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    第四章 三井鉱山対北炭の確執

    一、北炭独自の再建案

    当時、大沢管財人は「北炭夕張炭鉱の再建は北炭グループの責任で行うべき」という信念から、北炭グループに対して資金調達を含めた独自の再建案の提出を求めていた。松本氏によると、北炭社として具体的に三案を立て、大沢管財人に更生計画案として提示する準備を進めていたという。

     

    その第一案は現行の会社ままで、再建するというもの。この案では平安八尺層区域は、単価が安い、主に電力向けの一般炭しか掘れないうえ、可採炭量も五百二十五万トンと少なく短期間で資源が枯渇するおそれがあり、採算もとれないことから同区域の開発はしないで、開発着手後二年後に採炭が可能となる北部区域の開発にすぐ取り掛かるべきだとしている。

     

    ただ、この二年間の空白期間を埋めるためには西部区域の残炭層と地上に露出している露頭炭で日産二千トン生産体制を予定するが、現行の約二千人の従業員を維持したまま、経営をやりくりしていかなければならない困難さがあった。

     

    同鉱は日産二千四百ー二千五百トンで採算が取れるヤマなので、どうしても不足のつなぎ資金として三十ー五十億円が新たに必要になってくる。北部区域の開発資金を含めると、合計百億円以上の資金ががかかる計算だ。ただ、開発が決まれば国から近代化資金など補助金が最大限で必要額の七〇ー八〇%が支出されるので、実際の北炭の負担は三十ー五十億円となるとしている。

     

    第二案は、いわゆる火ダネ方式。別会社になっても北炭夕張社と合弁の形で再建に取り組むというもの。まず、従業員全員を一度解雇したあと、百ー二百人を再雇用し、生産は露頭炭だけとし、坑内出炭はゼロ。そのかわり、将来の再開発に備えて立て坑二本、斜坑二本とそれにつながる坑道だけを残し、維持管理するというもの。北部区域は、国の深部開発研究の名目で試験切り羽(採炭現場)として残そうという考えだ。

     

    同案が管財人案と違うのは北炭社案では夕張炭鉱の清算を考えていないのに対して、管財人側は、まず清算して北炭以外の別会社が単独でタネ火を残す点である。これはとりもなおさず同鉱の更生計画の断念につながるが、夕張のヤマだけは残るという図式である。北炭社としても北炭夕張炭鉱の清算を前提にしたタネ火案では会社更生計画にならないので、あえて北炭社も夕張炭鉱社を生かしたまま別会社との合弁という形を取ったわけだ。

     

    第三案は、会社清算である。これは、六二年まで一般に行われていた国による不採算炭鉱の買い上げ方式で、北炭夕張の資産を買ってもらうもの。これは、百十五億円もの労務債の早期弁済に重点を置いた案だ。閉山後は石炭鉱業合理化臨時措置法で政府が買い上げ、どこかの炭鉱に払い下げるというものだった。

     

    松本氏はこの三案のいずれかに決まるだろうと予測したが、このうち、第二案は同鉱の自己弁済額八百六十億円余りの債権は返済できず、債権者の反対にあい現実的には無理な案だった。同鉱の国への売却騒ぎが頂点に達していた七月六日、北炭社の社長就任挨拶で札幌を訪れていた粕谷直之氏がタイミングよく記者会見した。この時期はちょうど北炭夕張炭鉱の大山武専務が北炭独自案を粕谷氏に説明していた頃だった。

     

    粕谷氏は席上、「国による(同鉱資産の)買い上げは、労務債の早期弁済のため考えた窮余の一策で、それに固執しているわけではない」といった。そのうえで、労務債の弁済を猶予してもらえれば、「再建策として八四年度生産開始を目標に北部区域開発を検討している」と述べた。ただ、人員規模は現在の坑員千七百人体制から、九百人ほどにほぼ半減するという。

     

