日本映画データベースを増補 森崎東アーカイブズ
製作=松竹(京都撮影所)
1960.11.30
5巻 2,030m
白黒 松竹グランドスコープ
製作 | 岸本吟一 | |
監督 | 森川英太朗 | |
脚本 | 森川英太朗 (森崎東) | |
撮影 | 川原崎隆夫 | |
音楽 | 真鍋理一郎 | |
美術 | 大角純一 | |
録音 | 舟野鬼子雄 | |
照明 | 山本行雄 | |
助監督 | 森崎東 | |
出演 | 森美樹 高千穂ひづる 山下洵一郎 渡辺文雄 |
武士道無残 略筋 (池田博明記) 白黒映画である。 砂丘を走り逃げてくる若侍(倉田爽平)、追手の侍たち6名に追いつかれて(ロング・ショット)、斬られたようだ。若侍は新吾、本多家の若君が亡くなったあとの殉死者に選ばれたのが嫌で逃げたのだ。吉村家一門はお家断絶、主人は打ち首となって、タイトル。 家老の脇田将監(渡辺文雄)は新たな殉死者を選ばなくてはならなくなった。幕府に殉死者が逃亡した事実は隠し、次の殉死者が決まるまでは何事もなかったようにと触れ回る。殉死者は誰でもいいのだ。 家老は榊原信幸(森美樹)の弟、十六歳の伊織(山下洵一郎)を選ぶ。 信幸は悩む。いつになく妻のお幸(オコウ、高千穂ひづる)に命じてヤケ酒を飲むほどだ。伊織は「(もっと適当な者がいるではありませんか)若君とは三度しか会っていません」といぶかしむが、もはや決定を変えることなど出来ない。我が子同然にも育ててきたお幸は「かわいそうだ」と哀れむ。 榊原家に奉公するおりん(桜むつ子)も権三(小田草之助)も伊織が不憫で仕方がない。 お城に兄弟で上がる二人。伊織は城中の持仏堂参籠へ。追善のため五日間の供養をするのだ。伊織の殉死決定で信幸は百石の加増と御側衆に抜擢された。信幸は辞退すると言うが、家老は「武士の生活はしきたりが第一、何事もしきたり通りにすごせばよいのだ」と諭す。伊織の為に白装束を縫うお幸は、伊織が墓参のため一日の宿下りが許されることになったことを知り、彼を青いつぼみのまま死なせたくない、「みごとに成人させて死なせたい」と夫に願い出る。 墓参に来た伊織を離れに誘い、固目の杯を飲ませて、お幸は「今宵、わたしと祝言を上げるのです」と言う。憧れだった義姉とそのようなことはできないと拒み、湖で身体を洗う伊織だったが、帯を解き、全裸になって近づく義姉を、伊織は抱き、激しく愛するのだった。ちなみに、1960年なのでバスト・ショット以上の全裸ショットはありません。 寛文3年5月23日、いよいよ殉死の日がやって来た。伊織は介錯人に信幸を指名する。家臣が見守るなか、いよいよと刃を握る伊織、義姉との交情が思い出されてためらっている。その時、老中からの御下命の書状が届く。藩士(中原伸)が読む書状には殉死・追腹を禁止する旨の通達が。 突然の中止が伝えられ、榊原家の奉公人たちは喜ぶが、妻お幸の気持は複雑だ。「いったいどんな顔をして二人を迎えればよいのだろうか」と。 家老は中間たちに伊織を自決防止のため囲い込めと命じる。信幸は既にお役目は終ったはずと家老に抗議する。ところが、伊織は逃亡したとの連絡が入り、家老は信幸に伊織を躊躇なく始末せよと命ずる。お幸は伊織を探す。二人の思いいれの場所、離れを探す。いない。松が並ぶ浜辺に伊織はいた。(Variety Japanの記述、 お幸は死のうと懐剣を伊織の体に突きさした。駈けつけた信幸の刄が、伊織を斬った。お幸は自ら懐剣をつきたてた。お幸は信幸を「寄らないで下さい」と拒絶して果てる。