日本映画データベースを増補 森崎東アーカイブズ
製作=松竹(大船撮影所)
1964.04.29
7巻
2,433m カラー ワイド
製作 | 杉崎重美 | |
監督 | 野村芳太郎 | |
脚本 | 野村芳太郎 (森崎東) | |
撮影 | 川又昂 | |
音楽 | 野村芳太郎 | |
美術 | 宇野耕司 | |
録音 | 栗田周十郎 | |
照明 | 三浦札 | |
出演 | 渥美清 山本圭 壺井文子 長門裕之 横山道代 原知佐子 宮城まり子 |
拝啓総理大臣様 配役と略筋 Variety Japan ◇キャスト 渥美清=鶴川角丸、壷井文子=村瀬アヤ子、長門裕之=東京ムーラン、 横山道代=東京ルージュ、原千沙子=杉本のり子、山本圭=杉本信一、 加藤嘉=菰田三五郎、宮城まり子=菰田うめ、千石規子=菰田たつ子、 三津田健=ルージュの父・藤原、山路義人=座長梅五郎、明石潮=頭取徳さん、 穂積隆信=交通係重山、中村是好=中央芸能社長、上田吉二郎=酔っぱらいの客、 花澤徳衛=浴場主任松本、玉川伊佐男=労災病院医者、ミス・ワカサ=漫才師 島ひろし=漫才師、穂積隆信=空港警備通訳 ◇解説 「続拝啓天皇陛下様」の野村芳太郎がシナリオを執筆、監督した喜劇。撮影もコンビの川又昂。渥美清の拝啓シリーズ第三弾、同時上映は山田洋次監督・ハナ肇主演の『いいかげん馬鹿』。 ◇ストーリー (茶色字は池田博明が修正した箇所) 角丸は 一方、角丸の昔の相棒、ムーランは、妻のルージュと組んだ時事漫才「拝啓総理大臣様」が当って今をときめくテレビタレントだ。人が良すぎて要領の悪い角丸だが、彼の師匠、鶴松の死に会って発奮し、もう一度晴れの舞台を飾ろうと上京した。 東京に着いた角丸は、早速昔の相棒ムーランに会いに行くが、そのころムーランは、やきもちやきの妻ルージュに浮気の現場をおさえられて、てんやわんや。そんな時、角丸が会いに来たのでは相手になってくれるはずがなかった。 それでも昔の友情から角丸に芸能社を世話してくれたが、その職場はボイラー焚きだった。くさった角丸は、自分の才能に絶望してヤケ酒を飲む毎日が続いた。 村から村へと流れ歩き、笑いをふりまく二人だったが、その後姿はさびしかった。 そのころムーランは、週刊誌にスキャンダルを書きたてられ、ルージュとの離婚話が持ちあがっていた。ムーランの相手の杉本のり子(原知沙子)には脊髄損傷で歩けなくなった弟がいた。彼女は弟の世話をしていた。ルージュにいや気がさしたムーランは、角丸を呼び帰して、テレビに出演したが、初めてのテレビ出演ですっかりあがった角丸のために失敗した。 タツ(千石規子)の店でヤケ酒で酔っ払った角丸。店から出て米軍の車に轢かれそうになったうめ(宮城まり子)はケガをして脾臓を摘出、米軍から50万円の慰謝料を貰う。実は、うめはアヤ子の母親だった。それを知った三五郎はこのパン助がと怒る。米軍はアヤ子を女中にと申し出る。けれどアヤ子は角丸との慢才コンビを続ける道を選ぶのだった。 脚の悪い杉本信一(山本圭)は神奈川障害者訓練所の義肢科で研修中で、自律の道を歩き始めていた。 ムーランはルージュとの離婚を解消し、人気コンビは復活した。新聞を見ると交通事故の記事が多い。そのなかにひとつミニカーで酔っ払いがはねられて死亡の記事があった。菰田の三五郎が死んだのだった。うめはタツと一緒に酔っ払いの過失等で差し引かれてしまった死亡保険を受け取りに来ていた。 角丸は 【評価】 池田博明記 役者が怒鳴りあってばかりいるため、かなり、うるさい作品になっている。 怒鳴りあう原因は、ムーランとルージュがドツキすれすれの漫才という設定だったり、夫婦喧嘩が激しいという状況だったりする。菰田家の場合は加藤嘉が盗みで占領軍に殴られて耳の遠い酔っ払い役で怒鳴ってばかりいる、耳の遠い夫のために宮城まり子もセリフを怒鳴る。渥美清も口上を怒鳴るため、せっかくの口跡も後世の『男はつらいよ』のような余裕がない。黒人のアヤ子(壷井文子)に芸ができるはずもないから、ツッコミの渥美に対してただ「ハイ」と大声で答えるだけ、酔っ払いの客(上田吉次郎)に「ストリップやれ、黒んぼ」と怒鳴られ、怒ってつかみかかっていくという酷さである。出来の悪い漫才師の話だから、舞台の出来も悪いので、無残な感じがする。みていてつらい作品である。 |
