第1部:資本の生産過程
第7篇:資本の蓄積過程
第23章:資本主義的蓄積の一般的法則
この小節では、当時、世界でもっとも高い資本主義的発展をとげていた、イギリスの人口増加率の推移と、イギリスにおける課税対象資産の増加率の推移、基幹産業における生産力の推移(石炭、銑鉄、鉄道など)などが比較されている。
これらの統計資料とともに、当時のイギリス政府高官や経済学者たちの経済情勢“評価”を紹介している。
「1842年から1852年までに、この国の課税可能な所得は6%増加した。……1853年から1861年までの8年間には、1853年を基準にすれば、それは20%増大した。この事実は実におどろくべきことで、ほとんど信じられないほどである。……人を酔わせるような、富と力のこの増大も……まったく有産階級だけに限られているが……しかし、それは一般消費物品を安くするのであるから労働者人口にとっても間接的利益であるに違いない。――富者はいっそう富裕になっているが、貧者もまた、いずれにせよ、いっそう少ない貧困さになっている。極限の貧困が減少したとはあえて言わないが」【1863年4月16日の下院でのグラッドストンの演説。『モーニング・スター』、4月17日付】[681]
このなかの「一般消費物品が安くなる」という指摘をめぐっては、H.フォーシット教授の論文からの引用によって反駁されている。
「もちろん私は、資本のこうした増加」(ここ10年間の)「とともに、貨幣賃銀も騰貴したことを否定はしないが、この外見上の利益は、おおかたふたたび失われている。なぜなら生活必要品の多くが絶えず騰貴するからである」(彼はその理由を貴金属の価値低落のせいだと信じている)「……富者は急速にいっそう富裕になるが、労働者階級の安楽の増加は少しも認められない。……労働者たちは、ほとんど、彼らの債権者である小売商人の奴隷となる」【H.フォーシット『イギリスの労働者の経済状態』、67、82ページ。】[682]
前節で指摘された「資本主義的蓄積の一般的法則」にあるとおり、富の蓄積は貧困の蓄積である。イギリスの受救貧民層の公式統計によって、その検証が行なわれている。マルクスは、統計資料が政治的にゆがめられることをたびたび指摘しているが、それにしても、ここで告発されている貧民層の増加率にはおどろかされる。
イングランドにおける公式の受救貧民数は、1855年には851,369人、1856年には877,767人、1865年には971,433人であった。綿花飢饉の結果、その数は1863年および1864年には、1,079,382人および1,014,978人に膨脹した。ロンドンをもっとも激しく襲った1866年の恐慌は、スコットランド王国よりも人口の多いこの世界市場の中心地で、1866年には、1865年に比べて19.5%増、1864年に比べて24.4%増の受救貧民を生み出し、それは1867年の最初の数カ月間には、1866年に比べてさらにいちじるしく増大した。[683]
労働者階級の実態を考察する場合、「自分の社会的機能を遂行中」の状態だけでなく、「作業場外での」状態、「すなわち彼の栄養状態および住宅状態にも注目しなければならない」([683])。
この小節では、当時のイギリス政府、「枢密院」から委嘱された医師、ドクター・スミス〔Edward Smith (1818-1874)〕によって、「もっとも健康で比較的よい境遇の家族」が対象とされた調査内容が紹介されている。その調査で明らかになった、都市労働者の栄養状態、住宅状態は、実におどろくべきものである。
ドクター・スミスが自ら設定した「最低必要摂取栄養量」に比べ、失業状態にある綿業労働者および5部門の都市労働者(絹織物工、女子裁縫工、革手袋製造工、手袋製織工、靴工)の栄養摂取量は、すべて不足していた。([684-5])
ドクター・スミスに仕事を委嘱した枢密院医務官のドクター・サイモン〔Sir John Simon (1816-1904)〕は、この労働者層の栄養状態から必然的にうかがい知れる、労働者層の生活全般の“危機的状態”を指摘している。
