンジを見ながら、彼が、ぎこちなく、似合わないレーシングスーツを着て初めてここを走ったときのことを、そして彼に初めて会ったときの事を、チーフメカニックの新谷コウジは思い出していた。

 それは衝撃だった。場所は深夜の環状線。新谷はゆっくりと愛車のヴァンを走らせていた。かつてはスピードを求め、二輪で駆け巡った環状線だが、最近はすっかり足を洗い、ゆっくりと流す深夜のドライブがお気に入りとなっていた。
 その時だ。バックミラーにハイビームが映ると次の瞬間、新谷の外側を黒い物体がかすめていった。
 バイクだ。しかも滅法速い。今までに経験した事のない速さだ。
 その姿は数秒で次のコーナーへ消える。あっという間に遠ざかるテールランプ。反射的に新谷は、右足をベタ踏みする。しかし、うなりを上げるV型八気筒エンジンも、遠ざかる黒い影との距離を詰める事は出来なかった。
 諦め切れない新谷は、深夜の環状線ランナーが集まるパーキングへと向かった。パーキングにはそれらしい雰囲気のバイクが十数台、その身を休めていた。缶コーヒー片手に雑談にふけるその中には、目当ての人物らしき者は見あたらない。  新谷はヴァンを片隅に停めると、車から降り、周囲を見渡す。すると。
 見つけた。あのバイクだ。
 パーキングの片隅に、黒いバイクが停まっている。ライダーの姿は近くには見えない。新谷はバイクの傍まで近づくと、リアタイヤをチラリと見た。
 間違いない。このバイクだ。

 数分後、戻ってきた主の姿を見て、新谷は少々驚いた。顔の線は細く、身の丈一七〇センチほどの体つきも華奢だ。なによりも、「それらしい雰囲気」が全くないその彼は、まだ少年のように見える。
 彼は訝しげに新谷に一瞥を与えたが、さして気にもしない様子でヘルメットを被ろうとする。そんな彼に、新谷は慌てて声を掛けたのだ。

 レースをやってみないか、と。

 その時の彼の反応も、新谷にとって非常に印象深い物だった。バイクが好きで、走る事が好きな者であれば、そのように声を掛けられれば、多少なりとも好意的なリアクションが有る事が普通だ。しかし彼は殆ど無反応だった。やりたくないとも言わず、やりたいとも言わず、生返事を繰り返す。そして最後に、ようやく発した言葉は「何時、何処へ行けばいいですか」だった。「そんなに言うのなら、やってみます」と、二言目に加えて。


 彼はその日、一人の女の子を連れてきていた。それも飛び切りの女の子。
 新谷は二人の姿を初めて見たとき、微笑ましい物を感じると同時に、一種の安心感を感じたものだ。年頃の少年らしいな、と。
 しかしながら、彼と彼女の様子は、新谷の想像していたものとは随分異なっていた。年相応の恋愛をしている様子は全く見られず、それどころか会話も殆ど無い。黙々と支度をする彼の傍らで彼女は、必要な手助けを的確に行っている。不足でもなく、過剰でもなく。その様は熟年夫婦のように見えなくもないが、二人の間に流れる雰囲気は、熟年夫婦のそれとも、また姉弟のそれとも違っているように思えてならなかった。


 初めての走行。新谷は彼に、無理をするな、怖かったら帰ってこい、それだけを言って彼をコースへ送り出した。
 彼が乗ったのは、GP250というクラスのレーサーである。市販車ではあるが、二五〇ccにしてパワーは百馬力を絞り出す。車重は百キログラムを切る。素人の手に負えるものではない。
 しかしながら彼は、走り出してものの三十分で地方選手権のコースレコードに一秒と迫り、次の三十分ではそれに僅かに届かなかったものの、ほぼ同等のタイムを叩きだしたのであった。

 シンジは走った。ただいつものように。
 怖いとは、全く感じなかった。いや、今までバイクに乗っていて、怖いと感じた事はない。ただ、肌に感じる非日常感、飛ぶように流れていく現実感が心地良かった。

 風になる、という表現があるが、それはレーシングスピードでは正確な表現ではない。ある速度域からは、大気は分厚い壁となって襲ってくる。ただの手強い敵だ。その敵を突き破りながら走るのだ。
 シンジは走った。ただいつものように。

 彼はその年、出場した地方選手権三戦全てでポールトゥウィンを飾り、翌年の全日本選手権への切符を手に入れた。
 出場した地方選手権のコースレコードを全て塗り替える、オマケ付きで。





「調子はどう?」
 一回目の走行が終わった後、スタンドでぼんやりと他のクラスの走る様子を眺めていた碇シンジに、惣流アスカラングレーは声を掛けた。
 長い赤みのかかった金髪を後ろでザッパリと束ね、ジーンズにスニーカー、そしてチーム名の入ったワークシャツを着たアスカが、シンジの隣に腰を下ろす。彼女はいつものように、シンジの手伝いについて来ていた。
「別に、いつも通りだよ」
 その言葉通り、いつもと変わらぬ答えが返ってくる。アスカは一瞬こめかみを動かしたが、すぐに笑顔を作ると言った。
「アンタ、来週は開幕戦でしょ? それも初めての全日本。緊張とかしないわけ?!」
「別に……緊張とか、無いよ」
 無表情に、彼はいう。昔の彼女だったら、この時点で張り倒していただろう。
 しかし、今の彼女はそうはせず。そう出来ず。
「ふーん、凄いんだ、シンジは」
 努めてにこやかに笑いながら、彼女は言う。しかし彼からは、何の答えも返ってこない。ただ遠くを眺めている。
 彼の今の有り様。その理由を、彼女は知っている。それは二人の、重すぎる記憶だった。

