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    第6章 労務債の弁済をめぐって、政商萩原吉太郎を追及

    1、萩原氏長男、札幌で労組と協議

     閉山提案の二日前の八月十九日、札幌の目抜き通りにある三井観光開発所有の札幌 グランドホテル前で、ヤマ元の婦人たちでつくる同鉱主婦会(秋元嘉代尾会長)と全 道労協、炭労、同鉱労組の代表約五十人が集まり、未払い労務債の完済を訴えて座り 込みに入った。

     この日は、三井観光開発の萩原次郎副社長(萩原吉太郎会長の長男)が札幌入りし ていたため、木村照雄同鉱労組副委員長らが会社側と団体交渉を行った。五日、十三 日の二回にわたる大沢管財人と山本邦介三井観光開発社長との間で行われた労務債 百二十三億円(管財人の認容額は百十五億円)の返済交渉が失敗したのを受けての抗 議が目的だった。

     木村氏は交渉の中で、「われわれ労働者の血と汗を流した利益を元に三井観光開発 の土台ができたはずだ。この設立の資金は労働者に還元してもらえなければならぬ」 と詰め寄ったが、萩原氏は、「百二十三億円の資金協力の申し入れを受けたのは八月 には入ってからで、時間的な余裕がなかった。引き続き努力中だ」と答えただけで、 交渉はそれ以上進展しなかった。

     交渉の中で、組合側は札幌にあるもう一つの札幌パークホテルの売却で百億円の資 金が調達できるのではないかと、指摘したが、萩原氏は、「グランドホテルとパーク ホテルで当社の売上高の半分を賄っており、売却すれば私どもの会社は成立しなくな る」と言う。パークホテルの場合、売却後の利益はなく、税引き後で逆に十四億円の 持ち出しになると苦しい台所を説明するだけだった。

    2、炭労、札幌で臨時大会

     閉山提案から一夜明けた翌八月二十二日午前十時半から、炭労は札幌ほくろうビル で臨時大会を開いた。今後の戦術を決めるためだった。会場には全国の炭労十二支部 の代議員をはじめ、地元夕張の炭鉱関係者とその家族や退職者らおよそ四百人が集ま り、熱気に包まれた。

     大会では、萩原会長に闘争の的をしぼり、労務債百二十三億円の完全弁済を迫るこ と、政府に働き掛けて大沢管財人が提案した九月二十一日の閉山を白紙撤回させること、そのためには、闘争を北海道地域のレベルから全国レベルに拡大する方針を確認し た。この大会決議にしたがって、二十三日には二十四時間炭鉱ストライキに入ったほ か、二十五ー二十七日の三日間、東京で、北炭本社、管財人、通産省、三井観光開発 への抗議行動、さらには、東京・目黒の萩原会長宅前で、十人以上の組合員による無 期限の座り込み抗議行動が行われた。

    3、炭労、北炭問題を石炭政策の視点で追及

     野呂潔炭労委員長は北炭夕張炭鉱の問題を一地域の問題ではなく、日本のエネルギー 政策、石炭政策の問題として、闘争を全国レベルに格上げすることを訴えた。当時は まだ、第七次石炭政策が国の石炭産業の基本政策とされていた時期だった。政策の基 本は、全国の出炭目標を年間二千万トンとするというもので、仮に夕張炭鉱が閉山に なれば、この二千万トンという目標は実体を失い、炭労が最も恐れた、なし崩し的な 石炭産業の縮小生産体制へと突き進むことになりかねなかった。

     野呂氏は、「(次の第八次石炭政策を検討する国の石炭鉱業審議会の)石炭検討小 委員会では、炭鉱への政策助成金(補助金)をなくすことが大勢になっている」と不 安感を募らせた。炭労の組合員数は、昭和三十年代の石炭産業全盛時代、あの三井三 池炭鉱(福岡県大牟田市)の大争議の時で十六万人を数えたが、このときまでには一 万五千人と十分の一に減少、すでにかつての勢いは無くなっていた。それだけに取材 していた私もどこまで、国や三井などの大資本を相手に闘えるのか疑問に思ったほど だ。

     ただ、社会問題として、国民の世論を味方につければ、ある程度の戦いはできるか も知れないと考えていた。野呂委員長は九月二十一日に管財人側が予定どおり全員解 雇を強行してきても、同鉱再建の成否の鍵を握る国の支援約束がない限り、労組側と してはそれに応じることは出来ないとしたうえで、三井三池争議で実施した強行就労 作戦をとり、長期闘争に持ち込むことを主張した。実際、同鉱が最後の幕を下ろすま でにはこの後、約一年もの歳月を要した。

     三浦委員長は、「昨年十月十六日の災害以来、十ヵ月以上になるが、この間、組合 員は北炭幌内や北炭真谷地炭鉱へ出向したり、自宅待機となり、また、毎月三〇%以 上もの給与カットに耐えながら、ヤマを守り、生活の立て直しや夕張を守るために戦ってきた。しかるに、管財人から、私どもに死を求める提案があった。身も心も怒りに震 え、組織というよりも、一人一人、体を張って戦わなければならないという決意を新 たにしている」と訴えた。三浦委員長は九月二十四日、地元夕張の清水沢体育館で開 催された緊急臨時全員大会でも、「はっきり敵の姿が見えた。それは、萩原吉太郎三 井観光開発会長、大沢管財人、そして政府である」と断言している。

