• Following story is written in Japanese only. If you find any illegible characters in the story, I recommend you to set right your browser software.

    第7章 炭労、閉山合意に傾くー閉山後の新会社設立に希望を託して

    6、炭労の事態収拾と閉山延期

     九月二十四日、北炭夕張炭鉱の労組はヤマ元の夕張で閉山問題と労務債の弁済問題の交渉を今後、炭労本部に一任するかどうかの是非を問う全員大会を開くことになっていた。労組側は三井三池争議と同じ手法で炭労一任を取り付けることによって、紛争の収拾時期を模索する態勢に入ろうという考えだった。ところが大会は大荒れとなり、九月二十八日の閉山日が再度延期される事態となっていくのである。このころ、ある噂が流れていた。閉山前日の二十七日に安倍通産大臣が石炭協会の有吉会長を呼んで、新会社の受け皿作りを急がせるように要請することになったというもので、半年後の八三年四月に共同出資で新会社を作るというものだった。

     この話は、北炭社の松本総務部長から聞いた。「二十八日に閉山したら、地元で暴動が起きるよ。安倍通産大臣はそのことが心配で、二十七日に、有吉(石炭協会)会長を呼んで新会社の受け皿作りを依頼するという話だよ」と、松本氏が、電話の向こう側で話した。「新会社を作るのに二年も三年もかかるようでは、その間に保安技術者も集めにくくなるから、三ヵ月がいいところだろう。通産省がプランニングして、管財人がやっているだけ」というのだ。九月二十六日、安倍ー有吉会談の予定があるのかどうか大沢管財人に聞いてみた。

     すると、大沢氏は、「明日(二十七日)は大臣は東京にいないよ。二十七日に営業休止の申請を札幌地裁に提出するというのは過去の経緯では確かにそうだったが、もう新しい事態なので、どうなっていくのか。炭労から休止申請の延期要請を受けてから、いつまでのばすか各方面に相談していきたい」とはじめて再延期を示唆した。つい二、三日前まで大沢氏は、「労組の合意がなければ地裁は営業休止を認めないことになっているが、(本質的には)地裁の職権で決められるもの。休止の延期は絶対できない。こちらからの新提案はない」と、強気の発言をしていたのとは大違いである。

     「いったい、この間に何が管財人の考えを変えさせたのだろうか」と私は思った。実は、この管財人の対応を変えさせた謎を解く鍵は労組側の動きにあった。同月二十四日、北炭夕張炭鉱労組は、夕張で全員大会を開催した。そこで、組合執行部は上部組織である炭労に交渉妥結権の一任を労組組合員約千六百人から取り付けようとしたが、大会成立に必要な過半数(八百四人)に達せず、流会となってしまった。

     大会で、炭労が新会社による再建を前提とした形式閉山はありうると説明、閉山撤回の方針転換を示唆したのがきっかけとなり、組合員の間から炭労への不信感が一気に噴き出し、約十時間にわたって大会が紛糾してしまったのである。この予想外のロングラン大会が思わぬ誤算を労組幹部に引き起こした。あまりの長時間論争のために途中で帰宅する組合員が続出、当初千二百人も参加していたのに、投票時にはわずか七百六十六人しか残っていなかったため、大会規則上、流会となったのである。

     翌二十五日、炭労と同鉱労組は態勢を立て直そうと拡大闘争委員会を開き、三十日に再度、全員大会を開催、新会社へ移行し、雇用の確保を図るという、事実上の閉山決議を一般組合員に提案する方針を決めた。話が長くなったが、この方針を管財人にも伝え二十八日の閉山を当分、延期することを要請したというわけである。二十七日、大沢管財人もこの方針を評価、東京・日比谷の石炭協会で炭労と会談、組合側の閉山延期要求に対して、十月六日を最終期限として延期要請を受諾する回答を行った。

     これはその後の大きな転機となった。労組側は三十日の全員大会に向けて、一気に、新会社への移行を前提とした閉山受け入れへと進み、事態の収拾に向かうことになったからだ。次の焦点は新会社がどうなるかに移るとともに、閉山による失業者対策に向けて、それまで、表立った動きがとれなかった北海道庁も対策本部を設置することが可能になった。二十七日の夜八時ごろ、私は有吉会長に電話を入れてみた。新会社の動きを探るためだ。しかし、意外な返事が返ってきた。

     有吉氏は、「労務債など債務処理が終わるまで、今年いっぱいかかるだろうし、はっきりとした見通しが立たないのに、誰が新会社を作れますか。地質や採掘の検討をするが、保安対策もはっきりしていない」というのだ。地元が新会社による再建に強い期待を寄せているとき、有吉氏ら当の本人たちは、冷め切っていた。こんな調子では、新会社などは夢のまた夢だと私は直感せざるを得なかった。