    粕谷氏は、「労務債の早期弁済かヤマの存続かどちらかを選んでほしい」ともいっており、これは現実性のない国への売却案をあえて打ち上げることによって、事実上、三井観光開発を含めた北炭グループが労務債の弁済資金の捻出の放棄を宣言したと管財人や労組側に受け取られた。

     

    粕谷氏は、「三井観光は北炭夕張炭鉱に融資や債務保証でこれまでに三百七十億円の資金協力をしており、北炭グループとしては、もはや、資金捻出の力はない」と明言、弁済放棄と受け取られる発言をしている。翌七日、私は東京の大沢管財人に電話を入れた。萩原氏の同鉱売却案固執について、感想を聞くためだった。

     

    大沢氏は、「こちらとしてはカネがないから、北炭に再建案を出させたが、萩原案の閉山、国による買い上げは(三井観光開発には)カネがないと判断した。それともハッタリなのか分からない」という。また、三井鉱山が買い取るのではないかという一部報道に対しても、「三井鉱山がやるなんて考えていないよ」と大沢氏は一蹴した。

     

    北炭札幌事務所の大楽総務課長は、「閉山交付金だけならば、せいぜい国から受け取れる資金は二十四ー二十五億円だが、買い上げとなれば二百億円は可能だ」という。ただ、問題は北炭が労務債の返済方法としてこの買い上げ案以外に他の方法を提示していないことだ。これでは、北炭は自助努力をし、自らの責任を果たしたことにはならない。

    二、北炭の社会的責任

    同じ日、大沢氏は三井鉱山で記者会見に臨んでいた。会見では、「労務債百十五億円のうち、北炭はさしあたりすでに退職した従業員分の三十八億五千万円を支払うべきで、残りはまだ働いており、これから返済を続けることが可能だ」とあくまでも北炭の社会的責任を求めている。

     

    この裏には、北炭が三十八億五千万円という労務債の一部を支払えば、石炭各社も一肌脱ごうということになるとの読みがあった。北部開発の準備期間である二年間に必要となる開発資金三十億円以上については、別会社が手当てし、北炭から鉱業権を譲り受けて北部開発に当たるというのが管財人の判断だったと私は見ていた。

     

    だが、大沢氏が萩原案に否定的であるにもかかわらず、北炭社の松本総務部長はこういう見方もしていた。「大沢氏は(萩原案が)実現するとは思えないといっているが、仮に可能となれば、考え方を変えるだろう」といった。その根拠としては、「北炭夕張が閉山交付金を受けて坑口を閉じれば、無鉱区となり、北炭時代の債務が(同鉱区)から抹消されるので、その後、他の会社となれば、三井鉱山がやることは可能になってくるんですよ」といった。

     

    北炭の炭鉱関係者の間にはこうした発言に表れたように、最後には三井鉱山が乗り出してきて、北炭夕張炭鉱という安い買物をするのではないかという疑心暗鬼が横行していた。七月十日、東京で炭労と北炭夕張炭鉱労組が萩原氏と会い、買い上げ案の真意をただすことになっていた。前日夜、いつもの通りに夜の電話取材を日課としていた私は四階の編集局から、夕張の三浦清勝同鉱労組委員長の自宅に電話を入れた。

     

    奥さんが最初に電話口に出た。「委員長をお願いします」と私はいった。しばらくして、三浦氏の声らしく何かしゃべりながら電話を受け取ると、よく響く低い声で話し始めた。「管財人や通産省は北炭グループで(自己努力として)いくらお金を用意できるのかと言っているのに対して、萩原氏は(この考え方とは正反対に)国の方からの買い上げ資金二百九億円でやってもらいたいという違いがある」と一気にまくしたてた。

    三、萩原氏は三井鉱山に売却を意図?

