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    第1章 難航した管財人選び

    1.事故には伏線があった
     

    一九八一年十月十六日昼過ぎ、北炭夕張炭鉱は突然、地下深くの岩盤内に溜まっていたメタンガスが一気に坑道内に吹き出すという第一次災害が発生した。最悪にもその直後に坑内作業員の着ていた衣服または救護隊員が持ち込んだビニールシートに帯電していた静電気がメタンガスに引火、第二次災害の坑内火災を起こし、被害を大きくしていた。同鉱を奈落の底へ突き落とす第一幕がこうして切って落とされたのである。
     
    事故の第一報を聞いて、私はすぐに、国の出先機関が入っている旧合同庁舎の二階の札幌鉱山保安局に駆けつけた。同鉱の現場には、夕張にもっとも近い岩見沢支局から同僚記者が向かっていた。北海道庁では、道庁詰めの記者がそれぞれ情報収集に入っていた。
     
    「午後十二時四十一分、同鉱でガス突出があり一人死亡、二十一人が重軽傷を負った」という現地からの第一報が、札幌鉱山保安監督局の局次長から記者団に発表された。

       

    災害発生時、ガス突出現場と見られていた同鉱の北部第五区域の海面下マイナス八一〇メートルの地点では百六十人が掘進作業中だった。
     
    ガスというのはメタンガスのことで、坑道内の壁面の目に見えない小さな割れ目から突然、吹き出してくる。ヤマの人はその前兆として、坑内に大きな音が響きわたることからやま鳴りと呼んでいる。これが、機械のスパークや衣服の静電気が原因になって発火、大規模な坑内火災をひき起こす。

       

    この事故も、坑内ばかりでなく、地上からも地下に向けてガス抜きのボーリングを何本も打っていたのだが、結果論だがそれが十分に行なわれていれば防げたはずだった。
     
    出火原因も結局、衣服の静電気と推定された。機械からの電気は保安対策上、必要な対策が施されているのだが、静電気は盲点だった。
     
    掘進作業は、それまでの西部地区の切り羽(採炭現場)の出炭量が減ってきたため、北部に展開、予定では八二年一月から一切り羽、最終的には三切り羽体制で日産計四千トンの採炭を計画していた矢先で、この災害は、同鉱の命脈をまさに断ち切るものになった。
     
    しかし、この時点では、意外にも「災害規模にもよるが、掘進作業は遅れるだろう」と同札幌鉱山保安監督局次長が質問に答えていたように、これほどの大災害になるとは誰も思っていなかった。
     
    夕張といえば、今では都会の若い人たちには炭鉱のイメージよりも、年々盛んになってきている国際映画祭の開催地というほうが通りがいいようだ。大の映画ファンを自認する中田鉄治市長が「疲弊しきったマチの再興には、外から多くの人が来てもらわなけばダメだ」と決意、夕張を国際的な映画祭の開催地にしようと、東奔西走して実現したものだった。その小さな体からは想像もできないバイタリティーの持ち主だ。
     

    夕張は北海道の中心に位置する旭川と札幌のほぼ中間にあり、山間を縫うように走る国道沿いに発展したため、やたらに細長いマチ並みが特徴である。車を走らせると、車窓から至る所に炭鉱から掘り出された石炭の掘りカスがうず高く積み上げられて出来た、巨大なボタ山が目につく。さながらエジプトのピラミッドである。

    天気の良い日には、ときどき、そのボタ山から、自然発火で石炭が燃え盛る炎がゆらゆらと立ちのぼっていたり、白っぽい煙が立ちのぼるのが見える。また廃屋となった炭住と呼ばれる炭鉱労働者専用の四、五階建てのアパート群も国道沿いに朽ちた姿をさらし往時の炭都の面影を忍ばせる。市内には石炭博物館やちょっとした遊園地もあって、私もよく夏ともなれば家族連れで遊びにでかけたりしていたが、周辺市町村からも家族客が来て結構、賑わいをみせる。

    ヤマの再建論議が盛んだったある日、私は夕張を訪れた。市の石炭対策担当者に話を聞くと、石炭歴史の村も少しはマチの財政収入を潤すのに役立っているが、年間数百億円の事業規模の石炭産業がなくなるとその抜けた穴は大きく、そう簡単には埋まらないと深刻だった。

    同鉱の事故は偶然に起きたものではない。伏線があった。事故発生の五年前、七六年に国は慢性の借金苦で経営難に陥っていた北炭本社を再建整理会社に指定、災害直前の八一年三月には、国は石炭政策に基づく制度融資として近代化資金など計二百七十億円を同鉱に注ぎ込むことを決めていた。その矢先の事故だったという点は注目に価する。

     
    この資金は当時、大物政商で北炭会長だった萩原吉太郎氏がその政治力を使って国から引き出したカネだった。そして、政府の事故調査委員会はその辺の事情を察したかのように事故を人災とした。つまり、ガス抜きのためのボーリングを十分に行なうなどの保安対策が取られていれば災害は未然に防げたとしたのだ。
     
    借金漬けとなっていた同鉱にすれば、国や銀行に滞りなく借金を返済し、経営を軌道に乗せられなければ、次の金融支援が打ち切られるというあせりがあった。一本のボーリング費用でも数千万円から一億円もかかり、膨大な費用を要する保安対策と採算性をうまく両立させるのは難しい。会社側の保安努力が足りなかったのではとも受けとられかねない結論。これが人災の伏線、起こるべくして起きた災害ともいえるのである。
     
    巨額の資金を貸し付けている国としては会社側にムダをなくせと合理化を迫る。こうして会社側が保安と合理化の板挟みに喘いでいるにもかかわらず、監督責任のある国が、単にお金を与える以外に何ら有効な手を打てなかったその責任は重大だろう。

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