◎山川偉也著『パルメニデス』(講談社選書メチエ)

 

 

ちなみに著者は、私めと同じ大学の同じ専攻(同志社大学文学部哲学専攻)の出身者のよう(年齢は私めより20歳以上年上だけどね)。

 

最初の「プロロゴス」でまどみちおの詩を取り上げて、「「{ある/傍点}こと」についてギリシアの大哲学者[パルメニデス]が言っていることは、この詩とほとんどなにも変わりません。そして、現代の物理学理論、アインシュタインのそれも、量子力学のそれも、べつだん、これにまさったことを言っているわけではありません(4頁)」と書かれているのを見て、「おおお! これはおもろそうだ」と思ったのですね。というのも、少し前に読んだ『The One』(Basic Books, 2023)という理論物理学者が書いた本で、古代ギリシアの哲学者や中世の神学者と、量子力学などの現代物理学との類似点が論じられて、それとの関連で何かおもしろいことがわかりそうだと思ったから(ちなみにその本でも何か所かパルメニデスに言及されていたけど、あまり彼に関する記述は多くなかった)。

 

でも読み進めていくうちに、このメチエ本の内容は私めを含めた一般読者にはえらくむずかしいということに気がついた。「第一章 海上を放浪する国」はパルメニデスの故国エレアに関する歴史的な説明だからいいとしても、「第二章 序歌」になると「アーテー」とかいう、たった一つの言葉をめぐって50頁にわたり、それをどう解釈すべきかが論じられている。どうやらそれによって「わたしによる「カタ・パンタ・アーテーィ」の新しい読みは、たんにパルメニデス詩の真の主題が「カタルモス[浄化]」であることを明らかにしただけではなく、「真理の道」と「思惑の道」が、大方の研究者たちが考えているように互いに断絶したものとしてではなく、当初から一体をなすものとして構想されていたことをも明らかにするであろう(112頁)」ということが言いたかったもよう。そのうちの「パルメニデス詩の真の主題が「カタルモス[浄化]」である」という点がこの第二章で論じられているのに対し、「真理の道」と「思惑の道」についてはそれぞれ第四章と第五章で論じられている。

 

ちなみに私めは第二章を読み終わった時点で完全に息切れ状態だったんだけど、貧乏性の私めはここでやめたらおじぇじぇがもったいないと思ったのと、前述のとおり著者が私めと同じ大学の同じ専攻出身者であることもあって結局本文はすべて読んだ。おぼろげながらわかったのは、パルメニデスの思考様式が「帰謬法」に基づいているということ。もっとも明確なのは「第三章 心理の道」の最後の部分「断片八における帰謬論法(164〜78頁)」の記述で、そこではプロタシス(前提)命題→帰謬法仮定→結論というフォーマットに沿って議論が展開されている。でも私めの見たところ、それ以外の箇所でもほぼすべてパルメニデスの帰謬法的論証が示されているように思えた。

 

一つだけ比較的わかりやすい例をあげましょう。次のようにある(なおHTML上では読みにくくなるので引用箇所内の傍点は省略した)。「想起しよう、断片八・五−六行において「あるもの」は、「今このときに、すべて一挙に一にして、連続せるものとして、ある」と言われたことを。その原初的で絶対的な「今」(ニューン)こそは、「《ある》の縛り」を体現するものとして、断片八におけるすべての論証の第一義的出発点となるものであった。他方で、生成・消滅するものごとはすべて、必ず、二つの「あらぬ今」を伴って起こる。「生成する」始点と終点を印す「今」、そして「消滅する」始点と終点を示す「今」である。「生成・消滅」ということには、必ず、「過ぎ去って既にあらぬ(過去の)今」と「来たらむとして未だあらぬ(未来の)今」とが相伴う。「生成・消滅」とは、現には「あらぬ」二つの「今」どもを始点・終点共通の端点として生ずる「惑わし」(断片八・五二行)の事柄である。そもそも「生成・消滅」という過程的で動的な事態は、パルメニデスによれば、これら二つのあらぬ端点としての「今」の間に延び広がる、「空間」まがいの「線形時間」を舞台とすることなしには成り立たないことなのである(203〜4頁)」。

 

この箇所でのプロタシスは「今このときに、すべて一挙に一にして、連続せるものとして、ある」であり、それに対して帰謬法仮定として「生成・消滅するものごと」をあげこの仮定が「惑わし」であることを論証して、もとのプロタシスの正しさが証明されるって構成になっているというわけ。

 

しかしおもしろいのは、パルメニデスが「まやかし」や「まどわし」を人は学ぶ必要があると主張している点。著者によればその理由として、「(1)「真理」と「思惑」の相関関係の意味は、「万有を貫きわたる《全》」の観点に立脚して学ぶのでなければ、明らかにならない。(2)「思惑」が「まどわし」である所以は、それを「真理」との関連において学ぶのでなければ明らかにならない(208頁)」という二つの可能性をあげている。

 

そして次のように結論して「第四章 思惑の道」を閉じている。なお同様に傍点は除去した。「「あるもの」への回路としての「帰謬法仮定」は、「思惑の道」の{存在理由/レゾンデトル}である。(…)だが、「思惑の道」は廃棄しえない。何故なら、それは「アーテー女神」(断片一・三行)が死すべき者の世界に落とした永遠の影(エオイコタ、断片八・六〇行)だからである。その影は、人間が自分自身を「レーテー」(忘却)の淵に投じてしまわないかぎり、「世界秩序の連環のまことしやかな全容」(断片八・六〇行)をそのつど写しだすものとして、いつまでも、「ア・レーテイア」(真理)の岸辺に繋留されつづけるだろう。何故ならそれは、死すべき者・青人草に「モイラ」(運命)が負わせた「二重の責務」の消しがたいスティグマ、人間が人間であるかぎり荷負いつづけなければならない永遠のトラウマであるからである(238頁)」。ちなみに「青人草」は万葉集からもじったらしいんだけど、ここではとりあえず無視してもよいでしょう。

 

私めの勝手な解釈なんだけど、この提言は一種の弁証法のようなもので、死すべき存在としての人間は、「真理」を一挙にとらえることなど不可能であり、「帰謬法仮定」を想定しながらアルゴリズミックにとらえていくしかないということなのでしょう。世の中には「自分こそ絶対に正しい」と思い込んでいる人があまたいるけど、そういう人々は、そもそも死すべき人間は、誤りを前提しなければものごとの真相を把握することなどできないという真理をここから学ぶべきでしょうね。

 

最後に一般的な印象をつけ加えておくと、一般読者はよほど心してかからないと興味をつなぐのがむずかしいのではないかと思える。選書にしてはちょっと専門的にすぎるというのが正直なところ。

 

 

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※2023年4月28日