• Following story is written in Japanese only. If you find any illegible characters in the story, I recommend you to set right your browser software.

    第7章 炭労、閉山合意に傾くー閉山後の新会社設立に希望を託して

    1、安倍大臣の石炭協会に新会社催促

     この国会論戦のあと、焦点は大沢管財人が最後の切り札として閉山提案に盛り込んだ、新会社による将来の北部区域の再開発に移った。再開発に必要な技術上の問題点や開発期間、必要資金などおおまかな枠組みは示されたが、誰が新会社を作るのかという肝心の受け皿についてはいぜん白紙だった。

    また、炭労は新会社の設立といっても、それには何の保証もないことに加え、「大沢氏は、最初の切り羽(採炭現場)が完成するのは開発着手から四年九ヵ月先で、この間に資金不足が生じるが、大沢さんは事業規模縮小や露頭掘りだけで赤字が出ないという判断をしている。しかし、炭労ではこの説明に納得していない」(橋本炭労副委員長)と不安は隠せない。そんな最中、九月十日に安倍通産大臣が新会社について何らかの談話を発表するという噂が流れた。前日、この噂を確かめようと大沢氏に連絡をとった。

     すると、大沢氏は、「新会社については、まだ通産省にも何の構想を説明をしておらず、十日に(新会社について)大臣談話が出るというのは考えられない」というのだ。続けて、大沢氏は、「九月二十一日に(同鉱の二千人強の全従業員解雇という)閉山を実施する提案を行うことには変わりはない。外では(その期日に)こだわらないようなニュアンスが流れているようだが、全く変わっていない」と言い切った。しかも大沢氏は間近に迫った十月の資金繰りの危機についても何も考えていないという。これでは、新会社の話は全くの空論になってしまうではないかと私は思った。「これで果たして閉山提案の前提になっている労使双方の合意などが実現できるのか」と私は声をあげた。

     大沢氏は、「萩原さんが新会社ができるまでのつなぎ資金をどう考えているかどうかだよ。労務債の完済もできていないのに・・・。こちら側としては労務債の完済だけを求めている」といった。このあと、私は通産省石炭部計画課長の自宅に電話を入れた。課長は、「明日、大臣が新会社構想を話す予定はなく、こちらもその検討はしていません。新会社案は大沢管財人が決めることですので」という。ただ、初村労働大臣が安倍通産大臣と朝の閣議前に会い、その後記者会見をするということは新会社についてではないにしても、記者会見があるということは確かだった。

     新会社については、石炭業界の動向が鍵を握っていた。当然のことだが、大きなリスクを伴う石炭採掘ができるのは、石炭会社しかないからだ。その場合、同鉱が三井系ということもあり、三井石炭鉱業を中心に各社が共同出資するという案が有力だった。しかも、石炭協会の会長は三井石炭鉱業の親会社である三井鉱山の有吉新吾会長である点もその噂の信憑性を増した。

     その有吉氏が九月十三日、安倍通産大臣を訪ねた。同会談の内容は翌日付けの朝刊で書いたが、炭労幹部の橋本氏から会談のやり取りを聞くことができた。それによると、安倍大臣は有吉日本石炭協会長と佐伯博蔵同副会長に、大沢管財人が検討中の新会社による北部区域再開発の青写真作りに石炭協会が協力すること、いったん閉山措置が取られたあとの離職者対策も石炭協会が行うことの二点を要請した。これに対して、有吉会長は、「青写真作りには協会としては協力しているが、その実施となると、新会社の受け皿を作るには問題が多く、いますぐとはいかない」と答え、事実上、二十一日の閉山=全員解雇までに、労使双方の合意の前提となっている新会社設立のメドが立たないことが明らかになった。

    2、協会、新会社設立検討委員会設置

     ただ、これでは大臣の顔が立ないため、一応、十六日に協会加盟大手石炭各社の社長会を開き、各社の常務クラスで構成する新会社の設立検討委員会を設置することを表明するのが精一杯だった。これより四日前の、九月九日、地元夕張では、犠牲者の遺影を携えた遺族抗議団の一行二十人が東京の北炭本社と三井観光開発の萩原会長宅への抗議行動のためにバスに乗り込もうとしていた。すでに、組合の一部は全国キャラバン隊を組織して、十日には同遺族団と東京で合流することになっており、翌十一日にも通産省前でビラ配りなどを展開、懸命に都民に北炭夕張炭鉱の窮状を訴えたのである。