「……食物の欠乏に耐えるのはきわめてつらいということ、また概して、食事のひどい貧しさは、それに先立つ他の欠乏のあとにはじめて起こるということが、想起されなければならない。栄養不足が衛生学的に問題となるずっと以前から、生理学者が生と餓死の境目となる窒素および炭素のグレーンでの計算を思いつくずっと以前から、家計はいっさいの物質的享受をすっかり奪われていたであろう。衣類と燃料は食料よりもいっそう乏しかったであろう。きびしい寒さも十分に防げなかったであろうし、住居の広さは病気を引き起こしたり悪化させたりする程度にまで切り詰められたであろうし、家具や調度はほとんどなくなったであろう。清潔にすることすら、高価すぎるものになったり困難になったであろう。たとえ、なお自尊心から清潔に保とうとする努力がされるにしても、そのような努力はすべて、飢えの苦しみを増すことになる。……貧困が食物の不足をも含む場合には、その貧困はどうしてもこのような衛生上の危険にさらされる。これらの害悪の総計が生命にたいして恐るべき大きさのものである一方、食物不足はそれだけでも由々しいことである」【『公衆衛生、第6次報告書。1863年』、ロンドン、1864年、14、15ページ】[686]
マルクスは、住宅状態の悪化が何からもたらされるかという問題を、飢えをもたらす貧困と区別して、叙述している。
生産諸手段の集中〔フランス語版では、集積〕が大規模になればなるほど、それに応じて労働者は同じ空間にますます堆積されるのであり、それゆえ資本主義的蓄積が急速になればなるほど、労働者の住宅状態はますます悲惨なものとなる。富の進展にともなう都市の「改良」――不良建築地区の取りこわし、銀行・問屋などのための豪壮な建物の建築、営業的運輸と豪華偽装馬車のための道路の拡張、鉄道馬車の敷設、等々による――は、明らかに貧民をますます劣悪で密集した巣窟に追い込む。他方では、だれでも知っているように、住宅はその質に反比例して高価であり、貧困という鉱山は、かつてのポトシの鉱山の場合よりも多くの利潤とわすかな費用とをもって、家屋投機師たちによって開発〔搾取〕される。[678]
ここで告発されている、当時のイギリス都市労働者の住宅事情の劣悪さといったら、想像を絶するものである。しかし、現代にも通じる傾向として、2つの傾向が指摘されている。1つは、都市への人口集中がすすむにつれ、累進的に労働者の住宅事情が悪化し、比較的良い住環境を保っていた部分も、早晩劣悪な住環境へと追いやられること。2つは、工場の密集度合いがすすむにつれ、仕事場の近くに住宅を確保しようという努力がむくわれなくなり、ますます、職場から住宅までの距離が、遠くなってゆくということ。どこかで聞いたり、見たりしている話ではないか。
19世紀はじめには、イングランドには、人口10万を数える都市はロンドン以外には一つもなかった。人口5万以上の都市は5つにすぎなかった。現在では人口5万以上の都市は28ある。……ある工業都市または商業都市において資本が急速に蓄積されればされるほど、搾取可能な人間材料の流入はそれだけ急速となり、労働者の急造住宅はそれだけみじめなものとなる。[690-1]
出身は農村であるが、大部分が工業的な仕事に従事している人民層……。彼らは資本の軽歩兵であり、資本は自己の必要に従って、これをときにはこの地に、ときにはあの地へと派兵する。行軍しないときには、彼らは「野営する」。移動労働は、さまざまな建設・排水作業、煉瓦製造、石灰製造、鉄道敷設などに使用される。……鉄道敷設などのような資本投下の大きい企業では、たいてい企業家自身が、自分の部隊に木造小屋のたぐいを提供し、衛生設備のまったくない部落を地方当局の監督のおよばないところに急造する……、請負業者……は、労働者を産業兵士として、また借家人として、二重に搾取する[693]
『資本論』第1部執筆当時、もっとも近い時期に勃発した恐慌について、マルクスはつぎのように記述している。あたかも、1990年代に生じたバブル経済とその崩壊の過程を思い起こさせる記述だ。
