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キャパは波に揺れる上陸用舟艇の上で愛用のContaxIIを見つめていた。
二年前にはこれを持ってノルマンディ上陸作戦の第一陣に先頭を切って飛び込んでいったのだった。あのときはせっかく撮ったフィルムをライフの現像技師が二本ともほぼだめにしてしまった。しかしその失敗写真がかえって「そのときキャパの手は震えていた」というコピーをつけられて有名になったのだからおもしろいものだ。しかし今回はきちんとさせねばならないな、と彼は一人つぶやいた。タイムではなくコリアーズの技師ならなんとかするだろうか。

そして彼はまた上陸作戦の第一陣にいた。ノルマンディのときはひどい荒天だったが、今日は抜けるような青空が広がっている。波はやや強いが気持ちの良い風を浜から運んできているようだった。陸地からは多数の煙が立ち昇っていた。空母艦載機の予備爆撃によるものだ。
まだ海岸には遠いが頭を舟艇のへりから出すと、左手の遠くには海岸から飛び出た島が見えた。そしてその先には遠くはるかになだらかなコニーデの火山が見えた。フジヤマ、と彼は山の名前を覚えていた。日本人が誇りに思う山だ。

美しい、と彼はつぶやいた。神秘の国日本、それは彼の写真家の心を動かしていつかは来日したいと願っていた。それがこういう形で実現するとは皮肉なものだ、と彼はまたつぶやいた。もし彼に日本の花の知識があれば、赴く陸地でいま咲き誇る梅の香りまで感じられたかもしれない。
そして富士山を背景にして併走するとなりの上陸用舟艇と手前の突き出た島をファインダーに収めるとContaxのレリーズを押した。その島の名前が江ノ島と呼ばれることを知るのはもう少し後のことだった。
こんなきれいな景色が撮れるんなら135ミリの望遠ゾナーも持ってくればよかったな、と彼は思った。
そのとき上陸用舟艇がぐらっと大きく揺れた。

戰史広報 1946年春

コノ春、大東亞戰爭ノ終結イマダミヘズ
敵米英ハ日本本土上陸作戰ヲ發動ス
目標ハ帝都東亰
相模湾二敵艦多数

キャパは揺れる舟艇で倒れそうになりながらかろうじてContaxを押さえた。見ると並走していた船が爆発で吹き飛んでいた。破片がぱらぱらと降り注いでくる。左手の島に配備されていた日本軍の重カノン砲は2週に及ぶ爆撃で沈黙させていたはずだ。

その攻撃は伏竜と呼ばれた本土決戦用の日本軍の特攻兵器であった。しかし兵器といっても特殊アクアラングをつけた兵が爆弾を持って水中待機するというしろものだ。
そのアクアラングは不具合が多く、彼らの多くは訓練中の事故で死んでいった。

米国防省編纂 コロネット作戦 (訳出)

日本上陸のコロネット作戦ではまず九十九里浜にホッジス大将率いる第一軍の四個師団を投入した。しかしながらこの方面においては自然要害が多く攻勢の難が見込まれたため、主攻勢軸は相模湾方面のアイケルバーガー中将率いる第八軍に置かれた。
その主力部隊の上陸地点には補給に必要な主要港湾を確保するため横須賀港を確保し横須賀線を容易に分断できる場所、つまり湘南海岸が選ばれた。また分遣隊は横須賀の側面にとりつくため三浦半島の西岸である三戸浜付近にも上陸が行われた。これらの場所には抵抗拠点として地下要塞が作られていたがもはや組織的抵抗力は無く、上陸日にはノルマンディのときのような荒天ではなく晴天が選ばれた。
この第一波上陸は六個師団の大兵力が投入され、上陸後は相模川に沿って北上し原町田を目指す。(注: 原町田は現在の町田市)
その後は西から多摩川を渡河し東京を目指した


そしてキャパを乗せた舟艇は平たい船底が日本の土に当たると同時に彼らを吐き出した。
時は1946年3月1日のことであった。

ちょっとピンボケ 第16章(追補)より 

「われわれがイージーレッドと呼んでいた海岸は日本ではシチリガハマと呼ばれている。日本の古い戦いではニッタという英雄が活躍したところだそうだ。彼が馬で駆けた戦場にいま我々は鉄をぶちまけ、憔悴した体を塩水と砂の間に横たえていた。
わたしは海岸の障害物を昨日ポーカーをしたテイラーと仲良く分け合っていた。彼の目は言っていた - お前これで昨日のフルハウスをちゃらに出来ると思うなよ。俺はかならず取立てにいくからな。
わたしは勝手にそう解釈したことにすると、Contaxを構えなおした。
今度こそ手ぶれ写真とは言わせないさ、とひとりごちると気分が落ち着いてきた。テイラーと曹長が機銃の爆炎の中に飛び込むとわたしもあとに続いた。イタリアのときのように葡萄酒が150ガロンもあればそれをわたしの遮蔽物にしたかった。