    7、萩原氏、北海道知事に協力要請

     翌二十八日、北海道議会の石炭対策特別委員会(宇川源吉委員長)が開かれ、大久保商工観光部長が大沢管財人の北部十尺層区域の新会社による開発構想を説明した。一通り、説明が終わると、道政クラブの湯田倉治議員が、発言を求めた。労務債の完済を北海道としても、三井観光開発に働き掛けることを要請したのである。同氏は具体的には、三井観光が持っていた営業資産である、苫小牧市のゴルフ場と札幌パークホテルの売却を強く迫った。

     その二日後の三十日、萩原吉太郎・三井観光開発会長が北海道庁に堂垣内知事を訪ね、会談を行っている。会談後、寺田副知事が記者会見し、萩原氏が知事との会談の席上、組合側に七十一億八千万円の弁済を約束したものの、当初、売却を予定していた千歳市と苫小牧市の山林の地元自治体への売却交渉が不調に終わり、三十億円の見込み違いが生じていることを知事に伝えたことを明らかにした。その際、萩原氏は北海道庁に対して、それらの土地に代わる別の土地を提示し、土地売却の協力を要請したという。また、先日の道議会で話題となっていた苫小牧のゴルフ場と札幌パークホテルの売却問題について、萩原氏は、「組合への提示前なので、今は何も言えない」と即答を避けたという。

     寺田氏は、「私の印象では、異常事態なので仮に代替地の売却が決まらなくても萩原氏は、営業資産に手を出さざるを得なくなると見ている」という見方だった。ここでいう代替地とは、苫小牧市の美々山林だった。実はこの土地は二回目の売却リストの作成で、かなりの担保が入っていることから除外されたいわくつきの土地だった。千歳空港と新千歳空港に隣接する土地で北海道庁が購入するにしても、国が管理する空港のため、運輸省や防衛庁と交渉する必要があった。北海道としては、この土地が空港利用目的があれば、まず、北海道が国に代わってこの土地を先行取得、あとで国に引き渡すというやり方が可能だが、今回は空港利用目的はないという。その場合、北海道が、土地開発公社経由で購入しても空港に隣接していることから、やはり国の了解が必要だった。難しい土地ではあったがとりあえず北海道は検討を約束した。

    8、新会社の見通し

    この日、大沢管財人に新会社の見通しを聞いてみた。新会社の受け皿作りには同鉱の生産設備についている幾重もの抵当権(担保債権)をはずす必要があったが、担保債権を持つ十五社十八件の債権については、債権の評価額をいくらにするかについての調査が進まず、十二月二日までに作業を完了する方針だったが、担保債権者の了承が得にくい現状では、早期の新会社設立は難しい情勢という判断だった。

     この十八件は国の機関である新エネルギー総合開発機構(通称NEDO)、石炭鉱害事業団、住宅金融公庫、年金福祉事業団、雇用促進事業団、北海道住宅供給公社、日本開発銀行、民間では、日本興業銀行、三井銀行(現さくら銀行)、三井信託銀行、北海道拓殖銀行、協和銀行(現あさひ銀行)、労働金庫そして地元の夕張市である。

    9、未明の閉山合意

     九月三十日の同鉱労組の全員大会は無事、開催され、賛成千四十二票対反対二百十二票の大差でようやく炭労は交渉一任の了承を一般組合員から取り付けることが出来た。しかし、次の難関は十月六日の閉山期日だった。炭労としては、閉山を再延期させ、渡米中の安倍通産大臣の帰国を待って政労トップ交渉に入り、労務債の返済額の上積みと新会社設立の保証を勝ち取ろうという算段だった。まず、十月五日深夜、萩原氏との交渉で労務債返済額を八十八億円に引き上げさせ、管財人にも六日の閉山も八日に再々延期させた。

     新会社をめぐっては、岡田利春、対馬孝且両社会党議員を中心に、安倍通産大臣との最後の詰めに入った。岡田議員は、十月七日の夕方、安倍通産大臣と会談する段取りを決めていた。この前日の六日、岡田氏は通産省の弓削田石炭部長に新会社の設立時期を明確化するように再三にわたって、要請している。しかし、双方の考えは平行線のままで進展はみられなかった。岡田氏に事情を聞くと、「新会社の主体については公表されていないが、石炭協会がやるということが暗黙のうちに決まっている。ただ、雇用人数や再開発の時期などが明確にならなかった」と説明してくれた。

     実は岡田議員や対馬議員、野呂炭労委員長らは、「石炭協会を通じて、新会社を早期に設立するように、国は最大限の努力をする」という内容の文書を安倍通産大臣との間で交わそうという作戦だった。当日の七日午後四時半から、東京で安倍大臣と野呂炭労委員長、総評の槙枝議長に同鉱労組の三浦委員長も加わって、新会社に関する交渉が行われ、思惑通り安倍大臣から八三年三月末をめどに石炭協会に新会社の設立検討のメドを出させる、という確約を取り付けることに成功する。

