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    第5章 大沢管財人、労組に閉山提案--規模縮小による再建の可能性探る

    1、三井観光開発、資金協力ゼロ回答

     八月十三日、前回の五日の折衝に続いて、大沢管財人は北炭グループの中核会社、三井観光開発 の山本邦介社長と最後の資金協力交渉に臨んだ。五日の会談では、山本氏が、「基本的には資金協力 の用意がある」としながらも、金額や方法については萩原会長と協議、十二日ごろには回答するとし て、結論が持ち越されていた。

     総額百十五億円の労務債や当面の経営つなぎ資金として、とりあえず、百億円程度の資金協力を三 井観光に求めていたが、北炭夕張炭鉱の労働組合では、五十億円以下の調達額が限度だろうと見てい た。一方、国はこの五日の交渉結果を受けて、通産省資源エネルギー庁の石炭部は衆議院石炭対策特 別委員会(当時・枝村要作委員長)の理事会に、大沢管財人が十二日ごろをめどに同鉱の更生計画案 を大筋で決定できる見通しを明らかにしている。

     もともとこの五日の会談のお膳立てとなったのは、七月三十日に行われた炭労幹部と萩原会長の労 務債完済をめぐる交渉だった。この中で、萩原氏は、「北炭夕張炭鉱支援のため三井観光開発ができ ることを具体的につめる必要がある」と述べたからだ。五日の会談後、山本社長は経団連会館で記者 会見した。要は、すでに三百九十億円もの資金協力をしており、山本氏は、「これ以上の財務負担は 会社の財務内容からみて困難」と述べた。

     山本氏は具体的に、北炭本社への融資約八十億円、同社への担保提供が約三百億円、さらに、災害 死亡者への弔慰金十億円を含む北炭支援策をすでに実施したと強調した。また、同社の財政状態も全 国十三ヵ所に保有するホテルは約四百億円の借入金の担保に入っていること、八二年三月期の決算で、 わずか一千万円の当期利益しか計上できなかったことを指摘、悪化しているとした。私は前日の四日、 メーンバンクの三井銀行の村瀬第二審査部長に電話を入れた。同氏は、「収支も若干黒字が出る程度 のギリギリの経営状態で、遊休資産はなく、所有する山林も全部も抵当に入っており、自社経営で手 がいっぱいだ」といった。

     村瀬氏はむしろ北炭グループとしては資金的には限界があることを管財人はわかっているはずだと いう。「ひとり、北炭グループから資金が出ないから(再建は困難)ということではいかぬ。更生会 社にしようということで管財人になったのだから、地元や石炭業界、国も災害復旧資金を出すなど、 これ(五日の会談)が第一段階として、これから、通産大臣や資源エネルギー庁、また組合との交渉 に入っていくのではないか」とやや楽観的な見方をしていた。結果的は十三日の再会談が失敗に終わ り、北炭夕張炭鉱は閉山へと一気に突っ走ることになるのだが・・・。

    2、運命の日

     そして、十三日、運命の日が来た。北海タイムスは翌十四日付けの朝刊一面トップで、十三日の劇 的な会談内容を報じた。私は本記部分と解説記事を含めて、百六十行(一行=十五字組みで)を書き 上げた。当日、私は札幌市内の中心部にある北海道郵政記者クラブに陣取っていた。ここは電話代が ただになるのに加えて、あまりライバル紙の記者が立ち寄らないので、安心して電話をかけられるの が魅力だった。私は朝から夕方まで引っきりなしに北炭本社や石炭協会、通産省など東京の取材源に 電話をかけまくり、会談の行方を探ろうと躍起になっていた。

     当時、同鉱問題を比較的熱心に取材していた新聞社は地元紙では、北海タイムスと道内最大の発行 部数を持ち、道新の名前で親しまれている北海道新聞。他紙では日経、そして共同通信ぐらいだった。 テレビはNHKを除けば、大きな動きがあるときに、カメラを回すぐらいで特種がスッパ抜かれる心 配はほとんどなかった。