野原藍編『にっぽんの喜劇えいが 森崎東篇』(映画書房,1984年)より 山根 助監督として最初についた作品は何ですか。 森崎 最初は『黒姫秘帖・前篇奪われた鬼面・後篇不知火の美女』(一九五六)という、芦原正監督の。松竹京都の組合の委員長だったですけど。芦原将軍ていわれてる人で。 山根 カチンコからやったんですか。 森崎 ええ、椅子持ちのカチンコ。 山根 やはり徒弟制度がきびしいという感じで……? 森崎 ええ、京都ですから。「とにかく人の顔を見たら"お早ようございます"と言え。誰でもいいから、お前らより偉くないのはぃないんだから」と言われました。 山根 多くついた監督は? 森崎 大曽根辰保さんです。というのは、ぼくはもう年齢を超過してましてね、二十五歳までしか松竹に入れないんですよ。それで公文書偽造しましてね。京大からもらったのをそーっと開けて、昭和二年生まれを五年に変えまして、それで<時代映画>って雑誌の同人でいらした大曽根さんに頼んで、縁故で……。それがバレたときの用心にってんで。だから大曽根さんについたことが多かったんですよ。 で、案の定、本採用までの期間にバレましたね(笑)。人事課長は別に自分の縁故で入れたい奴がいたらしくて。「お前、荷物まとめて、今すぐ九州に帰れ」なんて言われちゃった。それで今の芦原さん 採用するについて助監督部が権威持ってたんですよ、昔は。で、幹事にお願いして、身柄を組合で引き受けるみたいなことで、やっと首がつながったんですね。 大曽根さんは時代劇が多かったし、早く亡くなったんですけども、割合、影響は受けてるような気はしますねえ。 ただ時代劇ってなると、はじめっから拒否反応がこっちの中にありますからね。もう溝口さんなんかいなくなった後ですからね。だから、松竹の京都で現代劇はうんと少なかったんですけど、その中でわりかしぼくは、いろんな画策したんでしょうけども、少ない現代劇の中で多くついたってことですね。 山根 たとえばどんな? 森崎 野村芳太郎さんが多かったですよ。まず『伴淳・森繁の糞尿譚』(一九五七)、それから三本ぐらいついたなあ。『糞尿譚』はカチンコ打つのをやって、思い出の多い作品ですけど。『拝啓総理大臣様』(一九六四)ってのはホンも書いたですよ。 野村さんは『張込み』(一九五八)という名作を撮って、やる気充分のころでしたね。京都の徒弟制度じみた時代劇の世界、つまり芝居のしきたりみたいなものを知らないと、時代劇なんてのは困っちゃうんですけども それなんかはまったくなくて、しかも現代生活というものが当然生み出す屈辱みたいなものを含んでる作品、そんな現代劇でしたから、そういう意味では野村さんの作品につくのはひじょうに励みになったですね。 |
前田 陽一 ご健闘を祈る、ヒゲ戦友よ! (赤字は引用者・池田博明による) 私が松竹の大船撮影所に入社して間もなく、助監督の間で「京都に森崎あり」という声を耳にするようになった。もちろん、当時まだ存在した松竹京都の撮影所で、将釆を嘱望されている助監督としてであった。入社は私より三年くらい前だったはずである。 初めて本人を見たのは、私が助監督室の幹事をしていて、必要があって京都の助監督室の意見をききにいったときだったと思う。論議を戦わせる助監督連の中にハンチングを目深にかぶった野太い声の雄弁家がいて、一座をリードしていた。これが森崎さんであった。 “オトッツァン”というあだ名とか、京大時代学生運動の闘士だったとか、実家が九州の海運業であるとかが、なんとなく納得いく面がまえであった。 親しくなったのは、もう少し後である。野村芳大部監督が『拝啓総理大臣様』という映画を作るとき、私と森崎さんと、私と同期の大津侃也の三人が脚本作りに参加することになった。