1 7 %    R A Y
        
G

 

 


この一枚には最高の瞬間を焼き付けたい。
その朝の寒さは30年前と変わりはしなかった。大正池も少し水面が低下したとはいえ相変わらず美しい姿をそこに横たえている。違っているのは回りに三脚の一本も立っていないということだ。

あれはこの世紀の初頭くらいだったろうか。初めてここ上高地に連れてきてもらったときは朝早くからたくさんのカメラマンが日の出を待っていたことに驚いたものだ。
しかし今はカメラマンはひとりも見当たらない。ただ静けさが場所を支配している。
記憶をたぐりながら私は田代池に急いだ。たしかこの季節は6時半には日がさしてくるはずだ。時計は6時を少し回るところだろう。表示は2034年5月25日6時10分をさしていた。
機材が重い。わたしの老いた体はあのときよりもきしみを立てながらも従ってくれたが、池のほとりで少し腰を下ろし休憩した。ゆれる水面を見つめながら、わたしは少し前を思い出していた。



あのとき、私は家のモニターの上で南米オリノコ川支流のある場所をダウンロードしていた。このあいだ知り合いに勧められた場所だ。衛星の状態が悪いのかその三次元地形データをトラッキングするのにやや時間がかかっていたかもしれない。
モニターには徐々に画像、いや昔の言葉を借りると写真が浮かび上がってきていた。それは30年前には大判カメラでなければ撮れなかったような風景写真と寸分違いはなかった。いまでは特に高精細とも言わなくなったが、この3000dpiの平面ディスプレイは昔の印画紙やオフセット印刷をはるかに凌駕する解像度と色再現があった。
そこに無いものは疲労、そこにあるものは暖かい紅茶とゆったりとした音楽。と私は考えた。もちろんそのはずだ。わたしはポットのアールグレイに熱い湯を注いだ。
茶葉が開くあいだ、私は横の壁にかけてあるディスプレイでオリノコ川流域に生息する鳥のデータを別のデータベースから検索し、さて川の上空に1羽だけ飛ばそうか、それとも数百の大群にしようかと作品の構想をめぐらせていたと思う。

いまやCG、コンピューターグラフィックスやバーチャルリアリティは30年前にはじめて上高地で撮った写真と寸分たがわぬ画像を作り出してくれる。
かつては何十億も制作費のかかる映画でのみ使われたような高度なCG技術は個人の手の中にある。
インターネット2の一般開放と光ネットワークの普及は個人の使えるバンド幅の劇的な向上をもたらし、全世界規模でのグリッドコンピューティングを可能にした。
これは簡単に言えば100個の処理が必要ならばネット上の使われていない100台のマシンに処理をしてもらえばよいということだ。その代わり自分も使っていないときは他人の処理を行う。全世界では常に半分が夜なので使える資源は数千万台にも及ぶ。
それによってスーパーコンピューターにも匹敵するコンピューティングパワーが個人一人一人の手にもたらされた。

かつて「アポロ13号」と言う映画をNASAの関係者が見たときに「どこでこんなアングルのフィルムを発見したのか?」と真顔で聞いたそうだ。ハリウッドの映像マジックと実物の区別がだれも出来なかったように今は写真とCG画像の区別はまったくできなくなった。だれでも3次元地系データを元にCGで風景映像を手軽に作れるようになった。もちろんモデルのポートレイト撮影でもメニューを変えるだけのことだ。
いまやだれも重いカメラを持って出歩くものはいなくなってしまった。そしてメーカーはデジタルカメラでさえも作るのを止めてしまった。

2000年頃にはじめてデジタルの一眼レフが登場したときはデジタル対フイルムの論争が戦われたが、それは今思うと単にフィルムがフラッシュメモリに変わっただけのことだった。カメラを持って外に出る、そして良い瞬間を捜してシャッターを押す。それは変わりはしなかった。こうした時代になってからそうした議論をすべきだったかもしれない。
しかしファミコン・プレステ世代だった子供たちが多勢を占めるにつれ、こうした言葉もやがて聞かれなくなっていった。

そして「写真」ということばも少しずつ死につつあったのかもしれない。
とはいえ、私ももう若くはなく出歩くこと自体少なくなっていったのだからこうしたことにはすぐに適応した。
日本という国自体ももはや壮年期を終え、いつしか日本はサミットにも招聘される事はなくなっていった。かつてのローマがそうであったように皆にこやかに笑いながら衰弱していったのだ。
そこには大きな破壊はなかったが音の無い壊死があった。