     強敵は、東京に大きな取材拠点を持ち、中央政府とのパイプができている道新と他の全国紙、特に 日経だった。当時、日経の円城寺会長が石炭鉱業審議会検討小委員会のメンバーを務めていたので、 日経は有利という見方があったほどだ。また、北海道向けの日経紙は道新で印刷されていたり、仲が いいというのもよく知られていた。まさに、日経=道新連合というライバルを相手にしなければなら なかった。

     他社全国紙の札幌駐在の記者は、東京の担当記者に任せられる点で気が楽だったが、北海タイムス の場合は、東京支社があるにはあったが記者は芳賀君という若手一人で他の取材も抱えているため手 が回らず、結局、札幌に居る私一人で、各紙を相手に奮闘しなければならないという状況だった。

     日経や道新のように、大きな新聞社になれば取材には運転手付きの車がいつでも自由に使え、同鉱 炭鉱労組の三浦委員長が地元夕張から上京するような際も、同行取材できるため、重要な取材源とも 親しくなるチャンスも多く、同じ飛行機の中で、いくらでも好きな時間だけ必要な情報を入手できる。

     私はよくなぜこれほど苦労しなければならないのかと悔しい思いをさせられたものだ。会社も同鉱 問題は記者まかせで、別にライバル紙に絶対に遅れをとるなといわれていたわけでもなかったので、 適当に手を抜こうと思えば出来なかったわけではなかった。

     ただ、私自身のこだわりがあった。弱小新聞だからこその気概であったかも知れない。他紙が地元 の人々の苦しみを逆撫でするように、いたずらに同鉱の閉山不安をかきたて、経済性ばかりを主張し て、大量失業が生み出す人々の苦しみに余りにも冷淡な国や企業ばかりの立場を支援するような報道 姿勢に対する私憤もあった。

     大手紙が、まだ同鉱が再建の可能性を残している時に、一部の権力グループの閉山シナリオを盛ん に書きたてることが報道の客観性というルールを逸脱しているとすれば、私の私憤に基づく報道も許 されていいのではないかと思った。むしろ、それが、地元紙の特質だろうと思う。東京・経団連会館 で大沢管財人と北炭グループの二回目の会談が開かれたが、三井観光開発の山本社長は、「これ以上 の資金協力は自社の存立を危うくする」と述べ、資産売却などによる労務債の返済すらできないとい う事実上のゼロ回答を管財人に伝えた。あっけない幕切れだった。

     これは前回、同社長が、「労務債の弁済には基本的には協力する用意がある」と回答していたのと は百八十度違う内容で、管財人はもとより、労働組合や国もこの回答に一斉に反発した。大沢氏もこ れにはさすがにショックを隠しきれず、「北炭グループ全体の存亡の危機という時に何らの支援も考 えられないということは、何としても納得できない。猛省を促し、再考を求める」と激しい口調で罵っ た。

     この会談を最終回とせず、お盆明けの八月十七日以降に再回答が得られるように強く迫ったほどだ。 会談後の記者会見で、山本社長は、ゼロ回答の理由として、(一)北炭夕張炭鉱にはこれまで直接融 資で八十八億円、債務保証など担保提供分が約三百十三億円にも達する(二)三井観光開発自体も約 四百五十億円の借入金の金利負担に苦しんでいる(三)保有しているホテルも担保に入っているため、 売却しても利益がでないーなどを挙げた。

     この点について、通産省・資源エネルギー庁の弓削田石炭部長に電話取材を申し入れたところ、同 部長は、「三井観光開発にはまだ、資金調達余力がある。今回の同社が資金を出せないという明確な 理由がない以上、額面通りには受け取れない」と反論した。この裏には、国が同鉱に対して鉱山近代 化資金として三百三十九億円の融資を実施していたが、その約半分は萩原氏(当時・三井観光開発会 長)個人が債務保証していたいう事実があったからだ。

     いずれにせよ、このゼロ回答の結果、同鉱の閉山がほぼ確定的になったことには違いなかった。 北炭の松本総務部長は、「通産省もヤマを残すといっているように、閉山となっても立て坑と斜抗二 本を残し、その後は新会社によるタネ火方式でのヤマの存続になるのではないか」という線を強調し た。通常、閉山すれば完全に炭鉱を密閉しないと閉山交付金が出ない仕組みになっているので、松本 氏は「タネ火を残すには完全閉山にはならないだろう」という見方をしていた。

