• Following story is written in Japanese only. If you find any illegible characters in the story, I recommend you to set right your browser software.

    第2章 再建の方途をさぐる

    1、大沢管財人就任でまた一悶着

    八二年四月十九日午後二時四十五分、石炭協会の有吉会長が安倍通産大臣に管財人として、大沢氏をようやく正式に推薦、再建に向けて急ピッチに事態が動き始めた。

    ここでもう一度、北炭夕張炭鉱の債権総額を整理すると、裁判所によって認定された総額は八百六十億円。このうち、六百億円が外部からの大口の借入金である。この借入金のうち、四百億円が国、二百億円が三井銀行。その他、百十五億円がいわゆる労務債、また、九十億円が支払手形や未払い金などである。

    倒産後に、弔慰金の名目で、国と三井銀行は、札幌地裁の許可を得たうえで、それぞれ新たに十七億円ずつを融資した。これらは弁済順位が最も高い共益債権の扱いになった。四月二十三日、大沢氏は日本石炭協会副会長(すでに、二十一日付けで三井鉱山常任監査役を退任、同協会副会長に就任)の肩書きで札幌入りした時は、地元のマスコミ各社もすんなりとその日のうちに札幌地裁の伊藤博担当裁判長から、正式に管財人の指名を受けるものと思っていた。

    こちらとしては、お昼ごろまでに決まれば、夕刊に間に合うので、早く決まらないものかと気をもむばかりで、経済記者クラブから何度も札幌地裁の書記官に電話を入れては、「まだ、決まりませんか?」と聞くが、そのたびにつれない返事で、その日は結局、お流れになった。豊住編集局次長も心配して、「おい、どうだ。増谷君、まだ決まらんか」と焦る。まだだというと、「大沢という男もなかなか一筋縄では行かないようだな」といって笑う。

    就任記者会見は裁判所のなかにある司法記者クラブではなく、こちらの経済記者クラブになっていたが、地元のテレビ局がカメラを持ち込んでセッティングしていたので、ただでさえ狭いクラブは大勢の人でごった返し、いまや遅しと待ち構えていた。

    実は、大沢氏はその頃、伊藤裁判長に、「管財人の選任をもう少し先に延ばしてもらいたい。いろいろとヤマの再建のために保安や経理の専門家の知恵を借りて、よく調べてみたい」といっていたのだ。なにを今更である。ここ数ヵ月、北炭社をはじめ、同地裁や石炭協会も再建の下調べは十分ついているはずだ。

    これには、理由があった。大沢氏自身、管財人に選ばれたことが余りにも急だったため、本当のところ、何にも知らされていなかったのだ。二十五日の真夜中の午前零時十分ごろ、私は自宅から大沢氏の逗留先になっていた札幌グランドホテルに電話を入れた。呼出音がしばらく鳴ったあと、電話口にやや酔った大沢氏の声が聞こえてきた。酒が入っていたせいか、結構、本音を言ってくれるので面白い。

    管財人になったことについて聞くと開口一番、「わしは仕方がないから受けることになったので、四つの条件のことはよく知らん。あれは有吉さんが私の立場を察しておやりになったこと」という。これは意外だった。ただ、その後すぐ、「今は飾りものたいが、いったんやれば、向こう鉢巻きでやるたい」と、言ったのが今でも強く印象に残っている。

    実際、その後、同鉱の労務債の弁済資金や再開発資金を調達するために北炭グループの実質的な総帥の萩原吉太郎三井観光開発会長(元北炭会長)との熾烈な戦いを繰り広げることになったことを見ても、まさに男の言葉に二言はないというところをまざまざと見せてくれた。なかなかの人物である。

    私の最初の印象は、大きく張ったほおの割りには口元が小さく見えたので、「ネズミのような顔でこずるそうな人」という感じだったが、人は見かけによらないとはこのことだなあと、つくづく実感させられた。

    大沢氏は、伊藤裁判長との会見で、裁判長から、「あなたがよかなら、おれもよか」と内示を受けたという。そこで、大沢氏は、「通産省や、議員など関係方面への挨拶回りをするので、何日か時間を貸してほしい」と裁判長に言ったという。

