小泉悠著『ウクライナ戦争』(ちくま新書)

 

 

最近になって世間の注目度が低下してきたように思えるウクライナ戦争だけど、もちろん実際にはまだ継続中だし、終わる見通しさえ立っていない。ということでちょうどよい機会なのでウクライナ戦争に関する専門家の見立てを読んでみることにしたってわけ。

 

この新書本では、今回のウクライナ戦争の詳細が、開戦前から去年の秋くらいまで時系列に沿って説明されている。もちろんそのなかには、広く報道されていたできごともあれば、かなり専門的な解説も含まれている。事実関係の説明が大半を占めているので、特にコメントすることはないんだけど、「はじめに」にある、「より民族主義的な「プーチンの野望」とでもいったものを仮定しないことにはロシアの戦争動機は説明がつかないのではないか(22頁)」などといった表現についてだけコメントしておくことにする。

 

これまでも何度かツイしたように個人的な考えでは、プーチンは自分の持つ覇権主義的傾向を糊塗するために民族主義やナショナリズムに訴えていると考えているので、「より民族主義的なプーチンの野望」というくだりは、正確には「民族主義で粉飾した覇権・拡張主義的なプーチンの野望」と言ったほうが正確ではないかと思っている。

 

そもそもこの新書本にも次のようにある。「2010年代前半に在モスクワ米国大使を務めたマイケル・マクフォールによれば、「背後で操る者がいなければ、大衆は立ち上がらない。大衆は国家の道具や手段であり、ものを動かすテコである」というのがプーチンの世界観であり、訪露したジョン・ケリー国務長官に対して、在露米国大使館は自分の放逐を狙う勢力を支援していると公然と述べたという(マクフォール2020)。¶大衆が自分の考えで政治的意見を持ったり、ましてや街頭での抗議運動に繰り出してくることなどあり得ず、そのような事態が起きた時には必ず首謀者と金で動く組織が背後に存在するというのがプーチンの世界観なのである(41頁)」。

 

これは米国に対するプーチンの陰謀論的猜疑心について述べたものではあるけど、同じことは自国民にも当てはまると考えていると見てもいいように思える。つまりロシア国民は、独裁者に主導されなければ何もできないと、プーチンは考えていることになる。自民族をまったく信用していない民族主義っていったい何なのか。それよりも、プーチンは庶民に受けのよさそうな民族主義を利用して、アホだと彼が考えている国民を操ろうと考えていたと見なすほうがしっくりとする。

 

あるいは次の指摘はどうだろうか。「いかにもロシア人中心主義的な歴史観を、国家の長であるプーチンが論文[2021年7月12日に公表された「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」と題するプーチンの論文を指す]として公表する、しかも大統領府の公式サイトに署名入りで掲載するというのは、ナショナリズムを満足させるための内輪のお喋りとはわけが違う。論文の執筆者であるプーチンは、そのわずか数ヵ月前にウクライナ周辺に軍隊を大挙して終結させ、軍事的{恫喝/どうかつ}を行った張本人であったからなおさらであろう(68〜9頁)」。

 

要するに、プーチン自身はナショナリストでもなく、彼の論文の持つナショナリスト的な傾向は、自身の覇権・拡張主義を正当化するための手練手管にすぎないことを著者自身が示唆しているようにも思える。「第5章 この戦争をどう理解するか」には、「平たく言えば、「自分の代でルーシ民族の再統一を成し遂げるのだ」といった民族主義的野望のようなものを想定しないと、スウェーデン・フィンランドのNATO加盟をめぐるプーチンの振る舞い[プーチンはその件に関して「心配することは何もない」とコメントしている]にはうまく説明がつかないように思われるのである(226頁)」とあるけど、そもそもプーチンの思考回路が西側の知識人と同じように働いているという前提を立てても仕方がないような気がする(西側知識人と同じように考えていれば最初からウクライナ侵攻などしなかっただろうし)。

 

またこの指摘が当たっていたとしても、それはプーチン個人に限った話であり、ウクライナ侵攻を支持する大半のロシア国民の態度も、民族主義に由来しているのか否かは別の話になる。何度も指摘したことがあるけど、民族主義やナショナリズムには諸刃の剣的な側面がある。プーチンのような覇権主義的な独裁者に簡単に利用される場合もあれば、逆に覇権主義を倒す手段になることもある。第二次世界大戦直後のアジアやアフリカでは、まさにその民族主義やナショナリズムが、覇権主義的な欧米帝国主義諸国の軛から脱するための原動力になった。だから元来、覇権主義(や拡張主義や帝国主義)と民族主義は別ものとして考え、後者は前者の道具になることもあれば、前者に対する抵抗手段になることもあると考えるべきだと私めは考えている。

 

最後になるけど、「おわりに」にある日本に関する指摘は、よく言われていることながら非常に重要だと思うので引用しておきましょう。「仮想敵国全てが核保有国である我が国にとっても、この事態は他人事ではない。日米同盟によって米国の拡大抑止(要するに「核の傘」)を受けている日本がウクライナのように大国から直接侵略される蓋然性は低いとしても、台湾はこのような保障を持たないという点でウクライナとよく似た状況に置かれている。したがって、仮に台湾有事が発生した場合、日本の役回りはポーランドのそれに類似したもの――被侵略国に対して軍事援助を提供するための兵站ハブや、ISR支援を行うアセットの発進基地になる可能性が高い。¶これは我が国が核兵器を持つ侵略国(台湾有事の場合で言えば中国)の核恫喝を受けることを意味しているから、日本がこうした立場に立つべきかどうかは国民的な議論を必要としよう。だが、現状ではそうした議論自体が行われていないわけであり、このままでは将来の軍事的危機事態に明確な国民的合意なしでずるずると巻き込まれていくことになるのではないか(231頁)」。

 

最初に指摘しておくと、この文章は「大国から直接侵略される蓋然性は低い」とあるように武力紛争に限ったものだけど、当面日本が問題にしなければならない、中共率いる中国は、ロシアのような直情径行的な猪突猛進の国とは違って百年の計をいとわない狡猾極まりない国であって、経済侵略という、より間接的な手段を駆使する達人であることも忘れてはならない(「サイレントインベージョン」という言葉があるように)。

 

それから日本でこうしたことに関して議論がなされていない理由の一つは、影響力のある左派のメディアや知識人が、侵略戦争と防衛戦争を十羽ひとからげにして同じ「戦争」として扱い、前者のイメージを後者にも植え付けるような印象操作を行っていることにあると個人的には思っている。そんな考えは東西冷戦下にあった昭和の時代には通用しても、21世紀、ましてやウクライナ戦争が起こった今になっては現実的に通用するものではない。いい加減メディアは、その手の有害きわまりない誘導はやめるべきだと、私めは強く言いたい。

 

 

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※2023年4月28日