    三浦氏は萩原構想が管財人と真っ向から対立した発想であり、萩原案が政府や管財人、労組から猛反発を招いた背景を説明した。萩原氏は始めから「(最終的には)三井鉱山に売ることを考えていたし、これを政治的に処理してほしいとみている」というのだ。

     

    さらに労務債の完済も百パーセントではなく、わずか四〇%といっている点もこの萩原案は労組側を刺激したといった。だが、この萩原提案をはっきりと打ち消したのは有吉新吾・三井鉱山会長(石炭協会長兼務)である。私は七月十二日の夜、東京の自宅に電話をした。食事をしていたらしく茶わんや箸を置く音が聞こえた。有吉会長が近付いてくる音がして、電話に出ると珍しく興奮気味に話をした。

     

    「萩原さんからは何の話も全然ありません。三井鉱山が引き受けるなんて全く考えていません。萩原案は唐突という感じで、苦労して管財人を送り込んだのに分かりません。萩原さんは何を企んでいるのか分からない」といった。さらに続けて、「結論からいえば、北炭のままでいくにしても、清算するにしても、北炭の責任が免責されるようなことになってはいけないということにつきますよ。萩原さんは一方的にツケを他におんぶさせようとしているに過ぎない。だれが、そんなものを引き受けますか」というのだ。

     

    「今、大沢管財人は資金的な面で政府機関と折衝を続けているところですよ。それもだめなら、北炭夕張炭鉱を清算会社にして管財人はお役ごめんということだが、そんなことしても、北炭の責任はなしというわけには世間的にも通りません」と言い切った。

    四、萩原氏、自民党議員幹部に裏工作

    萩原氏は七月八日、当時の自民党幹事長の二階堂氏に会い、国への炭鉱売却案の説明と協力を要請した。政治力を生かして、何とか実現にこぎつけようという腹だった。翌九日も衆院石炭対策特別委員会の有力議員の三原朝雄氏を、藤尾正行議員と一緒に訪ね、根回しに入っていた。

     

    私は三原氏の国会議員会館のオフィスに電話をかけた。三原氏は、「萩原さんの構想は聞いており、倉成正議員(自民党石炭対策特別委員会委員長)と協議したうえ、(衆議院)石炭対策特別委員会で検討したいと思っている」といった。いよいよ、萩原氏の裏工作が始まったのである。私はすぐ翌日の朝刊に「政界工作強まる」の四段見出しでその記事を書いた。

     

    萩原氏はこうした一連の説明の中で、国への売却について間違って伝えられている部分があるとして、改めて真意を明らかにしている。実際には国に売却するのではなく、北炭夕張炭鉱の採掘権と炭鉱施設を三井鉱山を中心とする別会社に二百九億円で売却するもので、国は単に別会社に代わって一時的にそのお金を立て替えるというものだった。北部区域の採炭が始まりしだい、そのお金を返済していくことになる。同鉱は閉山し、労務債など債務処理を行う清算会社になるという。

     

    この点については、相沢秀雄・道炭労委員長も七月十日、炭労と萩原氏との会談に出席して確認していた。ただ、相沢氏は、「萩原氏のいうように、北炭夕張炭鉱を閉山してしまうと(施設や採掘権は国の石炭鉱業事業団の所有になるので)、国からの閉山交付金二十七ー二十八億円で終わってしまう。閉山して別会社に同鉱の資産を買ってもらえることが出来るのか、その辺りがいまひとつ分からない」といくつかの問題があるとした。

     

    同月十三日、私は橋口管財人代理にこの点について聞いてみることにした。なにしろ、法律問題がからんでいるので、取材も細部にわたってくると、次から次と分からないことが多く出てくるので、あれこれと専門家の意見を聞かなければならなかった。

     

    橋口氏は、「閉山しっぱなしではもったいないので、(閉山しないで)”タネ火”にしてヤマを残す(この場合は更生計画の断念、つまり清算計画への移行)というのも後始末として考えている」という。ただ、その場合、「別会社がしっかりした計画をもっていれば国から新鉱開発資金を導入できる。現会社から担保付きの資産を引き継ぐが、資産を(高額で)買い取るというのではなく、債務を引き継ぐだけで済み、新たにお金は払わない点が萩原案と違う。ただ、労務債は引き継がない」という。

     

