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目覚めたのはまた暗闇の中だった。
少し夢を見たようだ。

南方 戦線での悪夢、昨夜談笑した仲間が切り裂かれていくのをわたしのライカは冷徹に記録していった。前進する兵士を撮るようには言われていた。しかし戦況が進むにつれてそうした写真は撮れなくなっていった。
そうした中で私は背後からの冷たいまなざしに気が付くことが増えていた。「仲間の死体を撮る仕事をしているやつ」、無言の抗議はそういっているように思えた。私はその言葉を頭から振り払うかのようにどんどん前線に近づいて撮った。彼らに一歩でも近づきたかった。
しかし敵の砲火は平等であった、撮影班も兵士も区別はなかった。閃光と激痛が走った後に一瞬考えたのは不思議な仲間との一体感であった。
次に気が付くと内地への傷病兵送還船の中だった。船の中でわたしはただ熱でうなされる中で思っていた。これは夢なんだと。


汗を拭くと暗闇の中でコツコツと時計が時を刻む音で心を落ち着けた。
帝都・東京にはまだ敵機は飛来していない。しかし、九州の方はもう大陸からの新型爆撃機の攻撃を受けている。B29とかいうそうだ。ただし大陸からでは東京上空までは届かない。
とはいえ、わたしは灯火管制A型と書かれた遮光フードを電灯に取り付けてから灯りを入れた。暗闇が灯りの下に円錐形に切り裂かれた。そうして丸いちゃぶ台をその下にもってきて書きかけの原稿の続きを書き始めた。
少し雨音がした。窓に近づいて飛散防止の目張りテープを少しはがすと、外には雨がふり出していた。それは昭和19年の梅雨の明け方だった。


わたしは東京に戻ってくると治療をはじめたが、完治には時間がかかりそうだった。そんなわたしに別の撮影任務がきていた。民間の出版社のもとに赴くようにと言うことだった。
机のライカをつかむと神楽坂の竹川書店へと向かった。まだ痛む足を引きずりながら神楽坂を登ると、昇り切ったところの神社の脇に看板を見つけた。
- 仕事は子供用の画報の製作です
とその国民服を着た担当者は言った。
- 子供たちが喜んで見るような戦闘機と搭乗員たちを特集したいと思います。明日取材をお願いします。
わたしは血なまぐさくない仕事に喜んだ。子供に夢を与えられるし、わたし自身も憧れだった戦闘機がまじかで撮れるなんて。フロントの仕事ともこれでおさらばだ。


翌日、わたしはぼろぼろの車に揺られながら指示された厚木の海軍航空隊の飛行場へと向かった。朝は梅雨空であったが、途中の原町田を過ぎて高座の海軍工廠あたりからは空も青く晴れ渡ってきた。
飛行場に着くと、若い担当将校が出迎えてくれた。帝都防空を担当する302空の戦闘機搭乗員だとの短い紹介を受けた。
よろしく、と挨拶しようとすると彼は私が持っていたライカを見るなり宿舎に走って取って返し、戻るとなんと胸にはコンタツクスを下げていた。
自慢げに大連で買ったと言うと、ほんとはロライ・コードがほしかったけどね、と照れながらも自慢は忘れなかった、「君はあのアサヒカメラの比較記事をみたかね」。
私も負けずに聞きかじったライカの美点をあげつらった。そして「ぼくはツアイスの実験に加わる気はないよ」と切り返した。ライツ社が打ち出した反コンタックスの広告にあった文句だった。
そしてお互いに睨み合った後、ぷっと吹き出した。互いに意地の張り合いをするのがおかしかったのだ。
そうして年の頃も近しい我々はすぐに打ち解けた。
互いの郷土のこと、親の自慢の料理のこと、そして恋した女性のこと。晴れ渡った空に笑う声が満ちていた。

彼は飛行服に着替えるとわたしは仕事を思い出した。まず彼の写真を撮ると、彼は自分の経験から飛行機を撮るこつを教えてくれた。
- シャッター速度は上げすぎるとプロペラが止まって見えて動感がなくなる、200分の1で取りたまえ、そして「だから君のライカでもシャッターが足りなくはないさ」と減らず口を付け加えるのを忘れなかった。

あらかじめ彼には古い型の零戦で飛ぶように伝えてあった。検閲を通すためだ。飛行場の隅にはなにやら見かけないビヤ樽のような太った機体もあったが、あえてそちらにはカメラを向けなかった。
彼は駐機していた零戦にわざと格好よくとびのり、わたしは写真を撮りまくった。わたしは飛行場の場所が分からないように構図には気を配りながらも、自分の気持ちが高揚してくるのが分かった。
しかし離陸してしまうと手持ちのレンズではもう追えなくなってしまった。四百ミリくらいの望遠があればいいのに、とぼんやり思った。
彼の飛行士は機体を戻すと私の頭上でくるくると機体を回して見せ、急上昇をしたと思えば今度は背面で私の上を航過した。一瞬彼が微笑んでいるのが見えた気がした。