     この見方はあとになって正しかったことが分かるのだが、問題の新会社の受け皿にだれがなるのか となれば、石炭業界しかなくその動きが気になるところだ。この点について確かめようと、私は十六 日夜、有吉新吾日本石炭協会会長の自宅に電話を入れてみた。有吉氏は、「相手(北炭、三井観光グ ループ)にカネがないとなれば閉山ということになるでしょうね。新会社の受け皿については、全く 考えていません」という。

     柴田エネルギー庁長官にも聞いてみたが、同長官も、「ともかく、銀行も北炭も資金を出せないと なれば、同鉱は生き残れないし、新会社といっても受け皿になるところは出にくい。石炭協会の加盟 各社も(新会社には)出られないといっている。炭質がいいので、資源を残す手段を考えねばらぬ」 とこの時点では、少なくとも閉山を覚悟しながらも、資源を残すという言い回しでヤマの存続に含み を残していた。

     お盆明けの十七日、三浦同鉱労組委員長は大沢氏から三井側の再検討の有無について確認していた。 十八日、三浦委員長に取材すると、「もう、私は大沢氏から三井側が十三日の会談のときに提出した 文書の通りに(盆明け後に)最終回答したように聞いている」という返事だった。これで、閉山がほ ぼ決まったなと私自身も望んでいなかった事態だが、ついに認めざるを得なくなった。

    3、営業休止による部分閉山

     しかし、閉山と一口にいっても、いろいろなやり方があるものだ。ヒントは、松本氏の発言にあっ たように、「完全閉山」ではないというのがミソだった。つまり、営業休止というやり方で閉山する 方法である。松本氏によると、八月十八日時点ではまだ三井観光の大沢管財人への最終回答はまだ正 式には提出されていないということだったが、「大沢さんも(同鉱の存続には)営業休止しか方法は ないと見ているようだ」という。

     その前日の十七日に上京していた三浦委員長が三井観光との交渉の中で、「これ以上の資金協力は 難しい」ことを確認しており、大沢氏も覚悟を決めていたようだ。経営資金が枯渇したため、営業休 止とするというのが表向きの理由となる。この場合、従業員は全員解雇となり、鉱区は稼働中の西部 十尺残炭層区域だけを閉山、八六年から開発を想定している北部区域を残し、百人ぐらいを再雇用し て、露頭炭出炭のみを行う。その一方で現会社が採炭設備を維持しながら、将来は新会社による再開 発に希望を託すことになる。

     当時、松本氏は、「政府が介入すれば、新会社は作れるはずでその場合、三井鉱山になると思う」 と見ていた。営業休止は、部分的な閉山ではあるとはいえ、約二千人の全従業員が解雇になることは 避けられず、事実上の閉山提案だった。解雇によって、新たに五十七億円の新労務債が生じることに なるが、このうち、三十億円の閉山交付金が国から支給される見込みだった。

     しかし、実際には二十二億円しかまわらず、他には労働省管轄の賃金確保法に基づく賃金支払い不 足分の手当てとしての十一億円が期待できるだけ。このため、大沢氏は、残りの金額を北炭グループ に要請する意向を固めていた。

    4、営業休止に関門

     この営業休止は会社更生法第百八十四条に規定されている。大沢氏が最終的にこの条項の適用に踏 み切ることになるのだが、その背景には(一)十月以降の資金繰りのメドがつかず、このまま放置す れば破産という最悪の結果を招くこと(二)現会社を清算しても再建にあたるべき新会社を石炭業界 の協力を得て直ちに設立することは困難であること(三)清算すれば相互債務保証関係にある他の北 炭幌内炭鉱や北炭真谷地炭鉱、さらには地元商工業者の連鎖倒産に波及しかねないーなどの問題点が あったからだ。

     しかし、この営業休止提案がすんなりと関係者に承認されるまでにはいくつかの関門をくぐり抜け る必要があった。それは更生計画を監督する立場にある札幌地裁(伊藤博裁判長)と当事者の炭鉱労 働組合である。札幌地裁は営業休止の適用は、(一)更生計画の途中放棄を意味し、労務債など債権 者の利益を損なうことになること(二)営業を休止しても、北炭グループが労務債の弁済について資 金協力を拒否している状況では、国も石炭業界も新会社の設立に向かえず営業継続が不確定であるー などの点を理由に同提案に難色を示していた。