    これが、すぐ、管財人就任を発表しなかった理由だった。問題はやはり平八に入るまでのつなぎ資金で、六月まではたぶん大丈夫だろうぐらいで、大沢氏はこの点について、「これは北炭にやってもらわなければならない」としながらも、一方で、「北炭とは兄弟関係の三井鉱山が知らん顔というわけにもいかなかくなる」と腹を決めていたふしもあったようだ。

    また、再建計画については、「夕張地区の保安、採鉱、地質での技術者を結集させて作れないものか」として、具体的には鉱区が北炭夕張とつながっている三菱南大夕張炭鉱の関係者から、意見を聞く考えを明かしてくれた。実際、南大夕張礦業所の同鉱開発事務所長だった吉田俊郎(当時・北菱産業社長)ら三井石炭・砂川鉱業所、三井鉱山のOB四人を再建計画策定の主要スタッフとして、採用している。

    四月三十日、ようやく、正式に管財人就任し、記者会見に臨んだ大沢氏は同案策定には二ヵ月かかるとして、一応のメドを示したが、「この素案は平八が大きな要素となる」として、問題の事故のあった北部十尺層の再開発については、消極的な見方を示した。

    この日は、札幌商工会議所ビルの四階にある経済記者クラブに大沢氏が裁判所での管財人任命を受けたその足ですぐ顔を出し、記者会見となったが、通常二十人ぐらいで一杯になる小さな部屋に地元のテレビ局のクルーがカメラを持ち込んで、足の踏み場もないほどの大混雑となった。

    大沢氏は「北部については、検討するが、欠陥はほぼはっきりしている。開発には骨格構造を始めからやり直さなければダメだ」と困難さを指摘して、始めから縮小生産の道を考えていた。

    しかし、結果的には、この平八を主体とした再開発案作りも安い電力用の一般炭しか取れないうえに、採炭可能な炭量も技術的に特定することが出来ず、計画が立てられないという事態に陥り、北部区域への坑道展開を検討せざるを得なくなったのである。

    挙げ句の果てには、八月二十一日に、労組側に事実上の閉山提案をすることになるわけで、地元側からみれば、ただ、閉山しに来ただけではないのかという陰口を叩かれても仕方がなかったのも事実だった。

    しかし、大沢氏はここでひとつの賭けに出る。転んでもただでは起きぬ大博打である。閉山提案をしたのは、旧労務債や経営のつなぎ資金の原資に関して北炭グループはもとより、国や金融機関からの融資もまったく受けられぬという八方塞がりの中で止むなく取った手段としたうえで、同月二十六日に開かれる国会審議の場で参考人として、国や萩原氏が出席したときに、資金融資について何らかの前向きな対応が確約されれば、閉山は避けられるという手法をとった。

    管財人としての何の協力もしてくれなかった国や金融機関、そして、北炭自体へのせめてもの抵抗だったかもしれないが、この発言が効いて二十六日の審議は白熱し、歴史に残る大勝負になった。

    2、道炭労、独自の再開発案を提示

    日本の石炭協会の全国組織である日本炭鉱労働組合(炭労ー当時、組合員一万五千人、野呂潔委員長ーの北海道支部が道炭労(当時、相沢秀雄委員長)である。この道炭労も災害発生以来、独自の災害原因究明に乗り出し、その一方で再建をめざして、八二年五月十八日、北部区域の開発を核とした再建計画案を発表した。

    基本は千七百人の坑員労働者の現状維持を極力図っていくもので、そのためには、最低二切り羽(採炭現場)で、日産二千トンの出炭体制を取るというものだ。当面は、西部区域から北部区域にかけて八ヵ所にわたって存在する残炭十尺層区域を掘る。

    この残炭は八三年十二月まで持つ見込みだったが、八二年六月一日から九月三十日、及び、十月十六日から翌八三年一月三十一日までの期間だけ一切り羽に半減するとした。切り羽が減っても、その間に新しく平八や北部(道炭労は新北部と呼んでいた)区域の採炭準備を平行して進めるので、大幅な人員削減は避けられるという内容だった。