野村さんと一緒に箱書き(こまかいコンストラクション)を作りあげた段階で、私たちは箱書きに従って、三人めいめいが競合するかたちで一本ずつシナリオを書かされることになった。野村さんは三本のシナリオを見比べながら、適当に取捨選択して一本のシナリオにまとめるというわけである。きついことやらせるよ、野村さんは。 私たちは同じ旅館で机を並べ、一日のノルマを決めて同時に脚本書きに入った。三人の書いた原稿をプロデューサーが毎日とりにきて、野村さんが執筆しているホテルヘ運んだ。野村さんがまとめた完成稿を見て私は絶句した。それはほとんど森崎脚本そのままだったからである。私と大津の脚本はほとんど一行も採用されておらず、内心、自分の書いたものが一番いいのではないかと自惚れていた私にとって大変なショックであった。あらためて森崎脚本を読みかえしてみると、筆に一種の伸びやかさがあり、力があることは認めないわけにはいかなかった。もっともできあがった映画は野村さんの作品として、かなり不できのものになっていた。ざまみろ。この作業の間、毎晩のように酒を酌みかわして雑談にふけり親しくなった。 そのうち私は自分の脚本で一本目の映画を監督する幸運にめぐまれたが、間もなく松竹の大合理化がはじまり、閉鎖された京都の撮影所の助監督は大船に吸収されたり、配置転換されたりした。森崎さんは一時「脚本部員」という実際には存在しない不思議な部署に回された。私に手紙をくれ、脚本家としてやっていく決意をのべ、私の作品にも協力できればしたい、といってくれた。ちょうど会杜から中村晃子主演の次回作の企画を出すようにいわれていたので、森崎さんと二宮の旅館に二泊ほどして、ストーリィを考えた。中村晃子が横須賀のクリーニング屋の娘で、帰港する米軍航空母艦にモーターボートで注文をとりにいくようなシーンがあったのをおぼえている。残念ながらこの仝画は流れた。 数年後、私は会社から一本のシナリオを提示され、私にやる気があるかどうかという打診をされたことがあった。いいシナリオであったが松竹伝統のホーム・ドラマのややパターン化した感じがあり、それをどう自分のものにするかという点で迷いが生じ、しぼらく返事をしぶっているうちに監督が森崎さんに決まったということをきいた。その間の事情は知らないが、一度は自分の作品として考えたことのあるものを森崎さんが、どう料理するか興味があった。 その映画を、正直いって私はハラハラしながら観ていた。まずいな、へただな、俺よりへたな奴がいるもんだ、これは浦山桐郎以下だぞ。そのうち、おや、と思った。どの俳優の演技にも、共通した独特の力学みたいなものが働いている。これは彼等をあやつっている人間が、自分と同じ息づかいを彼等に息づかせ、自分の生理の中に生きることをかなり強引に要求した結果であることは明らかである。新人の第一作にもかかわらず、撮影現場で完全な独裁者と化している森崎さんを想像して頼もしく感じた。当時既に、演技者に対して独裁的な腕力をふるっていると感じる映画は少なくなってきており、同業者としてそのような作品を見るのは一種の快感なのであつた。そして、映画の巧さ、へたさなどというものが、映画の魅力と何の関係もないということに改めて思いを至した。 その後、森崎さんは松竹を去り、会う機会が少なくなったが、森崎組が撮人したというニュースを聞くたび、遮二無二現場をねじ伏せて“森崎映画”を作っていくあのヒゲづらがほうふつとしてきて、ついこちらの口もとがゆるみ、 「御健闘を析る」という言葉が自然に出てくる戦友めいた気分になる。 たまたま同じ撮影所で仕事していたり,脚本を書きに入った旅館で顔を合わせたりすると、たいてい酒になってしまう。はじめは、相手の仕事の邪魔にならないかと気を配りつつ始まるわけだが、そのうち度をすごしてしまい言いたい放題の酒となる。私はそうして森崎さんと飲むのを楽しみにしている。 (映画監督) (野原藍『にっぽんの喜劇えいが 森崎東篇』映画書房,1984年,pp.157-158) |