     一方、労組側も、組合側が主張する百二十三億円の労務債の弁済要求に対し、北炭グループがゼロ 回答し借金を踏み倒そうとしている現状では、おいそれと営業休止提案を受け入れることは到底出来 ない情勢だった。事実、上部団体の炭労では二十一ー二十二日に札幌で緊急臨時大会を開き、閉山反 対闘争の実施内容を決める方針を確認し、徹底抗戦に入る構えを示していた。しかし、大沢氏は組合 への閉山提案を八月二十一日に行うことを決めていた。

    5、政府調査委、人災と認定

     八一年十月、北炭夕張炭鉱新鉱で発生した大規模な坑内ガス突出とその直後に第二次災害として起 きた坑内火災の事故原因究明を約一年がかりで進めてきた政府事故調査委員会(委員長・伊木正二東 大名誉教授)は、八二年七月二日、「ガス突出の前兆があったにもかかわらず、(採炭予定現場の) ガス抜きボーリングが不十分だった」としたうえで、「事故は防ぎ得た」と断定する最終報告書を政 府の同鉱災害対策本部を兼ねる安倍通産大臣に提出した。

     同報告では、また、問題の坑内火災の原因については、救護隊が持ち込んだビニールシートか着用 していた衣服類の摩擦による静電気が発火原因と推定し、静電気防止措置を取るべきだったと述べて いる。同調査委員には北海道側からは、北海道大学の磯部俊郎教授が一次災害のガス突出事故調査班 のリーダー(主査)として加わっていた。石炭など鉱物資源の開発に詳しい地質学の権威として知ら れており、地元の同鉱担当記者にとっては重要な情報源だった。

     磯辺教授は、今回の事故が「不可抗力」ではなかった可能性が強いという見解を示した。とくに重 視した点は、現場にいた保安技術者がガス抜きボーリング作業に伴う保安状況を刻々と地上の現場技 術管理者に伝えていなかったのではないか、つまり双方にコミュニケーション不足があったのではな いかという疑問だった。

     「(北炭夕張炭鉱では)現場技術管理者が頻繁に代わっていた。結果として、情報がふんづまりだっ たということがはっきりすれば、会社の責任になる」とした。災害後、政府事故究明調査団は事故当 時の現場からの情報を分析した結果、現場の状況は「危険」であると判断したが、当時、現場管理者 が同じ判断が出来ていたかが調査の焦点になったというのだ。つまり、情報源から積極的に情報が流 されていた、或いは、情報源から積極的に情報を採取していたという、両者に緊密性があったのかど うかという点である。

     磯辺氏は、「ここに問題があったと思う」といった。ただ、問題がそう簡単に解決できない事情も あった。磯辺氏もいみじくも語った。「必ずしも人災とはいえない」という。会社側は十二本のガス 抜きボーリングを実施したがガス突出を起こす地質上の細かい断層についてまでは当初、知らなかっ たのである。磯辺氏は言う。「地質の先生もそれが断層とは断定できないというほどのもので、地質 学的にも確認できぬといわれる」

     しかし、確認できぬほどの微細な断層があったといって、直ちに災害は不可抗力だったという結論 は導かれなかった。一方で、調査団のメンバーの間ではガス抜き不十分という意見もちらばっていた からだ。 また、十二本のガス抜きボーリングに対する情報分析が十分だったのか、会社側がその程 度の判断力をもっていたかについての疑問も残されていた。

     これらの意見を集約して、政府調査団は最終報告で、「今後、念入りなボーリングを実施すれば(北 部開発に必要な保安確保の)対策は可能」という、事実上、採炭再開のゴーサインを出したのである。 一方、北海道の炭鉱労働者の上部組織である道炭労も独自の事故調査報告書をまとめていた。同調査 報告書の発表は、道炭労委員長の相沢秀雄委員長が北海道庁の記者クラブで行った。同委員長は冒頭、 「道炭労は、北海道大学の木下、樋口両助教授の協力を得て、八一年十月の事故発生以来、のべ十二ー 十三回にわたって独自の現場検証を実施し、六月二十五日に結論を最終的にまとめた」とこれまでの 経緯を説明した。