そしてあのとき、私はモニター上で南米オリノコ川支流のある場所のデータをダウンロードしていた。このあいだ知り合いに勧められた場所だ。
その合い間に私は横の壁にかけてあるディスプレイでオリノコ川に生息する鳥のデータを別のデータベースから検索し、さて川の上空に1羽だけ飛ばそうか、それとも数百の大群にしようかと作品の構想をめぐらせていたと思う。
最近ネットで見つけた会社はとても美しい雲のテクスチャデータを販売していた、これを使ってみよう。そして大気の水蒸気濃度を微調整して、光の透過量をパッドで加減する。この辺のさじかげんの複雑さが今は"写真家"の腕の見せ所だ。
アールグレイの茶葉はポットの中で開いてきていた。それをぼんやりと見つめながら、わたしはこの画面に足りないものを考えていた。

そのとき軽い音色とともにモニターの片隅でVメールの着信表示があった。ディスプレイの上でゆらゆらゆれているメールアイコンを指さすとウインドウが立ち上がりなつかしい写真仲間の顔がそこにあらわれた。
彼は同報ウインドウの中で悲しげな顔をしてもうひとりの懐かしい顔が逝去したことを伝えた。私ももうそうした報を聞く歳になってきたのだ。そういえば彼らともしばらくあっていない。返信アイコンを指差そうとしてふと手を止めた。
まだカメラと言う機械で今モニター上に展開されつつある画像を足を使って撮っていた時代があったことを思い出したのだ。

そのまま倉庫に行くと仕舞ったままの荷物の山を私は捜してみた。
やがてその中からかつてカメラと呼ばれていた機械を見つけた。懐かしさで少しいじってみると、まだフィルムが入っているのに気が付いた。カウンターが35を指して止まっている。
遠い記憶をたぐると最後に上高地に行ったときのことだったような気がした。あのときは天候が急変して楽しみにしていた朝日が撮れなかったんだった。。それで一枚だけ残していたんだろう。
止まったままのフィルムカウンターを見つめながら、わたしはよくわからない衝動に捕らわれてしまった。
この一枚を撮りたい。このカウンターをもう一度進めてみたくなったのだ。
意味もよくわからない情熱に突き動かされる歳ではないはずだった。だがそこに抵抗したかったのかもしれない。
もういちどあそこに立ってみよう、と。




たしか田代池にはこの木の横を抜けていったはずだ。
出るときに天気予定を確認してきたのだが、今日は快晴の予定だったはずだ。しかしどうも天候制御が不安定で雲の様子がおかしい。急がねばならない。
早足で歩く皮膚にさわやかな風がまとわりついていく。呼吸も乱れるが木々の気持ちの良い酸素が胸を癒していく。
緑というのはこんなにも目に優しい色だったのか。曙光の予感の中にわたしの体は自然と一体になっていくのを感じた。あの時考えていた少し足りないものがプログラムのメニュー項目には見つからなかったはずだ。

田代池に着くと回りは静寂に包まれていた。まわりにあふれるカメラマンと機材話に花を咲かせていた記憶がふと頭をよぎる。
カメラを三脚に立てると、お気に入りのレンズをつけた。ファインダーをのぞくと懐かしい像が浮かび上がってきた。周りの光を読んで露出を計る。そして絞りを決め、シャッター速度を決める。構図を決めてピント位置を考える。なつかしい手順だ。レリーズをねじ込むとわたしはその瞬間を待った。
静寂の中で尾根に光が差し、光が降りてきた。光が透明な水面の上とむこうの草原にかかる、この瞬間だ。
わたしはレリーズを押した。
さっと風が流れた。
しかしシャッターはおりなかった。
カメラは動かなかった。
わたしはそれを予期していた、と思う。

まわりに光が満ち溢れ、朝の生命の力を感じながら私はしばらく立っていた。そしてこう思う。
シャッターはおりなかった。だからわたしはまた続きを撮れるのだ、と。

2004/4/1



*この物語はフィクションです。
しかしグリッドコンピューティングはSETI@HOMEでパソコン上で実用化されています。
またあるグラフィックボードメーカーの技術者はパソコンが現在の映画レベルになるまでおよそ10年と予想しています。

 








 

 

 

 

 

 

 

 

 

Homepage

1 7 % G R A Y

2004, All rights reserved by Yoshihiro Sasaki