RX−7の購入に至るまでの過程で
私はひたすら一人で考え、一人で決断をしてきた。
そして、これからいかにREをアピールしていくかを
これまた一人で懸命に考えていた。
従来以上の頻度でのサーキット走行会出場を誓ったのも
その結論から導かれた行動のひとつであった。
しかし、ほどなく私はある重大な事実に気付かされる。
この日本には、私と同じような…いや私以上の
「熱烈な」REファンがあちこちに存在していたのだ。
それは例えば、歴代RE車の愛好家であったり、
RE一筋のチューニングショップであったり、
インターネット上のファンクラブであったり。
明らかに、他のクルマに対するよりも
その思いは強く、志は高い。もちろん、
その中の誰もがREの将来を信じて疑っていない。
彼らと手を取り合ってREをアピールしていきたい、
私は即座にそう思った。
そんな中、熱烈にREを応援してくれている J’sティーポ誌が
「RX−7生誕20周年記念」
と称する一大イベントを企画してくれた。
初代RX−7(SA)誕生からちょうど20年目にあたる
1998年4月のことである。
マツダ本社のある広島がそのステージに選ばれた。
マツダミュージアムやマツダ宇品工場の見学も
大変興味深いコンテンツだったが、このイベントには、
ゲストとしてマツダのRX−7開発スタッフ陣が多数出席し、
全国から集結したRX−7ファンと交流するという
またとない機会がもたらされたのである。
〜記念撮影のようす(J’sティ-ポ誌より)〜
広島プリンスホテルでの豪華な昼食の後、
懇親会ではQ&Aの時間が設けられ、
約1時間にわたって質疑応答が交わされた。
その大半が歴代セブンに関する話題に終始して
会が和やかにその幕を閉じようとしていたとき、
最後に一人の参加者からシリアスな質問が飛んだ。
…そう、「REの将来」についてである。
誰もが一番聞き出したかったが、それと同時に
一番切り出しにくい話題でもあった。
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1995年の東京モーターショーで、REファンは胸をときめかせた。
「マルチサイドポート」REを搭載するスポーツカー、
「RX−01」が颯爽と登場したからである。
NAながら230psをも発生する新世代REだ。
誰もが、この流麗な真紅のマシンに
次期RX−7の姿をダブらせ、思いを馳せたものだった…。
〜マツダロータリー世田谷にて〜
しかし、1996年、経営不振のマツダが
ついにフォード傘下に入るという
衝撃的なニュースが世界に流れる。
そして、フォード主導の新体制下で初めて迎えた
翌1997年の東京モーターショー。
REファンの一抹の不安は現実のものとなった。
「RX−01」がさらに進化し登場することを期待した我々の前に、
ついぞその姿は現れなかったのである。
これはいったい何を意味するのか…
REが「存続」という観点でのみ話題に登るという、
とても辛い時期が続いた。
「今後ロータリーエンジンはどうなるんですか?」
…ある程度予期していたはずとはいえ、
あまりにストレートな質問に苦笑する開発陣。
もちろん、将来の計画などTOPシークレットだろうから、
明確な回答などハナから期待できないというものだ。
当り障りのないコトバが慎重にチョイスされていく。
しかし私は、
そのコトバの端々から、あるいは
この日のイベント全体を通じて、
ひとつの確信を得ることができた。
こうしたユーザーとの交流イベントのために
わざわざ仕事の合間をぬって参加してくれた
十数名ものマツダの開発メンバー達は、
これまた大のRX−7ファンばかりなのである!
企画・設計・実研・広報…それぞれ分野は違えど、彼ら全員が
RX−7という世界を代表するスポーツカー、そして
ロータリーエンジンという独自の技術に対して
絶大な自信と誇りを持っている。
…彼らに任せておけば大丈夫だ。
きっと、アッと驚くような素晴らしい次期REマシンを
自信をもって送り出してくれるに違いない、と。
―REは力強く挑戦し続ける―
孤高のチャレンジを後押しするファンのパワーも十分だ。
多数の希望者の中から厳選され参加した30余名。
この生誕20周年イベントのために、
遠くは鹿児島や神奈川から遥々自走で駆け付けた。
夜を徹して走り続けて来た人もいた。
皆が、自分の相棒であるRX−7(SA/FC/FD)を、ただ
生まれ故郷に里帰りさせるためだけに集まったのではない。
未来のRX−7・未来のREに対する大きなエールを、
マツダに直接伝えるためにわざわざ足を運んで来たのである。
このパワー、このアツイ思い。…しかもこれが
世界中に生息するRX−7ファン・REファンの
ほんのひと握りに過ぎないという事実。
そう、この何百倍、何千倍という潜在パワーが
炸裂する瞬間をひたすら待っているのだ。
大丈夫、この思いはきっと伝わったはずだ…。
やがて、この盛大なイベントも終了時間となった。
しかし、解散した後もその場にずっと居残り、
帰路に着く参加者を一台ずつ見送ってくれた
RX−7の開発陣の満足そうな笑顔を見て、
私はそう思った。
それから8ヶ月が経過した1998年12月、
数年間の沈黙をうち破るように
新しいRX−7が我々の前に姿を現した。
最高出力280psに到達した通称「5型」のRX−7は
登場から8年を経て、ここに大きな進化を遂げる。
こうしてFD3Sは、「速さ」においても堂々と
国産スポーツカーの頂点を極めたのである…
−第4話 おわり−