一日が終わり、彼とは再会を約束して住所を交換して別れた。暗い道を延々と戻りながら私の心は今度の記事と写真が傑作である確信に踊った。
数日後、わたしは慎重に写真を修整し、所属部隊名を消し、原稿も書き上げた。


いまから皆さんに戦闘機と飛行兵さんたちの話をしましょう。
はるかな空の下でいまも彼らは飛んでいます。
これが飛行兵さんです。

・・・・・・・・・・・・・・・・

こうしてくるくると飛行兵さんたちは空の上で円を描くととびさっていきました。
空をかける夢を与えてくれたのです。 」
 


(写真 丙)






(写真 乙)

 

書き上げると、私はまた出版社に足を向けた。

しかし、国民服の担当者は首を振るとだまって原稿をつき返した。
そして少し待たせると一枚の紙をよこした。それには追加の指定が書かれていた。
- 時局を考えなさい、と一言だけ付け加えて。

重くなった足を引きずりながら家に戻ったわたしにもう一枚の紙が迎えていた。
封書の表にはなにも書いておらず、私のいない間にだれかが訪れて直接持ってきたものと思われた。中を開けるとあの厚木の飛行兵の名前があった。

ちゃぶ台にふたたび原稿用紙を広げてぼんやりしていると、食器棚の上においてあるラヂオから勇壮なマーチとともに戦闘詳報が聞こえてきた。
「大本営・陸海軍部発表。わが艦隊某月某日、マリアナ沖にて敵艦隊殲滅せり。戦果は敵空母2、戦艦3.....


しかしわたしは知っていた。厚木の彼からの紙には真実が記してあったのだ。「マリアナオキニテ...

そしてわたしは真実を知りながら、原稿に嘘を書き始めた。


敵がいくら押し寄せようとも、日本は



絶対に負けることはありません



いつの日にか小国民のみなさんも



空の戦いに参加しましょう、そして



そして、



いつの日にかワシントンに、ニューヨークに



皆さんの乗る飛行機で、



爆弾の雨を降らせましょう。」
 



マリアナオキニテ ワガカンタイ



カイメツセリ テキ二 ソンガイナシ



サイパンモ ウシナワレ



コレデ トウキョウヘモ



B29ノ コウゾクハンイニ



トウキヨウ クウシュウ二



ソナエヲ

 


あふれる涙が代用品の原稿用紙にぽつりと落ちた。


二ヵ月後、8月になり東京の空は晴れていた。
郵送されてきた本には表紙に、ぽん、と検閲印が押されていた。
どうやら梅雨が明けたらしい暑い夏の日だった。
晴れた空を仰ぎ見てわたしは思った。来年の夏はどう晴れているのだろう、と。

2005/8/15




*この物語はフィクションです。
しかし、実際に戦時中のこの頃発刊された子供向け刊行物をモデルにしています。

昨年の終戦特集で書いたように、戦前に総力戦研究所や秋丸機関がはじきだした日本の継戦能力が2ないし3年というのは非常に正確な予測で した。なぜなら軍事的な意味では日本が負けたは開戦3年半後の1945年の8月ではなく、この開戦2年半後の1944年6月のマリアナ沖海戦の敗北 だからです。
もし将棋で言えばこれは「負けました」と投了を宣言しなければならない瞬間でした。もはや米軍に軍事力で勝てないのはあきらかでした。日本も本来はここで終戦を模索せねばならなかった のです。
もし棋士が投了を言わなければならない瞬間を経ても勝ち目のない将棋をずるずるとさしていればどう でしょう? まさに日本にとってはその後の一年がそうだったのです。

付け加えるならば、嘘の代名詞として知られる"大本営発表"は戦争後期になってくると、嘘というよりも日本の情報収集能力と状況判断の低さを露呈したものになってきます。
たとえば1944年10月の台湾沖航空戦において大本営発表は敵空母11隻撃沈と過大な戦果を発表しましたが実は空母を一隻小破しただけでした。
しかしこの戦果は大本営が捏造したのではなく、当時すでに士気や練度の低下した前線部隊が誤認や虚偽の報告をして大本営に届いた数字 だったのです。そのためこの数字はそのまま作戦部の情報としても用いられて、敵の損失を見誤らせてその後の作戦計画において多大な損失を招く原因ともなりました。彼らは調べれば誤認がわかったはずなのに調べませんでした。
つまり国民だけでなく自らをも欺くようになっていき、嘘の世界で指揮をするようになっていったのです。
 

 








 

 

 

 

 

 

 

 

 

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