     報告書は三十ページあまりに及んだ。それによると、ガス突出現場の北部第五上段ゲート(着炭部 分)から、七十ー八十メートル奥に高圧ガス帯があったが、会社側はこれに気がつかず、突出二時間 前に行った坑道掘進用の発破や掘進に伴う岩盤の先行圧の上昇などが引き金となって、推定六十万立 方メートルのガスが断続的に突出したとしている。

     ここで問題になったのは、同年十月九日、この着炭現場から十一本のガス抜きボーリングを実施し たが、ガス量が異常に少なかったため、会社側はガス抜きは十分できたと誤認、同月十三日から十六 日にかけて三回の発破をかけた点である。この誤認の背景には、この地域がペンケ七号断層など三つ の大きな断層とその派生的な細かい断層が複雑に入り組んでガスが溜まりやすいじょう乱地帯である ことを会社側が理解していなかったことがあげられるとした。

     加えて、十月九日から事故(同月十六日午後十二時四十一分ごろ)直前までに百十二回の山鳴り現象 (盤ぶくれ現象で坑道内で破裂音がする)が発生していたことや、事故発生二時間前の発破以後に、 メタンガス濃度が最高 一PPMまで上昇するなど、上下変動を繰り返すサミダレ現象が起き、炭質も 軟らかくなるなどの予兆があったにもかかわらず、現場の保安係員は単に注意を受けただけで、作業 を続行させていた。

     二次災害となった坑内火災も、救援隊が持ち込んだビニールシートや着用の衣類の摩擦による静電 気と推定、静電気発生防止措置をとるべきだったとして、一次、二次の両災害とも会社側が安全対策 を欠いた人災と断定、政府報告と一致した結論を示している。

    6、管財人、労組に閉山提案

     八二年八月二十一日、とうとうヤマの男たちが最も恐れていたXデーがきた。大沢管財人はその日 の午前中、通産省の安倍大臣を訪ね、北炭夕張炭鉱の事実上の閉山となる大幅な事業規模縮小案を同 鉱の労組側に提案することを伝え、その日の午後、空路札幌入りした。まず、管財人は札幌地裁の伊 藤博裁判長にも同様に報告した上で、三浦清勝同鉱労組委員長ら組合幹部と上部団体の野呂炭労委員 長、相沢道炭労委員長が待つ北炭札幌事務所へと車を走らせた。

     そのころ、私はこのメーンエベントを取材しようと、札幌市内のほぼ中心部のビジネス街にある北 炭札幌事務所に入り、数十人の地元放送局や各新聞社の記者、カメラマンなどでごった返す会議室の 一室で今や遅しと大沢管財人ら一向の到着を待っていた。組合側では当日、青年婦人部の支援者も含 め、ヤマ元から大勢の人達が団体交渉のテーブルを取り巻くように詰め掛けており、テレビカメラの まばゆいライトからの放射熱も加わって、はやくも熱気に包まれていた。

     午後四時ごろ、大沢管財人と粕谷直之北炭社長ら会社側代表が現れ、急に周りの動きが活発になっ た。カメラマンが動きまわり、カメラのフラッシュが激しくたかれるなか、主役たちが大舞台に登場 したという感じだった。大沢氏はやや笑みを浮かべながら目の前の組合代表に軽く会釈をして、席に ついたが、野呂委員長は顔をこわ張らせながら、今回の閉山提案に対する不快感をあらわにしていた。 私は組合員の肩越しに、すぐ目の前の交渉のやりとりを一言一句も聞き逃すまいとをあわただしくメ モをとりながら、「なるほど、これがかつて、昭和三十年代、石炭全盛時代の労組がみせた迫力だな」 と心の中でつぶやいた。

     一方の大沢管財人は、元三井石炭鉱業の労担で、かつては、総資本対総労働の対決といわれた九州 の三井三池炭鉱の大争議に直接関わってきた経験者だけに、どっちもお互いに若いころの顔見知りだ ろうと思っていたが、それにしても堂々として落ち着いているというのか、神妙に相手の発言に何度 も頷いているのが印象に残ったものだ。

