目青不動尊

天台宗竹園山最勝寺 教学院 (世田谷区太子堂4ー15−1)

  目青不動尊  慈覚大師(円仁)作 
関東三十六不動霊場第十六番

東急世田谷線、田園都市線いずれも「三軒茶屋駅」下車、徒歩5−10分。
二つの参道があります。

左 旧参道             右 新参道

旧参道から入ると、正面に教学院があり、右手に不動堂があります。

新参道から入ると
左柱に 天台宗竹園山最勝寺 教学院
右柱に 目青不動尊の門柱を経て、正面に不動堂があります。 


不動堂

 不動堂は、大きな銀杏の木に囲まれて、素朴に、まさに庶民のオアシスのようなたたずまいをしています。目青不動尊と書かれた大提灯があり、その奥に不動尊は祀られています。不動本尊の作者は目黒不動尊と同一人で、慈覚大師・円仁といわれています。秘仏のため、前立ちのお不動様を拝することになります。 

不動堂正面

 朝早かったこともあって、気軽に自転車に乗った人や子育てのママ、母娘、お年寄りが三々五々お参りに来て、「遠くからお出かけですか?」と声を掛けてくれます。

 「近くに名高いお不動様があっていいですね・・・。」
 「ほんとに朝に、晩にお参りできて・・・ 来ないと一日が始まらなくって・・・。」

 途中、おじいさんに道を訊ねた時にも、「今、おれも、お参りしてきたところで・・・」と、まさに庶民にとけ込んだ雰囲気です。その堂に名高い不動尊が居られるとなると、手を合わせるのも厳粛になります。

縁起、赤坂・六本木から遷られた

 納経帳に記帳を頂いて、その時に頂戴した縁起には、次のようにかかれています。

 『目青不動は麻布谷町にあったという観行寺の本尊であったものが、同寺の廃寺にともない教学院に遷し奉られたものである。華厳経巻七・賢首菩薩第八に説かれるところの天上界と地上界の間にたなびく青い雲の色に基ずく不動尊であることから、天と地の連絡をしてくださるといわれ、いつしか「縁結びの不動」として信仰を集めている。

 目青不動尊は慈覚大師円仁ご自作の尊像であり、秘佛としてお厨子に納められており公開されていない。お前立の不動尊は、座高一メートル余りの青銅製で、寛永十一年(一六四二)正月十一日の銘がある。丸顔で上下の牙歯がなく、微笑を湛えている様にも見えるえくぼが女性的である。

 また江戸時代より五色不動(五眼不動)の一つに数えられ、東西南北中央の五方角と色(五色)を合わせたもので、将軍家光の時代に成立したといわれている。昭和六十一年に、関東三十六不動霊場の第十六番に加えられ多くの巡拝者にお参りされている。』

 一般的な史跡案内書でも

 『・・・この像はもと麻布谷町(=現・港区赤坂・六本木)の観行寺の本尊であったが、同寺が廃寺になったので、明治十五年青山南町(=現・港区南青山2丁目)にあった教学院に移され「青山のお閻魔様」といわれていた。この像の右脇侍は閻魔大王、左脇侍は奪衣婆が安置されているので、この不動堂は一名閻魔堂ともいわれている。なお、この像の作者は目黒不動尊と同一人といわれている。・・・』
 (学生社 世田谷区史跡散歩 p53 )

 と紹介されています。最初の頃は『麻布谷町』赤坂・六本木)にあったのかと意外な気になります。現在の「テレビ朝日」の辺りで、当時とすれば1万石から10万石の大名や武家屋敷のあったところです。全日空ホテルの裏側にある「澄泉寺」、テレビ朝日の南西側にある「道源寺」は元治2年(1865)の江戸切絵図に記載され、位置も変わっていません。

  「麻布谷町」の中心部は現在のアメリカ大使館宿舎と首都高速3号線の間にありました(六本木2丁目)。御箪笥町(おたんすまち)と並んでいて、御小役人衆などの書き込みもあり、町民と混在する、大名屋敷とは違った雰囲気の町場の区域と思われます。このどこかに祀られて居られたのだとすると、一挙に庶民との距離が縮まってほっとします。

教学院の縁起が豊か

  頂いた教学院の縁起には教学院の創建と焔魔堂との関係が紹介されていて、教学院の雰囲気が伝わってきます。

 『創建は応長元年(一三一一)で、江戸城紅葉山にあったという。開基は法印玄応大和尚である。その後大田道潅の江戸城築城により麹町貝塚に移され、また赤坂三分坂に移り、慶長九年には青山南町に三千坪余りの土地を拝領してみたび移転した。

