旅路





一.手紙





 タンタンタンタンタンタン タンタンタンタンタンタン タターン
 タンタンタンタンタンタン タンタンタンタンタンタン タターン

「間もなく、列車が参ります。危ないですから、黄色い点字ブロックまでお下がりください」

 毎朝の光景。彼はすっかり耳に馴染んだそのチャイムを聞きながら、その駅のホームに立っていた。ネクタイを締め、ビジネススーツを身に纏ったその青年は、どこにでもいるありふれたサラリーマンのように見えた。確かに彼は、特筆すべきことも無い、目立つわけでもない、ごく平凡な日々を送っていた。それは彼が望んだことでもあった。しかし――。
 毎朝の数分間。彼は向かいのホームの一角から、目を離すことが出来ずにいた。正確には、そこに立つ一人の女性から、である。年の頃は彼とそう離れていないと思われる彼女は、いつもの時間に、同じような雰囲気で、いつもの場所に立つのだ。列車を待つ位置は毎日同じ。線路を挟んだ彼の向こう側のそこへ、彼女は今日もやってきた。到着するや否やバッグから携帯ゲーム機を取り出し、顔を画面に向ける彼女。そのため彼は、彼女の顔を正面から見ることが出来ずにいた。今日の彼女は、ワイドなデニムパンツに白いニットを合わせていた。黒いベースボールキャップから零れた金色の髪が、朝日に晒されて光り輝くように見えた。彼女はスーツのようなかっちりとした服装をすることはなく、カジュアルな砕けた服装を、いつも身に纏っていた。毎日同じ時間に電車に乗るということは、会社勤めなどの定型な毎日を送っているのだろう。もしかすると大学の研究者だったりするのかもしれない。学校の先生だったりすることもあるのだろうか。彼女が教壇に立つ姿を想像し、彼は思わず笑みを溢してしまう。彼は毎朝見掛ける彼女の事を、そのように色々と想像、というより妄想していた。
 いつ頃から彼女を見掛けるようになったのか、今となっては定かではない。そもそも彼の記憶は、自分自身についてさえ曖昧なのだ。自分の生い立ちや今ここにいる経緯、それは明確に彼の記憶として記されている。しかしそれは、彼にとって、演者として与えられた役割のようにも感じられた。
「気付いたらこうだったんだもんな……マリさん、ちょっと酷いよ」
 ホームから空を見上げる彼。架線の向こうに見える切り取られた空は、今日も青空だった。真夏の雰囲気は随分前に去り、朝晩はめっきり涼しくなってきた。ここ一週間ほどは秋晴れが続き、清々しい空気が朝のホームに満ちていた。彼の心に深く刻まれた、常夏の季節は既に存在しなかった。
 いつもの列車がホームに滑り込んできた。彼は今日も、同じ車内の同じ位置に向かう。空いている座席に座ることもなく、出入口扉脇の角地から窓の外を眺める。その向こうには、変わらずゲーム機に向かう彼女の姿があった。
 列車が動き出した。今日も彼は、遠くなりゆく彼女の姿を見つめながら、列車に揺られてゆく。
 それは、これからも変わらぬ毎日だと、彼は思っていた。

 翌日。いつもの時間に、彼女は現れなかった。
『今日は……いないのか』
 彼は心の奥でそう呟くと、少し下を向いて列車に乗り込んだ。
『まぁ、色々と予定もあるだろうしね。また明日』
 彼は、列車の中のいつもの場所から、遠ざかっていく向かいのホームを眺めていた。

 さらに翌日。いつもの時間に、彼女はまた現れなかった。彼がこの列車を利用するのは月曜日から金曜日。指折り数えるように、彼は記憶を辿る。
『二日続けて来なかったことって……無かったよな』
 彼の視線は、彼女がいつもいる筈の向かい側のホームに固定され、ピクリとも動かなかった。眉間には軽く皺が寄り、唇を軽く突き出すように口元は結ばれている。いつもの時間にいつものように到着した列車に乗り込んだ彼が、いつもの場所に向かおうとしたところで、そこには先客がいた。彼は僅かに顔をしかめると、そこからやや離れたつり革を掴み、列車の窓越しに向かいのホームを覗き込んだ。そこにはやはり、彼女の姿はなかった。

 その翌日も、さらに翌日も、彼女は現れなかった。今日は金曜日。彼も明日は休日だ。
『……はぁ』
 週末を前にして少しばかり浮足立っている辺りの雰囲気に反して、彼はため息交じりに視線を落とす。
『どうしたんだろう』
 彼がいるホームと向かい側のホームの間には、二筋のレールが走っている。彼は無意識に向こう側のレールを眺めた。
『僕は、何も知らない。彼女は誰なのか。何をしているのか。何処に住んでいるのか。毎日どこに向かっているのか。その姿をした彼女の名前すら、僕にはわからない』
 彼は少し顔を上げ、彼女の定位置だった駅のホームに視線を向ける。そこでは見知らぬ人たちが、朝の列車を待っていた。
『もし……』
 彼はまた空を見上げ、そこに浮かぶ彼女の姿に想いを馳せる。あの、時間も空間も意味を持たない世界で、彼が彼女に掛けた言葉を想い出す。送り出した彼女の背中を想い浮かべる。彼女からの最後の言葉が甦る。
 先日まで、毎朝見掛けていた彼女。彼女のその姿に、彼は知れず笑みを溢していた。その姿を思い浮かべ、ホームへ向かう足取りが軽くなっていた。そして彼は、いつものように、こう頷いていたのだ。
『よかった。僕はもう、これだけで満足だ』
 だが今の彼の姿は、吹けば飛ぶ空っぽの風船人形のように、ユラユラと心許なかった。彼はまた、力のない瞳で向かいのホームに視線を遣る。彼の眼が大きく見開かれることは、やはり無い。

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「間もなく、列車が参ります。危ないですから、黄色い点字ブロックまでお下がりください」

 いつものチャイムと、いつものアナウンス。しかし今日の彼の視線は、目標を失って空振りをする。彼はまたひとつ溜息を吐くと、俯き加減に列車に乗り込んだ。彼が定位置としていた場所には、今日も先客がいた。彼は口を僅かに曲げながら少し迷って、列車中央付近のつり革を掴んだ。車窓の向こうにはやはり、彼女の姿はなかった。

 週末、土曜日の朝。いつもは部屋の中でゴロゴロとしている彼だったが、今日は違った。平日と同じく午前六時過ぎに起床し、ハムエッグトーストとヨーグルトの朝食を摂り、午前七時に家を出た。身に纏っているのはビジネススーツではなく、ロールアップしたベージュのコットンパンツにスニーカーを履いており、上着はザックリとした紺色のマウンテンパーカーを羽織っていた。鞄も持たず、やや背中を丸め気味にした彼。駅までは、徒歩で十五分ほどだった。秋の朝の少し冷えた空気を全身に浴びながら、彼は駅までの道程を歩いた。僅かばかりの希望を胸に仕舞いこんで。
 その駅は、未だに自動改札になっていなかった。彼は上着のポケットから取り出した定期券を駅員に提示して、駅のコンコースに足を運ぶ。時刻は午前七時二十分。平日と違い、行き交う人の姿もまばらだ。コンコースの壁の上からホームを見下ろし、そこに彼女の姿が無いことを彼は確認する。そのまま暫く、景色を眺める彼。連日の秋晴れは今日も続き、空にはまばらに白い雲が浮かぶだけだ。一年の内で一、二を争うほどの良い天気だったが、彼の顔はまるで、鉛色の梅雨空のようだった。
「はぁ……」
 辛気臭い溜息を吐くと、彼はくるりと身を返し、コンコースの壁に背中を預ける。まばらに行き交う人々が、時折彼に視線を投げ掛けることもあったが、彼はそれにも気づかない様子だった。
 彼の視界に、一人の人物が現れた。彼は思わずピクリと首を振るが、その先の人物は、その髪の色以外は、彼が求める彼女とは似ても似つかない人物だった。彼はまた肩を落とし、身をよじって眼下のホームを眺めた。もちろん、そこにも彼女の姿はなかった。
 時刻は午前八時五分前。
『あと五分……いや、十分だけ、待ってみよう』
 来るあてもないその彼女を、彼はそこで、ただ待った。

 彼は結局、午前八時半過ぎまで、そこで彼女を待っていた。
「我ながら……バカだよな」
 最後にそう呟いて、彼は肩を落とし、背中を丸めて家路につく。清々しい秋の太陽も、彼の周囲だけは避けて降り注いでいるかのようだった。
 翌日曜日も、同じように彼は駅に出向いた。そして同じように、肩を落として帰宅することとなった。
 その帰り掛け、道すがらにある書店に、彼は思い出したように立ち寄った。日ごろ使うボールペンを買おうと思ったのだ。気分を変えて、少しだけ高級なものをと思い文房具コーナーを物色していると、ふと、ボールペンコーナーの隣にひっそりと置かれていた、便箋セットが目に入った。
「今時……なかなか使わないよね」
 思わずそう呟いた彼は、それでもその便箋セットに手を伸ばした。それは変哲もない、白い封筒に白い便箋がセットになったものだった。
『こんな手紙、貰ったことなんて……』
 不意に、彼の瞳孔がキュッと小さく絞られた。そのまま暫く、彼の手はそれを握ったままに動かなかった。ピクリと我を取り戻したように彼は視線を上げて、あてもない宙の一点を見つめる。
『ごめん、お待たせ!』
 脳裏に響くのは、彼にとって大切な、ひとりの女性の声。その声は、未だ鮮明に、彼の頭の中で木霊した。
『……ミサトさん』
 彼はその便箋セットを手にしたまま、おざなりに物色して見つけた千円ちょっとのワインレッドのボールペンと共に、レジに向かった。

 その夜。買ったばかりのボールペンを手にしたままに、彼は微動だにせず、目の前の真っ白な便箋と対峙していた。眉間にしわを寄せ、その手は何度も便箋に向かうが、未だにそれは真っ白なままだ。
「なんとなく買ってきちゃったけど、どうしよう」
 そうしてまた彼は便箋に向かうが、それでもボールペンは紙にインクを落とさない。
『これしか、方法が思いつかない』
 彼はまた、ボールペンを置いてその手を後ろ頭に回す。
『でも、書いたところでどうするんだ?』
 深く息を吐いて、彼は椅子の背もたれに大きく体を預けた。
 彼は立ち上がり、すぐ後ろのキッチンに向かって一杯のコーヒーを淹れた。インスタントコーヒーだが、決まって買うその銘柄は、拘りの少ない彼が必ずこれと決めている物でもあった。その香りを確かめながら、マグカップを手に、彼はまた机に向かう。彼はいつも、コーヒーには何も入れなかった。真黒な液体の淵には、僅かに泡が立っていた。それを一口含み、心を落ち着かせるようにして、彼は再び、ボールペンを手に取って、便箋に向かった。


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はじめまして。突然、こんな手紙を渡してしまって、ごめんなさい。
僕は、碇シンジと言います。二十八歳のサラリーマンです。
毎朝、あなたと同じ時間に、逆方向の列車に乗っています。あなたの姿は、毎日のように見掛けていました。
どのように言ったらいいのか、正直に言ってわかりませんけれど、もし許してもらえるのなら、あなたと話がしてみたいと思っています。少しの時間でも構いません。
もし、相手になって頂けるのなら、ご連絡を頂けると嬉しいです。よろしくお願いします。

 碇シンジ
 shinji@vil.3d.com
 091-1432-0313

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 慎重に、丁寧に、一字一字を間違えないように、彼は長い時間を掛けて、一枚の手紙を書きあげた。一枚の白紙便箋を重ねて三つ折りにし、白い封筒に入れて封をする。少し迷って、封筒の表は未記入のままとし、裏側には"碇シンジ"とだけ記した。







二.夢伝説





 翌朝。彼は昨晩に認(したた)めた手紙を手にし、眉を寄せながら、暫し考え込むような表情を見せる。数十秒後、奥歯をギュっと噛み締めた彼は、それを丁寧に鞄に仕舞い込んだ。手紙と共に、駅へと彼は向かう。
 ソワソワとした様子の彼は、理由もなく早めに家を出、速足で歩き、いつもの時間より十分ほど早く駅に到着した。ホームの定位置で向かいのホームをじっと見つめる彼。その視線は、ホームから階段、その上のコンコースと、落ち着かない様子で彷徨っていた。

 彼の頭がピクリと小さく動き、その視線は一点に固まった。彼の視線が注がれているその先の、向かい側ホームに続く階段から、その姿は現れた。その姿を認めるや否や、彼はもうじきやってくるはずの列車にも構わずに、脱兎のごとくホームの階段を駆け上がり、コンコースを走り、向かいのホームへ続く階段を駆け下りる。その時間に初めて降り立ったそのホームには、彼が求めていた、彼女の姿があった。
 彼はひとつ、ゴクリと生唾を飲み込む。階段を降りた先で、彼女の姿を十数メートル先に認めながらも、そのまま固まったように、彼はそこから一歩も動けなかった。胸の鼓動が高まっているのは、急に階段を昇り降りしたから、ではない。背筋と胸元には熱い汗が流れていたが、そのことにさえ、彼は気付かなかった。
『アスカ……』
 思わず湧いてきた、その名前。
『違う。彼女はアスカじゃない。僕の知っているアスカじゃないんだ』
 その言葉を、彼は反芻する。彼のすぐ先の彼女の姿は、確かに、あの場所でもう一度逢うことが出来た、彼女の姿と瓜二つだった。しかし、ただそれだけのはずだった。
 彼は、ギッと奥歯を噛み締めると、鞄を持った左手をギュっと握り締めて、一歩を踏み出した。その先の彼女に向かって。

「あ、あの……!」
 毎日見掛けていたようにゲーム機に向かっているその金色の髪の彼女に対して、彼は振り絞るような声を掛けた。しかし、彼女からの反応はない。彼はもう一度、更に半歩ほど彼女に近づいて、彼女に声を掛けた。
「あ、あの、すみません!」
 そこでようやく、彼女はチラリと彼に一瞥を与えた。しかしすぐさま、無視を決め込むようにゲーム機に視線を戻す彼女。周囲に並ぶ乗客は、彼を興味深そうに眺めている。彼はその彼女の表情や周囲の様子に構わず、鞄の中からそれを、白い封筒を取り出した。
「あ、あの……! これ!」
 振り絞った彼の声に、周囲の人々は一斉に、ある人はチラリと、ある人はニヤニヤと、視線をそのふたりに投げ掛ける。彼女は小さく舌打ちをすると、ゲーム機から顔を逸らさないままに、左手を彼に差し出した。チョイチョイと言った様子で、手をしゃくる彼女。彼は手にした白い封筒を彼女に差し出すと、彼女がそれを手にしたことを確認してから、ぺこりと頭を下げ、弾かれたようにその場を後にして駆け出した。彼女は、何事も無かったかのように、無造作にその白い封筒を鞄の中に仕舞いこむ。一分後には、辺りは何も起きなかったかのように、いつもの朝の光景を取り戻していた。

