◎納富信留著『世界哲学のすすめ』(ちくま新書)
タイトルを見て、まず「世界哲学ってなんだべ?」と思ってしまった。「普遍的な哲学」という意味なのだろうか? 実は私めは、「世界」とか「普遍」という言葉が、欺瞞的に聞こえるからどうしても好きになれないのよね。え? それはあんたの趣味にすぎないじゃんってか? す、す、すんましぇん。でもたとえば政治の分野で、「世界政府」などという言い方がなされると、どうしても「これはヤバいやつ!」って思ってしまう。世界政府という概念は、カントさんだったか、そのあたりの有名な哲学者が言い出したという話を聞いたことがあるけど、現在では左派がよく使っているよね。この言い方がなぜヤバいかというと、トップダウンの見方に基づいているから。要するに、先に「世界政府」が存在していて、その見解や理念に下々の人々(この場合は諸国家)を従わせるというニュアンスが含まれ、権威主義的な響きがどうしても聞き取れてしまうから。「世界政府」と連邦的な世界組織はまったく異なる。連邦的な世界組織は、もろもろの国家のほうが先にあって、それをなし崩しにするのではなく統合的に束ねようとする、いわばボトムアップの組織だと言える。国連は後者に属すはずだけど、現在の国連の体たらくはまた別の話になる。個人的には、国際政治では後者の連邦的な世界組織は不可欠だとしても、前者の「世界政府」は百害あって一利なしの危険な概念だと思っている。国際政治にしろ、国内政治にしろ、理念を先に立てて、それに現実を従わせようとするやり方は、ファシズムのレシピにさえなりうる危険な思想だと思う。てか、すでに何度も述べたように、そのようなやり方は革命家の戦術ではありえても、決して政治家のやるべきことではない。もちろん哲学に対して、そのような見方が当てはまるのかどうかは別の話だとしても、いずれにしてもこの新書本のタイトルを見て真っ先に思い浮かんだのが「世界」という言葉の持つヤバさなのよね。このように「世界哲学」という言葉が気になったからこの新書本を買ったこともあって、今回は個々の章ごとではなく著者の言う「世界哲学」が何を意味しているのかに関連する部分だけを取り上げることにする。
著者の言う「世界哲学」とはいったい何かに関してまず次のようにある。「私は、世界哲学の試みとは、まずこの西洋哲学中心主義、あるいは西洋哲学独占主義をきちんと批判し、その外の豊かで多様な可能性に目を向け、多元的な真理探求の現実化に賭けることだと考えています。西洋哲学自体もその外部も理解せずに「哲学」という名の幻想に閉じこもる排他的な態度も、反対に「哲学」を拒絶してあえてそこから距離をとって「思想」を名乗る態度も、ともに不十分です。世界哲学の視野は、まさにそういった態度に風穴をあけるものです(28頁)」。西洋哲学中心主義批判という点については、とりわけ二〇世紀後半になってからはさまざまな文化における西洋中心主義批判という形態で普通に行なわれるようになったものなので、特に目新しいものではないという印象を受ける。ならば次の記述はどうか。「では、「哲学」と呼ぶべき普遍的な知的営為は、どのように可能なのでしょうか。私たち人間が世界の各地で、歴史や文化や宗教のさまざまな伝統を背負って行っている哲学のローカルな営みは、それぞれが異なった形式や主題や方法や特徴を持っています。それらがすべて哲学であるといったん認めたうえで、そこから共に哲学を進める場を作っていく意識的な試みが「世界哲学」です。つまり、世界という視野に広げることで、特定の強い伝統に閉じこもりがちな思索や活動を世界へと解き放ち、そこで対話を通じて新たな哲学を立ち上げようとする試みが、世界哲学なのです。大切なのは、西欧で培われた「西洋哲学」も一つのローカルな哲学に過ぎない、という認識です(29〜30頁)」。