信幸は凝然と立ちつくした。 (他のキャスト) 天津七三郎=脇田慎吾、井上晴夫=慎左衛門、宮嶋安芸男=杢兵衛、 池田恒夫=万之勘、小川省三=一蔵、松本宗四郎=新七、依田智臣=嘉門、 月原一夫=竜馬、安住譲=兼良、永田光男=長井主水正、 藤間林太郎=重臣、五味勝雄=重臣、片岡市女蔵=重臣、尾上菊太郎=重臣、 田中謙三=重臣、笹川富士夫=重臣、光妙寺三郎=藩士、雲井三郎=藩士、 永井邦近=藩士、松原宏二=藩士 ◇解説 新人・森川英太朗が自らの脚本を監督した時代劇。森川監督は昭和六年生れ、慶大文学部卒後、三十年松竹京都に入社し、主に大曽根辰保監督に師事した。撮影担当は川原崎隆夫。 |
野原藍編『にっぽんの喜劇えいが 森崎東篇』(映画書房,1984年)より 山根貞男 森埼さんは助監督としてはどうだったんですか。有能だったんですか。 森埼 東 いや、無能でした(笑)。 山根 でも、やがてはチーフまで……。 森崎 ええ、やりました。ヌーベル・バーグがあたったんで、そのときの白井和夫さんだったかなあ 専務が、京都でもヌーベル・バーグでいくんだってわけですよ。それで、ぼくは森川英太朗ってのとわりかし親しくて。 山根 ああ、『武士道無残』(一九六〇)でデビューした監督。 森崎 その脚本を手伝ったんですよ。名前は出てませんけど。『武士道無残』は、田村孟の『悪人志願』だとか、自主的に書いた脚本を会社が採用しはじめたんです。大島渚の『愛と希望の街』も。 山根 そうです。『鳩を売る少年』という題で、<7人>というシナリオ雑誌に発表された。 森崎 それの京都版に載った『武士道無残』に会社が乗っかって、時代劇ヌーベル・バーグの第一発だってんで、ぼくがチーフですよ。セカンドもあんまりやったことなかったのが、ポンと。新人監督で親しいもんだから、お前やれ、みたいな。撮影になって、大島君、撮影所に来ましたねえ。激励にね。森山英大朗と高校がいっしょなんですよ。ぼくとは京大の自治会で知ってるわけだから。 それでぼくはチーフだから、『時代劇の新しい波』ってタイトルの予告篇をつくって、持ってったんですよ。本社で検閲があるんですよ、月森仙之助氏が製作本部長だったでしょうねえ。ぼくは本社にそういう形で行ったのは初めてですよ。東京駅からどういうふうに行っていいかよく知らなくて、東京温泉ってのがあるっていうんで、行ったんですよ、とりあえず(笑)。それでフィルムをロッカーに入れて、出て来て、何かおかしいなあと思ったら、フイルムを忘れていやがんの(笑)。 それを持ってって見てもらったらね、むつかしい顔してるわけ。ぼくは自信があったんですよ。ちょっとシャープな、ちょっとしたヌーベル・バーク的な予告篇だと思ってたわけ、そしたら首脳陣が集まってコチョコチョやりだして、だいぶ待たされて。で、「“新しい波”ってのは外せ!」「えっ、だってヌーベル・バーグの時代劇第一作で売るんでしょ、これは」「いや、そうだったんだけど外せ」と。「もっと馬の走りとかないのか、稲光りだとか。ギャンギャーンってのを入れろ!」「それじゃ昔の予告篇と同じようにつくれって言うんですか」「そうだ!」「そんなんじゃないって言ったじゃないですか」と喧嘩や。 その頃はもう松竹の首脳部がガラッと変わってたんですよ。だから『日本の夜の霧』の……大島渚はあれを撮ってる最中に来たのかなあ。 山根 そうだ、思い出しました。『日本の夜と霧』の公開が途中で中止になって、大島渚はそのことを京都で知ったんですよ。森川組の激励に来てて。そんなことを大島さんはどこかで書いてましたね。 森埼 やっぽり。『日本の夜と霧』の打ち切りといっしょですね。だから、ヌーベル・バーグはもうやめだ、と。どこでどう決まったか知りませんが、その暁だったんですね。だから、つくったものの、ちゃんと封切られるかどうかってのも危ぶまれたですよ、「武士道無残」は。 山根 じゃあ、助監督時代の映画的な体験のデカイやつってのは、松竹ヌーベル・バーグですね。 森崎 それはもう最大ですね。それに京都で、自分でタッチしたってことですよね。 |