 彼女は一日、その手紙と共に過ごした。駅のごみ箱に捨てることもせず、鞄に仕舞いこんだままに、手を付けることなく、一日を過ごした。午後八時過ぎに帰宅すると、顔を洗ってメイクを落とし、キッチンへ向かう。冷蔵庫の中の作り置きの惣菜を電子レンジで温め、冷凍しておいた白飯をこれまた電子レンジで解凍し、更に冷凍しておいたみそ汁の具を鍋に入れて出汁入り味噌を使って一人前の味噌汁を作る。いつの間にか身に付いた、毎晩の一人分の食卓だ。さっと十分ほどで用意した夕食を前に、彼女は両手を合わせる。
「いただきます」
 その言葉を聞く者がいるわけではないのだが、彼女はその習慣を止めることはなかった。
 静かな夕食の後、すぐに片づけを始めた彼女は、洗った食器を綺麗に拭き上げてウンと小さく頷くと、その足でバスルームに向かった。入浴を終えるまでが、帰宅後の彼女のルーティーンワークのようなものだった。
 真夏の頃はバスタオル一枚でバスルームから出てきた彼女も、すっかり涼しくなった昨今は、パジャマを着てから部屋に戻るようになっていた。ドライヤーを当てた髪の乾き具合を気にしながら、彼女はリビングの脇に置いた鞄に目を遣る。いつもならばそこに置かない鞄の中には、一通の白い封筒が入ったままだった。腕を組んで、その鞄を睨むようにじっと見た彼女は、瞼を閉じて、暫し考え込むような仕草を見せる。そうして意を決したような表情で、その鞄を手にし、中からその白い封筒を取り出した。
 黙ったままでただじっと、彼女はそれを見つめる。宛名のない真っ白な封筒をペラリと返すと、裏面には、差出人として"碇シンジ"の名前があった。
「……どういうつもり?」
 思わず呟いたその言葉は、誰にも聞かれぬままに、彼女の部屋の中に消えていく。
 手にした封筒をシーリングライトに照らして、その中を透かしてみようとする彼女。だがしっかりとした厚手の封筒の中は、ライトで透けて見えることはなかった。
「ふう……」
 ようやくのことで、意を決したように、棚にあるハサミを手にする彼女。そうして、丁寧に、ザクリザクリと封筒を開封した。その封筒を手に、彼女はリビング中央のソファーにもたれ掛かり、中から、三つ折りにされた便箋を取り出した。もう一度、ギュッと目を閉じてから、彼女はそれを開いた。
 そこには一目で丁寧に書いたと分かる、几帳面な文字が並んでいた。彼女は、ゆっくりと、一文字一文字を読み飛ばさないように気を付けて、最後までそれを読み終えた。
「はぁ……」
 便箋を手にしたまま、深く息を吐く彼女。その表情からは、その心境はにわかには伺えなかった。僅かに眉をひそめ、彼女は何かを考え込むような仕草を見せる。ふぅとまたひとつ小さく息を吐くと、彼女は丁寧に、その便箋を同じように三つ折りにして、封筒に戻した。そのまま部屋の隅にある机に向かい、一番上の引き出しの中に、それを仕舞いこんだ。彼女はその机に座ることもなく、身を返してベッドルームに向かう。次にベッドルームから出てきたとき、彼女はパジャマ姿ではなく、Tシャツの上にパーカー、ジョガーパンツという出で立ちだった。彼女はキャスケット帽を無造作に被ると、そのまま外へ出て行った。
 三十分後、彼女は紙袋を抱えて戻ってきた。書店のロゴ入りのその紙袋を机の上に置くと、彼女はベッドルームに戻り、またパジャマに着替えてから机に向かう。紙袋の封を開けて取り出したのは、一冊のノートだった。何の変哲もない、どこにでも売っている大学ノート。紺色の表紙に、よく見る英語のロゴが白抜きの大文字で並んでいる。彼女は表紙を捲り、両手を使って一頁目をしっかりと開いて、机の上に広げた。机の奥にあるオレンジ色のペン立て代わりのマグカップから一本の細字のサインペンを取り出して、ノートに向かおうとしたところで、彼女の動きはピタリと止まった。
 そのまま暫く、彼女は凍り付いたように、ピクリとも動かなかった。胸が僅かに動いてなければ、彼女を見た者が血相を変えてしまいそうな程だった。
 彼女の蒼い瞳が、僅かに左上の方に動いた。彼女はひとつ、小さく息を吐いた。思い直したようにサインペンを握り直し、彼女はノートに言葉を綴る。

――――――――――――――――――――

アンタ、誰よ。

――――――――――――――――――――


 そこまで書いて、彼女はじっと、自分が書いた文字を見る。ふうと息を吐き、左下の方に視線を遣りながら、手持ち無沙汰にプラプラとサインペンを弄ぶ彼女。そして彼女はペンをペン立てに戻し、ノートを閉じて紙袋に入れた。
 椅子から立ち上がり、腕を組んでその紙袋をじっと見る彼女。そのまま瞼を閉じ、僅かに顎を引いて、唇をキュッと引き締めた。

 手紙を渡した翌朝。彼は、軽い頭痛と共に目覚めた。
「良く寝られなかったからな……」
 こめかみを押さえながら、枕元に置いたスマートフォンで時間を確認する。時刻は午前五時半過ぎ。いつもの起床時間よりは少し早い。
「……起きるか」
 重そうな表情で、彼は洗面所に向かった。

 固い表情を崩せない様子で、彼はいつもよりも二十分ほど早い時間に、駅に到着していた。いつもよりも数メートルほど背後に下がった位置で、向かい側のホームの様子をじっと見つめる彼。そこにはまだ、あの姿はなかった。数分おきに時間を確認する彼。その頭は、上を向いたり、フラフラと左右を見たり、足元を彷徨ったりと落ち着かない。
 やがて、彼女が現れるいつもの時間となった。しかし彼女の姿は、その階段から降りてこない。彼の表情は、益々硬直していく。
『やっぱり……仕方ないよな』
 彼の首はカクリと下がり、強張っていた肩はダラリと力なく垂れ下がった。演者を失ったマリオネットの様に、彼の全身から力が抜ける様子が見て取れた。
『でも、これでいいんだ。これでいいんだ』
 そう自分に言い聞かせて、彼が顔を上げようとしたその時。
「ちょっと」
 背後から、その声を、彼は聞いた。反射的に勢い良く振り返ると、そこには、初めて間近で正面から見ることになった、彼女の姿があった。彼は目を見開き、口を半開きにしてその表情を固まらせる。彼のその様子にも構わず、彼女は無表情のままに、手にした紙袋を彼に押し付け、彼の顔を一瞥することもなく、そのまま足早に去っていく。
「あ、あの!」
 何とか振り絞った彼の声にも反応せず、彼女は階段を登り、そのまま消えていった。彼は彼女を追いかけることもできず、押し付けられるようにして渡された、ひとつの紙袋を握り締めるだけだった。
 その後、彼女の姿は向かい側のホームに現れた。彼がいつも眺めていたように、鞄の中から携帯ゲーム機を取り出し、彼女はそれに向かった。


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「間もなく、列車が参ります。危ないですから、黄色い点字ブロックまでお下がりください」

 茫然としていた彼は、そのアナウンスに、ようやくその表情を取り戻した。しっかりと握り締めたその紙袋を見つめた彼の頬は紅潮し、目尻は下がり、口元はだらしなく緩んでいる。彼は鞄を開け、中を整理してそれが折れたりせずに納まる場所を作って、そっとそこに紙袋を仕舞い込んだ。
 やがてやってきた列車に、彼は、軽い足取りで乗り込んだ。先客が不在だった出入口扉の角に居場所を定め、彼は窓から向かいのホームを眺める。そこには、いつもと同じ彼女の姿があった。しかしその姿を見る彼の眼は、いつもとは違う色で満たされていた。
 列車に揺られる彼は、ようやく、自分の緩んだ顔に気付いた。意識して表情を引き締めるが、鞄の中の紙袋は、益々その存在を彼に主張していた。だが彼はそれを大切に鞄の中に仕舞い込んだままとし、帰宅するまで触る事さえしなかった。

 帰宅後、彼は鞄の中からそっとその紙袋を取り出した。改めてまじまじとそれを見る彼。その紙袋は何の変哲もない、彼が良く知る書店のものだった。テープは剥がされ、一度開封した跡がある。恐る恐ると言った様子で紙袋を開けると、中にはよくある大学ノートが入っていた。そっとそれを取り出す彼。紺色の表紙のそれをまじまじと眺めると、僅かに震える様子の指で、彼はその表紙をめくった。
 彼の目に飛び込んできたのは、その七文字。
『アンタ、誰よ。』
 罫線の入った大学ノートの上から三行目に、その文字は記されていた。茫然とするように、暫くの間、その文字から目を離すことが出来ずにいた彼は、気付いたようにパラパラとその後ろの頁をめくった。しかし、彼の表情が変わることはなかった。

 味を感じる余裕もなく夕食を取り、ザッと簡単にシャワーだけで入浴を済ませた彼は、机の上に広げたノートに向かっていた。
「どういう意味なんだろう……」
 朝方の緩んだ彼の表情は既に去り、難題に挑む学者のように、腕を組み、眉間にしわを寄せて、その七文字に対峙していた。顎に手を当てたり、頭を掻いたり、額をポンポンと叩いたり、頭をぐるりと回したり。だが彼の手が、そのノートに向かうことはなかった。

 気づくと彼は、机に向かったままに、うつらうつらと船を漕いでいた。机の上のデジタル時計を確認すると、時刻は午前五時前。彼は大きく深呼吸をする。改めて腕を組んでノートに向かい、瞼をギュッと閉じて口元を引き締める彼。組んだ腕を解き、瞼を開けると、彼はノートの頁を捲った。彼はボールペンを取り出し、もう一度大きく息を吸うと、ゆっくりとそこに文字を書き始めた。


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今日は驚きました。でも、嬉しかったです。ありがとうございます。初めてあなたの声を聞くことが出来ました。初めて、あなたの顔を正面から見ることが出来ました。今日は僕にとって、記念すべき日になりました。
あなたの問いの答えになっているかはわかりませんが、僕の事をもう少し詳しく書きます。
改めまして、僕は、碇シンジです。六月六日生まれの二十八歳です。両親は死別しており、一人暮らしで、他に家族はいません。RSD株式会社というところで、CADのオペレーターの仕事をしています。たぶん、どこにでもいる平凡な人物だと思います。
僕があなたに手紙を書いたのには、もちろん理由があります。いつからか分かりませんが、僕は毎朝、あなたの姿を見ることが楽しみになっていました。時々見れないこともありましたけど、それでも翌日には見ることが出来た。それが変わらない毎日だと思っていました。いや、思い込もうとしていました。
でも先週、あなたは何日も現れませんでした。今更のように、僕は気付いたのです。僕は、あなたの事を何一つ知らない。もしこのまま二度とあなたに会えなかったらと考えると、目の前が真っ暗になりました。僕は、またあなたに会えることを願って、その時には渡すことができるように、手紙を書きました。
その翌日、あなたの姿を向かいのホームで見つけたとき、僕は考えるより先に駆け出していました。すごく緊張して勇気が必要でしたけど、でもあなたに会えなくなることを考えたら、自然と行動することが出来ました。あなたが手紙を受け取ってくれた時、僕は心臓が止まるかと思いました。間違いなく、それまでの僕の人生で一番嬉しかった瞬間でした。
そして、このノートです。あなたの意向が何なのか、僕は一晩中悩みました。悩んだ結果、この文章を書いています。明日、と言うより数時間後に、あなたがこのノートを受け取ってくれることを願いつつ。

十月十六日(火) 碇シンジ

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 翌朝、彼は紙袋を大切に鞄に仕舞い、駅のホームに立っていた。いつものホームではなく、その向かい側、彼女が降りてくるあの階段のすぐ脇で、彼女を待っていた。ちらりちらりと階段の上の方を伺う彼の手は、鞄をしっかりと握りしめ、外気温にそぐわない手汗をかいていた。
 彷徨っていた彼の視線が、ピタリと止まった。彼は慌てて鞄を開け、中からその紙袋を取り出す。彼女の姿を正面から見ることができず、彼の視線は彼女の履いているスニーカーに固定された。そのスニーカーはツカツカと彼に近づき、彼が手にする紙袋をパッと奪うようにする。彼は目を丸くして俯いた顔をパッと上げ、彼女の横顔を思わず見たが、彼女は無関心を装うように、彼には一瞥も与えずに、紙袋を手にしたままに、毎朝の定位置へと向かった。彼は空となった右手を握り締めると、彼女に小さく頭を下げて階段を駆け上がってコンコースを走り、いつものホームへ降りると、彼本来の朝の定位置に向かった。そこから見える彼女の姿は、いつもと寸分変わらないものに、彼には見えた。やがてやってきた列車に彼は乗り、小さくなっていく彼女の姿を車窓から眺めた。彼女の姿が見えなくなっても、彼のその顔は生気に満ちていた。

 その晩、彼女は帰宅後のルーティーンワークを済ませると、机の上においてあった紙袋を手に取った。彼女は椅子に座ると、中から一冊のノートを取り出す。さほど躊躇することもなく、ペラリと彼女はノートを開く。一頁目の自分が書いた七文字を確認し、彼女は次の頁をめくる。そこに記された丁寧な文字列を確認し、彼女は小さく息を吐いた。ノートを手にしたままソファーに座り、彼女はじっくりとそれを読み込む。最後まで読んだ後、もう一度、文頭に戻って反芻するように、彼女はそれに目を通した。読み終えた後で、ふぅと息を吐いた彼女はパタリとノートを閉じ、それを机の上に置いて、キッチンに向かった。
 五分後、彼女はホットココアを手に、机の上に開かれた、そのノートに向かっていた。フムと考えた様子の彼女は、手にした細字のサインペンをノートに走らせる。そこに記された文字を確認した彼女は、腕を組んで小さく頷くと、それをまた紙袋に入れる。机の上に紙袋を置き、それを眺めながら、彼女はココアを口に含んだ。

 翌朝、彼が駅に着いてコンコースへ向かう階段を上がっていくと、彼の視線の先には、彼が予想だにしないその姿があった。そこには、あの彼女が、コンコースの壁に背中を持たれさせて立っていた。彼のその顔はパッと驚きの表情に変化する。ちらりと、彼女の視線が彼の方へ動いた。彼は残りの階段を駆け上がり、速足で彼女の元へ歩む。彼のその姿を確認した彼女は、背中を壁から離して真っ直ぐに立ち、彼の方向へを歩み始めた。彼は顔を緩めて彼女に近づくが、その彼に、彼女は無表情のままにポンと紙袋を手渡すと、彼に視線を投げ掛けるでもなく、そのまま自分が出発するホームへと降りていった。
 彼は力なく口をポカンと開け、目を丸くしたままに立ち尽くす。行き交う人々が、呆然と立ち尽くす彼を、邪魔そうな顔をして避けていく。彼は流れ始めたいつものチャイムにハッと我に返り、慌てて自分のホームへ降りていった。彼は、向かいのホームに見える彼女の姿をじっと見つめ、また、手渡された紙袋を胸に抱き締めるようにする。やがてやってきた列車に乗り込んでも、彼は、彼女のその姿から目を離すことが出来なかった。見えなくなるまでずっと、そして見えなくなっても、彼は彼女の姿を追い続けた。

 その晩、彼は机の前に座り、一日中その存在を忘れることがなかった紙袋を前にして、心拍数の高鳴りを抑えきれずにいた。ある時は彼の口元は緩んでいたが、暫し経つと、その唇は固く結ばれていた。彼の眼もまた、淡い色になったり、暗い色になったりと、くるくるとその色を変えていた。彼は意を決したように、紙袋を開け、中から紺色の表紙の大学ノートを取り出す。ひとつ息を吐いて、彼は頁をめくった。
 昨日、彼が書いた頁の次に、その文字は並んでいた。