     それとは対照的に、橋口人管財人代理の方が、やや興奮気味にときおり、声を荒げて対応していた。 大沢氏の閉山提案については、安倍通産大臣はすでに十九日に開かれた衆議院石炭対策特別委員会の 席上で、北海道選出の岡田利春(社会党五区)、塚田庄平(同三区)両議員からの質問に答えて、 「管財人の出す結論を全面的に支援する」と発言、事実上、閉山やむ無しという考えを明らかにして いた。

     しかし、問題は札幌地裁の判断だった。前日の二十日、三浦委員長と相沢道炭労委員長は同地裁の 伊藤博裁判長を訪ね、大沢管財人の閉山提案を不許可にするように異例の申し入れを行っていた。こ れに対して、地裁は労使双方の合意が許可するかどうかの裁定の前提になる考えを示していたからだ。 大沢氏は提案書を手に取ると、座ったまま正面の組合側に向かって提案書の概要を読み上げ始めた。 「事業縮小に至った最大の理由は北炭グループから資金協力が得られなかったことに尽きる」と前置 き、九月二十一日に従業員全員を解雇、事実上、閉山する」とし、閉山理由を淡々と読み上げた。

     まず、その一つは、残炭十尺層と平安八尺層の採炭を進めながら、北部区域の開発準備に入り、五 年七ヵ月で出炭を開始する計画をたてたが、二切り羽で年産七十五万トン体制にもっていくまでに必 要となる百二十億円の資金協力が北炭グループから得られない現状であり、市中金融機関からの融資 も同鉱の信用が全くないため無理である。

     従って、自主再建は不可能であること、第二に、次善の策として、新会社による北部開発を検討し たが一切り羽体制(開発開始後四年九ヵ月で嫁行)までで百三十億円、二切り羽体制まででは二百億 円の設備資金が必要だが、その資金手当てが困難であること、第三に、現状では二千人の従業員を抱 え、日産千トン弱の出炭では毎月七億円の資金不足が生じ、六月以降、収支は赤字となり、九月二十 一日には資金ショートを起こし、このままでは破産となることなどを指摘、管財人は、「提案するに は忍びないが、万策尽きた提案である」と訴えた。

     私はこの言葉を一言も聞き逃すまいと、慌ただしくメモを取っていたが、北炭グループ、とくに北 炭の石炭収入で巨額の資産を築いた三井観光開発が資金を出そうとしないことへのいらだちと同時に、 国は一体何をしているのかという強い不信感すら覚えたものだ。確かに、三井観光開発が所有する札 幌でも最高級のホテルである札幌グランドホテルの売却の噂が出たが、結局、売却しても担保を外す と売却益はほとんど出ないという苦しい台所事情ではあったようだが、それにしても、同社は東京な どに三井アーバンホテルブランドのホテルチェーンをもっており、資産は十分あったはずだ。

    7、管財人、火ダネ方式を正式に提案

     大沢管財人は、結局、事業縮小案として(一)坑内部門からの撤退後は、三十万トンの炭量がある 露頭炭(地上に露出している石炭層)の生産だけによる存続(二)未払い労務債の処理が完了した後 に、新会社による北部開発に期待するという、いわゆるタネ火方式構想を提示した。

     これらの提案内容はすでに前日の新聞で書かれていたことだ。私も、北炭の幹部から骨子を聞いて、 二十一日付けで一面トップで書いたほか、ライバル紙の北海道新聞も提案書の全文を入手、同日付け の朝刊ですっぱ抜いていた。

     私の取材では、閉山対象から外した北部区域と露頭炭鉱区の稼働のため、坑内労働者千七百人余り を一度全員解雇したうえで、千人未満を再雇用し、三ー五年後に新会社を設立して北部区域の再開で ヤマの再建を図ること、さらに、解雇した従業員のうち四百十八人を北炭真谷地、北炭幌内、空知の 北炭グループの各炭鉱に就職させ、他は労使双方で再就職あっせん委員会をつくり、日本石炭協会の 協力を得ながら他社の炭鉱や取引先の企業に就職させること、新会社ができるまで、炭鉱離職者手帳 による失業手当てで当面の生活を支えることなどだった。だが、問題の百十五億円の労務債の返済は 全く見通しが立っていなかった。