恐慌は、本来の工場地域では、多額の資本を通例の投資部面から貨幣市場の大中心地に駆逐した綿花飢饉によってすでに割り引きされていたので、こんどはそれは主として金融的性格を帯びた。1866年5月におけるその勃発は、ロンドンの一大銀行の破産が導火線となり、すぐ続いて無数の金融泡沫会社の倒産が起こった。破局に見舞われたロンドンの大事業部門の一つは、鉄船製造業であった。この事業の大立物たちは思惑の時期に〔フランス語版では「繁栄の頂点期に」〕際限もなく過剰生産したばかりでなく、そのうえ信用の泉が相変わらず豊富に流れ続けるだろうという思惑から、巨額の引渡契約を引き受けていた。そこへ恐るべき反動が生じたのであって、この反動はロンドンの他の諸産業でも、現在、すなわち1867年3月末まで続いている。[697-8]
この恐慌によって職を失った労働者の生活状態は、急速に悪化した。当時の新聞記事からの抜粋が紹介されており、それによると、ロンドン東部の労働者居住地域において極貧層が増大してるが、この地区の極貧人口の約2割が、半年ほど前には熟練労働者として、「最高賃銀」を得ていた人びとであったという。
後半には、当時イギリスで「労働者の楽園」として喧伝されていたベルギーの標準的労働者家族の栄養状態についての記述がある。おそるべきことに、奢侈的支出のほとんどない、きわめて「質素」で「清貧」な日常生活を送っているこれら家族の栄養摂取量は、同国の囚人に支給されている食事よりも貧しかったのである。マルクスは、この国を「労働者の楽園」と喧伝する人びとにたいする皮肉をこめて、「資本家の楽園」と言い換えている。
実際、この「資本家の楽園」では、生活必需品の価格がほんの少しでも変化すると、死亡数と犯罪数とが変化する[701]
注(107)にあるとおり、「大ブリテン」という呼称には、イングランド、ウェールズ、スコットランドの三地方が含まれる。「イングランド」という場合には一般的に、ウェールズ地方も含まれるらしい。一般的に「英国」の意味で用いられる「連合王国」(United Kingdom)という呼称の場合には、「大ブリテン」の三地方にアイルランドが加えられるそうだ。([683])
さて、マルクスによれば、
イギリスでは、近代農業は18世紀中葉以降のものである。ただし、生産様式の変化がそれを基礎にしてそこから出発したところの土地所有関係の変革は、はるか以前に始まっているが。[702]
マルクス以前の経済学者たちのなかにも、土地所有関係の変容につれて農業労働者の生活水準がますます劣悪になっていることを、指摘する人びとがいた。
「現代の政治は」……「上流階級にとって有利である。早晩、全王国はジェントルマンと乞食、貴顕と奴隷からのみ成り立つ結果になるであろう」。……「日労働の名目価格は、現在では、1514年の約4倍、せいぜい5倍よりも高くはなっていない。しかし穀物の価格は7倍、生肉および衣類の価格は約15倍にあがっている。それゆえ労働の価格は、生活費の増加に比例して増加するどころではなく、かつての生活費に比べてその半分にも達していないように思われる」【リチャード・プライス博士『生残年金支払いにかんする諸考察』、第6版、W.モーガン編、ロンドン、1803年、第2巻、158、159ページ】[702]
また、マルクスはこの小節のなかで、「救貧法」が施行されていた時期、農村労働者がどのような状態に追い込まれていったかを告発している。
教区が施し物の形をとって、労働者がただ糊口をしのぐのに必要な名目額まで名目賃銀を補った。借地農場経営者によって支払われた賃銀と、教区によって補充された賃銀不足額との関係から次の二つのことがわかるが――その第一は、最低限以下への労賃の低下であり、第二は、農村労働者が賃労働者と受救貧民とから構成されていた度合い、または農村労働者が教区の農奴に転化された度合いである。……1795年には不足額は労賃の 1/4 以下であったのに、1814年には半分以上になった。……このとき以来、借地農場経営者が飼っているすべての動物のうち、“ものを言う道具”である労働者がもっとも酷使され、もっとも粗食させられ、もっとも残酷に取り扱われ続けた。[703]