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碇シンジさんへ。
わたしの名前は式波・アスカ・ラングレーです。

追伸:ホームでの手渡しは人目を惹くので、明日からは7:37にコンコースの上で。会えなかった時はその時で。

十月十七日(水) 式波・アスカ・ラングレー

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 それを読んだ彼は、暫くの間、動くことが出来なかった。その内容を咀嚼するように、彼の眼は何度もその文字を追いかける。そしてようやく、彼は強張った肩の力を抜き、大きく息を吐いて、椅子に深く背中を預けた。へヘラと次第に頬が緩んでいく彼。もう一度、その文字を最初から最後まで読み返して、彼はそのノートから目を離し、天井を眺める。
「アスカじゃなけいど、やっぱりアスカなんだ……」
 ポツリと、彼は呟く。彼は目を閉じて、肩の力を抜いたように椅子の背もたれに身を預けた。暫くして、彼は思い立ったようにボールペンを握り、ノートに向かい始めた。

 翌朝、彼は午前七時三十分ちょうどに、いつもの駅のコンコースに立っていた。手にはノートが入った紙袋を持ち、彼女が来るであろう方向を、落ち着かない様子でチラチラと見ている。ふと、彼は手にした紙袋を見た。通い袋のようになっているそれは、あちこちにしわが寄り、見るからにやれてきていた。
『そろそろなにか袋を考えたほうがいいかな』
 彼がそう思ったところで、彼の視界に彼女の姿が入ってきた。彼はパッと顔を起こし、歩み寄る彼女の顔を見る。彼女はいつものように顔色ひとつ変えずに一瞬だけ彼をちらりと見て、彼が胸の前に抱えていたその紙袋を、まるで駅前で配っている宣伝のチラシを受け取るかのような仕草で受け取ってクルリと踵を返し、そのまま階段の向こうに消えていった。あっけないその瞬間だったが、彼の眼は大きく輝き、その口元は綻んでいた。

 その夜、彼女はソファーに座り、すっかりやれてきた紙袋の中から、そのノートを取り出した。それを開こうとしたところで、彼女の手が止まった。彼女はソファーに大きく沈み込み、目を閉じて、今朝のことを思い浮かべる。
「ちょっと、素っ気なさすぎるかな」
 まだ湿り気のある髪を左手で掻き上げて、彼女はフン、と鼻を鳴らす。
「僕は碇シンジです、ね」
 彼女の口元が、少し持ち上がった。
 彼女はノートを開き、今日の彼の頁を読み始めた。


――――――――――――――――――――

式波さんへ

今朝は驚きました。まさか待っていてくれるとは思っていませんでした。そしてまたこのノートを手渡してくれるとも、思っていませんでした。僕は今、とても嬉しく思っています。
式波・アスカ・ラングレーさんと言うのですね。なんだか、あなたらしい名前だと思いました。いい名前ですね。
まずは、名前を教えてくれて、ありがとうございます。それだけで僕は、勇気を出した甲斐があったと思いました。かつての僕ならばきっと、あなたの事を遠くから眺めていただけだったと思います。本当に勇気を出して良かった。そう思いました。
今日は嬉し過ぎて、なんだか滅茶苦茶な文章になってしまいました。これを読んで式波さんが引かないか、少し心配しています……。

十月十八日(木) 碇シンジ

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 ゆっくりとそれを読み終えた彼女は、ふぅと小さく息を吐いた。壁の向こうを見るように、彼女は視線を遠くに遣る。
「どうしたいのかしらね」
 もう一度、左手で髪を掻き上げると、彼女はノートを持って机に向かった。同じ細字のサインペンを持ち、今日の一文を書き始める。

 翌朝、土曜日。彼女は昨日までと同じように朝の支度をし、自宅を出た。土曜日の朝の風景は平日とは異なり、行き交う人々もまばらだった。辺りを見渡しながら、彼女は、少しばかり新鮮な気持ちで、駅へ向かった。
 駅に着いた彼女は、定期券を提示して改札を抜ける。するとその先に、階段を登る彼の姿が見えた。彼女は鞄から紙袋を取り出すと、軽い足取りで階段を登り、早足でコンコースの定位置に向かう彼に追いついた。彼女は、紙袋で彼の背中を突付くようにする。
「わっ!」
 必要以上に驚いた声を出した彼に、彼女もまた、目を丸くする。
「あ、なんだ、式波さんか。ごめん、びっくりしちゃった」
 その言葉に、彼女の丸くなった目元に影が差す。
「あ、ごめんなさい。なんだはないですよね。ついうっかりして……」
 そう言って、彼はバツが悪そうに頭を掻く。彼のその表情に、彼女は少し、意表を突かれたような表情になった。だが彼女は、すぐさまいつもの無感情な顔に戻る。
「これ」
 手にした紙袋を差し出す彼女。意図せず、彼女は彼の顔を正面から見る形になった。彼女が見た彼の眼は爛々と輝き、頬は上がり、口元は笑みに満ちている。
「あ、ありがとう」
 しっかりと、大切そうにそれを受け取った彼は、なにかを言いたそうに彼女の顔を見た。だが彼女はその彼の顔から目を背け、一分の隙も見せない様子で歩み去ろうとする。
「あ、あの……!」
 彼のその言葉にも彼女は振り返ることはなかった。その代わりに、左手を軽く上げ、その手のひらを数回、ひらひらと彼に向けて小さく振った。そして彼女は、ホームではなく、改札口の方へと消えていった。コンコースに残された彼は、その姿を火照った顔で見送った。

 彼にノートを手渡したその足で、彼女は改札口を出て、自宅へ向かった。その途中、ふと思いついたように、彼女はコンビニエンスストアに立ち寄ってカフェモカを注文し、その紙カップを手にして通りすがりの公園に足を向けた。毎日横目に見ていたその公園だが、足を踏み入れるのは初めてだった。ぐるりと辺りを見回し、奥の方にベンチを見つけると、そこへ向かって腰を下ろす。手にしていたカフェモカを横に置き、足を伸ばして軽く伸びをする彼女。空を見上げると、今日も青空がその青さを主張していた。昨晩のニュースで、水不足が心配になりそうだと言っていたなと、彼女はふと思い出した。公園の中央では、十人足らずのお年寄りが、集まって太極拳をやっていた。彼女の少し先では、数羽の野鳩が首をカクカクと前後に振りながら歩いている。極めて平穏な、日常の朝の光景がそこにあった。
 彼女はカフェモカを手に取り、それを一口味わった。その甘さが口の中いっぱいに広がっていく。彼女のその眼は遠くを眺めているようで、どこにも焦点が合っていない、ボンヤリとした蒼い光を湛えていた。その彼女の瞳には、目の前の光景は映っていなかった。
「わたしも……物好きよね」
 彼女はポツリと呟く。その声は誰にも聞かれること無く、静かな公園の空気に溶けていく。一口、また一口と、彼女はカフェモカを口に運ぶ。その甘さに釣られるように、彼女の表情も、僅かばかりに解れていった。
 カフェモカを飲み干した彼女は、もう暫く朝の公園の空気を吸ったあとで、そこを後にした。
 帰宅した彼女は、そのままベッドに倒れ込んだ。ごろりと身を返して、大の字に横たわる彼女。
「まったく、なにやってんだか」
 自嘲するようなその口振りに、彼女は思わず口元を緩ませた。

 彼女からノートを受け取った彼は、彼女を見送った後、暫くコンコースから眼下の光景を眺めていた。今日は土曜日、列車のダイヤも若干違う。彼女が毎日乗車する路線の列車は、平日より数分遅れて到着し、出発していった。彼女が乗り込む姿は、やはりそこにはなかった。
「もしかして……わざわざ届けてくれたのかな」
 その列車を見送った彼は、改札口の方へ消えていった彼女の後姿を思い、自然とそう口にした。その後姿に、彼の顔は緩んでしまう。彼はもう少し、その場でその後姿を思い出していた。
 彼はそのまま帰宅した。その後、彼は朝の彼女の姿を思い浮かべながら、そのノートを手にしていた。少し驚いた彼女の顔、そしてムッとしたような彼女の顔。今の彼にはその表情は新鮮で、知れず、あの頃のことを思い浮かべてしまい、彼の口元は自然に緩んでいく。机に向かった彼は、そのノートを開き、パラパラと頁を捲る。そこにあった、彼女の文字を彼は見つめる。


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碇さんへ
あなた、ちょっと変わってますね。

十月十九日(金) 式波・アスカ・ラングレー

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 翌朝、彼はいつもの駅のコンコースにいた。時刻は午前七時半。ノートが入った鞄を手に、まばらに行き交う人々をぼんやりと眺めている。今日も良い天気だが、気温は幾分下がり、少しばかり肌寒さを感じる朝となっていた。
 十分ほど経ったが、彼の待ち人は現れなかった。そのまま彼は、来るとも知れない彼女を待つ。更に十分、彼はそのまま、彼女を待った。今日の彼はさほどソワソワする様子もなく、空と線路を交互に眺めながら、ただ彼女を待っていた。
 気付くと時刻は八時を回っていた。彼は彼女の姿を探すことはなく、何かを想うような表情で、その場に立っていた。それから更に十分ほどが経ち、彼はひとつ、大きく息を吐いた。
「帰ろうか」
 ボソリとそう呟いた彼は、右手に持った鞄を左手に握り直して、コンコースの階段を降りていく。彼は駅の待合室で缶コーヒーを買うと、手近な席へ腰を下ろし、行き交う人々を眺めながら、コーヒーをすすった。暖かいコーヒーが、彼の喉を通っていく。
「やっぱり、あまり美味しくないんだよな」
 そう呟きながらも、グイッとそれを飲み干す彼。空になった缶をごみ箱に捨てると、駅を後にして歩き始めた。その足取りは、ゆっくりとしたものではあったがフラフラするものではなく、しっかり前に進めるものだった。
 その夜、彼は昨日書いた、自分の文章を読み返していた。


――――――――――――――――――――

式波さんへ
まず、今日は顔を見ることができて、嬉しかったです。今日は土曜日ですし、会えるとは思っていませんでした。もしかしてと僅かばかりの希望を持って朝は駅に行きましたが、本当にまさかでした。
そして、「なんだ」などと言ってしまい、ごめんなさい。あの時はちょっと、僕の意識はおかしな方に飛んでしまっていたようです。本当に「なんだ」はないですよね。ごめんなさい。
そして、お返事、と言っていいのかわかりませんけれど、ありがとうございます。
そうですね、僕は少し、変わっているかもしれません。こんな僕に纏わりつかれて式波さんは迷惑じゃないかと、いつも心配しています。もし、迷惑に感じるのならば、言ってください。二度と式波さんの前に現れないことを約束します。
……これを書いていて、少し震えてきてしまいました。嫌な予感が頭をよぎってしまいました。その予感が当たらないことを願って、今日は終わりたいと思います。
明日は日曜日ですね。僕は明日も駅に行く予定ですが、なぜか、明日は式波さんに会えないような気がしています。でも、それもいいかな、と思っています

十月二十日(土) 碇シンジ

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「なんとなく、そんな気がしてたんだよな」
 読み返しながら、彼は苦笑いを浮かべる。手にしたボールペンをクルリと回し、彼は、次の頁に今日の文章を書き始めた。

 その頃、彼女は浴槽で足を伸ばし、今朝のことを思い出していた。その浴槽はしっかりと足が伸ばせるほどに広く、それが気に入って彼女はこの賃貸マンションを契約したのだった。彼女はいつものように起き、時計を見ながら、いつものように身支度をした。しかし、彼女の足が駅に向かうことは、終ぞなかった。
「あいつ、どうしたかな」
 彼が駅で自分を待っている姿を、彼女は想い浮かべた。いつものように、ソワソワとした様子で、来ない自分を待っていたのかもしれない。きっと諦めきれず、ずっとそこで立っていたのだろう。彼女の表情が僅かに曇った。下唇を軽く噛み、浴槽の天井を彼女は見上げる。
「バッカみたい」
 その言葉は浴室内で反響し、彼女に降り注いだ。








三.SPARK





 翌朝は、久しぶりにどんよりとした空だった。彼女は窓からチラリと空に目をやり、少し迷った末に傘を手にして、編上げのショートブーツを履いて家を出た。いつものように駅の階段を上がると、そこには、当たり前のように彼の姿があった。彼は彼女の姿を認めると、にこやかな笑顔を見せる。その笑顔に彼女は、ひとつふたつと大きく瞬きをした。
「おはよう」
 近づいてきた彼女に、彼はそう言いながら、右手に持ったベージュ色の封筒を差し出した。彼女は目をパチクリとし、少し戸惑った様子を見せる。
「あの袋、ボロボロになってきたから、この封筒に入れたんだ。いいよね?」
 そう言って彼が差し出した封筒は、しっかりとしたマチ付きの封筒で、ご丁寧に封をするための玉紐まで付いている。
「あ、うん、ありがと……」
 ニコニコと笑いながらその封筒を差し出す彼に、彼女はどこかギクシャクとした様子で、それを受け取った。彼女にそれを手渡した彼は、頬を緩め、目尻を下げる。その顔を見て彼女はまた、僅かばかりの上目遣いに彼を見た。
「じゃ」
 そう言い残した彼は、踵を返して自分のホームへと向かう。彼女は手渡された封筒をギュッと握り、彼の姿を見送った後で、我に返ったように靴音を響かせて階段を駆け下りて、自分のホームに向かった。向かいのホームには既に列車が到着しており、窓際に立つ彼の姿が見えた。彼を追う彼女の視線に彼は気づき、小さく手を振った。彼女はハッとした表情になり、その視線を彼から外す。彼女の視界の隅から、直にその列車は消えていった。

 彼女はその日、どうにも調子外れな一日だった。小さなミスを犯したり、昼食時に初めて入った定食屋が外れだったりした。リズムが合わないことを自覚しながら一日を終え、列車から降りて駅を出たところで、雨が降り出した。手にしていた傘を開き、鞄が濡れないように気を払いながら、駅から十分余りの道のりを、彼女は急いだ。
 家についた彼女は、傘を畳み、体に付いた水滴を軽く払ってから、部屋に入った。鞄の中からそっとベージュ色の封筒を取り出し、まじまじとそれを見る。
『わざわざ買ってきたのかな』
 今朝の彼の笑顔を思い浮かべた彼女は、その笑顔にその疑問を被せた。彼女はまた窓の向こうを見るようにして、その想いをそこに浮かべる。
「あいつ、あんな顔もするんだ」
 彼女は手にした封筒を、そっと胸に合わせる。そこになにかを仕舞いこむかのように。
 パジャマ姿で風呂から上がってきた彼女は、ソファーの前のテーブルに置かれた封筒を手に取ってソファーに腰を沈めた。玉紐を解き、中からいつもの大学ノートを取り出す。封筒をテーブルに置き、ノートをパラパラと開くと、そこには二日分の彼の文章があった。彼女はまず、金曜日の自分の短い文章を読み、次の頁に記された彼の文章を読み始める。無表情に読み始めた彼女だったが、次第にその眉は、ピクリと上がったり、スッと下がったりと、彼女の心境を伝えるように動いた。一度読み終えた彼女は、文章の中盤まで戻ると、そこからまた目を走らせる。

