17%グレイトップT*トップ

English text is not available

 

RTS登場前夜:

ツァイスイコンからヤシカへ


今年2002年はCONTAX70周年の年である。
これまでも50周年や60周年でS2やコンタックスの記念レンズなどが販売されている。この何十周年というのは1932年に初代コンタックスであるContax I型(通称ブラックコンタックス)が登場したところから数えているという。つまり「コンタックス」という名前の70周年記念なわけだ。
このときツァイス財団は当時話題になり始めた「ライカ」という名前の小さなカメラの対抗品を作らせるべく俊英の工学博士を、財団のカメラ生産・販売を担当する子会社であったツァイスイコンに派遣した。
彼の名前はハインツ・キュッペンベンダー。この名前を少し記憶に留めておいてほしい。

コンタックスという名前が生まれた当時、その名前はツァイスイコンが所有するブランド名だった。
それが1971年にツァイスイコンがカメラ生産を停止する決定によって日本のヤシカがそのブランド名をゆずりうけた。そしてヤシカを吸収した京セラがいまはその名前を使っている。
ヤシカはRTSというカメラシステムにコンタックスというブランド名をたくした。これはわれわれが今使用しているMFのカメラ・レンズである。そして京セラは近年Nシステムという新しいAFコンタックスを登場させた。

そのNシステムについて良く言われるのはレンズラインナップが少ないということだ。これは特に1974年フォトキナのときにRTSが登場した際、ずらっと多数のシステムとレンズが用意されていたことと比べられると余計目立つかもしれない。
しかしここで疑問が生ずる。ヤシカRTSの開発が1年余の突貫作業だったことは良く知られているが、レンズシステムはどうしてこんなに豊富に1975年に合わせて揃えられたのだろうか?
そのあたりをキーに本稿ではRTS登場前夜の流れをたどってみることにしよう。

ここで舞台はその1974年フォトキナのケルンからシュツットガルトに移り、時も4年ほどさかのぼる。コンタックスの登場からは40年近く時がたっていた。
1970年のツァイスイコンの監査会議において渋面を作っている人物がいた。彼の名はハインツ・キュッペンベンダー。彼はいまカールツァイス財団の最高指導者である役員の一人としてイコンの運命に際していた。
かつて若き工学博士としてイコンに出向したときは屋根裏部屋で冷遇されたとも言われるが、見事にコンタックスという存在を創造した。
しかし年老いた今、皮肉なことに今は責任者(監査役員会の会長)としてその歴史に自分で幕を下ろさねばならなくなった。のちに解雇問題でマスコミにたたかれるというおまけ付きに。
これはVEB東ツァイスとの法廷闘争にピリオドを打った彼の最後の戦いであった。

そのころ日本とドイツのカメラでは海外での販売に大きな開きが生じつつあった。安かろう、悪かろう、ではなく高価格帯でも日本の優位はあった。日本製品が市場のルールを変えたのはもはや明らかだった。
ローライのように海外に拠点を移して存続しようという形もあったが、ツァイス財団はそれをよしとしなかった。
ついに1971年8月、もはやツァイスイコンにおける民生向けのカメラ製品の生産・開発は全面的に中止することが決定されたのだった。

イコンの資産は売却されることになり、その一部はローライが買い取った。
*1
このときの損失は意外と少なかったともされている。もしかするとイコンがカメラ生産から撤退したのは早急すぎたのかもしれない。



ツァイスイコンがその終焉を迎えようとする前、イコンは2つ
*2の新型ボディの開発計画で70年代に向かおうとしていた。一つはIcarexのラインを継ぐSL706*3、もう一つはコンタフレックスとコンタレックスのラインを統合するべく作られたSL725である。*4


冒頭の疑問はSL725がヤシカ・コンタックスとイコン・コンタレックスの間の「ミッシングリンク」であると考えると氷解できる。コンタレックスから引き継がれたレンズを別にして、われわれの使うコンタックスMFレンズで25年を経た今も標準レンズの地位にあるP50/1.4やD35/1.4などは ツァイスの社史をみると1972年発明とあるが、これらはSL725をターゲットに設計されたものであると考えることができる。
SL725はクッツ
*5のコンタレックス研究本に写真付で登場しているが、日本のカメラを意識したかなり小型のものである。
マウントは後述するようにコンタレックスのものがベースであるようだ。コンタレックスよりも小柄なレンズとなっているのはカメラ自体小さくなっているからだ。

クッツの研究本には後のヤシコンのS135/2.8(もちろんコンタレックスのOlympiaSonnar135/2.8とは別物)とほぼ同じでマウントのみ異なる写真が公開されているが、そのSL725のマウントを見るとほぼコンタレックスと同じで絞り情報カムが異なっているのが分かる。


日本では良くツァイスがドイツ国内のパートナーを探さずにアサヒ・ヤシカにコンタクトしたふうにも書かれることがあるが、実際はそうではなかった。SL725はイコンの解体にともないWeberというドイツ国内のメーカーに委託されてSL75として本来1975年に発売されるはずであった。しかしこれは結局実現しなかった。もし実現していたら現在のコンタックスはこれになっていたかもしれない。

