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     平成7年(1995年)2月、日本の炭鉱史にまた、新たな1ページを書き加える出来事が起きた。経営難に陥っていた大手石炭会社、北海道炭砿汽船(北炭)が同月6日、東京地裁に会社更生法適用の手続きを申請、事実上倒産したのである。このトップニュースがテレビに流れたとき、私は今から14年前、大災害を引き起こし倒産した北炭グループの中核炭鉱、北炭夕張炭鉱・新鉱のことを咄嗟に思い出していた。

     ついに来るべきものが来たという印象だった。  北炭の創業は明治23年(1889年)。かつて大政商とうたわれ、政財界に大きな影響力をふるっていた萩原吉太郎氏(現在92歳)の炭鉱会社と知られ、その後、1958年には炭鉱事業で得た巨万の富を元に、三井アーバンホテルなど全国各地にホテルリゾートチェーンを手広く展開している今日の三井観光開発グループの基礎を築いたのである。

     これより先にも、同月3日、同社最後の炭鉱となった北海道・歌志内市の空知炭砿もあえなく倒産、3月18日に正式閉山、開坑以来105年の歴史の幕を閉じている。  北炭の負債総額は1,600億円だった。この金額こそ先に倒産した北炭夕張炭鉱の負債を背負って来たものに他ならなかったのである。

     1981(昭和56年)年10月北炭の命運を賭けて開発された最新式炭鉱の北炭夕張炭鉱・新鉱は坑内ガス突出、そしてその直後に発生した坑内火災と二重の災害に見舞われ、死者数は93人にもおよんだ。この大事故は同鉱の致命傷となり、同年12月に倒産、そして翌年10月にはいったん閉山の道を選び、再開発の可能性を模索するという苦難の選択を強いられらたのである。  この時の倒産で発生した巨額な負債(届け出債権額約1,156億円、このうち同鉱独自の自己弁済額は約863億円)が親会社の北炭に大きなツケとして残されていたのだと思うと同鉱の閉山の影響の大きさ改めて考えずにはいられない。

     81年当時、私は地元紙、北海タイムスの経済記者をしていた。その年の10月16日、北海道の山合いの小さなマチ、人口4万人余りの夕張市に拠点を構えていた北炭最大の最新式炭鉱、北炭夕張炭鉱・新鉱でガス突出事故が発生、その直後に入坑した救助隊も坑内に溜まっていたメタンガスが引火して起きた火災に巻き込まれ、93人もの炭鉱労働者が死亡するという北海道の戦後炭鉱史上でも3番目に数えられる大災害へと発展したのである。

     災害の2ヵ月後、会社は倒産した。しかしかろうじて採炭だけは当分の間、続けられる見通しがつき、再建の道を探る動きが始まろうとしていた。ヤマの男たちはだれひとり長年、住み慣れた夕張を離れようとはしなかった。そんな男達に交じって、ヤマの再建を堅く信じ、立ち上がる婦人たちの姿もそこにあった。

     当時は将来の首相といわれながらも遂にその夢を果たすことなく亡くなった悲運の政治家、安倍晋太郎氏が故・田中六助氏の跡を受けて通産大臣をしていたころだったが、この再建の夢を賭けた地元の必死の闘いも、当初の安倍大臣の再建全面支援の約束にもかかわらず、その後、山中貞則、宇野宗祐両氏が相次いで通産大臣に就任するなかで、石炭産業の安楽死を狙う通算官僚の術中にはまり、ついには全く期待を裏切る結果に終わるのである。

     当時、北海道知事だった社会党のプリンス、横路孝弘氏は83年7月11日、国から同鉱の再建を正式に断念する意向を宇野大臣から電話で伝えられたとき、「国に裏切られた思いでいっぱい」と苦しい胸の内を記者会見で述べ、国の巧妙な閉山シナリオへの激しい憤りをあらわにした。 労働者には長く辛い闘いが強いられた。誰もがいつかはヤマは再建され、もう一度、石炭が掘れるようになると信じていた。この小さな田舎町で起こった再建運動の小さな波は中央政財界を巻き込む大きなうねりとなり、会社倒産後およそ2年にわたって国、そして地元の北海道庁だけではなく、石炭業界全体を巻き込んでいった。

     しかし、こうしたヤマの人々の悲痛な願いの裏では、苛酷な現実が待ち受けていた。閉山で一挙に2,000人もの炭鉱労働者が路頭に迷うことになったのである。北炭夕張炭鉱は過去の閉山とは大きな違いがあった。炭鉱に働く人々の間には、もう、これ以上、ヤマを潰せば、いま生きている他の炭鉱の閉山を加速させることになるという危機感が強かったのである。  同鉱は災害発生からちょうど1年後の82年10月14日、最も恐れていた破産宣告を避け、石炭業界、国、北海道の三者が協力して新会社を設立してヤマの再開発を目指すため、部分閉山を決定する。