「それなりの覚悟は持っているってことね」
 彼女は何かを意識するように、手にしたノートを胸の前で合わせた。少しばかり強張っていた彼女の頬が、スッと和らいでいく。そして彼女は、次の頁に目を運ぶ。


――――――――――――――――――――

二日続けて書くのは初めてです。今日は式波さんに会えませんでした。何故だかはわかりませんが、なんとなく、そうなる気がしていました。だから、あまり残念には思いませんでした。もちろん、ちょっとは残念ですけれど。
今日も僕は、駅に行きました。来ないかな、と思っていた式波さんを、コンコースで待っていました。今日の僕は落ち着いていて、なんだか、待っている間も悪い気分ではありませんでした。どうしてでしょうね。
このノートを入れていた紙袋がボロボロになってきたので、買い物のついでに封筒を買ってきました。割としっかりしているので、暫くは使えると思います。ダメじゃ、ないですよね?ちょっとだけ心配です。
今日は、久しぶりに自炊をしました。いつもは出来合いのお弁当や総菜で済ませることが多いのですが、なんだかそういう気分になりました。本当に久しぶりに作ったのですが、我ながら結構美味しく出来たと思います。ちなみに、ハンバーグ定食のようなものをつくりました。ひとりぶんだと多いので、残りは冷凍にして、また後で食べるつもりです。
余計なことを書いてしまったかもしれません。月曜日の朝、また式波さんにこのノートを手渡せることを願って、今日は終わりにします。

十月二十一日(日) 碇シンジ

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 読み終えた彼女は、ホッと小さく息をついた。今日一日中消えることがなかった、彼の笑み。フワフワと彼女に纏わりついていたそれは今、スッと彼女の中に落ち着いていった。
「久しぶりに、ね」
 彼女はまた、窓の向こうに視線を投げるようにする。
「明日、どうしようかな」
 彼女は僅かに眉間にしわを寄せ、口元を手で押さえるようにした。暫くそのまま宛もない空間に視線を投げていた彼女は、思いついたように立ち上がって机に向かう。そうして、いつもの細字のサインペンを手にしてノートの頁を捲り、いつものように短い文章をそこに認(したた)めた。

 翌朝。昨晩から降り続いている雨は上がることなく、彼女はレインブーツを履いて駅への道程を歩いていた。やがて駅が間近になると、彼女は意識して口元をキュッと結び、傘を閉じてバサバサと水滴を払ってから、駅の中へ入っていった。いつものように、コンコースに向かう階段を登る彼女。改めて顔に力を入れて階段を登りきると、そこに見えるはずの彼の姿は、今日は見当たらなかった。ハァ、とため息を吐く彼女。左手の赤い腕時計を見ると、時刻は午前七時三十二分だった。彼女はコンコースの壁を背に、軽くそれにもたれかかって彼を待つ。
 やがて、彼の乗るはずの列車の到着を知らせるチャイムが聞こえてきた。しかし、彼はまだ現れなかった。彼女はそのまま、そこで待つ。列車がやってきて、そしてそれが出発しても、彼は現れなかった。彼女は表情を変えないままに、走り去っていく列車を見送る。数分後、彼女が乗る列車の到着を知らせるチャイムが流れた。彼女はフンと軽く鼻を鳴らすと、いつもの列車に乗るために、階段を降りていった。
 その夜、彼女は開いたノートに向かって腕を組んでいた。
「ま、たまにはそういうことだってあるわよね」
 その言葉とともに、彼女はウンと頷く。彼女は昨日書いた自分の文字に目を遣った。


――――――――――――――――――――

迷惑な人物を相手にする人は、きっと聖人なんでしょうね。

十月二十二日(月) 式波・アスカ・ラングレー

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「持って帰ってきちゃうのは予定外だったわね」
 天井を見上げた彼女は、視線を宙に彷徨わせる。そのまま暫く天井を睨んでいた彼女は、指を組んだ手を前に突き出して伸びをしたあとで、いつもの細字のサインペンを手にして、次の頁にペン先を走らせた。


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今日は初めて会えませんでしたね。

十月二十三日(火) 式波・アスカ・ラングレー

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 その翌晩。彼女はまた、机の上に広げられたノートに向かっていた。今朝も現れなかった彼の姿を、彼女はそのノートの向こうに見ていた。
「ま、忙しいことだってあるわよね。出張とかあるかもしれないし」
 ふと、彼女は思い出したように、机の上の引き出しを開けた。そこにあった、彼からの手紙を彼女は手に取る。封筒裏側に記された差出人の名前をじっと見て、中から便箋を取り出し、彼女はそれを広げた。確認するように、それを読み返す彼女。その表情は軽く強張ったようであった。
「その時は……」
 ボソリと呟いて、彼女はまた便箋を封筒に戻し、それを引き出しに仕舞い込んだ。そしてその手で、ノートを最初から捲る。
「僕は、あなたの事を何一つ知らない、か」
 彼女の視線は、彼のその文字を中心に、ふわふわと浮遊した。そして彼女は、昨日の頁の次に、今日の文を書き始めた。


――――――――――――――――――――

忙しいのでしょうね。大丈夫ですか。

十月二十四日(水) 式波・アスカ・ラングレー

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 そう書いた彼女は、気付いたように呟く。
「なにが大丈夫、なのかしらね」
 それをじっと見て、彼女は少し、眉をひそめた。上の方を向いて手にしたサインペンをフルフルと振ると、彼女はそのまま、ノートを閉じた。テーブルの上に置かれた封筒にそれを入れ、玉紐を括って封をする。そのままテーブルの上に封筒を置き、腕を組んでをそれを暫し眺める彼女。フッと小さく鼻息を鳴らして、彼女はそれに背を向けた。

 さらに翌日、木曜日の朝。鞄に入れた封筒の存在を意識しながら、彼女は駅の階段を登っていた。その先に、彼の姿は、今日もなかった。
『これで三日目か』
 彼女は鞄の中の封筒を想いながら、列車に揺られていた。
『あいつは、わたしのことを何も知らない。連絡したくても、その方法さえない』
 彼女の脳裏に浮かぶのは、彼が手にした白い封筒と、その時の彼の姿。
『あいつ、よくあんなことができたわね』
 改めてその時のことを思い、彼女の碧眼は宛もなく宙を舞った。
 不意に、彼女の鞄の中のスマートフォンが振動した。バイブモードにしてあったそれは、何者からの着信を示している。画面を見ると、それは非通知設定からの着信だった。彼女は反射的にその着信を切る。ふと彼女は、切れた着信の画面を眺める。画面のロックを解き、着信履歴を確認する彼女。その非通知設定の着信はそれ一回だけであり、その後、その着信が繰り返されることはなかった。しかしそれは、一日中、彼女の頭に纏わりつくこととなった。
 帰宅後彼女は、三日連続で机に向かっていた。そのノートを広げ、昨日、一昨日の自分の頁を確認する。ふう、と息を吐く彼女。そしていつもの細字サインペンを手に取り、新しいページに向かう。


――――――――――――――――――――

もしかすると、

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 そこまで書いて、彼女の手はピタリ止まった。彼女の眼は、その七文字から動かない。その指先も、ピクリとも動かない。凍りついたように動きを止めた彼女は、スイッチが入ったロボットのように、クキリとその首を持ち上げた。壁と天井の境目あたりを、じっと見ているような彼女。その瞳には、現の映像は映っていない。
 彼女はサインペンを置き、そのノートを最初から捲る。彼の几帳面な文字をじっくりと読み直した彼女は、硬い表情を変えぬままに呟く。
「わたしだって、あなたのこと、何も知らないわよ」
 彼女は引き出しを開け、そこにある白い封筒をじっと見つめた。それに手を伸ばそうとするが、その手はピクリと止まり、彼女は静かに、その引き出しを閉じた。彼女はまたサインペンを手に取って、ノートに向かった。

 翌朝、冷え込んだ空気に、彼女は身を震わせて目覚めた。
「寒い……」
 小さく布団にくるまっていた自分を確認して、彼女はポツリと呟く。
「もう、冬物にしないとダメかしらね」
 時刻は午前六時少し前。少しばかり呆けた顔で洗面所に向かい、バシャバシャと顔を洗った彼女は、ふと気付いたように髪をタオルで巻き、パジャマを脱いで背後の浴室に入っていった。冷えた体を暖めるように、熱いシャワーを浴びる彼女。暫くしてバスタオル姿でベッドルームに戻った彼女は、新しい下着を身に付け、今日の身支度を整えた。
 家を出ると、久し振りの快晴の太陽が彼女を待っていた。彼女は一時足を止めて空を見上げる。朝方は冷え込んでいるが、日中は気温が上がりそうな空だった。フゥと小さく息を吐いた彼女は、いつもの道を駅に向かって歩き始めた。
 十分少々の後、駅の階段を登った彼女の視線の先には、ソワソワとした様子の彼が、彼女を待っていた。彼女の姿を認めた彼の顔が、ぱぁっと明るく変化する。対する彼女は、一瞬だけ口元をフッと緩めるが、すぐに口元を真一文字に結んで彼の立つ先へ歩む。
「ご、ごめんね。三日も来れなくて。火曜日から昨日まで急に出張が入っちゃって……」
 喜び半分、申し訳なさ半分といった表情の彼は、彼女の顔を見て後ろ頭を掻く。
「連絡のしようも無かったし……」
 そして彼の視線は、彼女から地面の方へ落ちていく。彼女はその彼の様子を見て、はぁとため息交じりに口元を和らげた。
「別に謝る事じゃないでしょ。会えなかったらその時って言ったのはわたしなんだし」
 彼女のその言葉に、彼の視線は彼女へ戻る。
「でも……」
「はい、コレ」
 彼の言葉を遮るように、彼女は鞄から取り出した封筒を彼に押し付けるように渡した。
「言っておくけど、別に約束じゃないからね。ここには偶々あなたがいて、わたしがいる。それだけよ」
 そこまで言うと、彼女はクルリと彼に背を向けて、自分のホームへと向かっていった。その姿を見送った彼は、手渡された封筒を握り締めて暫く呆けたのちに、慌てて自分のホームへ降りて行った。列車に飛び乗るようにする彼。車窓から向かいのホームを覗く彼の目に映ったのは、携帯ゲーム機に向かう、彼女のいつもの姿だった。

 その晩、彼は冷凍しておいたハンバーグで夕食を摂り、風呂に入って汗を流したところで、改めて鞄の中からその封筒を取り出した。その中身は一日中彼を誘惑したが、落ち着いてしっかりと読みたい気持ちが勝った。机に向かい、封筒を開けて、大学ノートを取り出す彼。最初からパラパラと頁を捲り、自分が書いた日曜日の頁に目を通した後で、月曜日の彼女の文章に目を遣った。


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迷惑な人物を相手にする人は、きっと聖人なんでしょうね。

十月二十二日(月) 式波・アスカ・ラングレー

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 いつものように、一行だけの彼女の文章。それを読んだ彼は眉根を寄せて、口元に手を運ぶ。
「どういう意味なんだろう……」
 彼の視線は、その右ページの翌日の文章に移っていく。


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今日は初めて会えませんでしたね。

十月二十三日(火) 式波・アスカ・ラングレー

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 そして頁を捲り、翌日の文章へ。


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忙しいのでしょうね。大丈夫ですか。

十月二十四日(水) 式波・アスカ・ラングレー

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 最後の昨日の文章。そこにはこう記されていた。


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もしかすると、これきり会えないかもしれませんね。

十月二十五日(木) 式波・アスカ・ラングレー

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 そこまで読んだ彼は、ふうと大きく息を吐いて、椅子の背もたれに背中を預けた。ダラリと力を抜いて天井を見上げる彼。
「ギリギリだった、かな……」
 今朝の彼女の表情が彼の脳裏に甦った。目が合った彼女の顔は、一瞬だけスッと変化したように、彼には見えた。だがすぐさまいつもの無表情な彼女に戻り、この封筒を押し付けるようにして、彼に背を向けた。彼は何度も、その一部始終を脳裏で再生する。
「でも、持ってきてくれたんだ」
 彼の口元は、それを反芻するように緩んだ。
「会う意思があると思うのは、自惚れなのかな……」
 そのまま暫く、彼は天井を眺めたままだった。その視線は天井を突き抜けて、その向こうの物を探すかのようだった。
 彼はボールペンを手に取り、頁を捲って書き始めた。







四.優しさ





 翌日、土曜日。彼は先週と同じく、駅へ向かった。仕事ではない。彼女を待つためだ。昨日に引き続き、天気は上々だった。それ故に少々冷え込み、少し厚手のフリースジャケットを着こんだ彼は、背中を少し丸めるようにして、速足で駅への道のりを歩いていた。
 時刻は午前七時二十八分。いつもの場所に、彼は到着した。誰もいないそこは、彼のためにその場を用意してあったかのようだった。彼は壁越しに眼下の線路とホームをぐるりと眺め、身を返してその壁にもたれかかって、彼女を待った。彼女を待つその間、彼の瞼に浮かんだのは、昨日の彼女の一瞬の表情と、ノートに書かれた文章だった。
『自惚れじゃなく、僕に会う意思はあるんだと、思う』
 彼は視線を地面に落とす。
「僕は、一体どうしたいんだ?」
 その言葉は彼の口からつるりと出て、辺りをフラフラと漂った。その見えない言葉を見つめるように、彼の視線は宙を彷徨う。
 コツコツと階段を登る足音が聞こえてきた。右に首を回してその音を追った彼の眼には、彼女の金髪が入ってきた。そしてすぐに彼女の碧眼が。彼女はブーツの足音を響かせて、彼の元へ歩み寄る。
「おはよ」
 歩きながら開口一番、表情を変えずに彼女はそう言った。彼は目をぱちくりして言葉を失う。
「おはよ」
 彼のすぐ傍まで歩み寄った彼女は、足を止めてもう一度、その言葉を言う。あたりまえの挨拶の様に。
「お、おはよう……」
 やっとのことで、彼はその一言を絞り出した。
「はい」
 これまたあたりまえの様に、彼女は彼に手を差し出した。彼は慌てて鞄から封筒を取り出し、彼女にそれを手渡す。それを受け取った彼女は、「じゃ」と一言だけ残して、踵を返す。そのまま歩み去ろうとする彼女。
「ちょ、ちょっと待って!」
 慌てた彼のその言葉に、彼女は歩み始めたその足を止めた。
「……なに」
 振り返ることもなく、背中越しに応える彼女。
「あ、えっと……」
 彼は言葉に詰まる。
「用が無いのなら帰るわよ」
 彼女は僅かに顔を振って、視線を動かす。
「あ、うん、えっと、ちょっと時間、あるかな……」
 彼女の背中を見て、そこに彼は言葉を投げ掛けた。その視線は背中に流れる彼女の金髪を追ってその頭に向かい、そして戸惑うように足元に移動する。彼女は立ち止まったまま、無言を貫く。彼女の視線は階段の向こうにある看板に向かっているが、彼女の網膜にはその看板は映っていない。
「ダメならいいけど……」
 彼女はひとつ、肩で溜息を吐くと、振り返らないままに背中の向こうの彼に言う。
「……こんな朝じゃ、やってる店も無いでしょ」
「待合室じゃ……だめ?」
「待合室、ねぇ。色気も何もないわね。まぁいいけど」
「ほ、ホント!? ありがとう!」
 肩をすくめて歩き出す彼女。彼は慌ててその背中を追う。