「……周知の一事情が、労働者の不利をさらにひどくする作用をする。……定住および救貧税負担にかんする諸規定をともなう救貧法の影響がそれである。その影響のもとでは、どの教区も、その居住農村労働者の数を最小限に制限するのが金銭的に利益である。というのは、農村労働は、不幸にも、苦役する労働者とその家族にたいし確実で永続的な独立を保証するものではなく、たいていはただ、長いか短いかの回り道をしたあとで受救貧民に――この回り道のあいだに病気になったり一時的に失業したりすればじかに教区の救済にたよらざるをえないほど間近に迫っている受救貧民に――導くのであり、それゆえ一教区における農業人口の定住はすべて明らかにその教区の救貧税を増加させるからである。……」[711]
第3篇第8章第6節でも、チャーティスト運動とともに穀物法反対運動についてふれられていたが、この節では、より具体的に、運動の政治的背景が描かれている([704])。と同時に、この節では、穀物法廃止による農業の変容と農村農業従事者・労働者への影響が指摘されている。
穀物法の廃止は、イギリス国内における農業生産を「自由」競争のるつぼに巻き込み、農業の機械化・大規模化を促進することとなった。
きわめて大規模な排水、畜舎飼いおよび秣の人工栽培の新方式、機械的施肥装置の採用、粘土地の新処理、鉱物性肥料の使用増、蒸気機関およびあらゆる種類の新しい作業機などの使用、より集約的な耕作一般が、この時代の特徴をなしている。[705]
(相対的)経営費が、新たに採用された機械によってほぼ半減された。他方、積極的な土地収益は急速に高められた。1エーカーあたりの資本投下の増加、したがって借地集積の促進が、新しい方法の基本条件であった。同時に、1846年から1856年までに、耕地面積は464,119エーカーだけ拡大された……。同時に農業従事者総数が減少した……。男女両性およびあらゆる年齢層の本来的農耕民について言えば、その数は、1851年の1,241,269人から、1861年の1,163,217人に減少した。[706]
「都市への絶え間ない移住、農業借地の集中・耕地の牧場への転化・機械設備などによる農村における絶え間ない『人口過剰化』、および、“小屋”の取りこわしによる農村人口の絶え間ない追いたて」([720])などの結果、イングランドの農村労働者の生活環境は、どのような状態にいたったか。栄養摂取の実態と住環境の実態について、つぎのような引用がある。
流刑および懲役刑に処された犯罪者の給養状態および就業状態にかんする公式調査が1863年に行なわれた。……そこではとりわけ次のように言われている――「イギリスの刑務所における服役者の食事と、……同じ国における“労役場”の受救貧民および自由農村労働者の食事とを詳細に比較してみると、前者が、後者の二つの部類のいずれよりもかなりよい給養を受けていることは議論の余地がない」が、「懲役刑に服している者に要求される労働量は、普通の農村労働者によってなされる労働量の約半分である」【『流刑および懲役刑にかんする……調査委員会報告書』、ロンドン、1863年、42ページ、77ページ、第50号】。[707]
医師サイモンは、その公式の衛生報告書で言う――「ハンター医師の報告のどのページも、わが農村労働者の住居の量の不十分と質の貧弱についての証拠を提供する。何年も前から農村労働者の状態はこの点で累増的に悪化した。……とくにここ2、30年間に弊害が急速に増大し、農村民の住宅事情はいまや極度に悲惨である。……自分が耕作する土地に彼が住居を見いだすかいなか、その住居が人間向きか豚向きか、貧困の圧迫をおおいに緩和する小庭があるかいなか――すべてこうしたことは、彼が妥当な家賃を支払う用意または能力があるかいなかに依存するのではなく、他人が『自分の財産を思うがままに処理する権利』をどう行使しようとするかに依存する。借地農場がどれほど大きかろうとも、そこに一定数の労働者用住宅が――ましてやまともな住宅が――なければならないという法律は存在しない。また法律は、土地にとっては労働者の労働が雨と日光と同じように必要であるのに、その土地にたいするほんの小さな権利すらも労働者のためにとっておいてくれない。……」[710-1]