    同計画では、平八区域は八二年六月から準備に入れば、十一・五ヵ月(会社案では十四ヵ月)後の八三年四月十一日から一切り羽体制(日産千百八十トン)、また、北部区域もガス突出事故のあった現場とは反対方向に坑道を展開、新北部と呼ばれる区域の開発準備も八三年四月一日から開始、九ヵ月後の同年十二月二十日から、やはり一切り羽(日産三千トン)体制を取る。平八と新北部両区域で合計二切り羽体制になるとした。採炭規模は八二年度が六十一万トン、八三年度は九十万トン。

    問題の平八は炭価が鉄鋼所向けの原料炭(当時、一トン一万五千円)に比べて、三〇%ぐらい安い一般炭(同一万円)の炭層なので平八だけでは採算が取れないが、この点、道炭労案では、平八はあくまで新北部へのつなぎとしている点が管財人の当初段階の平八だけによる再建計画とは違っていた。

    平八の可採炭量についても会社側が八二年三月八日に通産省に提出した、いわゆる三・八案では、五百二十万トンとしていたのに対し、労組案では安全率を計算して二百万トンに減らしている。これだと、平八もそれほど長くは続かないが、その間に新北部に第三の立て坑と斜抗を新たに設け、三ー四切り羽体制にすることも提案している。

    この新北部と平八の二切り羽体制の開発資金はあわせてわずか十億円と見て、その八〇%を国の坑道補助金の適用拡大措置で資金手当てをしようというもの。

    管財人は結局、八二年八月二十一日に労組に対して北部区域の再開発断念、事実上の閉山(事業規模縮小)提案をすることになるのだが、その中で、北部区域の再開発には二つの新たな立て坑を掘るなどヤマの骨格構造の変更を余儀なくされ、二切り羽による年産七十五万トン体制に行くまでに、五年七ヵ月を要しこの間の開発費や経営資金の不足額は約二百億円(一切り羽までならば四年九ヵ月かかり不足額は約百三十億円)に達するとしている。道炭労の案はあとにしてみれば、管財人案とは余りにも隔たりが大きすぎたことがわかる。それだけ、ヤマの存続に必死だったことの裏返しだったとも言えよう。

    この道炭労案について、橋口管財人代理に聞くと、いつもの皺がら声で、「北部区域の開発は当初、保安対策がはっきりしないので、まったく問題にしていなかったが、最近、関係方面から色々言われてきてどちらの方向にいくべきかわからなくなってきている。しかし、道炭労の北部案は、右がダメなら左に行こうじゃないかで、技術検討したといっても、参考になりませんよ」とあっさりしたものだった。

    3、当面の対策は人員削減

    橋口氏はこの日(六月五日)は大沢管財人と一緒に上京し、国や国会議員などに会って意見を求めていた。この頃は、大沢氏が当面の対策として、一刻も早く手を打たなければならないと考えていたのは、人員削減だった。

    同鉱は、事故から三ヵ月後の一月二十七日から、西部区域の採炭を段階的に再開、二切り羽=千七百人体制=で日産約二千五百トンを出炭、六月中旬までに合計約二十八万トンの石炭を掘り出していた。これで毎月十二億円ー十五億円の収入をあげていたが、六月中旬からは、一部が終掘して一切り羽になり、収入も月七億円にほぼ半減する見込みとなった。

    橋口氏は、「このままの人員では、毎月五、六億円の赤字が生じ、余剰資金を食い潰していっても、九月には資金ショートを起こす」として、北炭真谷地、北炭幌内、空知炭鉱の北炭三山と北炭関連会社に二百人以上の出向は避けられないとして人員削減の検討に入った。

    大沢氏は、「一般的に、一切り羽体制に必要な人員規模は、炭鉱労働者と一般職員あわせても二百人以上」と言っていた程で、大幅な人員削減は避けられないことを示唆した。

    六月七日、北海道庁ビルとは隣りあわせの北海道議会の一室で、石炭対策特別委員会が開かれ、札幌通産局の山根石炭部長らとの間で緊迫したやりとりが行われた。地元夕張選出の石川十四夫議員(道政クラブ)が、

    「同鉱では四百ー五百人を他鉱へ出向など配置転換を行うという話がある。平八や北部区域の開発準備や露天堀りを拡大して人員削減を避けるべき」とする一方、空知選出の藤井虎雄社会党議員からも露天堀りの拡大ができるように、国に対して鉱区調整を強く迫る一幕もあった。