冒頭の部分に「「哲学」と呼ぶべき普遍的な知的営為」とあるけど、これは「哲学する」行為が全人類に共通して見られるという意味であって、哲学の内容自体が普遍的であるべきだという意味ではないと思われる。のちの章にも、「哲学の普遍性には二つの意味が区別されます。第一に、「哲学」が時代や文化や言語を問わず、人間が思考し生きる限り{普遍的に営まれる/傍点}という意味と、第二に、哲学が「普遍性」を対象や目標として持つという意味です(128頁)」と書かれていることからもそのことはわかる。この普遍性に関連して、著者は興味深いことを述べている。次のようにある。「私自身は、ギリシア哲学が求めた普遍性とは、「あらゆる時空や状況を通じて同一である」という単純な画一性ではなく、むしろ、「個別特定の状況において普遍的に説明されうるuniversalizable」という可能性ではなかったか、と考えています。(…)唯一の説明方式を絶対的にすべてに適用するのではなく、議論や翻訳を通じて、多様なものの間の動的な移行から、何か同一のものを明らかにする思考の営みにおいて、「普遍性」が目指されるという考えです。私もこの方向を支持します(147〜8頁)」。これを読んで私めも「私めもこの方向を支持します!」と思わずつぶやいてもた。要するに、この見方に従えば「普遍性」とは画一的、統一的な何かをトップダウンに適用することではなく、ダイナミックな現実的営為のなかで都度の状況に鑑みて目指されるものだということになる。これは冒頭にあげた国際政治の例で言えば、世界政府のような統一的な主体を先に設定するのではなく、国家間でのダイナミックで現実的なやり取りを通じて、連邦的な国際組織や国際的な決まり(国際法)を形成し、それを通じて世界の秩序を維持していこうとするやり方に似ているように思える。
少し脱線したので、先にあげた29〜30頁の文章に戻りましょう。この文章だけを読むと、著者の言う「世界哲学」とは、ローカルな哲学が先にあってそこからボトムアップに構成されていくものとして考えられているように思える。でもそれなら「世界哲学」と名づけるより、たとえば「共通哲学」とか、「国際哲学」のような言い方のほうがよかった気もする(命名センスがないことは別として)。「共通」という言い方は、まず個々の事物(この場合は各国のローカル哲学)が先に存在していて、そこから共通の要素を見出すというボトムアップ的な性質を示唆するし、複数の国家に関係していることを意味する「国際」という用語も、「世界」という言い方とは違って「国」のほうが先に存在することを前提としているからね。著者はこの新書本の最後のほうで、「世界哲学という対話がけっして他者への押し付けや言論の暴力にならないように注意を払いつつ、何が必要でどう議論すべきかを慎重に考えていきたいと思います(336頁)」と書いているんだけど、「世界哲学」というトップダウンを示唆する大上段に構えたような言い方がされると、私めはどうしても押し付けや言論の暴力になりがちな印象を受けてしまうのですね。
それはそれとして、著者はこの世界哲学を日本で実践することの意義を次のように述べている。「従来哲学の本拠地とされてきたヨーロッパや北アメリカ、とりわけイギリスやフランスやドイツやアメリカ合衆国といった中心地では、どうしても自国の哲学が中心となり他の哲学伝統を周縁として扱う構図になりがちです。それは、英語やフランス語といった言語の制約でもあります。他方、東アジアで別の哲学伝統を誇ってきた中国でも、どうしても中華思想から他を周縁として捉えがちになります。その点、両文化の周縁にある日本は最適な位置にあります。東アジアにおいて中国から儒教や道教を、そしてインド起源の仏教を取り入れて古来の土着文化と融合してきた一方で、近代には東アジアで西洋哲学を摂取する先陣を切ってきました。多様な他の伝統に開かれた日本は、世界哲学を遂行するには望ましい場だと言えるでしょう(35頁)」。まあその意味では哲学に限らず、よく言われるように他国産の事物や思想を魔改造するのが得意な、恐るべき多文化消化マシンたる日本は、著者の言う「世界哲学」を構築する場所としては最適と言えるのかも。
それから哲学の進化との関連が述べられている箇所は興味深かった。次のようにある。「ここで科学との関係で考えておくべき問題がもう一つあります。進化論による人類の進化という観点です。生物としての人類の進化がこれまでの哲学の議論を変える可能性があるとすると、それは知性と倫理という二点でしょう(150頁)」。ここでは、ヒューゴ・メルシエやダン・スペルベルらの認知科学者の業績とも関連して、とりわけ私めが関心を抱いている、「知性」を進化的にとらえる見方のみを取り上げることにする。次のようにある。「生物進化が単なる理論的仮説ではなく、DNA分析などで実証的に示されるようになると、人間もアミノ酸が合成されて発生した生物の一形態であり、動物や植物や微生物といった他の生物と共通の祖先から進化した存在であること、したがって人間に特権性があるわけではないことが意識されてきました。