わたしは海浜にとりつき、撮りまくった。それは恐ろしい光景だった。日本兵は弾が切れても降伏せずに突撃してきた。中には子供のように見受けられる兵士もいたがわたしは気のせいだと自分に信じ込ませた。
はじめのコンタックスのフィルムが切れると第二のコンタックスを取り出したが、こいつは水を吸ったのか動かなかった。例のオイルスキンの防水袋も役立たなかったのか、カメラが動かないと知ると急に身震いが襲ってきた。
ちょうどそのとき、ノルマンディのときのように病院艇が岸にとりついた。
少しの後、わたしはアンツィオやノルマンディーのときのようにふたたび孤独に帰りの船に乗っていた。

そのときわたしは船の上で不思議な声に振り返った。ひとりの男がいた。
言葉は理解できるが初めて聞くアクセントだった。その東洋人風の若い男が言った。
- あなたがさきほど海岸で撮った記録メディアをすててほしい。それは本来この時代にあってはならないものだ
記録メディアってこのフィルムのことか?とわたしは言った。なにを言っているのかわからない。
- 理解できないかもしれないが、この戦争を境にこの国は大きく変わる。それを嘆いた一部の人間が数百年の後にこの歴史を改変しようと試みたのだ。男は続けた。
- われわれはそれを発見して元に戻そうとしている。しかし記録メディアが残存すると時間の再修正が不完全なものになるのだ
彼の言っていることはとうてい信じられなかったが目は真摯であり、しかもシャツのすそに隠した銀色のものは直感で武器のように思えた。
やれやれ仕方ない、わたしはContaxの裏ぶたをすぽっとはずすとフィルムを取り出して、大きくふりかぶって波打ち際に投じた。背後でかすかにラベンダーの香りがした。
振り返るともう男はいなかった。

わたしは大きく息をつくとこの不思議な体験を忘れることにした。まあいいさ、コリアーズに義理はない。
それに正直言って戦いの写真はもう撮りたくはなかった。わたしのそうした気持ちが見せた幻影だったのかもしれない。わたしはフレスコ(携帯酒瓶)をあおった。
それにしても次にこの国を訪れるのはちょっと楽しみなことであった。たしか国が変わるとか言っていた、今度は人々の明るい笑顔を撮れそうだ。
そこはきっと"写真の天国"だろう」




・ ・ ・ ・ ・



その家族の乗る自家用車は国道134号線をドライブしていた。湘南の海は青く、いつもと変わりなく水平線まで広がっていた。
ラジオからはニュースが流れている。
"・・・に派遣された自衛隊は本日隣国との国境を越えました。国際貢献の目的とはいえ、これで戦後初めて日本の軍隊が戦地に一歩を・・・"
運転している若い父親はそんなニュースを気にすることもなくカーナビでそろそろ到着する駐車場を気にしていた。そのとなりの助手席に乗った少年は昨日もらったばかりのプレゼントをしきりにいじりまわしている。
ただ後部座席で少年の祖父である老人がニュースを聞きながら遠くの海をみつめていた。
やがて車が駐車場に滑り込むと、少年は海岸へとかけていった。湘南の風がやさしく包み込む。

少年ははじめて買ってもらったデジタルカメラを手に七里ガ浜の海岸を散歩していた。それは彼にとって魔法の機械のようだった。目で見たものと撮れた画像では少し違って見える。どちらがほんとうは真実なのだろう?少年はちょっと不思議に思った。
そうして海岸に流れ着いた漂着物をつぎつぎに撮っていると、なにか見慣れない古びたものが彼の気を引いた。みると埋もれているのは円筒形の物体であった。
しかし彼はフィルムというものを見たことがなく、それをいぶかしげにつまんでから沖の遠くまで力いっぱい投げた。

そうしてその錆びたフィルムはかつてあったかもしれない、なかったかもしれない情景をネガに秘めたまま、太平洋の深みへと流されていった。




2004/4/1



*この物語はフィクションです。
しかし米軍の関東上陸計画は実在したものをベースにしています。
また今年2004年はキャパ没後50年にあたります。この偉大な写真家にあらためて哀悼の念をささげます。

 








 

 

 

 

 

 

 

 

 

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