    しかし、北炭系の炭鉱への出向には限界があった。それらのヤマも多額の借金をかかえ経営が悪化していたからだ。六月四日の北炭グループの八二年三月期決算発表によると、親会社の北炭は、売上高は十四億六千万円(前期比一・五%増)だったものの、北炭夕張炭鉱の倒産で同鉱に対する貸し倒れ損失金が七十四億九千万円にのぼったため、当期損失は前期よりも七十六億八千万円も増えて、九十一億六千万円となった。この結果、累積損失は六百十三億円を超え、債務超過額も五百三十九億九千万円(前期は四百四十八億四千万円)に達した。

    すでに、北炭が国の再建整理会社に指定され、経営近代化資金二百七十億円を中心とする再建計画が八一年三月にスタートしたとはいえ、危機的状況を通り越していたといえる。

    幌内炭鉱は、売上高二百十二億円に対して、営業損失七千六百万円、当期損失は八千四百万円の黒字。しかし、これは夕張炭鉱に六億五千万円の金融支援を行なったものの、実際の貸し倒れ損失は三千五百万円に抑えられたことや、国から七億円近い経営再建交付金を特別利益として計上したためで、実態とはかけ離れた決算だった。夕張への貸出金は倒産で回収難となったことなどから、幌内は八二年度中に十五億円の資金ショートを起こす見通しになっていた。

    真谷地炭鉱も、売り上げは百十億七千万円もあったが、経常損失約二億円、これに夕張への貸出金七億九千万円が貸し倒れ損失として計上したため、当期損失は十一億五千万円に膨れあがっていたのである。

    第3章 再建に暗雲立ちこめるー労務債問題が最大の障害

    1、第1回関係人集会

    八二年六月二十四日、北海道厚生年金会館で札幌地方裁判所主催による北炭夕張炭鉱の債権者集会である第一回関係人集会が開かれた。会場には全債権者の一割程度の四百人余りの債権者がぞくぞくつめかけ、労務債の取り扱いをめぐって罵声が飛びかう厳しい雰囲気の中で午後一時半から始まった。

    この日は、私も会場中ほどに席を陣取り、一般の債権者に混じってこのやりとりを一言一句、聞き漏らすまいとテープレコーダーをまわしながら、懸命にメモをとりまくっていた。会場では次から次と会社側や大沢管財人に債権の返済を迫る同鉱労働者や遺族関係者らが発言を求めて立ち上がり、悲壮感と異様な熱気で包まれ、事の重大さを改めて思い知らされたものだ。

    冒頭、伊藤裁判長は、「この債権者集会は利害関係者から意見を述べてもらい、更生手続きを進めるための参考にする集会です」と述べたうえで、今後は第二回の集会で管財人が更生計画素案を作成、三回目の集会で同案の賛否を問う投票を実施、議決されれば、地裁が正式認可する旨を淡々と説明した。

    このあと、大沢管財人が緊張の面持ちで壇上に上がった。大沢氏はあらじめ用意していた文章に目を落としながら、黙々と同鉱のこれまでの経営調査結果を読み上げ、その口からあまりにもずさんな経営の実態が次第に明らかにされていくうちに、会場からもどよめきが起こり、私もただ唖然とするだけだった。

    大沢氏は言う。「北炭夕張の経理内容の深刻さは早い時期から起きていた。有形固定資産や繰延資産のうち資産価値のないものは特別損失としたが、この損失額は通常では考えられないことで私も驚いている」と債権者に訴えかけた。

    同鉱は七八年十月、北炭社から分離独立したが、その七八年度から八一年度まで四期連続で経常赤字となり、八一年度末(八二年三月末)時点での累積損失額は二百四十二億円にも達していた。

    さらに、同年四月の約一ヵ月間に同鉱の財産を精査したところ、債権回収が困難となっている不良債権が七十億円近くあり、同額を特別損失として計上したので、他の損失も含めてこの期間の当期損失は七十三億円を超え、累積損失も合計で三百十五億円になったとした。

    北炭夕張炭鉱は事故に次ぐ事故で運から見離されていた。事実、八〇年八月、南盤下坑道内で自然発火が原因の事故が起き、このため北部区域も一時水没した。この事故で八〇年度に七十四億円の特別損失が生じ、八一年三月に従来の国の了承を得て始められていた再建整備計画の変更を余儀なくされ、北部十尺層の開発を核に再出発することになった。その矢先に、今度の九十三人が犠牲になる大惨事が起きてしまったのだ。

