第1部:資本の生産過程
第3篇:絶対的剰余価値の生産
第8章:労働日
第2節以降、われわれが見てきた労働者たちの実態は、良心による憤激を呼ぶ。その熱くなった頭を、この節の冒頭の叙述は冷静にさせてくれる。まずは事の次第を冷めた頭脳でいま一度広い視野から見つめなおすのだ。
これまで展開してきた立場では、自立した、それゆえ法律上成年である労働者のみが、商品の売り手として資本家と契約を結ぶ……。したがって、われわれの歴史的素描において、一方では近代的産業が主役を演じ、他方では肉体的および法律的未成年者の労働が主役を演じるとすれば、われわれにとっては、前者は労働吸収の特殊な部面としてのみ意義をもち、後者は労働吸収のとくに顕著な実例としての意義をもっただけである。とはいえ、これから先の展開を先回りして述べないまでも、単なる歴史的諸事実の連関から、次のような結論が引き出される。[315]
労働日の無制限な延長をつくり出した産業部門は、最初に、水力、蒸気機関、機械設備などの技術革新によって生産様式の変革をとげた紡績産業であったこと。この産業部門における生産様式の変化は、資本家と労働者とのあいだの関係の変化をともなっており、初期に労働日の無制限延長をつくり出し、次いで労働日の法律的制限という社会的抑制を呼び起こしたこと。
さらに、紡績産業部門において開始された生産様式の変革は、他の産業部門の旧来の生産様式を駆逐してゆき、すべての産業部門を工場体制のなかに組み込んでゆくとともに、工場立法を例外的なものではなく、それらの産業部門にも適用されるものとして一般化していったこと。
“標準労働日”は資本家階級と労働者階級との長期にわたる闘争の産物であること。この闘争は近代的産業部門において開始されるから、近代的産業部門が発生した最初の国であるイギリスにおいてまず開始されたこと。
また、
イギリスの工場労働者たちは、単にイギリスの労働者階級ばかりでなく近代的労働者階級一般の戦士だったのであり、同じくまた彼らの理論家たちも資本の理論に最初に挑戦したものである[317]
こと。ここでマルクスは、その理論家の一人としてロバート・オウエン(Robert Owen (1771-1858) )を紹介している【注191】。
ここでふれられているフランスの二月革命については宿題。
フランスにおける12時間法についてマルクスは、イギリスにおける初期工場法よりもはるかに多くの弱点をかかえていることを指摘しつつ、イギリス工場法ではまだ完全に確立できていない前進面を評価している。
それは、すべての作業場および工場にたいして一挙に無差別に労働日の同じ制限を課しているのであるが、これにたいしてイギリスの立法は、ときにはこの点で、ときにはあの点で、事情の圧力にしぶしぶ屈服しており、新たな法律的な紛糾を生み出すおそれが多分にある。[317-8]
また、イギリスではまず児童労働や女性労働に適用され、長いたたかいの歴史のすえようやく一般的普遍的権利として成年男子労働者にたいしても適用されるにいたった内容を、フランスの法律ははじめから“原理”として位置づけていること。
マルクスは南部諸州における黒人労働の性格について、つぎのように指摘している。
北アメリカ合衆国では、奴隷制が共和国の一部を不具にしていた限り、どんな自立的な労働運動も麻痺したままであった。黒人の労働が焼き印を押されているところでは、白人の労働も解放されえない。[318]
それだからこそ、南北戦争という合衆国内乱で北部諸州が勝利し、奴隷制が撤廃されたことの意義をマルクスは高く評価したのだ。なによりその成果は、合衆国全土に広がった8時間運動である。
ボルティモア全国労働者大会(1866年8月)は次のように宣言する――「この国の労働を資本主義的奴隷制から解放するための、現在の第一の大きな必要事項は、アメリカ連邦のすべての州において、8時間を標準労働日にする法律を施行することである。われわれは、この輝かしい成果が達成されるまで全力を尽くす決意である」と。[319]
この当時のアメリカ合衆国労働者によって宣言された8時間労働制は、翌月にはジュネーブで開かれた国際労働者協会の大会で国際的統一要求として宣言された。これはイギリス・ロンドンの総評議会の提案にもとづく決議だった。