その後は60年代末から関係があったアサヒに話があったらしいがこれも実現しなかった。
そして1973年の夏頃、ツァイスはヤシカに接触し翌年のフォトキナに向けて新たなカメラが開発をはじめられた。生き残りをかけたヤシカの作戦勝ちだったとも言われる提携であった。

これがわれわれの使うコンタックスの祖であるRTSだ。
RTSとはReal Time Systemの略称で撮影者の感じたイメージを即時にフィルムに写し取ることを意味している。

当時の販売資料から引用する。
新しいカメラが誕生しました。その名もコンタックスRTS、開発の過程は国境を越えて3社が持てるノウハウのすべてを惜しみなく投入した一つのドラマでした
そこには設計思想が掲げられていた。
「速射性の追求」「自動化の追求」「操作性と即応性の追求」「画質と色再現性の追求」「汎用システムの追求」
これらの5つである。
それを実現するために8つの「リアルタイム」技術が投入された。
リアルタイムSPD瞬時測光、リアルタイム電磁レリーズ、リアルタイム情報ファインダー、リアルタイムシャッター、リアルタイムモータードライブ、リアルタイムリモートコントロール、リアルタイムT*レンズ、リアルタイムボディデザイン
レンズのツァイス、ボディのヤシカ、デザインのポルシェデザインの3者の力がこのすばらしいカメラシステムを作り出した。
応答の速いSPDを使ったことやAE前提で右側に露出補正ダイヤルを持ってきたことも先進的だった。

これから先は語る必要が無いかもしれない。われわれ自身がそこにいるのだから。


しかし、この項を終える前に一つだけ付け加えることが残っている。
ヤシカ提携の前年の1972年にキュッペンベンダーはイコンのカメラ生産停止の決定の後、ツァイス役員を引退した。ContaxIを作り上げた若き工学博士はいまや71歳になっていたのだ。
キュッペンベンダーは前述のように旧コンタックスの開発によりその設計者として知られているが、それ以後イコンから財団に呼び戻されてからはむしろカールツァイス財団において、あのアッベにもならび称されるほどの指導者として重要な役割をになっていた。
*6

よくツァイス財団の中のカメラレンズ部門の売上が他の部門に比べて少ないことを取り上げて財団の中でのカメラレンズ部門の小ささを揶揄するむきもあるが、コンタックスを創始したキュッペンベンダーの財団における地位を考えるとカール ツァイスというものの中でカメラレンズの占める意味がそう低いことはな いようにも思える。

しかしイコンはやはり財団の子会社のひとつに過ぎなかった。それが財団のかかげるアッベの理想である健全性をゆるがす存在になることは許されなかったのだろう。潔すぎたように見えるイコンの解体もそうした考えからきたのかもしれない。
いぜれにせよ彼は自分の最後の仕事と考えていたイコンの解体に手をつけ、自らのツァイスでの仕事にもピリオドを打った。

そうして一つの時代が始まり、一つの時代は終わった。

 



















 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 










 

*
RTS発売当時(1975年)のラインナップは以下のとおり(アクセサリーをのぞく)

D15/3.5, FD16/2.8, D18/4, D25/2.8,
D28/2.0, D35/1.4, D35/2.8, P50/1.4,
SP60/2.8, P85/1.4, S85/2.8, P135/2.0, S135/2.8, TT200/3.5, VS40-80, M500/4.5, M1000/5.6

黄文字はツァイスイコンのコンタレックスマウントがあるもの。
このうちD25とD18とミロターをのぞくFD16, D15, P85は1970年以降の発表であり、コンタレックスからの遺産とは言いにくいかもしれない。
ちなみにこれら3本はコンタレックスマウントでもT*コーティングを施されている。ただしFD16やP85は小数供給されたがD15のコンタレックスマウントはプロトのみ。
P85/1.4はRTSとほぼ同じものだが、絞りがローライSL35のものとおなじでオムスビ(三角)絞りになっている。
またこの時期にコンタレックスマウントではテレテッサー400/5.6もあったがこれはRTSでは採用されなかった。

 

*1
このときの技術の一つがのちのSL2000Fにも生かされたと言われる

*2
一説には4つ

*3
SL706はのちにフォクトレンダーブランドでVLS-1として出荷された

*4
コンタレックスの後継ラインは別のものがあったという説もある

*5
Hans-Jurgen Kuc
「コンタックスの全て」の作者
コンタレックスには別の研究本がある(独語)

 

*
カメラ関連事業は無くなったがツァイスイコン自体は現在も存続している。
 





































 

*6
大戦終結時にアメリカが接収したツァイスの社員のうちキュッペンベンダーは最重要の6人のうち一人であった

 

 

おもな参考文献

Zeiss Compendium
Contarex & Contaflex (Kuc)
ツァイス激動の百年
コンタックス販売マニュアル(75年当時のもの)

 


2002, All rights reserved by Yoshihiro Sasaki