地球の静止する日 ★★☆
(The Day the Earth Stood Still)

1951 US
監督:ロバート・ワイズ
出演:マイケル・レニー、パトリシア・ニール、ヒュー・マーロー、サム・ジャフェ



<一口プロット解説>
宇宙の彼方からやってきた円盤の中から宇宙人クラトゥが降り立ち、全世界が彼の一挙手一投足に注目する。

<入間洋のコメント>
 「地球の静止する日」は、残念ながら数年前に91才という高齢で亡くなったロバート・ワイズの監督作品であるが、彼にはオール・マイティである印象が強くあり、あらゆるジャンルで傑作或いは傑作とは言わないまでも優れた作品を数多く手掛けている。たとえば「ウエスト・サイド物語」(1961)、「サウンド・オブ・ミュージック」(1965)と言えばミュージカル映画の傑作であり、ホラー映画では「たたり」(1963)というカルト的な作品があり、戦争映画では「深く静かに潜行せよ」(1958)や「砲艦サンパブロ」(1966)があり、またドラマではスーザン・ヘイワードがアカデミー主演女優賞を受賞しオーディエンスに強烈なインパクトを与える「私は死にたくない」(1958)を挙げることが出来る。SFというジャンルにおいてもここに取り上げる「地球の静止する日」という、これまたカルトクラシックの誉れ高い作品があり、またあまりメジャーではないがマイケル・クライトン原作でドキュメンタリータッチが素晴らしい一品「アンドロメダ・・・」(1971)も彼の監督作品である。

 実を言えば1950年代前半には、「地球の静止する日」の他にも後年になってカルトクラシックと呼ばれるようになるSF映画がいくつか製作されている。たとえば、「地球最後の日」(1951)、最近スティーブン・スピルバーグによってリメイクされた「宇宙戦争」(1953)、個人的には子供の頃TV放映で見たことしかないが「宇宙水爆戦」(1955)、それから日本劇場未公開であるが「It Came from Outer Space」(1953)等が挙げられる。これらの1950代初頭のSF作品に共通して言えることは、有名なスターが出演していないことと、上映時間が90分前後とどれもそれ程長くはないことである。また勿論現在のように特撮技術が発達していなかったという事情を考えてみれば当然のことではあるが、どこか垢抜けしていない印象がある点でも共通している。たとえば落下した隕石により発生した火災が広がるのを服や消火器で消し止めようとする「宇宙戦争」冒頭のシーンは噴飯ものであり、「地球最後の日」のラストシーンはペインティングであることが誰の目から見ても分かる程稚拙であり、「It Came from Outer Space」の宇宙人はグロテスクを通り越して滑稽ですらあるというような具合にである。また、「地球の静止する日」の冒頭シーンで飛来するUFOは現在の目にはいかにも稚拙に映る。但しこれらの点に関しては、殊に回顧的な目から見た場合にはプラスになる場合もあり、いわばキッチュな魅力があるというような言い方が出来ないこともない。しかしながら、そのような言い方はこれらの作品の製作者が本来意図していた価値基準とは全く異なる観点からの評価であることが忘れられてはならない。

 では何故そのような技術的には稚拙とも言える当時のSF映画が現在ではカルトクラシックとしてもてはやされるのであろうか。「地球の静止する日」を見ていると少なからずその理由が理解出来る。すなわち当時の映画はもともと技術的な限界があることは明白であったので、目で見てスペクタクルであるか否かというような点よりも、ストーリーの進行に重きが置かれていたからである。これは当時の映画においてはすべからく視覚的効果が無視されていたということを意味するのでは無論なく、実を言えば事実は全くその逆であり「キング・ソロモン」(1950)のレビューでも述べたようにカラー映画が本格化し始めた当時はむしろ視覚効果が意図的に強調される作品も多かったと言う方が正しい。しかしSFというジャンルは極めて特殊なジャンルであり、UFOや宇宙人などというもともとこの世に存在しないものをいかにリアルに見せるかという命題は、冒険活劇や歴史劇とは全く別の次元に属し、そのような対象を未熟な技術で下手に視覚効果を狙ってカラーで撮影すれば出来上がった映像がゲテモノ的に見える危険を冒すことにもなり兼ねないのである。