「どっちがいい?」
 彼は右手に缶コーヒー、左手に緑茶のペットボトルを持ち、待合室の片隅に座った彼女にそれを差し出した。
「じゃ、こっち」
 緑茶を受け取った彼女は、キリリと封を切って、「頂きます」と小さく言ってからコクコクと二口、それを喉に通した。それを横目に眺めた彼は、缶コーヒーを開け、同じように二口、それを喉に流し込む。少しの間が空く。
「で、何の用?」
 少々つっけんどんな彼女の言葉にも構わず、彼は握り締めた缶コーヒーを見つめて言う。
「あ、うん……まずは謝りたいと思って」
「なにを」
 彼女は変わらず、彼の顔を見ずに、組んだ足をプラプラさせる。
「人前でいきなり声を掛けたこと。ごめんなさい。あの時の僕は必至で、回りを見ている余裕が無かった」
 彼は彼女の顔を横目でチラリと見て、そしてまたコーヒー缶に視線を戻した。対して、彼女は興味の無さそうな口ぶりで「ふーん」と返す。
「驚いたでしょ?」
「別に。変なナンパ野郎が来たと思っただけよ」
「ははは、ナンパ野郎か。そう思われても仕方ないか」
 淡々と答える彼女に、彼は缶コーヒーの黒いラベルを見ながら、苦笑いを返す。
「ナンパ以外の何ものでもないでしょ」
「うん……そう言われればそうですよね。ごめんなさい」
 彼は彼女の方に向き直って、ぺこりと頭を下げる。
「はぁ、あなたってやっぱり変な人ね。ナンパを謝る人なんて聞いたことないわよ」
 やや呆れたような口調で言った彼女は、そこで初めて、チラリと彼の横顔を見た。
「うん、でも、僕は自分に言い訳しないと決めたから」
「ふーん、それがナンパの理由?」
「ははは、それを言われると言葉が無いです」
 彼は肩をすくめて、手にしたままの缶コーヒーにまた視線を戻した。
 再び、少しの間が空く。彼はまた、ちらりと彼女の横顔を見た。彼女は気づかないふりをするように、その視線を受け流す。
「あの、さ」
 少しばかり口籠りながら、彼は待合室の床を見ながら口を開く。
「どうして、ノートを渡してくれた、んですか?」
「さあ、どうしてかしらね。あなたはどう思うの?」
 淡々と、彼女は答える。
「……わからない。式波さんがどういうつもりなのか、今でもわからない。あの日は一晩中悩んでいて、結局寝られなかった」
「それは申し訳なかったわね。じゃ、もうやめようか」
「そ、それはいやだ」
 彼は血相を変えて彼女の顔を見る。彼女は変わらず組んだ足をフラフラとさせながら、通り過ぎていく人の姿を無表情に眺めていた。一拍をおいて、彼女は口を開く。
「ふーん、ならいいじゃない。約束はしない。束縛もしない。それでいいでしょ」
 彼女のその言葉に、肩に力を入れていた彼はストンと脱力し、また目の前の床に視線を落とす。
「うん……でも」
「でも、なによ」
「式波さんに、迷惑を掛けているんじゃないかって……」
 彼女は大きくため息を吐く。
「わたしを聖人か何かと思っているわけ? それほど暇じゃないのよ、わたしだって」
「ご、ごめん」
 彼のその言葉に、彼女は何かを言いたそうな顔つきになったが、彼女はその言葉を飲み込んだ。
「まあいいわ。用はそれだけ? じゃ、帰るから」
 彼女はすっくと立ち上がり、ふっと視線を彼の頭に振った。彼はそれに気付いたかのように顔を上げる。ふたりの視線が初めて交錯する。
「……明日は来ないわよ」
「うん、わかった。約束じゃない、からね」
 彼のその言葉に、彼女は僅かに口元を緩めた。彼女は身を返して、ブーツの足音を響かせて去っていく。彼は黙ってその姿を見送った。
 彼女の背中が見えなくなって、彼はまた、手にしたコーヒー缶に目を遣った。まだ半分ほどが残っているそれは、人肌までに温度が下がっていた。ゴクリとそれを飲み干す彼。
「聖人、か」
 柔らかだった彼の表情は、暫くして、硬いものものに変わっていく。
「僕は、どうしたいんだ?」

 彼と別れた彼女は、少しだけ遠回りをして帰宅した。時刻は午前九時前。
「まったく、いい朝の散歩よね」
 自嘲するように笑みを浮かべた彼女は、小脇に抱えるように持ち歩いていたトートバッグから、その封筒を取り出した。それに軽く視線を送り、テーブルの上にスッと置く。そしてまたトートバッグを開け、中から緑茶のペットボトルを取り出した。じっとそれを見つめる彼女。既に空になっているそれを、彼女はまた、テーブルの上に置いた。テーブルの上のふたつを交互に見るようにした彼女は、軽く息を吐いたあとに、ベッドルームに向かった。少しして、緩いコットンパンツにパーカーというリラックスした服装に着替えた彼女は、先程テーブルの上に置いた封筒を手に取り、玉紐を解いて中からそのノートを取り出した。ソファーに深く腰を沈め、パラパラと頁を捲る彼女。自分が書いた三日分の文章を確認して、頁を彼女は捲る。


――――――――――――――――――――

式波さんへ
三日間、行けずにごめんなさい。こう言うと式波さんは、約束じゃないでしょと言うと思いますが、でもやっぱりごめんなさいと言いたいです。急に出張が入ってしまいました。なんとかして連絡したいと思いましたが、その手段はありませんでした。僕と式波さんはそういう関係ですし、ごめんなさいというのもおかしいと思うのですが、やっぱりごめんなさいと言わせてください。
何故ならば、このノートを読んで、式波さんが三日間あの場所へ来てくれていたことがわかったからです。僕は嬉しかった。だから、申し訳ない気持ちにもなりました。
だからといって、式波さんの連絡先を教えて下さい、とは言いません。それは、なんだか違う気がするのです。もちろん、知りたくないわけではないのですが、そういうこととは違うのかな、と思うのです。
ごめんなさい、何を書いているのか、わからなくなってきました。
今日の文章は、特別おかしなものになっているかもしれません。でも、今の僕の正直な気持ちなので、そのままに書きました。
最後に。また式波さんに会うことが出来て、とても嬉しかったです。

十月二十六日(金) 碇シンジ

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「正直な気持ち、か」
 頁の最後まで文字を追った彼女は、思わず口に出した。
「ホントに、どうしたいのかしらね」
 彼女はパタンとノートを閉じて、テーブルの上にある封筒の上にそれを重ねて置いた。そうして彼女はころりとソファーに倒れ込み、テーブルの上のペットボトルをボンヤリと見た。緑色のラベル地に印刷された漢字の商品ロゴを、彼女は見つめる。彼女の碧眼は、そのペットボトルの向こうを見るように、ふんわりと焦点を結んでいた。彼女はぽそりと呟く。
「わたしも、同じね」

 ピクリと、彼女は自分の身震いで目覚めた。反射的に時計を見ると、それは午後一時過ぎを指していた。
「随分寝ちゃったわね」
 彼女は無造作に頭を掻くと、生欠伸をひとつ。
「ま、いっか」
 誰が聞くでもないその言葉をあとに、彼女はキッチンに向かった。数分後、彼女は赤いマグカップを右手に、二個のロールパンを載せた皿を左手にリビングに戻ってくる。彼女はロールパンを噛りながら、テーブルの上のノートをじっと見た。二個目のロールパンを手にした彼女は、そのまま暫く表情を固める。ロールパンをマグカップのココアで流し込むようにした彼女は、ソファーを立ち、皿を持ってキッチンに向かう。ざっと皿と手を洗い、またリビングに戻ってくると、テーブルの上のマグカップとノートを手にして、部屋の片隅の机に向かう。マグカップを口にして、コクリとココアを飲み込む彼女。チョコレート色の輪が、マグカップの内側に残った。
 机の奥のペン立て代わりのマグカップからいつもの細字のサインペンを手にした彼女は、天井を見上げてペンをふらふらと揺らす。暫くそのままでいた彼女は、スッと面を天井から降ろし、目の前のノートに向かって頁を開く。最初から一頁ずつそこにある文字を追いながら、ゆっくりと頁をめくっていく。最後の頁に辿り着き、しっかりとそれを読み直した彼女は、ふぅと小さく息を吐いた。改めてサインペンを握り直し、彼の文章の右頁に、ペンを走らせた。


――――――――――――――――――――

貴方が言うように謝る必要はないですが、でも、あなたの気持ちも少しはわかるような気がします。
追伸。お茶、ご馳走様でした。

十月二十七日(土) 式波・アスカ・ラングレー

――――――――――――――――――――


 翌朝、彼はいつものように、駅のコンコースにいた。壁にもたれかかり、向こうに見える雲をぼんやりと眺めている。買ったばかりのフライトジャケットのポケットに両手を突っ込み、あてもなく視線を宙に向けていた。ふと気づいたように、彼は視線を切って足元に目を向けた。ジャケットと一緒に買った真新しいスニーカーの紐の結び目が気になった彼は、しゃがみ込んでそれを結び直そうと思う。一度紐を解いて、くるりと指先で結び直そうとしていると、彼の視界に黒いレザースニーカーが入ってきた。彼は靴紐をキュッと引っ張ると、その足元から膝、腰、胸、その顔と、その姿を順に見上げるように視線を運ぶ。
「なにしてるの」
 彼女の開口一番は、それだった。
「なにって……靴紐を結び直していたんだけど」
 スッと立ち上がってそう答えた彼に、彼女はあからさまに呆れ顔になる。
「そうじゃなくて。なんでここにいるのかってことよ」
「あ、そっち? うーん、なんとなく、かな」
「なんとなく?」
 彼女は眉を寄せて、口元をムッと結ぶ。
「うん。式波さんに会えるような気がしたから」
 僅かに目尻を下げ、とぼけたように言う彼に、彼女はフンと息を吐く。
「……来ないって言ったでしょ」
「うん、だから、なんとなく」
 彼はそうして、口元を緩めた。その彼の顔を見て、彼女は、また一つ大きく息を吐く。
「はぁ、あなたってホントに変わってるわね」
「そうかも。でも、式波さんはどうして?」
 呆れ顔の彼女にも動じず、彼は、目の前の彼女に小さく笑いかける。
「……なんとなくよ。なんとなく、あなたがいるような気がしたから」
「え?」
 彼はピクリと硬直して、口をポカリと開く。彼の眼も、彼女の顔から動かない。
「ちょうど散歩したかったしね。ついでよ、ついで」
 彼のその顔を受け流すように、彼女はツイと横を向いて、行き交う見知らぬ人に目を遣った。彼はその彼女に言葉を掛けることができず、その横顔を呆けたように見つめる。彼女は彼の視線を感じつつも、それに構わず、肩に掛けたバッグを開けてそれを取り出した。
「はい、これ」
 いつものように、淡々と、作業のようにその封筒を彼に手渡す彼女。
「あ、ありがとう」
 対して彼は、少しギクシャクしながら、それを受け取る。それを手に取った彼を確認してから、彼女はバッグを肩に掛けた。
「じゃ」
「あ、ちょっと!」
 踵を返そうとした彼女に、彼は弾かれたように言葉を発した。
「なに」
「ちょっと、話がしたいです」
 彼女の足はそこに留まり、彼の次の言葉を待っているようだった。
「急ぎの用があるのなら、しかたないですけど……」
 彼のその言葉に、彼女は息を吸って肩をしゃくる。
「散歩中って言ったでしょ」
「う、うん」
「また待合室?」
「うん、ごめん」
「まぁいいけど」
 彼女は彼に背を向けたままに、歩き始めた。数歩遅れて、彼も彼女の後を追う。