公的資料、とくに前出のドクター・ハンター〔Henry Julian Hunter〕による報告資料によって、これら住環境の実態が特殊的なものではなく、イングランド全体で“一般的”に見られる状態だということが、これ以降、逐次、告発されている。(ベッドフォードシャー、バークシャー、バッキンガムシャー、ケンブリッジシャー、エセックス、ヘリフォードシャー、ハンティングドンシャー、リンカンシャー、ケント、ノーザンプトンシャー、ウィルトシャー、ウスターシャーなど12州[715-720])〔イングランドの州 - Wikipedia に、各州の名前と場所の説明あり〕
都市と農村部との人口格差が、どのように生じるかを、マルサスの人口論とは別の角度で、マルクスは以下のように論じている。
その地域の人間が少なくなればなるほど、そこの「相対的過剰人口」はそれだけ大きくなり、雇用手段にたいする過剰人口〔の殺到〕の圧迫はそれだけ大きくなり、そこの居住手段をしのぐ農村民の絶対的過剰がそれだけ大きくなり、したがって村々では、局地的過剰人口、および、このうえなく悪疫を引き起こしやすい人間詰め込みがそれだけ大きくなる。散在する小村と市場町とにおける人間群衆の稠密化は、農村の表面での強制的な人間過疎化に照応する。[720-1]
当時のイギリス農村部で生じていた「過疎化」はあくまで「表面的」な現象だった。たしかに、都市部への農村部からの人口流入・集中が加速してはいた。マルクスは農村での綿密な公的調査報告資料をつぶさに閲覧して、実際に農村で何が起こっているかを告発している。
農村労働者たちの数的減少にもかかわらず、しかも彼らの生産物量の増大につれて生じる、不断の農村労働者の「過剰化」……。彼らの受救貧民になる可能性が、彼らを追い立てる動因であり、彼らの住宅難……の主要原因である。他方、農村は、その絶え間ない「相対的過剰人口」にもかかわらず、同時に人口過少である。……農村労働者は、農耕上の中位の要求にたいしてはつねにあまりにも多すぎるのであり、例外的または一時的な要求にたいしてはつねにあまりにも少なすぎる。それゆえ、同じ場所で、労働不足と労働過剰とが同時に起こるという矛盾に満ちた苦情が公式文書に見いだされる。一時的または局地的労働不足が引き起こすものは、労賃の騰貴ではなく、農耕への婦人および児童の強制引き入れと労働年齢の絶え間ない低下である。[721-2]
末尾に指摘してある「婦人および児童の、農耕労働への強制引き入れ」とそのことがもたらす成年男性労働者の過剰化・賃銀引き下げの“悪循環”について、その典型例であるイングランド東部における「労働隊制度」については、この小節の最後にくわしく実態がまとめてある。
最近数年来絶えず広まっている労働隊制度が、労働隊長のために実存するのではないことは明らかである。それは、大借地農場経営者または地主の致富のために実存する。借地農場経営者にとっては、その労働者数を標準的水準よりもはるか以下に保ち、しかもあらゆる臨時仕事用につねに臨時労働者を準備しておくのに、またできるだけわずかの金でできるだけ多くの労働をしぼり出し、成年男子労働者を「過剰に」しておくのに、これ以上巧妙な方法はない。一方では大なり小なり農村民の失業が認められるのに、他方では同時に男子労働の不足と都市へのその移動とのゆえに労働隊制度が「必要」だと宣言されるが、そのわけは、以上の説明によって理解できるであろう。[725]
注(179)……イングランドの農業地域では、労働問題とは、他の文明世界とは違って、農村労働者の流出の絶え間ない増加にもかかわらず、農村における十分な「相対的過剰人口」を、またそれによる農村労働者にたいする「労賃の最低限」を、どのようにして永遠化しうるかという、地主と借地農場経営者との問題を意味している……。[725]
アイルランドと大英帝国とのあいだには、経済をめぐる問題以外に、政治的民族的宗教的諸問題が累積しているようで、そのことをマルクスは承知のうえで、なお、この節で取り上げるべき問題についてしぼって([726])、と断り書きをしている。直接ふれられていない政治的諸問題の断片は、この節の最後部分にある。(「フィーニア党」の結成[740])
マルクスは、イングランドを「発達した資本主義的生産の国であり、……工業国である」([730])と規定しており、一方、アイルランドについては、