    また、大沢氏は、「本業をうまく維持していけるかどうか危ぶまれる特別のケースで、そのため、経済性を有する長期的な出炭が可能かどうか直ちに解明しなければならず、債務問題が後回しになった」と詫びる一幕もあったほど、切迫した状態にあったことを強調した。

    何しろ、倒産後、地方税や社会保険料の支払いを留保してまで当面の急場をしのいでいたが、北部区域の開発までに必要な経営つなぎ資金については、

    大沢氏は、「政府の制度資金の補助も得られず、金融機関からの借り入れも不可能である。従って、北炭グループでなんとか調達してもらうことで、これまで前後九回にわたって相談してきたが結論は出ていない」という。

    当時、取材に当たっていた私も思った以上に国や金融機関の対応が冷たいのに驚かされたし、再建の前途はかなり厳しいものがあるんだなと実感させられたものだ。

    いよいよ、この日の焦点の債権問題に議題が移ると会場はにわかに騒がしくなった。大沢氏は淡々と数字を読み上げていく。

    六月十五日現在での届け出があった債権のトータルは千二百三十九億千八百万円だが、これには本来、北炭本社の債権になっている分が八十三億千七百万円あり、これを差し引いた純債務額は千百五十六億百万円。さらに北炭社、兄弟鉱の北炭幌内、北炭真谷地炭鉱に対する連帯保証債務や担保提供債務が合わせて二百九十三億二千九百万円もあった。これを引いた八百六十二億七千二百万円が北炭夕張炭鉱が負うべき自己弁済債務とした。

    このあと、労働者の債権について、参加者から質問が相次いだ。労務債は在職者、退職者あわせて四千二百五十人分で、総債権者数四千五百人の大半を占め、管財人によって認容された総額も約百十五億円(労組側は百二十三億円を主張)にものぼっていたのである。

    2、国の責任

    先頭を切ったのは、在職者、退職者九十六人分の四億円を届け出た「炭鉱と暮らしと夕張を築く連絡会」(森谷猛代表)を代表して質問に立った佐藤太勝弁護士だった。

    佐藤氏は今度の事故が人災で防ぎ得たという国の調査結果がちょうど一週間前の六月十七日に出たのを引き合いに出して、「事故の道義的、社会的責任を北炭のみならず、三井グループ、国までの責任を求めなければならない」として、退職金、賃金、社内預金の全額返済を強く要求した。続けて、

    「退職者の社内預金は凍結され、遺族が三十万円も出し合って会社に貸した例もある」という実態を報告した。いかに会社が社員の預金にまで手を付けなければならなかった苦しい台所の事情が改めて明らかにされたのである。

    同鉱債権者のなかには同鉱を辞めたあと北炭真谷地炭鉱など他の北炭系の炭鉱に移り、それら転籍先で退職したひともいたが、夕張炭鉱時代の退職金が半分以下しか払ってもらえず苦しい生活を送っているケースもあった。みんな、経営難に陥っていた同鉱に見かねて辛抱した結果がこれだった。なんともやるせない結果だった。

    「坑底で血と汗を流し、退職金を虎の子のようにあてにしていたが、夫婦二人で暗い生活を送っている」と元炭鉱員の北野さんはマイクを握り締めながら、切々と悲惨な状況を訴えた。

    「清水沢炭鉱定年退職者の会」の五十四人も労務債権四億五千万円を届け出た。一人平均で八百二十五万円になるという。八百万円台が三十八人、最高で千四百万円、千万円台が二十五人だった。七八年九月から八〇年三月までに退職し、中には四年間も退職金が支払われていない人も。