    ただ、別会社の受け皿が全く不透明な状況では、この後始末案も単なる案に過ぎない。橋口氏もいうように、管財人側としては萩原案は実現性がほとんどなく荒唐無稽な話として一笑に付していた。

    一方、ヤマ元の夕張では、七月十九日の新鉱労組・拡大闘争会議の決定を受け、二十三日に夕張市全域で、ヤマの存続を訴える地域集会を実施した。当日、夕方五時半から商店を閉じてもらい、同市の人口の一割強に相当する約五千人の市民が清陵三区グラウンドでの大集会に参加、気勢をあげていた。萩原氏の新鉱の国への売却構想が表面化して危機感を強めていた時期でもあった。

    五、安部通産相、新会社方式を支持

    大沢管財人は二つのゴールを同時に達成しなければならなかった。会社更生法に基づいて労務債の弁済とヤマの再建を同時にはかることである。完全に閉山しないで、北炭夕張炭鉱の現会社は清算会社にし、債権者の了解が得られやすい新会社でヤマの存続を図るという考え方だった。

     

    これには、北炭グループの資金協力が不可欠という意向を管財人は北炭側に再三にわたって示している。北炭グループが労務債の弁済原資を調達できなければ、新会社は新旧の両労務債を抱え込んで早晩、経営が行き詰まり、ヤマの存続は不可能となるからだ。そうなれば、労務債を弁済するために閉山して財産を処分する一方、国から閉山交付金を受ける道を選択しなければならなくなる。閉山しないで新会社による再建か、または、閉山かの二者択一しか道はなかったのである。

     

    北炭グループがあくまで同鉱を国へ二百九億円で売却する萩原提案に固執する一方、大沢管財人は北炭・三井観光グループによる労務債と北部区域の採炭開始(八六年予定)までの経営つなぎ資金の合計百億円余り(この中には当面の労務債返済額三十八億円が含まれる)の自己調達を強く求めたため、双方の動きが膠着状態になっていた。ちょうどそのころ、同鉱問題の運命のカギを握る安倍通産大臣は欧州に外遊中だった。

     

    八月四日の帰国がひとつの大きなヤマ場となった。俄然、政治決着の様相を呈してきた。関係者の間でもこの時期、色々な動きが目立ち始めていた。まず、七月二十三、二十八、二十九日の三日間にわたり、大沢管財人が北炭グループの首脳と会談、先の百億円の資金要請を行ったほか、炭労も二十九日には北炭の粕谷直之社長に労務債返済と同鉱再建要請、さらに三十日には萩原氏との交渉に入った。

     

    同鉱は、九月末には二切り羽体制から一切り羽へと減産になり、余剰資金も完全に底を尽いてしまうというギリギリの状況に置かれていたが、当初、七月中に更生計画案の骨子が作成される予定も延び延びとなり、労組側では早くても八月五日ごろになると見て事態は切迫していた。これも北炭側独自の更生計画案を参考にしたいという管財人側の意向が裏目に出て、双方の対立が表面化したのが原因だった。

     

    七月三十日、あまり同鉱問題に関心を見せていなかった朝日新聞がどういうわけか大沢管財人が同鉱の更生計画の策定を断念、清算を最終決定したという内容の記事を掲載、地元はもとより中央でも大騒ぎとなった。結局、大沢氏個人がこの記事を否定し、通産省も否定した。当時はこの種の記事がいつ飛び出してもおかしくない緊迫した状況であったことは確かだ。

     

    この日の夜、出先の記者クラブから本社に戻った私は、一体、事実関係はどうなっているのか、その真偽を確かめようと東京にいた大沢氏に早速、電話をかけた。私はいつも、夜の電話取材をする時は、他の原稿を書き終わる八時ごろから始めることにしていた。相手がすぐつかまるとは限らないが、遅くても十一時ごろまでには原稿にして翌日の朝刊に間に合うようにしていた。

     

