●「千と千尋の神隠し」試写会レポート
A Test Screening of "Spirited Away"

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「千と千尋の神隠し」は2001年7月上旬に全編が完成、7月8日より東京・徳間ホールおよび中野サンプラザを皮切りに全国で試写会が催されている。試写会は7月20日の公開初日直前まで続き、合計で10万人規模に達するという。制作スケジュールの関係から宣伝期間があまり確保出来なかったため、大規模な試写会を集中的に行うことで一気に知名度の向上を目指すという。試写会での評判は、口コミで日本中に伝わって大ヒットに結びつくだろうか?

試写会会場の一つとなった中野サンプラザ
(撮影:2001年7月8日 以下同じ)


入場待ちの行列 
 


会場前を埋め尽くした行列


退場風景:感想を話し合う風景が展開された


日テレ系のスタッフが小型カメラで取材


―宮崎監督は"勝負"に勝ったか?―
子どもの「生きる力」が呼び覚まされるとき



「もの足りなかった!」

試写が終わって、隣に座っていた小学生の女の子に感想を尋ねた時、開口一番に発せられた言葉である。
「面白かったけど、もの足りなかった」などというお世辞を利かせた感想ではない。間髪入れず「もの足りなかった」と言い切った。それは、ストレートかつ率直・素直な感想であり、本心がそのまま出たような感想であった。

宮崎監督によると、今回の「千尋」は10歳くらいの女の子のために作った映画であるという。これを見ることで「生きる力」に目覚めて欲しいという願いを込めつつ、彼女たちが喜んでくれるかどうか「おじさん勝負!」というつもりで作ったのだそうだ。

ところが、試写を見た女の子の感想は、あっさり「もの足りなかった」であった。宮崎監督は"勝負"に負けたのだろうか?


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「千尋」の作品としての出来映えは素晴らしかった。テンポのよい展開、分かりやすいストーリーに加えて、「ナウシカ」「ラピュタ」「魔女の宅急便」「紅の豚」「もののけ姫」等の名場面を彷彿とさせるシーンの数々をはじめ、「おもひで」「ぽんぽこ」「耳をすませば」「山田くん」等の制作でスタッフが培ったと思われるノウハウも随所に散りばめられていた。とにもかくにも、これまでに宮崎監督およびスタジオジブリが蓄積してきた、ありとあらゆるテイストが存分に盛り込まれていた。

もちろん、名場面のテイストが盛り込まれていると言っても、決して(過去の作品を知る人への)受けを狙って似せた訳ではない。表現したいことを思いのままに表現した時、結果的に似ただけなのであろう。その意味で、「千尋」は宮崎監督が理想とする形の集大成であるといっても過言ではない。かつて、宮崎監督の代表作といえば「もののけ姫」が思い浮かんだが、今後は「千尋」こそが真の代表作と呼ばれ得る、そんな予感さえ抱かせる出来映えであった。

だから、試写を見た観客の多くは、その圧倒的な迫力に打ちのめされた。試写の後、ロビーで何人かの大人にも感想を尋ねてみたのだが、口々に作品の素晴らしさを絶賛した。「感動した」「キャラクターが超カワイイ」「ストーリーが良い」「『もののけ姫』と違って分かりやすかった」「堅苦しくない」「CG臭さもないしサイコー」「幻想的なシーンが好き」「あと2〜3回は絶対見に行く」などなど・・・。映画を見た直後の興奮を割り引いても、すっかり作品に魂を抜かれてしまったかのようであった。あたかも、砂金に魂を抜かれていたカエル男やナメクジ女のごとく―。

ところが、その女の子は冷静に一言、「もの足りなかった」と言った。あたかも、カオナシが差し出した砂金を拒否した千尋のように―。

あれだけの映像を見せつけられて、一体どこが「もの足りなかった」のだろう?