     東京支社の同僚記者がそのときの様子を送稿してきたが、十日正午、萩原邸前で行われた抗議集会で、弟の一昭さんを亡くした海沼栄一さんは、「昨晩、ある奥さんが、泊まった宿で、亡くなった夫とは退職したら、家族そろって、初めて、”しょっぱい川”を渡って旅行しようと話し合っていたのに、と言って泣いた。賃金もまともに払ってもらえず、退職金も我慢して働いた結果が九十三人の命を奪う事故だ。遺影の一人一人の目が萩原に金を出せと叫んでいる」という。よく、夕張では「夕張、食うばり、死ぬばり」といわれてきた。他所では生きていけないヤマの男達の精一杯の夕張への愛着の表現だ。死んでいったもの、また、生き残ったものにとっても、身近にせまる閉山の足音は辛く聞こえていた。

     十三日夜、炭労の取材を終えた私は札幌商工会議所内の経済記者クラブから一度社に戻り、いつものように四階の資料室にひとりこもり、あれこれと考えを巡らしながら、原稿を書き始めた。「これだけの話ではどうも記事として迫力に欠けるな」と私はつぶやいた。そこで、石炭各社の本音を聞いてみることにした。まず、住友石炭の成瀬会長、次に三菱石炭南大夕張炭鉱の神谷鉱業所所長の二人の自宅に電話をかけた。住友石炭は当時、北海道赤平市に住友赤平炭鉱を経営していた。

     それによると、大沢管財人は新会社作りはまだ考えていないといいながらも、水面下では、松島、釧路・太平洋、三菱などの各石炭会社に共同出資の可能性を打診しているというのだ。この前提にしているのは国が開発資金を相当額負担するということだったが、保安面や経営面の両方で不確定要素がいぜん多く、打診先の炭鉱は二の足を踏んでいることが分かった。当時、三井石炭鉱業の北海道・砂川炭鉱や九州・大牟田市の三池炭鉱も経営内容は悪く、三菱についても、高島と南大夕張の両炭鉱、住友も言うに及ばずどの石炭各社も台所は火の車で、新会社を作るなどということは極めて困難という判断が大勢だった。

     神谷氏は北海道の現場を熟知していた。「海面下六〇〇メートル以上の深部での採炭は簡単ではない。各社も慎重にならざるを得ない。しかも、国から新鉱開発資金が出るとしても、(融資には変わりなく)将来にわたる経営の安定と保安の確保がなければ各社は乗ってこない」というのだ。そこで、考えられるのが保安について国から深部研究費の名目で資金を得て、保安の試験を行う試験炭鉱としたうえで、経営の安定が図られる適正規模を示すというシナリオも出てくるのである。

    3、炭労、窮地に追い込まれる

     この段階で炭労は追い詰められた。このままでは、百二十三億円の労務債(管財人の認容額は百十五億円)の完済と新会社設立を労使の閉山合意の条件としていたものの、どちらも困難な状況となり、問題の九月二十一日に強行就労の戦術を取れば、同鉱は今度こそ破産となり、再開発の夢を自ら断つことになりかねないからだ。炭労は九月十四日、東京の炭労本部で同鉱問題対策委員会を開いた。この中で炭労執行部は閉山が実施される同月二十一日に北炭夕張炭鉱労組(三浦清勝委員長)を除いて、炭労傘下の全国十一炭鉱で二十四時間抗議ストを実施、閉山提案の撤回、または最悪でも閉山の延期を要求していくことを決定した。

     二十一日までには二つの大きなヤマ場が控えていた。一つは、十八日(その後二十日に変更)に予定されていた大沢管財人からの新会社に関する回答と、二十日には萩原氏による労務債の返済金額(当初回答額四十六億円)の上積み額の提示だった。このため、炭労は、十五ー十七日の三日間、延べ九百人を動員して石炭各社、萩原氏の自宅、北炭本社、三井観光開発、通産省へ座り込みに入る態勢を取った。そんな最中、九月十五日には堂垣内尚弘北海道知事が定例記者会見を行い、その中で「(二十一日に予定されている閉山=全員解雇は)延びるのではないか」と注目すべき見解を述べた。この発言は、当時、自民党政権に近かった知事だけに、かなり確度の高い情報と受け取られた。

    4、管財人、閉山延期を受諾

       事実、その言葉どおり、大沢管財人は延期を表明したのである。同月二十日午前、大沢管財人は安倍通産大臣を訪問し、閉山時期を当初の二十一日から二十八日に延期することを正式に伝え、新会社構想として開発着手後五年七ヵ月後に計二切り羽年産七十五万トン体制で、千三百人を雇用するとした。新会社は日本石炭協会が設立するが、当初の開発資金は海面下七〇〇ー一〇〇〇メートルの深部採炭を行うため、新たに立て坑と斜坑を掘る必要があり、その工事資金は百三十億円にのぼるとし、これについては国の資金導入を求めた。