¶すると、人間の理性や知性が従来のように神的起源の絶対的なもので、普遍的真理へのアクセスを保証するものだとは前提できなくなり、他の能力と同様に生物進化の結果獲得された一能力だと見なされるようになります。それは、環境への適応という生存競争において形作られた、特殊な生き残り戦略という見方です(150頁)」。とりわけ二段落目(「¶」が段落替えを意味する)の「人間の理性や知性が、(…)他の能力と同様に生物進化の結果獲得された一能力だと見なされる」というくだりに注目されたい。それと同じ考えをもとにして書かれているのが、先にあげたメルシエとスペルベルの共著『The Enigma of Reason』なのですね。この本の内容は何度も取り上げているのでここでは説明しないけど、「理性(reason)」を進化的に獲得された「直観(intuition)」に包摂されたものとして捉える彼らの見方は非常に重要だと個人的には考えている。それと似たようなことは、新書本でも先の引用の直後に次のように書かれている。「しかし、進化を考慮に入れるプラグマティズムで「知性」や「真理」を捉えるとしても、必ずしも従来の絶対的な真理や哲学と非両立なもの、あるいは対立するものと見なす必要はありません。例えば、人間が他の動物とは異なり、特定の感覚を研ぎ澄ませるのではなく共通感覚的な総合把握を重視し、知性による抽象的な思考を展開してきたと考えることもできます(150〜1頁)」。著者は「共通感覚的な総合把握」と述べているけど、私めなら「進化によって獲得された人類共通の直観能力に基づく把握」と言い換えたいところ。そしてメルシエ&スペルベルによれば、この直観能力には理性的な働きも包摂されているのですね。だからこそ「知性による抽象的な思考を展開」できるわけ。もしかして新書本の著者は『The Enigma of Reason』を読んでいるのかもね。
ただしその少しあとにある、次のような記述にはちょっと疑問を感じた。「もし人類という生物種が、進化の過程で環境適応のために「知性」や「理性」と呼ばれる能力を発展させ、とりわけ教育や文化を世代を超えて伝承させることを可能にしてきたとしたら、人間が神的な知性を宿して別格にあるというかつての見方は崩れ去りますが、それだからと言って「知性は客観的で絶対的な真理とは関わらない」という帰結は生じません。人間という生物種がたまたま発展させた能力が、この世界、つまり宇宙と地球に成り立っている法則や原理を的確に捉えるものであり、それが人間を他の生物にまして繫栄させる要因になったと考えても差し支えないからです。¶つまり、人間が進化の過程で獲得してきた能力としての「知性」が、後天的なものだからといって相対的だと考える必要はありません。知性が捉えるのが普遍的な真理や法則や原理であると考えることは、依然として可能なのです(151〜2頁)」。ということは、著者は「客観的で絶対的な真理の存在」を前提としていることになるように思える。この文章に至るまでの議論では、普遍性とは、進化の過程を経て、基本的にはあらゆる人間に備わっている理性や知性によって得られた人類共通の理解能力によって捉えられた、まさにその範囲での共通了解としての普遍性という意味でとらえることができると思うけど、さらにそれに加えて「客観的で絶対的な真理」などというものを想定する必要があるのだろうかというのが私めの疑問。要するに、「知性が捉えるのが普遍的な真理や法則や原理であると考えることは、依然として可能」であったとしても、なぜわざわざそう考える必要があるのかがよくわからないということなのよね。まあポストモダン的な何でもありの相対主義は、私めも問題だとは思うけど、だからと言って先に述べたような共通了解としての普遍性を超える「客観的で絶対的な真理」などというものを想定する必要がそもそもあるとはどうしても思えない。というか「客観的で絶対的な真理」なるものが仮にあったとしても、それをわざわざ持ち出す必要はない、別の言い方をすれば説明として冗長、あるいは英語で言えば「irrelevant」であるような気がする。あるいは、そのあとにも次のような記述がある。「つまり、人間の歴史性や特殊性を超えた普遍性があり、人間はそれに出会い自分のものにしてきた、それが進化である、という見方です(153〜4頁)」。要するに進化の過程とは別に、「人間の歴史性や特殊性を超えた普遍性」が先に存在していて、それを捉える知性という能力が進化したことで、先に存在していたこの普遍性が把握できるようになったということらしい。