 そのような理由もあってか、「地球の静止する日」では視覚効果よりもストーリー展開を優先させる方向が取られており、そのことはこの作品が白黒で撮影されている点にも如実に示されているが、この作品のストーリー進行の巧みさは、次のような点に見出せる。たとえば、今から見れば稚拙であるとはいえ視覚的には最も効果のあるUFOの飛来シーンと、それに続いてUFOの内部から宇宙の大使(マイケル・レニー)と一体のロボットが現れ、これから一体何が起こるのであろうかと手に汗握る緊張感溢れるシーンを冒頭に配置することにより観客の視線をまず釘付けにし、以後この宇宙の大使が一体何のために地球にやって来たかを明かさないままストーリーを進行させ、オーディエンスの興味を高いレベルで持続させながらシンプルにストーリーを展開させる絶妙なストーリーテリングなどにおいてである。これは、現在のSF大作がともすると視覚効果、音響効果による臨場感に大きな焦点が置かれるが故にストーリー展開が物足りなく見えることがしばしばあるのとは全く逆である。加えて配役が絶妙であり、この映画でマイケル・レニーが主人公のクラトゥを演じているのは、ストーリー展開の妙味という観点から言っても大きなプラスである。というのも、マイケル・レニーというイギリスの俳優を知る人は現在でもあまり多くはいないのと同様、当時にしたところで少なくともアメリカでは未知の俳優であり、特定の俳優が持つ既成のイメージによって、ストーリーが本来持つイメージが歪められたり、ストーリーの行方が知らず知らずの内に暴露されたりすることがないからである。クラトゥ役には、スペンサー・トレイシーを配するという話もあったようだが、スペンサー・トレイシーのような一般に広く知られ、そのスタイルがオーディエンスの間でも熟知されている俳優がクラトウを演じていたならば、好む好まざるに関わらず先の展開が見えてしまったであろうことを考えると、マイケル・レニーの起用は大正解であったことが理解出来よう。

 話は全く変わるが、「地球の静止する日」は東西冷戦が始まって間もない頃に製作された作品であり、そのような事情もあってか、クライマックスを構成し何の為に彼が地球にやってきたかが明かされるラストシーンでのクラトゥの演説にはかなり当時の政治状況が反映されているように思われる。けれども、宇宙の平和を全能のロボットの持つパワーによって維持しようという趣旨の彼の演説は、どうにも現在の耳で聞くとナイーブに聞こえる。というのも、これは核の抑止力によって平和が維持出来ると考えていた、あの1950年代以後40年に渡って繰り広げられた東西冷戦の一種のカリカチュアであるかのようにも響くからである。核の抑止力によって世界の平和を維持しようという考え方は、ポーカーゲームに喩えればブラッフによって平和を維持しようとするのと同じことであり、ブラッフがブラッフであることを誰もが知っている状況でブラッフをしなければならないという、論理的にはほとんど成立不可能な前提に依拠していることを考慮してみれば、それがいかにナイーブであったかが理解出来るだろう(脚注参照)。しかしながら、かくして当時の政治的な状況が透けて見えるこのクラトゥの演説は、その当時から50年以上が経過した現在の目から見れば1つの歴史的な証言の1つに見えることもまた間違いないところである。映画とは歴史の証人にも成り得るのである。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