    8、労組、閉山提案に反発

     団交は、このあと、炭労の小西新蔵書記長が管財人に一問一答形式で、厳しい口調で次から次へと 質問を浴びせかけ、会社側への責任追及を開始した。会場は緊張感に包まれた。組合側の反撃の始ま りだ。このやりとりを私は別稿の形で掲載したが、それを再現するとこうだった。

     小西「今回閉山の結論に至った最大の理由はなにか」
     大沢「お金がないことに尽きる。北炭グループの支援はなく、このままでは、倒産、破産 になる。労務債すら解決できず、これ以上、物件費や借金を増やしていくわけにはいかない。社会保 険料や固定資産税、鉱産税の支払いも止めてもらっているほどで、この(金の)限界が提案に至った 最大の理由だ」

     小西「管財人は今回の提案を再検討する意志があるか」
     大沢「今月二十六日に衆院の石炭対策特別委員会に出席するが、政府が債権の半分近くを 占めて政治的な問題にもなっており、この場での動きをつかんで対応したい」
     小西「条件が満たされればヤマを再建する考えがあるのか」
     大沢「露頭炭は三十万トンもあり、これを採炭、継続して、北部区域につながる坑内の斜 坑や選炭機などを維持していきたい。そして、再開発を希望する人達の出番を待つ」

     小西「労組側が提案に同意しなければ閉山は成立しないが、同意しない場合は(一方的に) 閉山又は倒産をする考えか」
     大沢「政府は坑内部門の閉山の場合ならば何とか閉山交付金を出せると見ている。北炭真 谷地、幌内の各炭鉱には、(現会社が)清算会社に移行しても影響は出ない。しかし、破産になった ら話は別だ。労務債が最も弱い立場になる。したがって、更生会社のうちに清算すべきである」
     小西「炭労独自の再建案をどうして認めなかったのか」
     大沢「(元来)日産四千トンのヤマで全従業員二千人では、毎月七億円の不足資金が出る。 北炭グループの資金援助がゼロでは(自主再建の)構想を練っても開発は不可能で、炭労案の内容に は入りようがない」

     小西「安倍通産大臣は新会社構想を持っているが、この提案書のなかの新会社との関係は」
     大沢「新会社の設立を期待している。北部開発には百三十億円の設備資金がいる。二切り 羽では二百億円の赤字(設備資金)を抱えなければならず、今後四ー五年間を持ちこたえる会社があ るかどうかで生易しい問題ではない。更生担保債権をいかに整備(処理)していくかで決まり、当面 の(同鉱の)清算をどうかしなければ(会社の)買い手も出てこないのではないのか」

    9、三浦委員長、管財人の努力不十分と糾弾

     このあと、三浦清勝委員長が、質問に立った。
    三浦「この提案は絶対容認できない。管財人は、萩原吉太郎三井観光開発会長に一度も会っ ていないように、大詰めの努力が十分にされていないではないか」
    大沢「努力不足もあるが、二十六日の衆院石特委員会があり、この提案が最後ではなく、努 力は続ける。萩原さんとは進んで会う気持ちはあるし、二十六日の石特委に共に出席して会うことに なっている」
    三浦「労務債の完済は北炭グループがどんな具体的な方法で最大の努力をするというのか」

     この質問に対して、大沢氏は粕谷直之北炭社長に回答させた。
    粕谷「三井観光開発には資金余力はないと思うが、強力に要請する。北炭も資産が売却で きるように担保をはずすように金融機関に今後も要請していく考えだ」
     大沢氏は、この提案が最終案ではない点を強調していたが、これには伏線があった。団交の中でし きりにクチにしていたように、四日後に東京で開かれる衆院石炭対策特別委員会を意識した発言だっ たのだ。

     同委員会は、後でも触れることになるが大沢氏と萩原氏の歴史に残る一騎打ちとして長く記憶に残 されることになった。私はお世辞を言うつもりは毛頭ないが、個人的にはそれまでは本当に再建にや る気があるのかと思うぐらいそっけなかった大沢氏が最後の執念を見せて、時には珍しく、怒りをあ らわにしながら萩原氏に激しく詰め寄り、労務債の返済原資を引き出す言質を取る、その迫力に、大 沢氏の炭鉱に賭けた一人の男の生きざまを見た思いだった。

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