 はい、と緑茶のペットボトルを差し出す彼。彼女は「ありがと」とそれを受け取る。待合室の隅でふたりは並んで座る。
「で、なに」
「えーっと」
 変わらず彼を見ないままで突き放すように言った彼女に、彼は頬をかきながら、視線を斜め上の方に彷徨わせる。
「用があったんでしょ」
「う、うん」
「なによ」
「えっと、その」
 要領を得ない彼の言葉に、彼女の口元はピクリと持ち上がった。
「なによ、はっきりしなさいよ」
 少し語気を強めた彼女の言葉に、彼はちらりと横目で彼女の表情を伺う。
「う、うん。式波さんと話がしたい、それが用だ、って言ったら怒るかな……」
「はぁ?」
 彼女は思わず、彼の方に向き直った。そこには、肩を小さくして眉を下げ、少しの上目遣いに彼女を見る、彼の顔があった。彼女の蒼い目が彼の瞳を捉える。
「ごめん、特に話題があるわけじゃないんだ。でも式波さんと話がしたかった。それだけが理由」
「あなたねぇ……」
「ごめんなさい」
 肩を更にすぼめて小さくなる彼。既に彼女の顔を見ることもできず、彼の視線は足元をチラチラと動く。ふぅと、彼女はわざとらしくも見える大きなため息を吐く。
「まぁいいわ。暇つぶしに付き合ってあげる」
「ほ、ほんと? ありがとう」
 彼はパッと面を上げ、右隣の彼女の横顔をじっと見た。彼女は既に彼の方を向いておらず、いつもの無表情のままに向こうの通路を眺めている。彼女はベージュのスリムパンツを履いた足を組み直し、黒いレザースニーカーをプラプラとさせた。彼は暫く彼女の横顔を眺めた後、彼女と同じ方向に向き直る。
 暫し、そのまま時が流れた。
「で、わかった?」
 沈黙を破ったのは、彼女だった。
「え?」
「わたしがノートを渡した理由」
「あ……うん。まだ、わからない」
 彼は彼女の横顔をチラリと見て、口籠るように口にする。
「そう。あなた……」
 そこまで言いかけて、彼女はすうっと口をつぐんだ。彼はまた、横目で彼女を見る。彼女は変わらず行き交う人々を眺めるように、その向こうに視線を遣っていた。その横顔に魅入られたように、暫く彼は視界の隅に彼女を置いたままとする。
「あの……」
 彼は姿勢を改めるようにして、彼女の方を向いた。それでも彼女は、彼の方を見ようとはしない。だが彼はそれを気にする様子もなく、口を開いた。
「寒くないですか? 大丈夫ですか?」
 前を向いたままの彼女の口元が小さく動いたように、彼には見えた。続けて何かを言おうとした彼だが、上手く言葉に出来ずに、口を数回開いては閉じるを繰り返す。
「あなた、二十八よね」
 口籠る彼を制して、彼女が突然口を開いた。
「え?」
「年よ、年。二十八歳でしょ、あなた」
「あ、うん。今年で二十八歳、のはず」
 彼は、微妙に言葉尻を濁して答えた。彼女は何かを考えるかのように少しの間を空けた後で、フラフラとさせていた足を止めて言った。
「ふーん、ならわたしと同じね。じゃ、その中途半端な敬語は止めにしない? 落ち着かないのよね、なんだか」
 そう言って、横目にチラと彼を見る。
「あ、はい、そうですね」
「ほら、それ」
「あ、うん……そうする」
「そ。それでいいんじゃない。同級生なんだし」
 彼女は手を背中の後ろに突き、身体を少し後ろに反らして天井の方を見る。
「同級生、か」
 彼に言うでもなく、呟くように、彼女はそう言った。彼女のその言葉を彼は、何かをそこに重ねるかのような目で見つめていた。
 ふたりは暫く、言葉を交わさないままに、そこに座っていた。彼の視線が行き交う人々から自分の足元に移り、次に彼女の横顔にチラリと向く。彼が何かを言いかけたところで、彼女が不意に口を開いた。
「あのさ」
「え?」
 彼女の問い掛けに、彼は虚を衝かれたような表情になる。
「話をするなら、TPOとか考えないわけ?」
「TPO?」
 彼は彼女の横顔を、目に疑問符を載せたままに見る。
「こんな待合室じゃなくて、もっと他にないの?」
「あ……でも、こんな朝じゃ開いている店もないし……」
 眉間に軽く皺を寄せる彼。その言葉尻は当惑したように消えていく。
「開いている時間にすればいいじゃない」
「え?」
 彼女のその言葉に、彼の口は半開きになり、その目は皿のようになった。
「土日は休みなんでしょ?」
「いいの?」
 彼の瞳に、鮮やかな色が浮かぶ。
「ダメって言ったことはないわよ、わたし」
 聞かれたことも無いけどね、と彼女は心の中で呟きながら、努めて顔つきを変えぬようにして彼に言い放つ。
「じゃ、じゃあ、来週の土曜日はどう?」
「まぁ、いいけど」
 喜色満面で食い入るように彼女に向かった彼に、彼女は淡々と答える。
「ほ、ホントに? ありがとう!」
「お礼を言われることじゃないわよ」
 飛び上がりそうな様子の彼を前に、彼女は首をすくめ、組んだ足を解いて膝を伸ばし、小さく伸びをするようにする。
「うん。でも、ありがとう」
 破顔一笑と言った様子で、彼は彼女に向かって言った。彼女は当惑を隠すように、事務的な言葉を発する。
「時間と場所は?」
「時間は十一時半でどう? 場所は駅前のプロムナードって喫茶店で。知ってる?」
「あそこね。いいわよ」
「やった。初めての約束だ……」
 彼は両手をギュっと握り締め、それを噛み締めるように呟いた。その彼の様子を、少し後ろに反ったままの姿勢でいた彼女は、瞳だけを動かしてチラと見た。その口は結ばれたままだったが、その頬は僅かに持ち上がった。何かを言おうとしたかのように彼女の口がピクリと動いたが、そのまま、そこから言葉が出てくることはなかった。
 彼はまた、彼女の表情を窺うように、ツゥッと視線を彼女に投げる。彼女はその視線を感じながらも、それをただ受け止める。彼の方を向くことも、顔を背けることもしない。十数秒の後、彼は正面に向き直り、彼女は姿勢を元に戻した。そうしてまた暫く、ふたりは無言のままのとなる。だがそこに流れる空気は険しいものではないように、彼には感じられた。
 彼がチラッと彼女を見たことを合図にしたかのように、彼女はスッと立ち上がった。
「もういいでしょ。今日は帰るわよ」
 上から見下ろす彼女に、彼もスッと立ち上がって、彼女と向かい合った。
「うん、今日はありがとう」
「お礼を言われることじゃないって、何度言えばいいのかしら」
 そう言いながらも、彼女の蒼い瞳には、少しばかり穏やかな色が浮かんでいた。それを認めた彼の表情も和んでいく。
「うん、でも、ありがとう」
 彼女より少し背の高い彼は、彼女をやや見下ろすようにして、彼女の碧眼を捉える。
「じゃ、またね」
「うん、また」
 キュッと身を返して歩き始めた彼女は、ふと思いついたように、その足を止める。
「料理」
「え?」
 彼女の唐突なその言葉は、彼の眼を白黒とさせた。
「料理、続けたほうがいいわよ」
「どうして?」
 きょとんとして彼はその場に立ち尽くした。彼女は振り返ることもせずに、背中越しに続ける。
「台所に立つ男はもてるっていうじゃない」
「えっ」
 その言葉に彼は、瞬きを忘れたかのように目を見開き、表情を凍らせる。
「じゃ、またね」
「あっ……」
「お茶、ごちそうさま」
 何かを言いかけた彼を振り切るように、彼女は身を返すことなく歩み去っていった。彼は胸の動悸を感じる余裕もなく、その背中をじっと追い続けた。その姿が見えなくなっても、暫くの間、彼はそこに立ち尽くす。
「お茶くらい、いくらでも奢るけど……」
 唖然とした表情のままで、彼はそれしか言葉に出来なかった。彼の脳裏には、彼女の一言がグルグルと回る。
『きっと、よく言われること、なんだよね』







五.願い





 帰宅した彼は、手にしていた封筒をじっと見てから、玉紐を解き、中からノートを取り出した。立ったままでパラパラと頁を捲り、最後の彼女のページに辿り着く。そこにあった彼女の言葉を、何度も彼は読み返した。
「わかるような気がします、か」
 彼の耳元で繰り返されるのは、先程の別れ際の彼女の言葉。
『台所に立つ男はもてるっていうじゃない』
 友人たちに彼の手料理を振る舞ったときのことを、彼は思い出す。”あの時の式波・アスカ・ラングレー”の表情を、彼は今でも思い浮かべることが出来る。相田ケンスケと鈴原トウジの感心した顔を、味噌汁を飲んだ綾波レイの驚きの顔を、そしてその時の加持リョウジの言葉を、彼は記憶の底から蘇らせた。
「偶然、なのかな」
 彼の表情は、複雑に揺れ動いた。それは希望を得た笑みのようでもあり、自らを抑え引き締めるような硬いものでもあったりした。彼はまた、ノートの彼女の言葉に目を向ける。
「嫌われてはいないと思う。でも……」
 彼女の気持ちはわからない、と宙を仰ぎ見ようとしたところで、彼はそれに気づく。
「これは、僕の問題なんだ」
 彼はフローリングに座り込んで、足を前に投げ出した。そのまま背を倒し、大の字に寝そべる。彼の眼前には、見慣れた天井とシーリングライトがあった。だが彼の眼には、それらは映っていなかった。彼の脳裏では、世界が赤い海で満たされていた頃のことが、順に再生されていた。彼と、彼を取り巻く世界、闘い、人々、そして彼女のこと。
『僕は、式波さんに会いたい。でも……』
 彼は、寝そべったままに、宙を掴むような仕草をする。
『それは、許されることなのか?』
 彼は、ボソリと口に出す。
「僕は、僕の望みを求めていいのか?」
 彼は、あの時の彼女の最後の言葉を反芻する。
『あの頃はシンジのこと、好きだったんだと思う。でもわたしが先に大人になっちゃった』
 彼の瞳には、暗い影が差していく。あの頃の彼女と初めて逢った時から、その言葉に至るまでの数多くの出来事が、彼の目の前を滝のように流れていく。
「何も出来なかった僕が、この世界で、アスカにまた会っていていいのか?」
 彼は、時間も空間も意味をなさないあの世界で、呪縛を解かれた彼女と言葉を交わした、その場面を追想する。
『僕は、アスカのためだと思って送り出した。でも……』
 彼の瞼の裏には、今、この世界での彼女の様子が浮かび上がる。今となっては定かではないが、いつからか、彼女は彼の前に現れていた。あの駅の向かいのホームで、彼は彼女を見るようになった。そしてその距離は少しずつ縮まっていった。
「約束までしちゃったけど」
 彼は、そこまでの道程を改めて思い返す。
「式波さんは、あのアスカとは違うんだ」

 彼とほぼ同時刻に帰宅した彼女は、バッグからお茶のペットボトルを取り出した。テーブルの上に置いたままの昨日のペットボトルの横に、彼女はそれを並べる。彼女は改めて、二本並んだペットボトルを眺めた。
「どの世界でも、バカはバカってことかしら」
 その言葉は空のペットボトルの中に、吸い込まれるように消えていった。
「ホント、なにやってるのかしらね、わたしも」
 そう呟く彼女の顔は、自らを笑うようでもあり、それでも満足しているようでもあった。

 翌朝、彼はその場所で彼女にノートを手渡すために、彼女を待っていた。階段を登ってコンコースに現れた彼女の姿を認めた彼は、ホッとしたような表情を見せる。彼はまじまじと、彼女の姿かたちを確認するように見た。
「なに?」
 彼のその表情と視線を見逃さず、彼女は大いに訝しげな顔で、開口一番そう言った。
「あ、ごめん。やっぱり式波さんだよな、と思って」
 彼のその言葉に、彼女はわけがわからないと言った様子を醸し出す。
「あたりまえでしょ。わたしはわたしよ。いつでもね」
 彼女は彼の顔を少しばかり睨むようにして、最後の言葉を強調するように言った。彼は苦笑いを頬に浮かべ、少し下を向くようにして、その言葉を受けた。
「はい」
 彼女は空の手を彼に差し出した。彼は慌てて手にしていた封筒を彼女に差し出し、一言を付け加える。
「昨日はありがとう」
 彼女は、フンと鼻を鳴らしつつも、頬を僅かに緩めて封筒を受け取る。
「あなた、変わらないのね」
 そう言い残し、彼女は自分のホームヘと降りていった。彼は満足げに笑みを浮かべると、彼女の後姿を見送ったあとで、自分のホームヘを降りていく。ホームではチャイムが流れ、列車が到着するところであった。彼は向かいのホームに視線を遣り、そこに立つ彼女を探す。いつものように携帯ゲーム機に向かっている彼女を見つけ、彼は口元を緩めた。

 その晩、いつもと同じように食事と入浴を済ませてから、彼女はソファーに座り、ノートを手にしていた。ふぅと細い息を吐いたあとで、彼女はノートの頁を捲る。最後の自分の文章を確認すると、ゆっくりともう一頁を捲る彼女。そこにあった彼の几帳面な文字を、彼女はしっかりと頭に刻むように、丁寧に読み始めた。


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今日はありがとうございました。何度もお礼を言ってバカみたいですけど、それくらい嬉しかったのです。初めての約束です。土曜日に式波さんに会える、そう考えると、今からソワソワとしてしまいます。
でも、少しだけ心配です。式波さんは、無理をしていませんか。
式波さんに言われたからということもあり、今日からできる限り、料理をしようと思います。もともと嫌いではないのですが、やはり食べてくれる人がいないと料理にも張り合いがなくて、いつのまにかやらなくなってしまいました。でも、僕の数少ない取り柄かもしれないので、錆びつかないようにしておきたいと思います。今日は気合を入れるべく、カツ丼にしてみました。なんの気合だか、よくわかりませんけど。
では、明日また会えることを願って。

十月二十八日(日) 碇シンジ

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「わかってるんだか、わかってないんだか」
 彼女はポツリと呟く。ノートから顔を上げて、彼女はそこに何かを思い浮かべるように、宙を見る。
「ホントに、わたしだってあなたのこと、何も知らないんだからね」
 彼女の眼前に浮かぶのは、かつて彼女がともに死線を彷徨った少年の姿。彼女の怒り、笑い、悲しみ、それらの感情をぶつけた少年の姿。
「あなたは一体誰なのよ」
 今の彼女の言葉は、ノートにぶつかって彼女に跳ね返った。彼女は、ふぅと大きく息を吐く。
「ほんとに、なに考えてんのよ」
 彼女はバタリとソファーに倒れ込み、テーブルの上に置かれたままの二本の空のペットボトルを眺めた。何かの答えをそこに求めるかのように彼女はそれを見つめるが、そこから答えが出てくることは、やはりなかった。
 ムクリと彼女は起き上がると、ノートを手に、机に向かう。左頁の彼の文章をもう一度読んでから、彼女は右頁に書き始めた。


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あなたは以前、『僕は、あなたの事を何一つ知らない』と書きましたけど、わたしも、あなたの事を何も知りませんよ。
追伸。料理、頑張ってください。

十月二十九日(月) 式波・アスカ・ラングレー

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 翌朝はこの秋一番の冷え込みとなった。朝のニュース番組では、しっかりと防寒対策をと、天気予報士が伝えていた。彼女はブラウンのダウンジャケットを引っ張り出して羽織り、お気に入りのワークブーツを履いて家を出た。天気予報通りに空気はひんやりとしており、彼女は小さく身震いをする。
「まったく、断りもなく四季まで戻してくれちゃって」
 言い掛かりをつけるように呟くと、彼女はそれでも口元をすっと緩める。
『ま、感謝はしてるのよ、一応ね』
 彼女が駅に着くと、コンコースではいつものように、彼が彼女を待っていた。自分の姿を認めた彼が笑みを見せるその姿に、彼女は意識して顔を引き締める。儀式のような毎朝の短いやり取りのあと、彼は封筒を受け取って、ふたりはそれぞれのホームへ通りていく。それぞれの列車に乗り、それぞれの一日が始まっていく。

 その晩。彼はノートを前にして、腕を組んで眉間にしわを寄せていた。
『確かに、僕らはお互いのことをなにも知らない』
 ギィっと椅子を鳴らして、彼は背もたれに身を預けた。そのまま天井を見上げる彼。
『あの頃の僕らはともかく、ここでの僕らは見知らぬ他人同士だ』
 天井に貼られた壁紙のテクスチャーを数えるように、彼は眺める。そのまま彼は、更に頭を後ろに倒して、首を伸ばすようにした。椅子がギィっと悲鳴を上げた。
『いや、あの頃だって……僕はアスカの何を知っていたんだ?』
 彼は身を起こして、ノートに書かれた彼女の文字を追う。負荷から開放された椅子が、キュイと喜びの声を上げた。
『僕はあの頃だって、アスカの事を何も知らなかったじゃないか』
 そして彼はまた、彼女を送り出した、あの世界のことを思う。
『僕はあそこで、確かに、アスカのことを知ってしまった。そしてアスカのことをわかったつもりになった。でも……』
 彼はその文字をじっと見つめる。
『僕は、アスカのことを、全然わかっていなかったかもしれない』
 彼は頭を落とし、背中を丸め、力なく項垂れる。彼はそのまま、指先ひとつ動かせなかった。
 長い間そうしていた彼だが、ピクリと、気づいたように頭を上げた。そしてまた、ノートに記された彼女の一文を読み返す。
「同じことは、しちゃいけないよな」

