第2話 渡 辺 党
豊かな水は果てしない広がりのイメージ
1 摂津 渡辺
渡辺津 座摩神社行宮(中央区石町2)
渡辺津は、窪津、大江(小江)、新羅江 さまざまな名前を持ちますが、旧くは天日矛伝承から近世の天下の台所としての発展までこの地の歴史的奥行きを語ります。平安京と大阪湾瀬戸内海を結ぶ交通運輸の要地であり、熊野参詣などくらしと文化における要衝でもありました。座摩神社は、この要衝を拠点に交通運輸を支配して一大勢力を形成した渡辺党とのゆかりが深い神社です。 豊臣秀吉の大坂城築城に際してこの地から移転することになりますが、かってはこの地に所在しました。
○座摩神社(中央区久太郎町4渡辺) ○周辺部・渡辺党ゆかりの史跡など
渡辺綱駒つなぎの樟(都島区) 鵺塚(都島区)
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渡辺津を中心に都島区から中央区にかけてゆかりの地を訪れました。鵺塚は謡曲「鵺」の関連史跡です。源頼政と渡辺党との関係からみて、また、至近に渡辺綱駒つなぎの樟が存在することからも、この地と渡辺党とのかかわりの強さを推察できるでしょう。
渡辺津は、江戸時代の付け替えまでは、大和川の水も集めて大阪湾に流れていました。河内湖の時代はいうまでもなく、内陸への広がりの幅はもっと広大といえました。
2 壇ノ浦 寿永4年3月 (1185)
大陸を臨む地点の渡辺党(松浦党)
写真は2004年の関門海峡です。
平家が滅んだ壇ノ浦はここから少し南、瀬戸内方面です。
この時、源平の両軍において渡辺党の武者がさまざまな活躍をしています。平家水軍に加わった松浦党は、実は、渡辺党の流れをくむ存在でした。九州北西部松浦半島を根拠地にした水軍です。大陸を臨む地点に存在する渡辺党です。
これは、地理的意味に限らない渡辺党の広がりといえるのではないでしょうか。かなり政治的展望を包含した存在のように私には思われます。渡辺党とこの地のかかわりは、源頼光が肥前守(990年)になり、渡辺綱も肥前国に赴任したことが始まりです。
その後、松浦党の祖「渡辺久」が松浦郡、壱岐郡などの統治にかかわった(1069年)ことから松浦党の歴史がスタートすることになります。
また、平清盛は、日宗貿易に力を入れましたが、松浦党が果たした役割は大きかったのではないでしょうか。
壇ノ浦の戦いにおいて、渡辺党、松浦党ともに活躍しますが、渡辺党の活躍を「建礼門院」救出のエピソードで知ることができます。
3 恋塚寺 鳥羽港
平安京に関る交通運輸の要地
下鳥羽
恋塚寺の立地は、先に述べましたように、重要な交通運輸の要地に立地しているだけでなく、摂津渡辺からは地理的距離以上に近い立地と思われます。そこから、渡辺党との関係の強さを推測しています。
4 熊野詣、高浜、江口の里
水運の安定隆盛と文化
豊かな水と水運の安定は、文化的土壌でしたでしょう。
紹介する事例に渡辺党が直接かかわるわけではありませんが、往時の淀川水運の隆盛の一端を示す諸状況として取り上げています。また、高浜、江口の里で語ろうとする文化の問題と、熊野詣とはまったく異質の問題で関係がありませんが、くらしと文化にかかわるそれぞれの状況という視点から取り上げています。
@ 熊野詣
城南宮(京都上鳥羽)
城南宮で熊野精進後、淀川を下り、岩清水八幡宮参詣を経て、渡辺津で上陸。
その後は陸路を熊野三山参詣に向かいます。
天満橋交差点 前方道路をまっすぐ行くと、すぐ京からの船着場、熊野街道の石碑
窪津王子社を経て、はるか熊野三山に向けて陸路を進むことになります。
平治の乱が、平清盛が熊野詣に出かけたすきに起こされたことが有名です。いずれにせよ、たくさんの人々が熊野詣に出かけたようです。
※ 王子社・・・熊野三山参詣者が三山にいたる間に途中遥拝(遠くから拝むこと)することができるように、九十九の王寺社が設けられていました。
A 高浜 更科日記から
写真は高浜(水無瀬の南)近くの淀川の現在の景観です。
更科日記に次の記述がみられます。
「高濱という所にとどまりたる夜、いと暗きに、夜いたうふけて、舟のかじの音きこゆ。問ふなれば、あそびの来たるなりけり。人々興じて舟にさしつけさせたり。遠き火の光に、ひとえの袖長やかに、扇さしかくして、歌うたひたる、いとあはれに見ゆ」
※ 扇さしかくして・・・扇をさしかざして顔を隠すこと。
※ いとあはれに見ゆ・・・大そう美しくみえた。
※更科日記・・・菅原孝標(菅原道真の子孫)の娘の日記だが、作者が晩年になってからの追憶で、日々のできごとを綴ったものではない。1020(寛仁4年)〜1058(康平元年)。
B 江口の里
宝林山普賢院寂光寺境内 「江口の君堂」
江口の君は、固有名詞ではありません。歌を詠み、管絃もできるなど高度の芸を有する教養豊かな女性たちであったようです。当時の遊女、もしくは遊芸について「遊女の文化史」(佐伯順子著中央公論社1987)では、更科日記の作者が感動したような営みの中に、つまり舞い、歌う姿の中に、文化の萌芽が見られるというようなとらえ方がなされています。
「浪花のロマン」(大阪新聞社編・全国書房刊・昭和42年・梁雅子・江口の里)では、「平家の姫たちが大量に江口の君になったのではないかと想像される」とし、西行法師ゆかりの江口の君「妙の前」は、平重盛の子の娘である、という記述が見られました。さもありなん状況があったのでしょう。
ちょっと休憩
渡辺党の先を見通す才覚は相当なものだったのではないでしょうか。
源平争乱における渡辺党のかかわりは大変ユニークです。頼政挙兵はともかく、頼朝挙兵、そして「六代の死」にもかかわっています。
公開(2005年10月12日)
フィールドノート7、8、9を軸にこれまでの取材データを含めてまとめています。