    特に週一回の夜勤の日には、編集局には当番デスク一人がいるぐらいで、夜番記者はあちこちの地方支局から電話で送られてくる原稿を書き取るのに大忙しとなる。カメラマンも一人居残っていて、深夜の火事など事件に備えている。新聞制作の整理部も同じ編集局にあり、デスクから受け取った原稿に見出しをつけたり、レイアウトとここだけは結構にぎやかだ。

     

    この日も、閑散とした室内でゆっくりと電話取材に入った。相手はおおむね同じような顔ぶれなので雑談を交じえながら、いいたい放題の会話ができ、記者会見では言えない本音が聞ける。結構、おしゃべりでき、ちょっとした息抜きにはなる。

     

    私の定位置は編集局奥の記事資料室と決まっていた。なにしろ、長丁場の取材なので記事スクラップがきちっと整理されていると、以前に書いた記事でも正確に覚えていなくても資料室にいれば、いつでもすぐに目的の記事が見つかり、それに新しい事実を書き加えるだけで新しい記事がすぐに書けるという便利さがあった。

     

    大沢氏の自宅に電話をいれてみた。朝日の”清算”報道に対する感触をじかに確かめるためだ。他の関係者にいくら聞いてもやはり本人直接でないと安心できないのがジャーナリズムの世界だ。私は、清算という前に、遠回しだが、「来月五日ごろに、安倍通産大臣に会う予定はあるんですか」と切り出してみた。いきなり、「清算は?」というと相手も言葉を慎重に選んでくるので少しでも相手の口を滑らかにするためにも遠回しな聞き方の方がいい場合があるからだ。

     

    大沢氏は、「そんな予定はない」といった。これで清算を前提に大臣に会うことはないということがわかった。そこで、たたみかけるように今度は、ズバリ、「清算を決めたのか?」と聞いてみた。大沢氏は待ちかねたように、「私が一人で決められるような生易しい問題ではないし、そんな権限は私にはない、力もありませんよ。(外遊中の)安倍大臣が帰国(八月四日)するのを待って、国会の議員先生たちが大臣と話し合ってどうなるかだよ」と一気に語った。

     

    続けて、「政治折衝になるだろうな。萩原氏がまたどう動くかだ」とまるで自分に言い聞かせるように言ったのが印象に残った。この時、国会では社会党の石炭対策特別委員会(当時、阿具根登委員長)は安倍大臣との会談を予定していたし、与党自民党も同党石炭対策特別委員会の倉成正委員長が中心になって、水面下で、渡辺省一(自民・北海道四区)や社会党出身の岡田春夫(無所属・北海道四区)両氏らと連絡を取りあっていた。

     

    一方、政商の萩原氏も七月初めごろから、元労働大臣の藤尾正行氏を介して自民党の実力者である二階堂幹事長(当時)や衆院石炭対策特別委員会の有力メンバーだった三原朝雄氏に対して、政界工作に乗り出していた。安倍大臣は萩原氏の言うような国への二百九億円での炭鉱売却案を拒否する意向を表明していたが、この点について、倉成氏は、「今のところ、党首脳からは萩原案の拒否について正式に聞かされていない」としており、当分、萩原案をめぐって、議論が続く見通しを示唆した。

    六、再建は北炭自身の手で

    政治色が濃厚となってくる一方で、大沢氏は自分自身で最大限可能なことに全力を挙げるしか他に方法がなかった。北炭グループ十八社に対して、七月二十三日に札幌で、同月二十八ー二十九日には東京で、労務債と当面の経営つなぎ資金分百億円の調達を要請していた。

     

    大沢氏はこの金額について、「更生への入り口のカネ」としていたものだ。この点について、大沢氏は、「北炭には会社更生法の(適用)申請をしたときの初心に帰れといっているんだ。更生会社になるのであれば、経営つなぎ資金や労務債も片付けないと始められないでしょう。入り口のカネが必要だといっている」と説明した。

     