 青山南町は百人町ともいわれ、百人の同心が住んでいたという。この同心百人のうち三十七人が教学院の檀家に、六十三人が信者になり念仏講を結んでいた。この講の維持に一人三合宛の米を奉納していたので「三合山」とも呼ばれ親しまれていた。この佛米拠出により閻魔堂(現在の不動堂)が建立され、双盤念仏が盛んに行なわれていた。

 当院は当初は山王城琳寺の末寺であったが、小田原城主・大久保加賀守忠朝の菩提寺となるに及び、東叡山寛永寺末となった。

 明治八年には境内地百坪をさいて「幼童学校」を創立したが、後に青山南町小学校に発展した。その後太政官布達により、明治四十二年より三カ年を要して世田谷の現在地に移転し現在に至っている。』

教学院本堂

 先の学生社 世田谷区史跡散歩では

 『・・・慶長九年(一六〇四)玄応大和尚の開基になり、江戸城内紅葉山にあったと伝えられ、のち赤坂三分坂に移った。さらに寛永八年(一六三一)第五世岸能法師のとき青山に移ったもので、二度の火災により記録を失ない、くわしいことはわからない。

 もとは麹町山王成琳寺の末寺であったが、貞享五年(一六八七)、小田原城主大久保加賀守忠真の菩提寺となって寺運が盛りかえし、東叡山輪王寺の直系の末寺となった。のち大寺の格式となり延暦寺の末寺となった。

 明治四一年、第十七世権僧正寛葆大和尚の代に太子堂の現在地に移転した。本堂には恵心僧都作と伝えられる上品上生の阿弥陀如来坐像と聖徳太子作といわれる聖観音像を安置している。』(同上 p53)

 とされるように、当初は江戸城内にあって、青山に移ったのは、寛永8年(1631)とされます。その時には、目青不動も一緒になっていたのでしょう。ただし、

 江戸名所図会には、
 『心見観音 天台宗にして竹園山教学院と号す。本尊は聖徳太子の真作という。』

とあり、目青不動についてはふれていません。

 寛永8年(1631)に教学院のあった場所は、現在の港区南青山2丁目です。青山通りと外苑西通りが交差する東側で、地点名標識「青山三」、青山メトロ会館の辺りと思われます。隣り合わせに位置していた「梅窓院」は同じ所に現存し、青山通りの北側にある「海藏寺」「持法寺」、「実相寺」は江戸切絵図記載の寺で、位置も同じ所にあります。

 目青不動が最初から教学院と関わりを持ち、江戸五色不動が四神の思想からなったとすれば、目青不動はむしろ中央に位置し、目黄不動の名の方が相応しいようにも思えます。

 四神の方角と色

 北=玄武=黒  南=朱雀=朱 東=青龍=青 西=白虎=白 中央=皇帝=黄

 やはり、「目青の地」は、謎です。


三軒茶屋は面白い
 

 旧地を訪ねようと考えましたが、高速道路とビルばかりなので、世田谷を歩きました。三軒茶屋は実に楽しいところです。目青不動尊をお参りするにあたって、田園都市線の三軒茶屋駅を降りました。階段を上がると高速道路が目に入り、その下にかっての三軒茶屋の歴史が残されています。

この高速道路の下に、かっての三軒茶屋がありました。

駅から降りて階段を上がったところにはこんな案内板が立っていて
(上の画像の反対側、交番の前)

はやりであった「大山」への参道の分岐点にあって、
三軒の茶屋(上から角屋、石橋屋、田中屋)が並び商いをした様子が伝えられます。

この呼び込み絵は傑作で
横から見ると切り絵になって浮き出しています。

三角点に立っていた大山不動尊への道標もそのまま残されています。
道標の上に祀られる不動尊もいいお姿です。
高速道路の下のため、真っ暗で、よく写せなくて申し訳ありません。

駒留(こまどめ)八幡社、駒繋(こまつなぎ)神社

 世田谷は馬に関する史跡の多いところで、駒留八幡社、駒繋神社、芦毛塚などがあります。目青不動が最初から世田谷にあれば、まさに、先に紹介した「鶴岡春三郎氏」の牛馬牧論がそのまま実証されるところとなります。

 駒留八幡社の祭神の背部に立ててある木牌(もくはい)、北条時頼が尊崇した霊像であることを伝えるもので、駒繋神社は源義家、頼朝の奥州攻略に係わる伝承が残るところです。

 三軒茶屋や駒留八幡社、駒繋神社は江戸と武蔵野をつなぐ結節点でした。目青不動(教学院)は甲州街道の守護を任ぜられた仏とも云われます。世田谷に遷られたのもこんな背景があったのかも知れません。

環状7号線沿いに、東京の膨張を見守るかのようにある駒留八幡社
上馬5丁目

森の中に、閑静な住宅街の安全を守るかのような下馬の駒繋神社
目青不動は、これらの各社と連携して
現在の東京を守護するかのように、願い事が尽きないお不動様です。

(2001.10.19.記 10.31.付加)

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