     そうとはいえ、これら三者が協力して再建するという保証はなにもなくキャスティング・ボードを握る国と石炭業界を説得する以外に、地元北海道も炭鉱労組もほかに選択の余地はなかった。  その一方で、労組はもう一つの大きな問題、つまり、倒産後、会社が残した115億円(この金額は管財人によって債権として認定されたもので組合側は123億円を主張した)もの巨額な労務債の弁済問題に取り組まざるを得なかったのである。労務債は従業員の未払いの賃金や退職金、そして社内預金だったが、これをだれが全額返済するのかをめぐって、大きな社会問題へと発展していくのである。

    北部区域の再開発

     安倍大臣の耳にも同鉱の再建には当時、開発準備中に事故が起きた現場の北部区域をもう一度、開発するしか方法がないという情報が入っていた。そこで、大臣はまず、同鉱の更生計画を軌道に乗せるための第一歩として、早急に管財人を石炭会社から出させようと当時の有吉新吾・日本石炭協会会長(当時・三井鉱山会長)に要請、その後、実に約2年がかりで同区域の再開の発可能性調査を進めることになったのである。

     再開発問題はこれを断念させようとする通産官僚、へたに同鉱の再建問題に巻き込まれて、自らの炭鉱経営まで危うくすることを最も恐れていた石炭各社、とくに北炭とは兄弟関係の三井鉱山、同鉱に200億円もの多額の債権を抱えていた三井銀行(当時)と再建支持派の北炭グループ、炭鉱労組との間の戦いでもあった。

     しかし、多額の労務債の返済をめぐっては北炭と労組は敵対関係にあったうえ、元北炭会長で三井観光開発会長でもあった政商、萩原吉太郎氏は、一時、同鉱を209億円で国に買い上げてもらいそのお金で労務債など債権を処理しようと政界工作を試みるが、通産省や労組側の激しい抵抗に会い、この案はお蔵入りになるなど、関係者はそれぞれの思惑で動いており同鉱の再建はどちらに転がるか予想が出来にくい状況にあった。

     ただ、労組にとって唯一、救いだったのは、当時の通産大臣が安倍氏、そして、その後、82年12月に跡を継いだ山中氏であり、それまでは少なくともある程度本気で、たとえ通産官僚の抵抗があっても再開発を支援する方向だった。惜しむなくは、83年6月に山中大臣が過労で倒れ、弱腰姿勢が心配された宇野大臣が誕生して、予想どおり事態は一変、一気に通産官僚、石炭業界の望む同鉱の再開発断念へと向かい始めたことだった。

    多額の労務債

     同鉱が世間の注目を集めることになったのは、事故の大きさもさることながら、実に116億円にものぼる労務債をどうやって取り返すかという問題がマスコミなどを通じて大きくクローズアップされたからだ。これは社会問題として全国紙も関心を寄せた。

     このお金は結局、萩原吉太郎氏と同鉱労組、上部組織の日本炭鉱労働組合(炭労)との粘り強い交渉の末、ようやく94億円ほどが回収されたが、交渉の当初はわずか46億円の提示からスタートしたように、その道程は決して生易しいものではなかった。  この労務債の返済をめぐる一連の交渉では、かつて、大物政商の名前をほしいままにした萩原氏が再び表舞台に引きずりだされた。

     同鉱労組やその上部組織の炭労(日本炭鉱労働組合)、そして、三井鉱山会長(当時)の有吉新吾氏の懐ろ刀で、同鉱再建の助っ人とでもいうべき管財人に担ぎ出された三井鉱山常任監査役(当時)の大沢誠一氏との間で労務債の返済をめぐって激しく対立、その後、国会の石炭対策委員会を舞台に歴史に残る対決を繰り広げることになる。  大沢氏は59年から61年夏まで続いた歴史に残るあの三井三池炭鉱の大争議のとき、三井側の労務担当者として大争議を直接、経験してきた人物として知られていただけに、はじめ北炭夕張炭鉱の管財人に就任したときは組合側も同じように料理されるのではないかという恐怖ににも似た感情があった。

     しかし、そうした心配にもかかわらず、大沢氏は、老いたとはいえ、当時はまだ政商健在ぶりを誇示していた萩原氏を相手に、堂々と渡り合った。特に、衆議院石炭対策特別委員会で行われた参考人対決では萩原氏を相手に、ときには怒りを顕わにしながら、およそ115億円もの炭鉱労働者に対する未払い債務の返済を逃れようとする同氏に激しく詰め寄る場面もあった。

     結局、萩原氏は北炭系の炭鉱からの富で築きあげた三井観光グループの莫大な資産を担保に約 89億円の未払い労務債の支払いと5億円の閉山一時金の合計94億円余りの支払いに応じたのである。事故のあった年の12月、同鉱は事実上倒産し、約1,156億円もの負債を残す。このうち、115億円は炭鉱労働者が自分たちのヤマを何としても残そうと給料の遅配、減給はもとより、自分たちの社内預金までも会社に貸していた浄財だった。  一度に2,000人もの労働者・職員は失業し、関連下請け業者、地元の夕張市も財政の9割も炭鉱に依存していたため、財政困難に陥った。しかし、市も労働組合もあくまでヤマの再開を目指して最後まで闘う腹を固めていた。

