◎上野正道著『ジョン・デューイ』(岩波新書)
デューイと言えば、個人的には哲学者というより教育学者的な印象が強かったから、これまで一冊も著書を読んだことがなかった。この新書本でも教育関連の記述が多く、その点ではそこに興味があるわけではない私めには正直おもしろいとは思えなかった。
ただ一つわかったのは、デューイは、リベラリストはリベラリストなのだろうけど(ここでは触れないけどリベラリストという用語には錯綜した歴史があるので誤解を招きやすいのは確かだけどね)、現代で言えばサンデル氏らのコミュニタリアンに近い発想もしていたということ。
その点では、「第6章 コモン・マンの教育思想」がなかなかおもしろかった。一つだけ引用しておきましょう。「デューイがリベラリズムの伝統を変革するポイントにあげたのは、ロックからレッセフェールへと向かう経済的個人主義を克服することであった。デューイは、ロックのように社会的な関係や行為と対立するものとして個人の自律性を据えることをしなかった。彼によれば、リベラリズムの{脆弱/ぜいじゃく}さは、それが個人と社会を対立させる政策を招いたために、人びとの「社会的行為」や「社会的知性」を組織化する必要性に迫られたときに無力になったことにある。デューイは、格差や貧困の拡大など、レッセフェール的な個人主義のもとで深刻化した問題を、人びとの相互関係やコミュニケーションを基礎にした社会的行為や社会的知性の組織化によって解決しようとした(196頁)」。
現代の日本では個人の自律性を重視するあまり、自分に都合のいいときにだけ「XXの自由」を連呼する人々が大勢いるけど、個人の自律性はデューイの言う社会的行為や社会的知性によって補完される必要がある。
そのことは日本国憲法の規定でも変わらない。たとえば個人の自由を規定した最初の条項第12条には次のようにある。「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」。
前半の部分が個人の自律性を、後半の部分が社会的行為や社会的知性の必要性を謳っていて、まさにデューイの主張とも整合している。ところがなぜかこの後半部を閑却して、「XXの自由は憲法で保障されている国民の権利だ」とか言い始める人があとを絶たない。もちろんこの言い方それ自体が間違っているわけではないけど、要は自分にとって不都合な後半を「切り取って」都合よく憲法の条文を利用している人が多いということ。
いずれにせよ、デューイという人物がきわめてバランスのとれた思想家だったということが本書を読んでよくわかった。
※2023年4月28日