でも、なぜそのような普遍性が先に存在していなければならないのかが、ようわからん。進化の過程を通じてあらゆる人間に備わる、知性という人類共通の能力を用いて捉えたという事実だけでも、その範囲での共通了解としての普遍性は確保できるような気がするんだが、違うのだろうか? ポピュラーサイエンス本の翻訳者としての個人的な感想をあえて述べれば、せっかく進化に言及しているのに、著者自身が進化生物学者ではないからか、デネットさんのように「万能酸」などという言い方をする必要はないとしても、進化生物学が持つ説明力を過小評価しているのではないかという印象さえ受ける。「共通哲学」や「国際哲学」ではなく「世界哲学」という言い方をしているのも、著者の頭のなかでは、普遍性のとらえ方に関して、進化生物学的な見方と実在論的な見方が揺れていて、結局その揺れが後者に傾斜した状態で顕現した結果であるようにも思える。いずれにせよ、この手の議論を読むと、何千年も前にプラトンさんがかけた魔法から、まだ目覚めていないという主旨の誰かの言葉をどうしても思い出してしまうのは確かだよね。
最後に著者の言う世界哲学を実践するにあたっては対話を重視すべきとする、著者の次のような提言を紹介してこの新書本の紹介を締めくくることにしましょう。「言葉は相手に向けて発せられ相手から受け取ることで、そのやりとりを通じて変わっていきます。それが私の思考を形作るのだとしたら、対話なしにまず思考や哲学が存在すると考えることは間違いです。この点を強く意識して見直すと、対話を遂行することで哲学自体が変容すること、あるいは、対話が私たちの思い込みを揺るがし、しばしば私自身を変えることに気づきます。世界哲学は、まさにそんなあり方を目指しています。¶哲学的に定義すると、対話とは完全に対等な二者の間でのみ成立する相互の言葉のやりとりです。世界哲学においては、西洋哲学という一強にどう対抗して対等な他者性を確保するかが極めて重要になります。植民地主義や英語一元支配など、多くの不平等や無視が広まっていた哲学の世界で、異なる主体が参画し、しかも完全に対等に言論を交わすことが必須だからです。そこに世界哲学の可能性がかかっています(330〜1頁)」。率直に言えば、ここで言われていることはごく当然のことのように思われるけど、これまでの哲学では、そのごく当然のことができていなかったということなのでしょう(それでは飲み屋での政治談議レベルじゃんって言いたくなるけどね)。いずれにしても対話の重要性を強調するのなら、余計に、実際に存在するか否かは別として「客観的で絶対的な真理」などというものを前提にするのではなく、単に進化の過程を通して得られた、人類のほぼ誰もに備わる共通了解の能力を駆使して対話を通じてとらえられたものとして普遍性を担保するだけで十分なのではないかと思う。そもそも「客観的で絶対的な真理」なるものを将来誰もが把握できるようになれば、対話など無用になるということだよね。また逆に未来永劫そんな能力が人間に進化することはないのなら、対話によって共通了解を得ることが、普遍性を確保するための唯一、もしくは非常に重要な手段になる。ならば、「客観的で絶対的な真理」などといった実在論的概念は、本書の文脈では持ち込まないほうが議論がすっきりするように思える。だから個人的には、「世界哲学」などといったトップダウンを連想させる言い方ではなく、「共通哲学」や「国際哲学」などといった言い方を採用したほうがよかったのではないかという気がするわけね。この本に限った話ではないんだけど、個人的には、哲学を始めとする人文系の本を読むと、なぜ認識の普遍性を問えばそれで済むように思われる話に、存在の普遍性の問題を持ち込むのか、言い換えるとなぜエピステモロジーの問題にオントロジーを持ち込むのかという疑問を抱くことが多い。とりわけ哲学においては、それは仕方がないということなのかな? でもでも、カントさんですら、カテゴリー論を展開するにあたって、物自体に関しては不可知論の立場を取っていたんだから、オントロジーを持ち込むことが哲学の必須条件であるなどということはないはず。なおこの新書本にはアフリカ哲学、分析哲学、東アジア哲学などといったローカル哲学に関する記述(章)があるけど、それについては一切触れなかったので、それらについては自分で本を買って読んでみてくださいませませ。ということで、今回は早めに切り上げることにしますら。
※2024年5月20日