現在のところ、広い水路によって仕切られたイングランドの農業地域にすぎないのであって、イングランドに穀物、羊毛、家畜、産業的および軍事的新兵を供給している[730]
と規定している。
はじめにマルクスが注目しているのは、アイルランドにおける人口の推移だが、この人口推移には、イングランドへの移出とともに、アメリカへの移出が影響しているようである。
アイルランドの天才は、貧民をその貧困の舞台から数千マイルも遠方に神隠しするまったく新たな方法をあみだした。アメリカ合衆国に移住した移民たちは、残留者の旅費として故郷に毎年〔それなりの〕金額を送っている。今年移住する一団は、いずれも次の年、他の一団を呼び寄せる。こうして移住は、アイルランドにとっては費用いらずで、その輸出業中のもっとも有利な部門の一つをなす。最後に、移住は一つの組織的過程――一時的に人民群衆のなかに出口の穴をあけるのではなく、出生によって補われるよりも多くの人間を毎年そこから汲み出して、絶対的人口水準を毎年低下させる一つの組織的過程である。[732]
アイルランドの農業にかんする公式統計資料の数々から、マルクスが検証しているのは、つぎの事実であった。
人口減少は、多くの土地を廃耕地にし、土地生産物をはなはだしく減少させ、また牧畜面積の拡大にもかかわらず、若干の牧畜部門では絶対的減少を引き起こしたのであって、その他の部門で生じた進歩も、絶え間ない後退によって中断させられた、ほとんど語るに値しないものであった。それにもかかわらず、人口の減少とともに、地代と借地農業利潤は引き続き増加した[730]
それはなぜか。借地農場が、その面積分類ごとにどのように推移したかを見ることによって、15エーカー以下の借地農場が合併されていることが分かっている。また、家畜数の種類別の推移を見ると、牛や馬の減少の一方、羊や豚の増加が確認される。さらに、穀類の生産に利用される土地面積が減少する一方で、牧草地あるいは牧場として利用される土地面積が拡大している。これらの資料によって、マルクスは続けてつぎのように分析している。
借地農場の合併と耕地の牧場への転化とにつれて、総生産物のより大きな部分が剰余生産物に転化した。総生産物が減少したとはいえ、その分数部分をなす剰余生産物は増加した。他方では、この剰余生産物の貨幣価値は、その数量よりもいっそう急速に増加した――それは、最近このかた、とりわけ最近10年このかた、イングランドにおける肉、羊毛などの市場価格が騰貴した結果である。……人口総数の減少につれて、農業で充用される生産諸手段の総量も減少したが、農業で充用される資本の総量は増加した。なぜなら、従来の分散した生産諸手段の一部が資本に転化したからである。[731]
では、はたして、「貧困は絶対的過剰人口から生じ、人口の減少によって均衡が回復し、貧困は解決される」のであろうか。
残留して過剰人口から解放されたアイルランドの労働者にとってどのような結果が起こったか? 相対的過剰人口が、こんにちでも1846年以前と同じように大きいこと、労賃が同じように低く、労働の苦しみが増したこと、農村における困窮がふたたび新たな危機の切迫を告げていること、これが結果である。[732]
まず、人口の減少にもかかわらず、依然として「過剰人口」が増加している理由について。
耕作地が減少する一方で、牧草地や牧畜のための土地が拡大されるために、弱小な借地農場経営者が圧迫され、賃労働者へと転化してゆく傾向がますます強まった。また、当時アイルランドで拡張しつつあった工業、リンネル製織業は、「成年男子を必要とすることが比較的少な」かったし、「他のどの大工業とも同じく、……吸収される人員が絶対的に増加する場合でさえ、それ自身の領域内での絶え間ない動揺によって、絶えず相対的過剰人口を生産」([733])していたからだった。
ふたつめに、労賃が同様に実質的に依然として低いままで、労働者の困窮の度はむしろ強まった理由について。