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


その理由が知りたくて、女の子にいろいろと尋ねてみた。何となく唐突に終わってしまったことも理由の一つかもしれないが、「もの足りなさ」はもっと早い段階から感じていたようだ。もちろん、彼女も映画の「面白さ」は存分に味わっていたが、ある瞬間から「面白さ」が「もの足りなさ」に変わったようなのである。

あまり長く話せた訳ではなかったし、なかなかうまく言葉に出来なかったのではあるが、総合すると、おそらくは「映画館でただ座っているだけの自分」がもどかしかったために「もの足りなさ」を感じたのであろうと推察される。表現を変えれば、スクリーン上の千尋に感情移入しきっていて、「千尋と同じような経験が出来ない自分」がもどかしかったために「もの足りなさ」を感じたのであろうと推察される。

千尋が息を止めて橋を渡り始めた時、女の子も思わず息を止めた。千尋が階段から足を滑らせてしまった時、思わず座席から転げ落ちそうになった。千尋が重たい石炭を持ち上げようとした時、思わず腕にぐっと力を込めた。ボイラーの中から火花が飛んでくると、思わず顔をそむけてしまった・・・。このようにして、女の子は千尋が感じたように自分も感じようとしていたのだ。

だが、それにも限度がある。息を止めたり腕に力を込めたりするくらいなら出来たとしても、お湯の温かさを感じることは出来ないし、強烈な臭いを感じることも出来ない。仕事をやったという充実感をかみしめることも出来ない。飛翔して風を肌で感じることも出来ないし、水に潜った感触を確かめることも出来ない。

座席にじっと座っている限り、そうした経験を肌身で感じることは出来ない。「もの足りなさ」の正体は、これだ。

女の子は、ただ映画を見ているだけの自分が不満だったのである。千尋が働いたように自分も働いてみたかったのである。千尋が感じたように自分も感じてみたかったのである。それなのに、今の自分はただ映画を見ているだけ。その落差が、女の子に何とも言いようのない「もの足りなさ」を感じさせていたのだ。もし出来るものなら、わーっと歓声をあげながら不思議の町の中へ走って行きたかったに違いない。この衝動を何と表現したら良いのだろう。そう、それは、まさに女の子の中で眠っていた「生きる力」が呼び覚まされた瞬間だったのだ。

「もの足りなかった」―宮崎監督にとって、これ以上の感想があるだろうか!

宮崎監督は"勝負"に勝った、と思った。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「となりの山田くん」公開の後、宮崎監督と鈴木プロデューサーは「ジブリの原点に戻ろう。これからは子どものための映画をつくっていこう。」と申し合わせたという。そして生まれた作品が「千尋」であった。「子どものための映画」とは何だろう?映画を見ただけで経験のすべてを肩代わりしてもらったような気分にさせてくれる映画のことだろうか?映画を見ただけで全てを学んだような気分にさせてくれる映画のことだろうか?もちろん、そんな映画であるはずがない。

宮崎監督が「千尋」を通じて伝えたかったことは、誰もが持っている「生きる力」を感じて欲しいという願いであった。それは、映画さえ見ていれば感じられるようなシロモノではない。自分自身の五感を働かせ、考え、全身の力を動員して行動していかなければ感じられない種類のものなのだ。決まり事を守りつつ、数多の困難に挑戦し、それを乗り越えていかなければ感じられない種類のものなのだ。大人にとっては当たり前のことでも、子どもにとっては大冒険である、小さいけれど大切な、大切な経験の数々―。

そのようにして、様々な経験を積み重ねていくうちに、働く喜び、目標を達成する喜び、人のために役に立てる喜びを見いだしていく。その喜びは、自分自身が地に足をつけて生きているという喜びとして実感するだろう。それはまさしく、潜在的に眠っていた「生きる力」が血肉となったことの証明であるのだ。

「千尋」は、これまでに宮崎監督とスタジオジブリが蓄積してきたノウハウ&テイストの集大成ともいうべき作品に仕上がっていた。集大成の「千尋」が到達した場所とは、すなわちジブリの原点であったのだ。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


試写会の反応は上々であった。前売り券の売場には行列が出来ていた。それなりの盛況は期待出来るだろう。
そして、子ども達の中に眠っていた「生きる力」が、血となり肉となっていくことを願ってやまない。(2001/07/08 Y.Mohri)




参考:●英語吹替版「もののけ姫」公開初日




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