脚注:キアヌ・リーブス主演のリメイク(2008)が公開されたこともあって、いつもより参照される回数が増えたのか、最近たて続けにこの部分のコメントに関する疑問がメールで寄せられ、これからも同じ疑問を抱くビジターもいることと思われるので簡単な説明を加えておきます。上の文章は3年以上前に書いたもので、実は現在ではやや強引であったように考えています。というのも、クラトゥは宇宙の国際連合ともいえる機関の代理人なので、世界をまっ二つに二分した東西冷戦のメタファーであるかのごとく単純にストーリー全体を捉えるのは無理があるからです。しかしながら、「地球の静止する日」(1951)がナイーブに見える印象は依然として変わりません。なぜならば、全能のロボット、すなわち無差別破壊最終兵器の持つパワーによって宇宙の平和を維持しようとするロジックは、それがどんな状況であれ現在では到底受け容れられないはずだからです。ラストシーンの演説の締めくくりに、人類が現状の攻撃性を捨てないのならば「地球は灰燼に帰すであろう(the Earth of yours will be reduced to a burned-out cinder)」、或いは「抹消に直面せねばならない(face obliteration)」とクラトゥが脅すように警告していることからも明らかなように、クラトゥの操るロボットのゴートは、「クラトゥ バラダ ニクト」というかの有名な意味不明の呪文を唱えない限り、一度破壊活動を始めたならば誰にも止められない無差別破壊最終兵器なのです。平和維持或いは平和を取り戻すことを大義名分とした無差別破壊は、第二次世界大戦中は連合軍側ですら行っていました。確かに、現在ではドイツであろうが、日本であろうが攻撃的な軍国主義が正しかったとは一般には考えられていないはずですが、だからと言って戦争終結を早めることを口実として連合軍が行ったドレスデン爆撃や、広島、長崎への原爆投下、すなわちドイツ国民や日本国民を灰燼に帰したり(reduced to a burned-out cinder)、抹消に直面(face obliteration)させたりすることが正当化されることはないはずです。つまり、「正しい戦争と不正な戦争」(風行社)のマイケル・ウォルツァー流に言えば、無実の民間人が虐殺される結果になる無差別破壊は、どんな理由であれ「正しい戦争」の遂行手段として正当化され得ないのです。そうであれば、ましてや平和を維持することを目的とした宇宙の国際連合が、ゴートのような最終兵器の力を利用して権力を行使することは許されないはずです。なぜならば、一度ゴートが始動してしまえば、必ずや無実の人間が大勢犠牲になり、それでは平和維持の根本の意義が問い直されなければならないからです。つまり、一度始動されればゴートは、テロリストとの区別さえつけられなくなるはずであり、それでは自己矛盾が生じざるを得ないということです。或いは、せいぜいのところ、「地球の静止する日」の地球人のように事情を知らない新参者に対するブラッフとしてしか機能しないでしょう。そうではなく、たとえ平和を維持する為には暴力的な手段が避けられなかったとしても、それは、ゴートのような無差別破壊最終兵器によってではなく、まさに患部を精密爆撃で除去するような手段によってでなければならないはずです。勿論、アメリカがイラク爆撃でいくら精密爆撃を主張しようが、民間人の犠牲者が数多く出ていることは事実であり、患部だけを除去することがたやすいはずはなく、またそもそもどこが患部であるかの特定すら容易ではないはずであり、更に言えば誰がそれを決定するのかも大きな問題です。だからこそ、マイケル・ウォルツァーのような御仁がオピニョンリーダーとして登場し、「正しい戦争」とは何かが侃侃諤諤と議論されているのです。いずれにしても、ゴートのような最終兵器の力を利用して平和を維持しようとするロジックは、もし最終兵器が実際に機能してしまえば、一刻も早い平和の回復を口実として実行された連合軍によるテラー絨毯爆撃や原爆投下を正当化したロジックからそれ程大きく隔たってはいないように思われ、また最終兵器を機能させないのであれば、核の抑止力というブラッフロジックを最大限に利用した米ソのパワーポリティクスと大差がないように、少なくとも個人的には思われるのです。(2008/12/24 追記)

2005/03/19 by 雷小僧
(2008/12/24 revised by Hiroshi Iruma)
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