    4、三井観光にかなりの返済余力あり

     この八月二十二日の炭労大会で、挨拶に立った対馬孝且参議員(社会党)が一つの 興味を引く発言をした。同月二十日の午後三時に、参院内で三井観光開発の山本社長 に会った時の話であると前置き、「三井観光開発には六百八十五億円のホテルなどの資産があり、このうち(同鉱開発資金の)三百億円や(労務債弁済に当てる)七十二億 八千万円の資金を出したとしても、残りの二百八十億円は三井観光の名義で金を出せ ないわけがない」と山本社長に詰め寄ったところ、山本社長は、「最後通告ではなく、 私も全力を挙げて努力する」と答えたという。確答は得られなかったものの、三井観 光開発にまだかなりの余力はあったことは否めない。

     また、出席していた社会党の北海道選出国会議員、岡田利春氏も、「萩原氏に向け て闘いを結集しなければならない」と、労務債の返済が新会社による同鉱の再建につ ながる前提である点を強調、「三井観光開発による労務債完済に焦点を移すべきだ」 と述べ、今後のターゲットを示した。岡田氏はその意味で、八月二十六日午前九時半から始まる衆議院石炭対策特別委員会に参考人として呼ばれる萩原吉太郎氏、大沢管財 人、三浦同鉱労組委員長の国会の場での論戦が、次への重要なステップになることを 示唆した。

     この炭労大会には、もう一つ重要な要素があった。総評、今の連合の前進である労 働団体の全国組織が、同鉱問題を全国レベルで闘うことを正式に表明したことだ。総 評から福島教宣部長が出席していた。そして、大会翌日の二十三日には総評は直ちに、 当時の最高幹部である富塚総評事務局長を委員長にした北炭対策委員会を設置、閉山 反対闘争を進める声明を出した。

    5、総評、政治交渉の場へ

     北炭労組としては、心強い助っ人の出番となった。さっそく総評は、当時の鈴木首 相、初村労働大臣ら主要閣僚と直接交渉に入った。労務債の完済を政府の責任で実行 させることを申し入れ、萩原氏としても、何らかの回答を労組側に提示せざるを得な い状況に追い詰めていった。

     二十六日の国会論戦を前に政府の動きも急展開し始めた。二十四日、安倍通産大臣 は、萩原吉太郎氏を大臣室に呼び、労務債処理について、「北炭グループとして、社 会的責任を感じて誠意のある対応を示してもらいたい」と要請した。これにはさすが の萩原氏も、「責任を感じており、問題解決のためできるかぎりの努力をする」と、 それまでのゼロ回答がウソのように撤回発言をした。これは大きな方針転換となった。

    6、北炭に返済能力なし

     一方、この日、同鉱労組の三浦委員長と相沢道炭労委員長らは北炭札幌事務所で北 炭社の吉井副社長、北炭夕張の大山専務ら会社側と労務債の弁済について交渉に入っ ていた。三浦委員長は、交渉の中で閉山提案の撤回と労務債の完済を再度、会社側に 申し入れている。しかし、吉井氏は、「何とかヤマを存続させたいが、北部区域開発 で必要となる通気の確保のため坑道づくりの資金が不足していること、北炭グループ では資金捻出の余力がなくなっていることから、閉山提案に従わざるを得なかった」 と改めて、閉山やむなしの結論に達したことを強調した。

     具体的に、吉井氏は数字をあげて説明している。北炭社は関係四社を含めて千二百 億円の債務があるのに対して、資産は一千億円と債務超過となっており、この状態で は、外部からの新たな借り入れは極めて難しいことを指摘した。実際、三浦委員長も 指摘していたことだが、他の北炭グループの北炭真谷地炭鉱、幌内炭鉱の下請け業者 が同二鉱振出人の工事代金の受取手形を地元の金融機関に割り引きを依頼しても断ら れており、地元の経済不安を引き起こしていた。

    7、地元は”暴動寸前”

     こうした下請け業者の回収不能になっていた北炭夕張炭鉱に対する債権額は、災害 が発生した八一年十月から、会社更生法の申請が行われた同年十二月十五日までの期 間で、一億円以上にのぼっていた。問題はこれらの大半が、弁済順位の低い一般債権 扱いにされていたことだ。三浦委員長は、これを「暴動勃発寸前の状況だ」と表現し た。

     当時、北炭夕張炭鉱もそうだったが、同内の大半の炭鉱は赤字経営のため、国から 再建整備会社に指定され、合理化資金という名目の各種補助金を受けていた。国が実 質的に赤字炭鉱を管理している以上、三浦委員長は、労務債の弁済で北炭グループが 賄いきれない分は、国が補填すべきだと主張する。

