◎鈴木祐丞著『〈実存哲学〉の系譜』(講談社選書メチエ)

 

 

アマゾンのワンクリで買った本だから気づかなかったんだけど、最後に初出一覧がありどうやら書下ろしではないらしい。通常なら、書下ろしでない本は敬遠するところだが、アマゾンで買ったから気づかなかった。

 

それはいいとして、ここでタイトルにある実存哲学が〈〉で括られている点に注意されたい。なぜ〈〉で括られているかというと、一般に使われている実存哲学や実存主義の意味とは異なる意味で使われているからのよう。たとえば「ソクラテスを源泉とし、キェルケゴールが練り上げた〈実存哲学〉の精神(195頁)」とあるように、それはキェルケゴールの正当な後継者と著者が見なす哲学者の考えを指すらしい。

 

だから実存主義哲学者の代表格として一般に見なされているはずのサルトルは、最初のほうでわずかに取り上げられているにすぎない。たとえば次のようにある。「まとめると、サルトルは、「無神論的実存主義者」としてキェルケゴールのキリスト教的文脈を無視することはもとより、議論の構成の違いにもさほど留意することなく、キェルケゴールの実存の思想から、自らの現象学的存在論の構築にとって有用と思われるアイデアを自由に転用したと言えるだろう(53頁)」。

 

要するに、サルトルはキェルケゴールに参照はしているものの、自分に都合のいい部分だけをチェリーピッキングしたのであってキェルケゴールの正当な後継者ではない、すなわち実存主義哲学者ではあっても著者の言う〈実存哲学〉を体現する哲学者ではなかったと、著者は考えているらしい。

 

ちなみに私めは、キェルケゴールをまったく読んだことがない。その理由は、最初に彼の主著の一つである『死に至る病』を読もうとしたとき、このメチエ本の24頁にも引用されている、「人間とは精神である。では、精神とは何か? 精神とは自己である。では、自己とは何か? 自己とは関係であるが、関係がそれ自身に関係する関係である。……¶このような派生された、措定された関係が人間の自己であり、それは、それ自身に関係し、それ自身に関係するときに他者に関係する、そのような関係なのである」という、確か冒頭付近にあった、「関係」が跳梁跋扈する文章を読んで頭がクラクラして「ボ、ボクにはこんなのわけがわからん」と思ったから。

 

今なら何が言いたいのかある程度は見当がつくけど、当時は学生だったし到底理解できる代物ではなかった。またキェルケゴールの思想は、キリスト教信仰をベースとしている部分があるので、その点でも敬遠していた部分もある。

 

メチエ本に話を戻すと、ではキェルケゴールの正当な継承者として著者が誰を指名しているかというと、なんと通常は実存哲学の文脈で語られることがまずないはずのウィトゲンシュタイン、それも後期ウィトゲンシュタインなのよね。で、著者は『論考』の前期ウィトゲンシュタインと『探究』の後期ウィトゲンシュタインのあいだにキェルケゴールを挟み込んで、ウィトゲンシュタインの思考の転換を説明している。

 

前期に関しては、たとえば次のようにある。「『論考』では、「理想」(論理)こそが言語と世界の基本構造を定めているとされ、現実の言語(日常言語)はその秩序から外れているわけではないものの、それをときに不明瞭な仕方で反映するとされるのであって、それゆえそこでは「理想」が現実を反証してしまうことになる(182頁)」。

 

その前期からキェルケゴールの読解を経たあとの後期では次のような考えに変わったということらしい。「だが、ウィトゲンシュタインは生の思考を通じて、「理想」を現実に見出そうとすること、理想的キリスト者像[トルストイの理想主義的見方を指す]を自分が体現しようとすることの不誠実さを認識し、むしろ「理想」を自分から切り離し、それを自分との比較の対象に据えることで、不完全なあるがままの現実の自分を誠実に自認すべきことを学んだ。そして彼はここで、言語・論理をめぐる思考にあっても、同じように「理想」と関わるべきこと、すなわち「理想」(理論(的概念))を現実に見出そうとすべきではなく、立脚すべきはどこまでも現実であり、「理想」はそれとの比較を通じて現実をよりよく認識するためのものであるべきことに気づいたのである(182頁)」。

 

さらには次のようにある。「(…)言語の本来的な姿を完全無欠な「理想」(論理/理論(的概念))のうちに探し求め、そこに立脚して、多様性をもった現実(日常言語)のあり様を見下ろそうとする態度を、彼に根付きつつある誠実さがもはや彼に許さないのである。現実の言語のあり様を根底で規定しているはずの「理想」をめぐってあれこれ思索を重ね、そこで構築した理論体系を言語の本質と見なし、かくして現実ではなく「理想」の世界に住まうような知的態度――(…)――は、「英雄」・「理想」にあこがれてそれを追い求め、そしてあたかも自分がその類縁者であるかのように演じ、それとはかけ離れたあるがままの現実の不完全な自己から目を逸らし、それを誠実に自認しようとしない精神と同質的である(183頁)」。

 

このことは政治的言説を含め、いかなる言語実践に当てはまると私めは思う。現在ではSNSのみならず主流メディアでもその種の不誠実な言説が跳梁跋扈していることは言わずもがなだよね。

 

ということでウィトゲンシュタインがおもに取り上げられている「第V部 〈実存哲学〉の系譜」はとりわけ興味深かったし、いくつかあげた引用からもわかるように(ただし『死に至る病』からの引用は除く)、哲学の本とはいえそれほど難解ではない。ただし一般的な実存主義哲学入門を期待していると肩透かしを食わされたように感じるでしょうね。

 

 

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※2023年4月28日