    「六十歳近い我々から脱落者を出せない。労務債を責任をもって支給すべき。それなくして、本当の更生にはならない」と堤鉄雄会長は声を一段と大きく張り上げた。

    大沢氏もこれには、「退職金は唯一の希望であったと十分考えている。対処していきたい」と答えるのが精一杯だった。

    森谷氏は延々と北炭や国の石炭行政をヤリ玉にあげて激しく非難した。「炭鉱災害が起きるたびに、まったく常識に反することが公然と行われてきた。いまこうして、(夕張新鉱に)四千人を超える多くの労働債権者が出ていることに象徴されるように、北炭は傘下の夕張一鉱や平和鉱、第二鉱清水沢鉱を次々と閉山させ、労働者を夕張新鉱に移してこれらの人々の生活を犠牲にして、合理化経営を推し進めてきた。管財人はこうした企業のあり方について述べてもらいたかった」と一気にぶちまけた。さらに続けて、

    「国も石炭政策として(開発に)取り組んだ夕張新鉱に上に立って、(北炭再建という方向で)行政指導してきた。北炭幌内炭鉱災害直後の七六年の際の長期融資が行われたときも、(同鉱の大口)ユーザーの新日鉄は金利八%の長期融資をし、三井観光は一二・三%、三井物産一一・五%、三井銀行も一〇%の金利を押しつけている。これに対して、住友石炭は同じグループの住友銀行から三%の融資を受けていた。(一方で)夕張新鉱の労働者は期末手当てのカットなどの犠牲を強いられた。このグループの責任を明確にすることが大事だ」と締め括った。

    この主張には、私個人としての感想としてはやや乱暴な発言だなとは思ったが、借金で首がまわらない会社側としては経営資金を援助する立場にあった国からさまざまな局面で干渉を受けていたことは否定できず、国の責任も小さくはなかったといえる。

    労務債の返済については、誰もが北炭グループには返済能力がないことを知っていたので、三井グループや国に責任を求めようという考え方が働いていたことも、こうした発言が飛び出す背景にあったことは確かだ。

    大沢管財人は、この間、静かにうつむいてペンを走らせていた。また、対照的に北炭社長に内定していた粕谷氏は口をとんがらせたまま下を見つめるだけだった。

    3、三井グループとの関係否定

    この森谷氏の質問に対して、これはまずいことになると感じた大沢氏はこう答えている。
    「十二月六日の災害は前例のないガス突出事故であるが、原因究明中で(いずれ)保安対策もまとまる。これに基づいてどうするかであって、三井グループとは何の関係もない」ときっぱりと三井グループの同鉱債権問題との関係を否定した。

    さらには、「労務債は政府の(返済)支援は難しい。北炭社をあげて対処するように粕谷さんとも相談して努力していく」とし、国への過度の期待に対して水を差す回答をした。同じ三井グループ出身の大沢氏としては三井グループを巻き込むような回答はできるわけもなかったし、どの炭鉱も国の援助なしには、私企業とはいえ炭鉱を維持していくことはできない事情があるうえに、これから夕張新鉱を国の支援を受けて再建していこうというときに、不用意に国を刺激することは得策でないということは容易に理解できた。

    おもむろに、立ち上がったのは、この日のメーンエベントと目されていた同鉱労組の三浦清勝委員長だった。

    在職者のほか既退職者を含めて、労務債権者全体の八五%にあたる三千四百六十七人分の債権約六十九億円をまとめて届けていた。三浦委員長は北炭再建の一点に絞って意見を述べた。それは悲痛な叫びにも聞こえた。耐えに耐えてきた北炭のヤマの男たちの苦悶する声でもあった。

    三浦委員長は、まず、「昭和五〇年(七五年)十一月の北炭幌内炭坑の大災害以来、北炭再建問題は六年が経過している。そして、昨年(八一年)十月、夕張炭鉱災害が発生し、我々も遺族会を結成して何とか対策を取ってきたが、この六年間の再建努力を決して無駄にしてはならない。債権を弁済しなければならず、厳しいが早期に夕張の更生計画を作成、ヤマの再建を達成してほしい。雇用の確保、夕張の地域崩壊を避けてもらいたい」と訴えた。

    三浦委員長が最も心配していたのは、現在掘っている切り羽(採炭現場)が一ヵ所しかなく、それもあと一ヵ月(七月中旬)で切り羽がなくなるという切羽詰まった状況にあったにもかかわらず、国も石炭業界も北炭自らで対応して行けといったことだ。北炭は膨大な労務債の処理に苦しんでおり、資金的な余裕はまったくなく、このまま切り羽の継続対策が遅れれば、自己破産そして最悪の閉山もありうるからだ。