     「炭鉱は国から、毎年、合理化実施計画の承認を受けて、それに従って(再建の)自 助努力をしている。その結果として、多額の労務債が残された。だから、国に十分弁 済の責任がある」というのだ。当時、同鉱の労働者の社内預金八億円が会社に貸し出 され、そっくりそのまま未返済として残されていた。

    8、石炭予算は九州との取り合い

     八三年七月、同鉱の再開発断念は労組の全員大会で正式に承認されたのだが、八五 年八月時点でも、ヤマ元にはまだ五百人もの解雇された炭鉱労働者が夕張を離れずに 残っていた。炭鉱離職者手帳からの失業手当てで何とか食いつないでいたのだ。これ まで、北海道では、九州と違い、閉山後ヤマ元に離職者が滞留するケースが少なかっ たが、今度だけは別だった。北海道庁では労働部が中心となって、再就職対策に全力 を挙げるなど、大きな社会問題に発展した。

     八五年度の国の石炭関係予算は千二百五十億円で、このうち、生きている炭鉱に支 給される合理化対策費は三百八十億円なのに対して、閉山後の環境保護のための鉱害 対策費は六百億円と多く、しかもその大半が九州地域に回されていた。このほかに 九十億円が産炭地地域振興名目の補助金、百八十億円が離職者対策費として支出され、 やはりいずれもその大半が九州に行っていた。

     つまり、予算の大半は九州の利権の範囲にあり、北海道としては何とか合理化対策 費を増やして、いま生きているヤマの存続にお金をつぎ込みたいと思っても、九州勢 との利害が折り合わず、足並みがそろわないのが実情だった。しかも、この石炭予算 の財源は、石炭産業を保護するという名目で競合燃料の石油に課税した資金が充てら れていたが、皮肉にもすでに国内炭の競合相手は石油ではなく安価な輸入炭に代わっ ていた。

     当然、この点について石油業界は十分承知しており、石炭保護のための石油課税の 撤廃を国に訴えて圧力をかけるなど、当時の国内炭産業にとっては逆風が吹いていた ことも見逃せない。八月二十五日、翌日の朝刊用に私は国会論戦の前触れ原稿を書い た。見出しは、「萩原氏、金額提示か きょう石特委で集中審議」だった。これは 前日、萩原氏が安倍通産大臣に資金協力が可能と発言したのを踏まえた受けの記事だっ た。労組側は、二十五日から三日間、同鉱労組員約百人を派遣、通産省をはじめ、北 炭本社、メーンバンクの三井銀行前で、座り込み抗議行動を予定していた。

    9、注目の国会論戦始まる

     八月二十六日午前九時半から始まった衆議院石炭対策特別委員会を皮切りに、最後 の参院商工委員会まで注目の萩原吉太郎氏と大沢管財人が初めて公けの場で参考人と し出席、直接対決となった。この日は東京支社の芳賀記者が取材に当たり、私の方は テレビニュースや東京から送られてくる記事を参考に解説記事を書くという段取りに なっていた。芳賀記者は萩原氏が岡田利春、塚田庄平両議員の労務債弁済に対する質 問にのらりくらりと答え、不敵な態度を見せていたと書いてきた。

     萩原氏は席上、百二十三億円の労務債のうち、旧退職金と社内預金の計七十一億円 を弁済の対象にするが、満額弁済ではなく、社内預金の八億円と旧退職金六十四億円 の六割相当額三十八億円を足した計四十六億円を支払いの努力目標にすることを明ら かにした。これでは当時勤務していた労働者の未払い退職金や未払いの期末手当ては 対象外にされているばかりか、余りにも金額が低すぎるのではないかと私は驚いた。 大沢氏が憤慨したのは、塚田議員が萩原氏のこの提案を「一定の前進としてそれなり に受け入れるべきではないのか」と質問を受けたときだった。

     大沢氏は奮然として、「こんな(多額の)労務債は通常の会社経営からは考えられ ることではない。今、前進と言われたが、私は管財人になって百数十日になるが一度 も前進したことはない。せめて、社内預金の半額でも用意してくれないかと言ったの に対しても(山本三井観光開発社長からの回答は)ゼロだった」と言い放った。

     萩原氏も負けていない。「私は一度も資金を出さないと言ったことはない。管財人 が頭ごなしに言うのは心外だ。これでは話し合いのテーブルにつけない」と発言、大 沢管財人はこれを不服としてなおも食い下がる様子をみせたが、塚田氏が制するとい う一幕もあったほどエキサイトした対決となった。問題はこの弁済も三井観光開発や 北炭社が保有している遊休資産、北炭社が全額出資している関連会社の株式売却が可 能であればという条件付きだった点である。

     私が金融筋から得た情報では、三井観光開発は、千歳第二空港(現・新千歳空港) に隣接して将来、値上がりが見込めた沼の端の土地を売却の有力候補にあげていたが、 資産の大半に担保がついていたので、担保解除の問題があるということだった。その 意味ではいぜん不安材料が残る状況には変わりはなかった。

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