アイルランドの救貧法監督官……によれば、農村の賃銀率はいまなお非常に低いのであるが、それでも最近20年間に50−60%も高騰して、現在では平均して週6−9シリングとなっている。しかしこの外見的騰貴の背後には、現実の賃銀下落が隠されている。というのは、この騰貴は、そのあいだに生じた生活必需品の値上がりに決して追いつかないからである。……20年前に比べて、生活必需品の価格は約2倍、衣服の価格はちょうど2倍である。……飢饉以前には農村の賃銀の大部分は“現物”で支払われたのであり、貨幣で支払われたのはきわめて小部分にすぎなかった。こんにちでは貨幣支払いが通常である。すでにこのことから見て、現実の賃銀の動きがどうであろうとも、貨幣賃銀率が高騰せざるをえなかったことになる。[733-4]
当時、急速にすすめられていた“農業革命”「すなわち、耕地の牧場化、機械の充用、きびしさこのうえない労働節約など」([735])によって、一方では、作業地に設けられた農村労働者の住居が組織的強制的に「取り払われた」。
こうして多くの労働者は、村や都市に避難場所を求めることを余儀なくされた。この行く先で彼らは、廃品のように、屋根裏部屋や穴や地下室や、最悪地区の避難場所に投げ込まれた。幾千ものアイルランド人の家族――彼らは、民族的偏見にとらわれているイングランド人の証言によってさえ、一家団欒にたいする他に例を見ない愛着、明朗な快活さ、品行方正な家庭生活によって特徴づけられていた――が、こうして突然に悪徳の温室に移植された。男たちはいまや、付近の借地農場経営者のもとで仕事を求めなければならず、しかも日ぎめでのみ、したがってもっとも心もとない賃銀形態で雇われる。[735]
アイルランドで、当時大規模に展開していた過程が、マルサス主義者の論を実証するものではないことを、これまでの農村労働者の実態の告発から結論して、マルクスはつぎのように述べている。
したがって、救貧法監督官の報告書においては、就業の不安定および不規則、労働停滞の頻発および長期継続――相対的過剰人口のこれらすべての徴候は、いずれもアイルランドの農業プロレタリアートの苦難として現われる。イングランドの農村プロレタリアートの場合にも、同じ現象に出会ったことが想起される。しかし相違は、工業国であるイングランドでは、産業予備〔軍〕は農村で補充されるのに、農業国であるアイルランドでは、農業予備〔軍〕は、放逐された農村労働者の避難所である都市で補充される、という点にある。イングランドでは、過剰農業人員は工場労働者に転化される。アイルランドでは、都市に駆逐された人々は、都市の賃銀を圧迫するとはいえ、同時にまた依然として農村労働者であり、仕事をさがしに絶えず農村にもどされる。……報告者たちの異口同音の証言によれば、陰性の不満がこの階級の隊列に浸透しており、彼らは過去を取りもどしたいと望み、現在を嫌悪し、未来に絶望し、「扇動家の邪悪な影響に身をゆだね」、アメリカに移住するという固定観念しかいだかないということは、なんら不思議ではない。これが、人口減少というマルサスの偉大な万能薬によって、緑したたるイアリン〔アイルランドの古名〕が転化された逸楽の国である![736]
この貧困の蓄積の一方で、ひとにぎりの人々の手に、アイルランドの年総利潤の相当部分が集中していること、また、微々たる人数の土地貴族の手中に、莫大な地代分配が入り込んでいることが、つづいて指摘されている。
アイルランドにおける人口減少が、地代額の膨張と比例しているという現象から、ある人物が、「アイルランドの繁栄のためには、いまなおアイルランドは人口過剰であり、もっと労働人口を放出しなければならない」などの世迷言を言っているのを引き合いに出しながら、マルクスは、この節の結びに、痛烈な皮肉を述べている。
こうしたもうけの多い方法も、この世のあらゆる善きものと同様にその欠陥を持っている。アイルランドにおける地代の蓄積に歩調をそろえてアメリカにおけるアイルランド人の蓄積が行なわれる。羊と牛とによって排除されたアイルランド人は、フィーニア党員として大洋の彼岸で立ち上がる。そして老いたる海の女王にたいして、ますます威嚇的に若き巨大な共和国がそびえ立つ。[740]
マルクスの予見どおり、第1次大戦を機に、英国と米国の政治的経済的立場は逆転することになる。
“苛酷な運命がローマ人を苦しめる、しかも兄弟殺しの罪が”[740]