    今回、届け出た労務債六十九億円について、三浦委員長は本来、法律で年五%の金利を上乗せできるが、あえてそれをしなかったと説明した。

    ただ、同氏は、「三十五年から四十年もヤマで働き、定年を迎え、普通ならば、退職後 一週間で退職金が支給されるのに、三年以上も未払いになっていることから、払ってもらわなければならぬ金額の百パーセント返済を求めた。北炭再建の過程で犠牲になった多くの人たちの大事なお金だ」としながらも、ヤマの生き残りにかけて、組合としてもできるギリギリの譲歩だったのである。

    三浦委員長としては、大沢管財人から、北炭グループだけでなく、資金力のある三井グループの協力の可能性について何らかの言質を取りたかったのだろうが、

    大沢氏は、「今回の災害は原因究明中だが、三井グループとは全く関係がない。労務債は十分承知しており、北炭社をあげて対処するように、今後とも、粕谷さん(次期北炭社長)と相談して努力する」と前言を繰り返すだけで、三井グループの関与につてはついに触れられずじまいで終わり、後味の悪い関係人集会となってしまった。

    ただ、前北炭会長の萩原吉太郎氏が経営する三井観光開発については北炭グループとみて、協力を引き出す含みをもたせた。

    集会終了後、大沢管財人は記者会見に臨んだが、この中で長期的な収支の観点に立つとやはり、平安八尺層だけの開発よりも、今回、災害が起きた問題の北部区域の再開発抜きでは安定した再建軌道に乗ることは難しいだろうという見解を改めて示し、「七月二日に出される政府の事故調査委員会の災害原因の特定が待たれる」というにとどめた。

    ただ、資金繰りを緩和するために、九月までに段階的に百九十人(うち職員五十三人)を北炭幌内、北炭真谷地、空知の北炭三山に出向させるとした。二月に初めて百五十四人を北炭グループに出向させて以来、二度目となる。

    なにしろ、六月から九月までは現行の二切り羽体制から、一切り羽に出炭が半減するなかで、二千人もの従業員の生活を維持していくためには避けて通れない措置ではあった。しかも七月二十日から約十日間は坑内炭を全く掘れない空白期間が生じるという、まさに綱渡り状態だったのである。

    4、”タネ火”案報道の波紋

    債権者集会が終わってホッとする間もまく二日後の六月二十六日には日経新聞に特ダネ記事が載った。

    それは大沢管財人が、北炭夕張炭鉱のまま北部区域を再開発する第一案と、再建を当面棚上げし、同鉱をいったん閉山、別会社で露頭炭の採炭と坑道だけの維持を行い、将来、北部開発のチャンスを待つという第二案、いわゆる”タネ火”案をもとにした二つの更生計画を作り、北炭本社、同鉱労組地元関係者に説明して、どちらか一方を選んでもらおうというものだった。この記事は、第二案をもって事実上の閉山案が更生計画に盛り込まれたと関係者の間では理解された。

    まずいことになったなと私は思った。ショッキングな記事というだけでなく、これでは地元の再建にかける気持ちを踏みにじることになる。書いた記者はしてやったりとご満悦かも知れないが、誰もが記事の出所は情報をリークして世間の反応をみようと考える通産省のお役人の作文ということが容易に察しがつくだけに何とも嫌な思いをさせられたものだ。

    もちろん、これにはヤマ元の関係者も驚いた。閉山決定を最も恐れ、再建を目指して地元関係者が全力を挙げている最中に閉山が本決まりのような、いわば、業界用語でいうならば、”書き得”の記事がでることは、仮にいずれその通りになるにしてもいたずらに多くの人々を不安におとしいれるだけである。地元紙の北海タイムスとしては裏とりをして、私は、「タネ火案は取らず」という見出し付きで、これを打ち消す記事を書いた。

    事実、この時点では何も決まっていなかったのである。一つの考え方にすぎないタネ火案が決定したかのように表に出たが、これは、政府筋というか、通産省の役人が作り上げた案がそのまま日経の記者にリークされたものだった。中央紙というのは往々にして政府寄りの記事を書く傾向があり、これを読んだ地元の人たちがどんなにつらい思いをさせられても関係ないという姿勢に私は疑問を感じざるを得なかった。