    ある北炭関係者が私に、「管財人がはっきりした再建の青図を示してくれなければ、お金は出せない」とこぼしていたのを思い出したので、そのことを大沢氏にいってみると、大沢氏はやや不満げに、「そんな、北炭も素人じゃあるまいしそんなことわかっているじゃないですか」と言った。

     北炭が不安がる背景には、燻り続けていた「火ダネ方式」による炭鉱存続案があった。これは、八六年から、北部区域の再開発に移行するが、それまでは露頭炭を掘り、坑道の維持にあたるというもので大沢氏もその考え方を否定していなかった。これでは、北炭も不安がるのも無理はなかった。

     

    大沢氏は言った。「火ダネ案は、北炭(の手による再建が)ダメだったときのことだ。最初から(私は)北炭自身の手で再建しろと言っている。再建では大量の人員出向も伴うし、つなぎとして西部区域の十尺残炭層も掘ればいい。八二ー八五年まで、月産四万トンにはなる」と。

     

    北炭でだめなら、火ダネ方式となるのだが、この点について、大沢氏は、「この場合は、十尺層も平安八尺層も開発しないで、八六年から、北部区域に入る。その間は坑道維持と露頭炭だけの出炭となる。この二通りあってどちらかが可能性が大きいか小さいかの問題にすぎない」として、この時点では北炭夕張炭鉱の清算には否定的だったが、大沢氏としては北炭側の自助努力のなさに不満を持っていた。

     

    私が、「三井観光開発社と資金問題で会う予定があるのか」と聞いたときも、大沢管財人は、「それは北炭側が会ってくれというので会うが、お金について私が頭を下げて頼む筋合いのものではないが、(三井観光も)北炭グループ企業として、資金の要請をする」といったものだ。八月四日、帰国した安倍通産大臣に社会党の「北炭夕張新炭鉱災害対策特別委員会」(阿具根登委員長)の議員五人が面談した。

     

    会見の趣旨は(一)再建の支障になっている労務債完済の資金を北炭グループが調達するように政府が行政指導すること(二)当面百三十ー百四十億円の再建資金が必要となるが、この資金については政府の現行の石炭関連の補助金制度を活用して、実効ある対策を打ち出すこと(三)再建については政府も支援の態度を明確にし、石炭協会の協力を得られるように努力すること、の三点について、通産大臣から言質を取ることだった。

     

    会見後、同委の副委員長の岡田利春氏に聞いてみると、安倍通産相は思ったよりもはっきりと、北炭による再建よりも、別会社の新会社方式で再建を進めるべきだという決断を示したという。安倍氏は、懇談の中で、「現会社のままで更生することは社会的にも許されないという状況は認識している」としたうえで、「私自身、大蔵省と交渉して、現行の制度融資を最大限利用できるように働き掛けていく用意がある」と答えた。

     

    もちろん、その前提には石炭協会が同鉱再建にあたる新会社を設立することをあげている。これは、一見前向きな発言に見えるのだが、別な言い方をすれば、国は石炭協会が同鉱再建に応じなければ、国は協力出来ないというのと同じだった。

     

    百三十ー百四十億円の再建資金も、国は最大限でもその七〇%しか支出できないのだから、よその炭鉱まで手が回らない石炭各社がすんなりと協力を申し出るわけにはいかないことを、大沢管財人も後見人の三井鉱山会長で日本石炭協会会長の有吉氏もよく知っていた。

     

    だからこそ、大沢管財人はこの時期、北炭グループとの間で、資金協力を引き出そうと最後の説得に乗り出していた。だが、事態はそんな懸命な努力とは別の方向へと動きだしていた。同鉱問題の焦点は一気に、新会社の受け皿づくりへと進み始めていたのだ。

     

    ところで、更生担保権と更生債権の中間調査結果が、七月二十二日、橋本滋郎管財人代理から札幌地裁に報告された。それによると、労務債は当初の四千二百十四件、百十五億二千九百万円だったが、四千二百九件、百億九千万円が管財人によって認容された。否認されたなかには、三遺族七人から逸失利益として届けが出された計九千九百七十三万円が含まれていた。

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