 翌朝は昨日に引き続き、冷え込んだ朝となった。彼女は少し悩んだあとで、厚手のレザージャケットを引っ張り出した。数ヶ月前の夏の日に、たまたま立ち寄ったフリーマーケットで格安で手に入れたものだ。連日の猛暑の中では誰も手に取ろうとしなかったそれは、その値札に似合わない上質なものであり、彼女は密かにそれに袖を通す日を楽しみにしていた。それに合わせるようにショート丈のブーツに足を通して、彼女は家を出た。
 駅のコンコースに着くと、珍しく彼の姿はそこになかった。彼女は少し、顔色を曇らせる。ポンと背中を壁に預け、彼女は向こうの壁の上から覗く青空を眺めていた。暫くして、階段を駆け上がる足音が聞こえてきた。ふっと視線をその方向に遣ると、慌てて走り込んでくる彼の姿が見えた。
「ごめん、寝坊した!」
 見るからに寝起きでございますと言った風貌の彼を見て、彼女は力が抜けたように表情を崩す。
「寝癖」
 えっと言う表情とともに、彼は慌てて手櫛で髪を整えようとする。何回がガシガシと髪に手を通す彼。
「ほら」
 彼女は鞄の中から手鏡を取り出し、彼に見せる。ペコリとお辞儀をして鏡を覗き込んだ彼の顔は、引きつったものに変わっていく。
「ここじゃ、どうしようもないわね。まあ、後でなんとかするのね」
 手鏡を仕舞いながら、彼女は苦笑いを浮かべた。その表情を見て、彼は少し、嬉しそうな顔になる。
「なに笑ってるの?」
 彼女は眉をひそめて、訝しげな表情になる。
「あ、ごめん。でも式波さんの笑った顔が見られたから、嬉しくて」
 寝癖の付いた頭を掻きながら、彼は屈託のない表情でそれをスラッと口にした。その言葉に、彼女は言葉を紡げずに表情を凍らせる。彼女のその顔を見て彼が口を開こうとしたその瞬間、彼が乗る列車の到着を告げるチャイムが聞こえてきた。
「あ、列車が来ちゃう! 慌ただしくてごめん、これ、よろしくね」
 彼は慌てて鞄の中からノートの入った封筒を取り出して彼女に手渡すと、ニコリと笑みを浮かべて、寝癖の付いた頭のままに、階段を駆け下りていった。取り残された形の彼女は、渡された封筒をギュッと握り、そのままポツリとそこに立ち尽くした。先程の状況と、彼の言葉を咀嚼しようとして。
 暫く困惑の渦に落ちていた彼女は、自分が乗る列車の到着を知らせるチャイムで、ハタと我に返った。顔を見上げ、そこにいない彼の姿を追うようにして、彼女はぽそりと呟く。
「わたし……笑ってたの?」

 その晩彼女はいつものように、夕食後に風呂に浸かっていた。浴槽の中で足を伸ばし、朝の出来事に思いを馳せる。その言葉は今日一日、彼女の中で木霊していた。その言葉は彼女の中であちこちへと飛び回り、頭の天辺から足の爪先まで、彼女の全身に染み渡っていった。彼女は瞼をギュッと瞑り、その時の情景を思い浮かべる。
『式波さんの笑った顔が見られたから、嬉しくて』
 彼の笑顔が、彼女の胸に響く。
 風呂を上がった彼女は、パジャマにカーディガン姿でソファーに腰を下ろしていた。先日卸したボア付きのスリッパが、彼女の足先を冷やさないように温めている。
 彼女は手にした封筒の玉紐をクルクルと解き、中からいつもの大学ノートを取り出した。その表紙を見ながら、それを最初に彼に渡したときのことを、彼女はその時の想いと共に振り返る。
『それなりに勇気が必要だったんだけど、あなた、わかってるの?』
 そしてパラリパラリと、その日々を確認するように、彼女は少しずつ頁を捲る。一昨日書いた自分の頁でその手は一瞬止まり、改めるように、彼女は頁をゆっくりと捲った。そしてそこに記された、彼の心を彼女は読み込む。


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式波さんへ
僕は、少し変わった少年時代を送ってきました。詳しいことは書きませんけれど、式波さんが僕のことを「変わっている」というのは、そのせいかもしれません。
少年時代、僕は、いろいろなことを経験しました。僕にとっては本当に大変なことが、たくさんありました。もちろんそれは、誰にも訪れるような、さほど特別ではないことなのかもしれません。でも僕にとっては、いっぱいいっぱいな、必死な毎日でした。
そんな少年時代があって、今の僕があります。今の僕は、本当に平凡な、どこにでもいる二十八歳の男です。取り柄と言えば、式波さんに最近言われてまた始めた料理くらいです。でも僕は僕なりに、あの時を一生懸命に生きました。少しは世間を知ったのかもしれません。だから、僕は、同じことを繰り返したくないと思っています。この先僕は、きっと、また後悔をします。でも少しでも前に進みたい。僕はそう思っています。
以前に増して、支離滅裂な文章でごめんなさい。理由はありませんが、式波さんならばなんとなくわかってもらえるかもしれない、そう思ってしまいました。それは式波さんに対する甘えかもしれませんけれど。
僕は、今でも式波さんに連絡する方法を知りません。だからもし、僕のことを相手にしたくないと思ったら、きれいさっぱりに、僕のことは忘れてください。もし式波さんに会えない日々が続いたのならば、僕はそれを受け止めます。これは僕の、式波さんへの約束です。
それでもやっぱり、僕は式波さんに会えると、嬉しいです。未練がましいかもしれませんが。

十月三十日(火) 碇シンジ

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 何度も何度もそれを読み返した彼女は、目を閉じて面を上げた。その顔は、小さく身震いを起こす。
「やっぱり、碇シンジ……なのね」
 彼女はそのまま、ソファーにバサリと倒れ込む。
「なんとなく、じゃないわよ。バカシンジ……」
 ソファークッションに顔を半分埋め、喉の奥から絞り出したような掠れた声で、彼女は変わらずテーブルの上にある、二本のペットボトルを見つめる。
「あんた、わたしが消えてもいいの? わたしのこと、どう考えているのよ」
 ペットボトルに、今朝の彼の寝癖顔が映って見えた。
「あんたの間抜けな顔を見て、わたし、笑っちゃったじゃないの」
 彼女は抱えたクッションに顔全体を埋め、そのまま暫く沈黙した。
 ややあって、折り曲げられた彼女の膝が、何かが響いたようにピクリと数回動き、彼女はムクリを顔を上げた。その顔は心を決めたように引き締まり、その眼はまっすぐに、テーブルの上のそのノートを見つめていた。彼女はしっかりとした声で呟く。自分に言い聞かせるように。
「あいつがどうするかじゃない。わたしがどうしたいかだ」
 彼女はノートを持って机に向かい、いつもの細字サインペンを手にして、彼の頁の右隣に、彼女の言葉を書き始めた。


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碇シンジさんへ
今日から十一月ですね。すっかり寒くなりました。でも、お気に入りの上着が着られるのは嬉しいです。
あなたの昨日の文章には、少し戸惑いました。でもきっと、その戸惑いは、わたしにとって悪いものではなかったと思います。わたしはあなたのことを知らない。あなたもわたしのことを知らない。今はそれでいいとも思っています。
そしてこの先、あなたが伝えたいと思っていることを、わたしは理解できるかもしれない。そう思えます。なんとなくですけど。
では、また明日。
追伸。わたしは、聖人じゃありませんよ。

十一月一日(水) 式波・アスカ・ラングレー

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 翌朝、彼女が駅のコンコースに着いた時、彼はいつものように、そこにいた。彼は笑顔を見せ、そしてそれは苦笑いに変わっていく。
「なによ、なにか面白いものでもあった?」
 彼女はいつものように、表情を変えないままに彼に対する。
「いや、昨日はカッコ悪いところを見られちゃったな、って思ってさ」
 彼は恥ずかしそうな笑みを浮かべて、後ろ頭を掻く。
「ふーん、気にしてたんだ」
「そりゃそうだよ!」
 気のない彼女の言葉に、彼は食い気味に返す。
「昨日はあれから恥ずかしくて恥ずかしくて……今思い出しても恥ずかしいよ」
 その姿に彼女は肩をすくめて、小さく口元を緩める。
「別に、気にしないわよ、わたしは」
 呆れ顔にも見える彼女のその言葉に、彼はポソリと呟いた。
「それはそれで淋しいんだけど……」
 肩を落とした彼の姿に、彼女は大きく息を吸い込んだ。彼女がそれを言おうとしたその時、列車の到着を告げるチャイムが流れる。
「あ、ごめん。列車が来ちゃうね」
 出鼻をくじかれた形の彼女は、大声の代わりにハァとため息を吐いて、肩に掛けたバッグからいつもの封筒を取り出した。パンと彼の手に叩きつけるように、それを手渡す。
「ありがとう。じゃ、また」
 そう言い残して、彼は足早にホームへ降りていった。そこに残された彼女は、彼のいた空間を意識しながら、ボソリと呟く。
「そういう意味じゃないのよ」

 その晩の彼は、慌てることなく落ち着いた様子で、全ての身支度を終えたあとでその封筒を取り出し、クルクルと玉紐を解いた。中から取り出した紺色の表紙の大学ノートを、彼は改めて、じっと見つめる。
『式波さんが、これを渡してくれた意味は、まだわからない。でも……』
 彼は目を閉じて、それを初めて渡してくれた時の、彼女の姿を思い出す。
「式波さんだって、軽い気持ちで渡してくれたわけじゃないよな」
 そして表紙を捲ると、その言葉が飛び込んできた。
『アンタ、誰よ。』
 それを見て彼は、今また口元に苦い笑いを浮かべた。
「ホントに、どうしようかと思ったよ」
 そして彼はその日々を思い返すように、目で文字を追いながら、頁を捲っていく。三日前の彼女の頁に辿り着き、それを見て決意した一昨日の夜のことを、彼は振り返った。彼が書いた頁のその右頁には、彼の文章を読んだ、彼女の言葉が記されているはずだ。彼はひとつ息を呑んで、頁を捲る。
 目に飛び込んできたのは、複数行に渡る、彼女の文章だった。それは今までの彼女のものには見られない長さの文章であり、彼の表情はスゥッと強張っていく。彼はもう一つ息を飲んで、彼女の文章を読み始めた。
 一度、最後まで読み切った彼は、もう一度文頭に戻って、それを読み直した。更に彼は、内容の取り間違いはないか、変に解釈してしまっているとことはないかと、三度目を読み直す。そして大きく息を吐いて、天を仰ぐように首を後ろにもたげた。
「わかってくれたとは思わない。でも、わかろうとしてくれた」
 彼の頬と耳に熱い血が集まり、熱を帯びていく。また彼の眼にも、熱いものが溢れていく。彼はそれをぐっと堪えて、また、その左頁に記された彼の心そのものを読み返した。彼が少年だった頃のことを蘇らせながら。
「正しいかどうかなんてわからない。でも僕は、前に進みたいんだ」

 その頃彼女は、ベッドで寝転びながら、彼の姿を思い浮かべていた。
「あいつ、もう読んだかな」
 彼女の頬は僅かに持ち上がり、その目尻は緩やかに下っていた。そのことに彼女は気づかない。
「なんて書いてくるか、楽しみね」
 彼女はベッドの上でコロリと身を返して、そのまま眠りに落ちていった。

 翌日の金曜日の朝。彼女は若干早めに家を出た。特に理由はなく、偶々そのタイミングになっただけだ。駅に着くと、少し先に彼の背中が見えた。彼女は歩くペースを少し上げて、階段を上がったところで、彼の背中をツンと手で突いた。
「わっ!」
 彼は飛び上がるようにして驚き、ギョッとした様子で振り返る。その様子に、彼女もまた、目を丸くする。
「あ、式波さんか。ごめん、びっくりした」
 彼は彼女の顔を見て、慌ててその場を取り繕おうとする。少しのけぞるようにしていた彼女は、彼のその姿に、口元を少し緩めた。
「前にもこんな事、あったわね」
 そして彼女は、目元を和らげるように顔の緊張を解く。
「そ、そうだね。なんだか僕、進歩がないね」
 所在なさげに手をプラプラとさせている彼を見て、彼女はまた、肩の力を抜いた。
「ま、いいんじゃないの? あなたらしくて」
 彼女は背後の人影を気にして、彼をいつもの場所に促すように歩き出した。彼も彼女の後を追う。
「はい」
 そう言って、彼女は右手を彼に差し出した。先程の動揺が収まらないままの彼は、慌てた様子で鞄を開けて中からその封筒を取り出し、彼女にそれを手渡した。
「ありがと」
 それを受け取った彼女のその顔は、いつもと少し違うように、彼には思えた。
「じゃね」
 彼女はそれだけを言い残して、彼に背中を向ける。
「あ、あの!」
 去りゆこうとする彼女の背中に、彼は顔色を変えた。
「なに?」
 彼女は足を止めて、半身を捻って彼に顔を向ける。
「あの、明日、楽しみにしてる」
 必死の形相でやっと絞り出した彼のその一言に、彼女は口元をフッと緩める。
「そうね、明日は約束よね」
 そう応えた彼女に、彼は大きく頷いて自らの意思を示した。その様子に彼女の口元は、もう少しだけ和らいでいく。
「じゃ、また明日」
 彼女は背中越しに彼の顔をチラリと見た後で、その一言だけを残し、自分のホームヘと降りていく。彼は何も言うことは出来なかったが、それでも満足そうな笑みを口元に浮かべて、その彼女の後姿を見送った。

 その晩彼女は、リラックスした様子でソファーに身を預けて、そのノートを手にしていた。そのノートを開く前に、テーブルの上に置いた赤いマグカップを手にして、ココアを一口、こくりと飲み込む。マグカップをテーブルに置き直し、彼女は両手でノートを持って、パラリとその頁を開いた。


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式波さんへ
また会ってくれて、ありがとうございます。僕は式波さんに会えなくなることを、半分くらいは覚悟していました。式波さんのお返事(と書かせてもらいます)は僕にとって、嬉しい計算外でした。
式波さんの言う通り、僕は式波さんのことを、式波さんは僕のことを知りません。でもそれでいいと、式波さんは言ってくれた。僕がどれだけ嬉しく思ったか、それを伝えることは出来ないように思えます。
でも、式波さんに甘えたくはありません。僕はもっと頑張らなくちゃいけない。式波さんのことだけではなく、もっといろいろなことについて。改めて、そう思っています。そう思わせてくれた式波さんには、心から感謝します。
子供だった頃の僕は、沢山の人に迷惑を掛けていました。それでも沢山の人に助けられて、救われて、僕は今ここにいます。僕は今、今の僕に出来ることを、もう一度考えています。今の僕に出来ることはとても小さいかもしれませんけれど、なにが出来るのかを、考え続けます。
料理は、あれから続けています。やっぱり一人分だと作りすぎてしまうので、二日分を一度に作ることになってしまったりもしますけど、それでも作ることはやっぱり楽しいですね。かつて僕の料理を食べてくれた人たちのことを思い出しながら、僕は台所に立っています。それでモテるかどうかは、まったく自信がありませんけれど。
すっかり寒くなりましたね。風邪など引かないように、お互いに気をつけましょう。日本に四季があるのは時々恨めしくなりますが、でもやっぱりいいものですね。
追伸。式波さんがこの前着ていたレザーのジャケット、カッコ良かったです。

十一月二日(木) 碇シンジ

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「あのレザージャケット、褒められちゃった」
 ポカンとしたような様子で、彼女は彼の文章を読み終えた。もう一度文頭に戻り、最初からそれを読み直す彼女。
「いろいろな意味で、あいつもあの頃とは違うのね」
 彼女はノートから目を離し、天井を見上げるように顔を上げた。彼女はその瞳を閉じて、その瞼の裏にあの頃の少年を思い浮かべる。その少年の姿は、今なお彼女の中で、その存在を主張し続けていた。
「そろそろ、主役を変わってもらえるのかしら」
 目を閉じたままの彼女の顔には、微かに笑みが浮かんでいく。
「それも明日次第、かな」
 彼女のその呟きは、テーブルの上に置かれたままの二本のペットボトルの中に、スウッと消えていく。
 ふんだんに時間を使ってその少年の姿を脳裏で再生した彼女は、フッと目を開いたと思うと、ノートとマグカップを手にして机に向かった。彼女はいつもの細字サインペンを手にして、腕を組んで眉間にしわを寄せるような表情を少しだけ見せた後、その右頁に彼女の言葉を記す。
 数分を使って書き終えた彼女は、それを確かめるように小さく頷くと、もう一度だけ左頁に戻って彼の文章を読み返し、続いて自分の文章を確認した。満足したかのように彼女はコクリと頷くと、パタリとノートを閉じて封筒に入れ、玉紐を括って封をした。
「あとは明日。どうなるのかしらね」
 他人事のようにそう呟く彼女。それでも彼女の眼には、暗い色は差し込んでいなかった。