    山中通産大臣の太っ腹提案

     同鉱の再建問題は、途中、2人の総理大臣(鈴木善幸、中曽根康弘両氏)、4人の通産大臣 (田中六助、安倍晋太郎、山中貞則、宇野宗佑各氏)が入れ替わるという長丁場となったが結局、同鉱の債権総額約863億円(届出債権額1,156億円のうち、北炭本社分を除く同鉱の自己弁済額として認定された額は863億円だった)の弁済問題が決着するまでに、災害から丸6年もの歳月を要したのである。

     この中で、最も世間の注目を集めるようになったのが、なんとか社会不安が起きるのを回避しようという山中通産大臣の太っ腹提案だった。同案は北海道庁と日本石炭協会の共同出資による新会社を設立、国の資金も導入してヤマの再開発を目指すという破れかぶれの案だったのである。  しかし、寝耳に水の石炭協会はこの突然の山中提案にびっくり仰天する。結局、国の補助金漬けになっている石炭業界としては、これを無下に拒否する事もできず、協会は同案の検討をさせられる羽目になった。

     ただでさえ、利害がぶつかりあう石炭各社の寄り合い所帯が当時、他鉱が閉山してくれれば自分のヤマがそれだけ長く生き残れるという切迫した状況下では、北炭のヤマを救済しなければならぬという理由はなかった。通産省からの毎年膨大な補助金で生き長らえている各炭鉱にしてみれば、お役所の顔を立てたに過ぎなかった。早い話、いい迷惑だったのだ。

     検討結果は、目に見えていた。再開発断念だった。理由は当初、見込んでいた開発資金300億円をはるかに上回り、採算が取れないの一点だった。北海道庁側はこれを不服としたものの、国と石炭業界に押えこまれてしまった。  当時、北海道の石炭対策本部事務局長として、ヤマの再建に奔走していた大橋良二氏は、  「たとえ、これが地方のエゴだといわれようが構わない」と言い切っていたのを思い出す。  国の政策は地方のエゴ抜きでは考えられない。北海道のエゴだけがどうして通らないのか、北海道の関係者は誰もがそう思った。

     横路孝弘・前北海道知事はかつては社会党のプリンスとまで呼ばれた花形政治家。今は、政界再編の新たな核として中央政界復帰に向けて、動きはじめているが、当時の自民党支配の国政のなかでは、北海道の立場は弱かった。私も取材中よく、「社会党の知事を助けるようなことを国がする訳がない」というのを道庁関係者から耳にしていたし、感じてもいた。

     国は、高くつく国内炭よりも当時、1トン当たりおよそ1万円以上も安い海外炭を輸入したい電力業界の意向に沿う形で国内炭を切り捨てたがっていた。当時、道内最大の日刊紙、北海道新聞をはじめ、部数拡大に躍起となっていた朝日、読売や、日経もこぞって連日、同鉱の成り行きを追い続けていた。  しかし、残念なことに、これら大手新聞はどれも国の立場を伝えるだけの役割しか果たさなかった。炭鉱の存続は地方のエゴにしか見られなかったのだ。地元紙と故郷を持たぬ全国紙の違いである。

     官庁寄りのこれら全国紙は様々な今後の展開を予測する記事やアドバルーン記事をしきりに流しそのたびに、ヤマの地元は一喜一憂し、動揺と不安が広がった。いつもむなしさと重苦しさだけが残ったのだ。  同鉱労組の三浦清勝委員長は、よく記者に、  「君たちはどうしてこんなことを平気で書けるな」とこぼした。

     弱小新聞の北海タイムスでは、全国紙や大手の北海道新聞のように東京の記者を動員するわけにはいかない。私ももっぱら、ニュース・ソースが集まる東京に電話取材をせざるをえず、苦戦を強いられた。取材相手の会社や役所、自宅はもとより、行きつけの飲み屋まで電話をいれて、夜遅くまでの取材が増え、日曜日といえども前日に他紙に抜かれれば後追いし、抜き返すといった具合で、気の休まる日は一日もなかった。こんな調子で気が付くといつのまにか最初の2年が過ぎていた。

     かつて大勢のヤマの男たちが出入りし、活気に包まれていた坑口の待合所の光景も、もう永遠に見られることはない。最後まで遺体が収容出来なかった15人がようやく収容されたのは82年3月28日と、事故発生から5ヵ月もあとのことだった。遺体は夕張炭砿病院に運ばれたが、すでに白骨化しており、遺族も身元確認するのが困難なほどだった。

     地元夕張署と北海道警察による検視が直ちに行われたが、災害で死亡したのか、ガス突出後に起きた坑内火災を消化するために会社側が遺族の強い反対を押し切って実施した注水が原因だったのかははっきりせず、何とも言いようのない空しさが残った。

     同鉱の863億円の債務弁済問題も1987年9月には片がつき、災害発生から約6年にわたった同鉱問題も終止符が打たれた。長くこの取材に関わったもののひとりとして、いま一度、この災害は何を我々に伝えようとしているのかを考えてみることは意義があると確信している。本書を災害で亡くなられた93人の方々へ捧げる。

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