    この報道の件で事実関係を確認しようと、橋口滋郎管財人補佐にすぐ電話を入れて聞いてみた。

    橋口氏は、「(同鉱の)平安八尺層区域での採炭がダメならば、北部区域の開発。それもダメなら別会社でせめて火だねを残そうという考え方は以前からあったが、これ(火だね)を案として提出することは決めていない。あれは政府筋からでたものでしょう」と、淡々とした調子で答えた。

    いろんな当事者がそれぞれの思惑で意見をいうが、この案が国の見方とすれば同鉱の先行きは暗いといわざるをえなかった。国が最大の債権者であり、国の構造骨格補助金が出ないと、ヤマの再建資金計画は宙に浮くからだ。

    橋口氏によると、「債務弁済を図らねばならぬ更生計画では、このようなタネ火方式はない。それは更生計画が成り立たないときの考え方だ」として、あくまでも、更生計画案に盛り込むヤマの再開発案は平安八尺層主軸案か、北部十尺層とそれにつながる十尺層主軸案の二案のいずれかだとした。結局、その後、再開発は断念され閉山が確定。更生計画は失敗に終わり清算計画に変更されることになるのだが・・・。

    5、萩原氏、労務債弁済で国への炭鉱売却を提案

    この六月二十六日付けの日経新聞の「事実上の閉山も盛る」という記事が出てから一週間後の七月二日、私は北炭東京本社の松本総務部長に電話取材していた。親会社の北炭社として、今後北炭夕張炭鉱を再建するのか、それとも清算するのか真意を聞くためだった。

    松本氏とはそれまで、電話であるが頻繁に連絡を取り合っているので、顔は見えなくても声を聞くだけで妙に親近感を覚えていたものだ。

    松本氏は、「本来、大沢管財人の選任の際に、四条件があって、(北炭夕張炭鉱の)現行のままで再建することが出来ない場合は新会社を設立して、旧会社は清算会社となる。それに対して北炭社は後始末の案を作るという考え方があるが、これは死ぬ案で、その一方で別会社で生き残る案も検討している」といった。

    「死ぬ案は成り行きでそうなるかもしれないが、最終的には決まっていない」というのだ。
    確かに、大沢氏が管財人を引き受けるときの四条件は有吉新吾石炭協会会長が明らかにしたものだが、この中に、現行の会社のままで再建が出来ないときは、現会社を清算会社にして、新会社をつくり、別の清算管財人を選ぶことという条件がある。

    このときはまだ、清算の具体的な中身がはっきりしていなかったのだが、のちに、萩原吉太郎元北炭会長による北炭夕張炭鉱の国への身売り案となって、一騒動を巻き起こすことになるのである。

    かつての大物政商、萩原吉太郎氏が、長年の盟友であった自民党大物政治家に働きかけて北炭夕張炭鉱の資産を約二百億円で国に買い取らせ、それで、百十五億円余りの労務債と清算によって新たに生じる五十ー六十億円の退職金を完済、問題を一気に終わらせようという強引なやり方を実行に移そうとしたわけである。

    大沢管財人はもちろん、通産省首脳も北炭社が自らの腹を痛めないで事実上、国から膨大な資金を出させ、同鉱の再建も考えないような萩原流の虫のいい解決案には怒りを顕にし、猛反対に出たのはいうまでもなかった。

    ここで、はっきりしたことは、北炭社の粕谷社長は管財人代理でもあったのだが、清算はあくまでも一案に過ぎないという、釈明の記者会見を開いているという点だ。

    萩原氏がいかに独断で動いたかがわかる。七月四日(八二年)の日経新聞が北炭グループが北炭夕張炭鉱の資産と鉱業権を国に買い取ってもらう方針を固めたというスクープ記事を流した。北炭社では、この記事が出た時点では最終決定していなかった。検討はしていたがこれは先程の死ぬ案であって、未定だったからだ。大手の新聞は早い者勝ちで何でも決定したかのように書きたがる。

    私は、事実としてそういう案があることは伝えたが地元の必死な再建に向けた努力を見ているものとして、少しでも可能性があるならば、生きる案に大きなスペースを割こうとこころがけていた。

    Masutani's Home Page 新刊書ページの最初に戻る (Back to the front page)