     これを受けて、同日午後八時から、萩原会長、大沢管財人、炭労、同鉱労組による労務債、閉山後の再就職問題、新会社の雇用問題などについて、交渉も始まった。私は、これらの交渉の舞台がすべて東京に移っていた関係上、東京支社と共同通信電からの情報と北炭取材とで少しでも情報を得ようと必死だった。結局、この萩原ー大沢ー炭労交渉は長引き、合意に達したのは八日未明で、仮協定の調印は同日午後二時四十分と決まった。

     問題の労務債については当初七十一億八千万円から、炭労側が新提案していた八十九億二千万円と閉山に伴う解決一時金五億円、下請け労働者未払い賃金分二億二千万円の計九十六億四千百万円で双方が合意した。実際には、このほかに、閉山処理資金も加わるので、総額百億円が三井観光開発を含む北炭グループから支出されることになった。炭労が完済を求めていた労務債百二十三億円のうち、返済の対象から外されたのは、期末手当て二年分の二十四億円と、雇用定着奨励金として労働者に支払われる予定だった六億円などの計三十五億円だった。

     閉山日は十月十四日。この仮協定の組合批准は同月十二日に夕張市で行うこともこの交渉で決まった。再就職については、北炭がまず十月十四日に再就職斡旋委員会を札幌事務所に設置することになったが、当面の雇用は、他の北炭系三山と関連企業に四百八十四人、閉山後の坑内の保坑要員に六十八人、夕張市に経営が移管される同鉱の炭鉱病院に百六十人と合計七百十二人が決まっているだけだった。このほか、百三十人余りが坑道密閉など閉山処理のため、臨時雇用されるが、処理が終わる二ー三週間後には、再び職を失うという状況だった。

    ただ、同鉱問題が大きな社会問題として全国の関心を集めていたこともあって、全国の企業から、二百人あまりの求人が寄せられていた。しかし、元来、地元志向の強い炭鉱労働者は夕張を離れるのに強い抵抗感があり、ひとまずは炭鉱離職者手帳による最高三年の失業手当てを利用して地元に残ろうと考える人が多かった。「これで、破産という最悪のシナリオは避けれられた、山は越した」と、三浦委員長は安堵した。その言葉通り、十月十二日、ヤマ元で労組の全員大会が開かれたが、八日未明の交渉結果を新聞報道であらかじめ知っていた組合員の間からは、不満の声も出たが大きな混乱もなく、組合執行部案通り、今度は無事閉山決議案が了承されたのである。

     同月十四日、坑員千五百九十八人、職員三百十九人、準庸員百二十三人の計二千四十人が全員解雇され、そのうち保坑と閉山処理要員として三百三十四人が再雇用された。閉山後の焦点は、来年四月に石炭協会から新会社設立についての検討結果が出るまでの間は雇用問題に移ることになった。

    10、夕張市、石炭公社設立へ

     この年の暮れも押し迫った十二月二十二日付けの朝刊で、私は夕張市の再建に賭けたある試みを記事にした。それは、夕張市が、石炭公社を作るという内容だった。といっても、本格的な採炭を意図した新会社とは違った。当時、下請け従業員として、同鉱で仕事をしていた七百四十人の雇用問題も、同鉱の正式従業員とともに大きな問題になっていた。その対策として夕張市が目をつけたのがズリ山の再利用だった。

     ズリ山は坑内から掘り出された石炭を選炭機にかけ、あまり商品価値のないくず炭(低カロリー炭)を炭鉱近辺の空き地に積み上げて山のようになったものだが、こうしたズリ山は夕張だけで 当時二十ヵ所もあった。このうち、三ヵ所はもう一度、選炭機にかけ直せば低カロリーながらトン当たり発熱量五〇〇〇キロカロリー程度の一般炭(主に電力用炭)が回収できることが、同市の調査で分かった。

     一ヵ所あたり六年間の稼働(一年は八ヵ月稼働)と計算して八万トンの販売は可能と試算した。市では八三年一月早々に夕張市一〇〇%出資の石炭公社を設立、四月から事業開始の計画を立てた。しかし、雇用規模は一ヵ所あたり、わずか十五人程度で七百四十人の再雇用には程遠い数字ではあったが、地元として出来る最大限の努力だった。

     もう一つの地元の下請け対策は、野ざらしになっていた炭鉱住宅の廃屋解体事業だった。同市では、抵当権が設定されていなかった緑が丘、平和両地区にあった二十七棟六十二戸の解体工事七百万円相当分を同鉱関連の下請け業者に発注、他の炭鉱住宅も抵当権者者の七銀行から了解を得たうえで、 千三百万円分の工事発注を計画した。

    M's Cool Page 新刊書ページの最初に戻る (Back to the front page)