 その頃彼は、落ち着かない様子で、ベッドに寝転んで天井を眺めていた。
「明日、なにを話そう」
 頭の後ろで手を組んだ彼は、ゴロリと身を転がして横向きになる。
「話したいことはたくさんあるんだけど、いざとなると会話に詰まっちゃうんだよな」
 彼の脳裏には、彼女が記したその言葉が蘇る。
『あなたが伝えたいと思っていることを、わたしは理解できるかもしれない』
 彼はまた身を返して天井を見上げ、そこに言葉を投げ掛けるようにする。
「いつか、僕のことを式波さんに話せる日が来るのかな」
 彼は眉をひそめて少し険しい表情を見せた。だが次にはその表情は和らいで、彼の口元には微かな笑みも浮かんでいく。
「そうだね、やってみないとね。式波さんは……」
 彼は天井の向こうに、その姿を思い浮かべた。







六.手を繋ごう





 翌日の土曜日は、晴れ渡った青空とは言い難いけれど、それでも雨の心配はなさそうな、そんな空模様だった。昼近くになってもあまり気温は上がらず、駅前の電光掲示板は、気温十二度を表示していた。午前十一時二十分、カーキ色のフライトジャケットを羽織った彼は、駅前の喫茶店のカウベルを鳴らして店内に入っていく。店内をぐるりと見渡すと彼の求める姿はまだなく、店員に案内されて、窓際の二人掛けの席に彼は腰を下ろした。
 店内は程よく暖房が効いていた。彼はジャケットを脱いで、座っている椅子の背もたれにそれを掛ける。店員が運んできたお冷やを一口喉に通して、彼は窓の外をボンヤリと眺めた。土曜の昼間ということもあり、辺りには雑多な人々が行き交っていた。誰というわけでもなく、その一人ひとりをぼうっと眺めていると、入り口扉に据え付けられたカウベルが鳴った。フッとその方に顔を向けた彼の眼が、彼女の姿を捉える。すぐに彼女も彼に気づいた様子を見せ、その彼女に彼は小さく手を振った。
「お待たせ。早かったのね」
 彼のもとへ歩み寄った彼女は、席に着く前に着ていたレザージャケットを脱ぎ、それを椅子の背もたれに掛けた。椅子を引いてストンと腰を下ろす彼女。
 彼女の着席を見計らって、店員がお冷やとメニューを持ってきた。彼女にお冷やを、彼にメニューを手渡すと、店員の彼は会釈を残して去っていく。
「来てくれて、ありがとう」
 彼の開口一番はそれだった。
「約束を破るように見える?」
 彼女は棘のあるような言葉を発するが、その瞳には負の感情は浮かんでいない。慌てるでもなく、彼は彼女に応える。
「そんなことは思ってないけど、でも嬉しかったから。だから、ありがとう」
 彼のその言葉に、彼女は首をすくめるような仕草を見せた。
「なにがいい?」
 彼が彼女の方に向けてメニューを開くと、彼女はあまり時間を掛けることなく、カフェモカを指差した。彼は小さく頷くと、店員を呼んで、彼女のそれと自分のコナコーヒーを注文する。店員は丁寧に頷くとそのまま一歩下がり、足音を立てずに去っていった。
「そのジャケット、いいね」
 彼は、彼女が着てきたレザージャケットを、まず話題にした。その彼に彼女は、そっけないとも取れるような仕草で答える。
「そう? ありがと。これ、古着なんだけどね」
「そうなの?」
「この前の夏に、フリーマーケットで見つけて買ったのよ。あの暑い中で冬物を出すのもどうなのって思ったけど、値段の割に良かったし、なんだか気に入っちゃったから思わず買っちゃった」
「へぇ、フリーマーケットとか行くんだ」
 彼は意外そうな表情になって、彼女の顔を見た。
「ううん、あの時はほんとに偶々。滅多に行くことはないわ」
「ふうん」
 彼は軽く相槌を打つ。直後に彼は、もう少し何か言えないのかと自分を責めた。
「あなたは行くの?」
 助け舟のような彼女の言葉に感謝しつつ、彼は彼女にそのまま答える。
「僕は行ったことはないなぁ。どういう感じなのか、興味はあるけど」
「ふーん、そうなのね」
 そこで一旦会話は途切れる。ややあって、店員が注文の品を運んできた。それぞれのカップを手にして、口に運ぶふたり。酸味のあるコナコーヒーを一口味わった彼がカップを置くと、両手でマグカップを持った彼女もそれを置く。ソーサーとカップが、カチャリと音を立てた。そのまま、無言になるふたり。
「料理、続けてるんだ」
 彼女のその言葉に、彼はハッとしたように固まっていた表情を崩した。
「う、うん。毎日じゃないけど、おかげで外食とかはしなくなったし、惣菜もお弁当も買わなくなったよ」
「そう、頑張ってるのね」
「頑張っているというほどじゃ……もともと好きだったしね。あ、でも、昼の弁当も作るようにしてるんだ。それだけは頑張ってる、かな?」
 そう言って彼は、彼女に笑みを見せた。彼女はその笑みに、小さく口元を緩めた。
「いいじゃない。女の子にモテるようになるかもよ?」
 彼女は瞳に悪戯っぽい光を浮かべて、彼の顔を見た。初めて見る彼女のその表情に、彼の胸はトクンと音を立てる。それを隠すように、彼は口を開いた。
「式波さんは、料理はするの?」
 その言葉に彼女は、口を少し開けて間を取る。
「するってほどじゃないけど、少しはやるわよ。簡単なものしか作れないけど」
 彼の脳裏には、彼が毎日料理をしていた少年時代の事が、そしてその頃の少女の姿が、ふわりと浮かんできた。彼はそれを横に置くようにして、彼女に向かう。
「ふうん、そうなんだ。好きなものとかってあるの?」
「好きなもの? そうね、子供っぽいかもしれないけど、ハンバーグとか結構好きかな」
 彼女は少しの違和感を覚えつつも、素直に答えた。彼は妙に神妙な顔になって、彼女の答えを聞く。
「そっか、ハンバーグね。うん、わかった」
 何がわかったんだろうと思いつつも、彼女はそれ以上追求することはしなかった。そしてまた、そこで会話は途切れる。

「なんだか……不思議だな」
 彼は、呟くように口にした。彼女は声を出さず、視線で彼に応える。
「式波さんと、こうしていること。だって一ヶ月前までは、僕はただ、毎朝式波さんをホームで眺めているだけだったから」
 神妙な様子の彼の顔を、彼女はじっと見た。彼はコーヒーカップに手を伸ばして、それを一口喉に通す。
「行動するって、大切だね」
 そして彼は、彼女に向かって口元に笑みを浮かべた。
「そうね、それがナンパでも、やってみるって大事よね」
 彼女は片頬を持ち上げるようにして、彼に答える。
「あー、それを言われると恥ずかしい……でもその通りなんだよね」
 頭を垂れて恥ずかしさを隠すような仕草をした彼は、そのまま上目遣いに彼女に視線を投げた。
「そ。やってみるのはいいことよね。わたしだってそう思うわよ」
「もしかして……」
「うん?」
「もしかして、ノートのこと?」
 彼女の顔は、心に波が立ったように、ハッとした表情になった。
「実はまだ、あのノートの意味はわからない。でも思ったんだ。式波さんだって、最初にあのノートを僕に渡した時は、結構な勇気が必要だったんじゃないかって。あれがなかったら、僕は今、式波さんの前にいない。だから、やっぱりありがとう」
 そう言って彼は、また頭を下げた。
「式波さんがいなかったら、今の僕はいない。それは間違いないから」
 ゆっくりと頭を上げた彼の眼前には、虚を衝かれたような表情の彼女がいた。その彼女は彼の言葉を消化することに集中しているかのように、言葉を発することを出来ずにいた。彼はその彼女に、柔らかく笑い掛けた。彼の脳裏には、目の前の彼女の姿に重ねて、”あの頃の式波・アスカ・ラングレー”の姿も浮かんでいた。『目の前の彼女とあの頃の彼女は違うんだ』と彼は理解した上で、彼はそれをも重ねて、彼女に気持ちを伝えていた。それが正しいことかは彼にはわからなかったが、今はそうしたい。彼はそう思っていた。
 幾ばくかの時間を要して、彼女は自分を取り戻した。
「そんなに感謝されるほどの人間じゃないわよ、わたしは」
 彼女はやっとのことでその一言を絞り出して、彼から目を逸らす。その彼女の横顔に、彼は優しい視線を投げ掛けて、こう言った。
「うん、多分こういうのって、自分ではわからないんだと思う。それにきっと、こういうのってお互い様なんだよね。だから、あまり気にしなくてもいいのかも」
 そう言って彼はまた、口元で柔らかく笑った。彼のその言葉に、彼女は背けていた顔を徐々に彼に向ける。彼の視線を受けて彼女もまた、強張った表情を緩めた。
 そしてまた、ふたりの間には沈黙が流れた。彼女は両手でマグカップを持ち、コクリと小さく音を立ててカフェモカを味わう。彼もまた、コナコーヒーの酸味を舌で転がすようにして、それを飲み込んだ。

 外を眺めていた彼女は、ふと、一組のカップルに視線を固定した。年の頃は十代半ばだろうか。ちょこんと手を繋ぎ、見るからに緊張感に溢れたその二人の様子を眺めて、彼女は言いようのない郷愁感に晒される。
「可愛いよね」
 彼のその言葉に、彼女は不意を突かれたように彼を見た。彼もまた、窓の外のそのカップルを眺めていた。
「普通は、あんな頃があるんだよね」
 彼のその言葉は、彼女の心をサワっと刺激する。暫し彼の横顔を見つめていた彼女は、また窓の外のカップルに視線を遣った。そして少しの間を開けたあとで、呟くように、口にした。
「そうね。でも、人それぞれ。それでいいんじゃない」
 彼女のその言葉は、彼の心を優しく叩き、そして彼の血液にすうっと溶けていった。

「あのさ」
 窓の外を眺めたままだった彼は、彼女のその言葉に、その顔を彼女に向け直した。彼が見た彼女の顔はまっすぐに彼を見つめ、彼女の視線は彼の瞳を求めていた。彼の視線が彼女のそれと、手を繋ぐように交わった。
 そして彼女は、唐突に、しかしふたりの核心に迫る問いを投げ掛ける。
「あなたが料理を作っていた人たちって、どんな人たち?」
 彼女のその言葉は、彼の表情を一瞬のうちに氷漬けにした。昨日の彼が呟いた『いつか、僕のことを式波さんに話せる日が来るのかな』という言葉が、彼の頭に何度も木霊した。
『いつかは話したい。話せればいいと思っていた。でも、今の僕には……』
 彼は彼女の顔を見たままに、表情を凍らせて、一言も発することが出来ずにいた。彼女もまたその彼の様子をじっと見つめ、何も言わずに、彼の言葉を待っているようだった。
 どれくらいの時間が経っただろうか。彼女は不意に、横に置いておいたバッグからいつもの封筒を取り出して玉紐を解き、その大学ノートを彼の前に差し出した。それを受け取った彼は、彼女の顔を上目遣いに見る。
「読んで、いいの?」
 彼女は彼の顔を正面から見たままに、黙ったままでコクリと頷く。彼は、慎重な手付きで表紙を開き、昨日の彼女の頁までパラパラとノートを捲る。やがて、彼の手がピクリと止まった。彼の眼が、ノートの上をツウっと走る。


――――――――――――――――――――

碇シンジさんへ
あなたが思い出していた人たちを、わたしは多分、知っています。

十一月三日(金) 式波・アスカ・ラングレー

――――――――――――――――――――


 彼の眼は、何度もその一行を往復した。その様子を、彼女はじっと見つめている。やがて彼は目を見開いて、口をパクパクとさせながら面を上げ、彼女の顔を正面から見た。彼女と彼の視線が、抱き合うように交わる。彼女はテーブルの上で腕を緩く組んで体を軽く乗り出し、彼の瞳を射るように見た。彼女の碧眼は、彼の黒い瞳を捉えて離さない。
「あててあげましょうか」
 唐突に彼女は言った。二の句を継げない彼は口を空回りさせるだけだ。麻痺したような彼の頭は、彼女が何を言おうとしているのか想像だに出来ずにいた。彼のその表情と心のうちを認めながら、ふたりの間の隙間を埋めるように、彼女は次の言葉を紡ぐ。
「あなたが思い出した人たち」
 彼女のその言葉を、彼は凍りついたように硬直したままに聞く。彼に飛び込んだその言葉は、彼の中を縦横無尽に駆け巡り、彼は毛先一本動かせなくなる。彼の瞳に浮かぶのは恐れではなく、彼女に対する戸惑いの色だ。目の前の彼女が言おうとしていること、それは彼の許容量を超え、思考停止に彼を追い込んだ。
 瞬きひとつ出来ずにいる彼の瞳を、彼女はギュッと見つめて言う。
「一人目は、ミサト」
 その一言は、彼の胸の鼓動を止めた。
「二人目は、エコヒイキ」
 その一言は、彼の血液を沸騰させた。
「三人目は、」
 彼女はそこで言葉を切り、組んだ腕を解いて、自分の胸を指差した。
「あたった?」
 彼女はピクリとも表情を変えずに、彼の瞳を抱き締めるように見つめていた。彼女のその視線は徐々に、凍りついた彼の顔を溶かしていく。彼の顔に血色が戻り、更に赤みが差していく。ピクピクと彼の頬が動き始め、ワナワナと彼の口元が震える。見開かれた彼の瞳は、何度もパチクリと瞬きをする。指先ひとつ動かせなかった彼の肩が揺れ始め、その両手に力が籠もっていく。彼の背中が、ゆらりと前のめりに動いた。
「も、も、もしかして……」
 やっとのことで、彼は全身で、その言葉を発した。
「もしかして、アスカ!?」
 目を白黒させ、顔を上気させた彼は、ガタリと椅子の音を立てて、食い入るように彼女に向かった。
 彼のその様子に、彼女はニタっと口元に笑みを浮かべた。自分を指していた指を降ろして脱力したようにテーブルに両肘を立て、顎の下で両手を組んだ。不敵な笑みとともに、改めて彼に視線を投げ掛ける。
 そして、慌てふためく彼の様子を楽しむかのように、彼女は彼に向かってこう言い放った。

「久しぶりね、バカシンジ」







   【了】








encore.





「シンジぃー、ちょっとこっちの荷物もお願いねー」
「はいはい、仰せのままに、お姫様」
 首に巻いたタオルで額の汗を拭いながら、やれやれと言った様子でそう口に出した彼は、ふと気づいたように真夏の空を見上げた。眩しそうに、彼はそこに、何かを思い浮かべるような素振りを見せる。
「やっぱり、お姫様はお姫様だね、マリさん」

















 【APPENDIX】


 Thanks to:


 旅路 / 藤井 風

 一.手紙 / サンボマスター
 二.夢伝説 / STARDUST REVUE
 三.SPARK / THE YELLOW MONKEY
 四.優しさ / 藤井 風
 五.願い / Perfume
 六.手を繋ごう(「やさしい気持ち」より) / CHARA

 PLAY LIST (Spotify)



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