 その時彼女は、少女と約束をしたのだ。
 だから彼女は、彼を支える道を選んだ。
 そしてそれはいつしか、彼女の全てになっていた。

 沈黙が続く。

 ぼんやりとコースを眺めていたシンジは、やがて時間が迫ってくるとゆっくりと腰を上げ、新谷とマシンの待つピットに向かう。
 アスカはそんなシンジの数歩後ろを、やや俯き加減に、シンジの背中を見ながら歩く。
 これがこの二人の、いつもの姿になっていた。



「碇。サスのセッティング、変えといたぞ。最終(コーナー)で、チャタ(チャタリング。バイクが細かく跳ねる事)が出るって言ってたろ。こっちの方がいいと思うんだ。一回出て、もし駄目だったら戻って来てくれ。また変えるから」
 シンジは無言で小さく肯くと、ヘルメットを被り、あご紐を締めるとグローブを着けて、コースに入っていった。


「アスカちゃん、碇の様子、どう?」
 新谷がアスカに尋ねる。
「そうですね。いつもとそんなに変わらないと思いますけど」
「そうか、それならいいんだ。本当にあいつは解らないんだよ。あ、いや、嫌ってるわけじゃないんだよ、本当に。でも、あいつみたいな奴、今まで見た事なかったから。俺も結構長い事レースやってるけど、あいつみたいな奴は初めてだ」
 慌てて言い訳をする新谷に、アスカは小さく笑った。
「解ってますよ。私だって解らない事、ありますから。シンジの事、一番知っていると思ってますけど、それでも解らない事、あるんです」
 その姿には少し、憂いが見えて。

「でもさー、シンジ君、ホントに凄いわよねえ。まだ十七歳でしょ? しかもレース始めたのが去年で、その前はサーキットに来た事もなかったのに。シンジ君ぐらいの年齢で速いのって、それこそ五歳とかからポケバイ乗って英才教育受けてたのだけよ。これを才能っていうのかしらねえ」
 ヘルパー兼メカニックの斎藤ユミコが、アスカの表情を和らげるように口を開く。彼女は今日初めて、シンジの走りを見たのだった。
「確かにそうだ。初めてあいつの走りを見たとき、俺は頭が割れるようなショックを受けたよ。そして自分の才能の限界に、改めて気付いた。それから俺は、碇のメカになる事に決めたんだ」
「それまでは夢をずっと追ってきたけどな」
 新谷コウジは、少しだけ遠い目をしながら呟いた。彼は長い事世界を目指して全日本を戦っていたが、今一つのところでその夢は叶わないでいた。
「す、すみません」
 アスカが慌てて謝る。新谷は笑いながらいう。
「アスカちゃんが謝る事じゃないよ。俺はむしろ感謝してるんだ。あんな才能を、見せてくれた事にね」
「そうよー、新谷くんも頑張ってたけど、もうトシだしねえ」
「俺はまだ三十一だ!」
「あーら、アスカちゃんやシンジ君から見たら、立派なおじさんよ」
「そーいうユミコは、今年いくつになるんだー? お肌の曲がり角はとうに……」
 新谷が言い終わらないうちに、ユミコは手にしたペットボトルを振り下ろしていた。
「いてーなー、何すんだよ」
「ふん、中身が入ってなかったのが残念だわ。レディーに口を利くときには気を付けなさい」
「どこにレディーなんているんだよ」
「アンタ、まだ解ってないようね。じっくりお灸を据えてやる必要があるわね」
 ポキポキと指を鳴らしながらユミコが迫る。
 蒼くなる新谷。慌てて言う。
「ほら、そろそろ碇の奴が来るぞ。しっかりラップ、録ってくれよ」
 小さく舌打ちすると、不承不承サインエリアに向かうユミコ。

「全くユミコの奴、うるさくってしょうがないな。ほんとにアスカちゃんの爪の垢でも飲ませてやりたいよ」
 苦笑いする新谷を見、アスカは複雑な心境になる。
『新谷さんもユミコさんも、昔の私を見たらどう思うだろう』

 新谷とユミコの掛け合い漫才を見るたびに、アスカは過ぎ去った日々を思い出さずにいられない。  楽しい事も、悲しい事も、辛い事も、あのころは色々な事があった。

 だが今は、あまりに静かだ。



 暫くして、シンジがピットへ戻ってきた。アスカはレーシングスタンドをシンジのマシンに架ける。
 シンジが何やら新谷と話すと、新谷はいくつかの工具を手にマシンのセッティングに入った。ヘルメットを被ったまま折り畳み椅子に座ってそれを見ているシンジに、アスカは声を掛ける。
「何か、冷たいものでも、飲む?」
「いいよ」
 シンジの答えは、短く小さい。
 三分ほどの後、シンジは再びコースに出ていった。

 シンジの後ろ姿を見ながらアスカは、胸の奥のざわつきを押さえる事が出来なかった。胸の奥に潜む黒い固まりが、もそりと頭をもたげてくる。
 アスカは、自分に言い聞かせるしかなかった。『大丈夫、大丈夫』と。

 レースは、今のシンジにとって、唯一のもの。
 その経緯はどうあれ、何にも反応しなくなったシンジが、唯一選んだもの。
 そしてそれは、アスカにとっても同じだった。
 だから、シンジの後ろ姿に浮かぶ不安を、懸命にこらえていた。
 シンジに気取られないように。

 毎回、毎回、毎回――。






























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