     安倍大臣もこの構想について、「新十尺層(北部区域)の開発は石炭業界の衆知を集めて作られた案で最も適切なもの」として、同構想への支援を約束した。しかし、問題は二切り羽になって、初めて経営が黒字になる計算で、それまでは赤字経営を強いられ、この間の累積赤字額は二百億円にも及ぶとした点だ。私は、「誰が赤字経営のあいだ、経営つなぎ資金を出すのかが明確ではない。多額の債権を抱えた金融機関や国が果たして融資に応じるものなのか」と思った。

     北部区域の可採炭量は千二百万トンで終掘するまでの十五年間で、これらの赤字も解消できるというものだったが、炭労は同日、石炭協会で開かれた団体交渉の席上、この大沢構想を不透明部分が多すぎるとして受諾を拒否した。炭労側は誰がいつ北部区域を開発するかが明確でない以上、同構想は受け入れられる内容ではないと突っぱねたわけだ。また、構想では、開発当初は三百三十人ほど雇用するとしているが、炭労では現在残っている残炭区域を掘り続ければ、当初から千二百人規模の雇用確保が可能で、しかも三年ほどで北部開発が完了できると主張、両者の間には大きな隔たりがあった。

     この日の管財人と安倍大臣や炭労とのやりとりは、東京支社に取材してもらったが、私の方はサイドの取材をする一方、解説記事も書くことになっていた。結局、あれほど、九月二十一日の閉山実施が遅れれば、破産という取り返しのつかない事態になるとして、一歩も譲らなかった大沢氏が、炭労の強行就労戦術や萩原吉太郎氏の労務債交渉引き伸ばし戦術の前にあえなく屈してしまったことの方が驚きだった。

     大沢氏は、同鉱の余裕資金は九月末で一億五千万円を残すのみで、撤収作業に必要な資金を考えても、九月末が延期の限度だとし二十八日までの閉山延期に応じたのだが、同鉱問題は政治の力で左右されるようになっていた。もはや一管財人のコントロールが効かなくなっていることを如実に示していたともいえる。後日、取材したときも、大沢氏は、「新会社については、完全に私の手を離れているので、炭労も交渉相手を使い分けてくる」とこぼすほどだった。

     予想される二百億円の累積赤字問題。深部採炭での保安の確保の問題を考えると、果たして石炭各社が新会社をつくり、これだけのリスクを背負う覚悟ができるかどうかは疑問だと、私は大沢ー安倍会談の記事の中で書いた。このリスクを負えるのは国しかなかった。

    5、萩原氏、労務債返済額を増額

     二十日午後、もう一つの大きな交渉が、東京の北炭本社で炭労と萩原氏との間で行われた。これは、東京支社の同僚記者に取材してもらい、私の方に情報を入れてもらった。ここで、萩原氏は当初の提示額である四十六億円の労務債弁済額を七十一億八千万円に上積みする意向を初めて公の場で明らかにした。資金は、三井観光開発、北炭グループが保有している山林、土地など遊休資産の売却で五十八億円、株の売却益十四億円を予定しているとした。

     取材に当たっていた芳賀記者の連絡では萩原氏が売却を予定したのは次のとおりだった。北炭社所有の山林は、北海道空知支庁の沼田町の三千万坪(一坪三・三平米)のうち、百五十一万二千五百坪、三井観光所有の山林では苫小牧植苗の百万五千坪、千歳の三十八万坪、札幌市ナマコ山の五千坪、同市宮の森の七万九千坪、白老町の十万坪、女満別の九千坪、弟子屈の八百坪、豊浦の百五万七百坪だった。

     一方、株式売却は北炭グループのなかで、当時年商百億円の黒字企業だった北海道石油瓦斯の四万八千三百八十四株、また、年商七十億円の優良企業だった札幌石炭の五十一万四千株、さらには北炭が所有していた三井観光株百四十万七千二百六十七株。山林のうち、沼田町の三千万坪については、二百億円の担保が設定されており、何とか調整して、売却益を出すとした。また、北炭が保有する三井観光開発株は約二百十五万株で、今回はその六六%を売却するとした。

     この回答に対して、炭労側は猛烈に反発した。七十一億八千万円ではまだ不十分であるうえに、売却は山林など遊休資産ばかりで、三井観光開発の営業資産が含まれていない点を指摘、前進回答があるまで、次回の交渉に期待するとして、わずか十五分で交渉は終了した。ただ、萩原氏は個人資産の一部を処分する意向を伝えていた。これらの山林については、すでに九月十七日に自民党の当時、竹下登幹事長代理(鈴木善幸首相政権下)らが、通産省、大蔵省など関係五省庁の担当者らと対策を協議しており、沼田の山林については、防衛庁に弾薬庫として、他の山林についてはそれぞれの地元自治体が買い取る方向で、水面下の作業に入っていた。これも、萩原氏が衆院石炭対策委員会のメンバーである三原朝雄議員に働き掛けて実現したものである。政商のすごさを見せつけるには十分だった。

    M's Cool Page 新刊書ページの最初に戻る (Back to the front page)