(日本映画監督協会/森崎東) 2004年9月10日 私のデビュ―した頃「人間万事ニワトリはハダシ」 森崎 東 私が監督になった1969年は、いわゆる反体制勢力退潮の兆しの見え始めた70年安保を翌年にひかえた「東大時計台陥落」の年であり、映画界でも数年前から層をなして台頭していたいわゆる「ヌーベル・バーグ」が前途多難な逆風を予想される時代だった。 その時代を遡ること9年、わたしはヌーベル・バーグの旗手・大島渚監督の親友・森川英太朗の監督デビュー作品「武士道無残」にチーフ助監督でつき、企画から封切りまでのドラマチックな局面を体験した。森川自身のオリジナル・シナリオによって「松竹時代劇ヌーベルバーグ第一弾」として企画された「武士道無残」は、武士道の美名のもと、主君への殉死を命じられた若者に、生きることを望む兄嫁が、自ら肌をゆるして「反逆の性」を突出させるという時代劇のタブーに真っ向から挑んだ戦闘的作品だった。 今にして思えば問題はこの戦闘的松竹ヌーベルバーグ売り出しに会社が突然2の足を踏み始めたことにある。森川も私も信頼していた敏腕のプロデューサーが突然脚本の直しを主張しはじめ、当然の事として原作者・森川と真っ向から対立した。製作進行はすべてストップした。脚本直しに同意して監督の製作意図が大幅に変わらない限り、クランクインは限りなく遠ざかると言う絶望的状況となった。その打開の為、脚本直しの名人と称されていたプロデューサーは自身で筆をとって本直しを始めた。それは製作中止を避けるための善意の、そして実効ある最後の手段だった。 直しのため缶詰めになった二人きりの宿の一室で、森川が私にいった。 「直しの意図は判る。だが直し通りに俺は撮れない。撮ればそれは俺の作品ではない」 「その通りをプロデューサーに言おう」と言う私の意見を森川は実行した。 今にして思えば、その時すでに森川は松竹退社を心中覚悟していたように見えた。だが、覚悟を決めていた製作中止命令は何故か遂に出ず、オリジナル脚本のままで「武士道無残」はクランクインした。 脚本大直しの余裕は当時の封切事情では物理的になかったか、若しくは担当プロデューサーの進言によるものか、ワンマン社長の鶴の一声か? 今となってはチーフ助監督の私の製作した予告編から「突出する時代の新しき波!」等々のヌーベルバーグ礼賛の字幕が完膚なきまでにカットされた一事を、憾みと共に報告する以外にない。 その後、森川は一本も映画を撮ることなく、松竹を退社、創造社、電通を退いたあと母校慶応大学で講義していたが、先年病をえて世を辞した。生前、私は元気な彼の電話を受けた。「森崎、悦んでくれ、『武士道無残』が松竹百年史百本に選ばれた!」 私はこの時の森川の声を死ぬまで忘れないだろう。 森川英太朗は価値ある一作を世に残し、私は細々と撮り続けて、この十一月に二十四作目を公開する。題名は森川と共に京都撮影所時代、何かといえば自己激励の警句として多用した「ニワトリはハダシだ!」である。 (2004.9.10) |