「スペインの孫/特別篇」

および「空海」創作ノート6

2005年2月

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8月
今月はスペインに旅行に行くので、「空海」の創作ノートは一時休止します。ということで、「スペインの孫」というタイトルです。
02/01
書協。昨日も書協で会議があった。これまでもそういうことはあって、連日同じところに行くと、そこの職員になった気分になる。昨日の会議では味方だった人が今日は敵である。会議のテーマによって敵味方は流動的だ。本日はわれわれの書記局もいっしょなので、書記局との調整も必要である。著作権に関して、わたしは理念をもって対応しているが、それと現実の事務処理は別の問題なので、理念を強要すると事務担当者が迷惑することになる。そういったことの全体を踏まえて最良の落としどころを設定するのが会議の面白いところで、3時間も話し合ったが、最終的には妥当なポイントで話がまとまった。やや疲れたが、成果が出たのでよかった。

02/02
本日は休み。三軒茶屋に散歩。今週は早朝のニュース(わたしは寝酒を飲みながら見る)で三軒茶屋を特集している。毎日、店などを紹介しているのだが、今日はハンバーガーの店を紹介していた。マクドナルドではない。昔ながらの手作りのハンバーガーだ。で、その店を探そうとしていたのだが、集中してテレビを見ていたわけではないので、店の名前も正確な場所もわからないので、本日は確認できなかった。まあ、そのうち見つかるだろう。わたし、ハンバーガーが何より好きなのである。

02/03
トコヤに行く。来週から旅行に行くので、今日がリミット。今年初めて、カルガモを発見。カップルが去年と同じ場所にいた。去年はその周囲に4つのカップルがいて、それぞれヒナを生んだので、大量のヒナがいた。今年もそういう状況になるのか。第1カップルを見ていると、わしもいるぞ、という感じで、シラサギが目の前に舞い降りた。シラサギは孤独である。

02/04
常務理事会。話が長引いて3時間近くになった。少し疲れた。

02/05
次男夫婦来る。実は会社勤めの次男は突然、人事異動になって四日市に引っ越すことになった。勤め先の研究所は四日市が本体で、いままで勤めていた、つくば学園都市の研究所は規模が小さい。いずれ四日市に行くことになるだろうとは予想されていたのだが、突然であったし、ちょうどわれわれが旅行に出る直前だったので、引っ越しの手伝いもできなかった。嫁さんも仕事をしているので、しばらくは単身赴任となる。結婚したばかりだが、幸いなことに独身の頃の道具をまだ捨てずにもっていたので、そのままどく新生活に逆戻りということになった。独身寮ではなく家族用の社宅なのでエアコンがついていないらしい。とりあえずこちらの自宅で余っていたパネルヒーターと電気ストーブを引っ越し先に配送した。で、次男夫婦は本日、引っ越しの積み出しをして、今夜はここに泊まり、明日の朝新幹線に乗る。
ところで、わたしと妻は、明日は成田に行く。月曜日に出発する。目的地はいわずと知れたスペインである。孫の顔を見に行く。孫は去年の夏、次男の結婚式のために日本に来たのだが、スペインでどんな生活をしているのかこの目で確認したい。妻は毎年、航空運賃の安いこの時期にスペインに行っているのだが、わたしが行くのは3年ぶり。この前は孫が生まれた直後で洗礼式に行ったのだった。ヨーロッパは遠い。貧乏だからエコノミーで行くので、飛行機の旅は疲れる。しかし今回は何やかやと忙しかったので、早く飛行機に乗りたいという気持ちが強い。乗ってしまえば、楽になれる。
「空海」は2章の初めで難破している。どうも1章の主人公のキャラクターに問題があるようだ。その理由はわかったので、帰ってきてから、もう一度、最初からチェックすることにする。たぶん主人公の言葉遣いが問題なのだ。もう少し乱暴な感じにしたい。ただし生意気になってはいけないので、愛すべき乱暴者といったイメージにしたいと思う。すべては帰ってきてからだ。旅行にはパソコンはもっていかない。手書きの創作ノートだけ。そういうノートがあるわけではない。白紙のノートだ。従ってこのノートは、その手書きのノートを帰国後、打ち込むことになる。そういうわけで、しばらくの間、更新はストップする。

02/06
日曜日。ここから先は旅行中の手書きのノートから転載している。本日の移動は成田のホテルに来ただけ。明日の出発が早朝というわけではないのだが、ホテルの駐車場に車を入れておけば安心なので一泊することにした。スペインに行く時は荷物が多い。長男のところに食料品などを届けるためだ。重いものを運んだので少々腰を痛めた。

02/07
ホテルから空港までは無料のバスがある。バスを降りて荷物をカートに載せようとした時、さらに腰が悪化。前途を思うと呆然とする。とにかく荷物を預け、飛行機に乗り込む。あとはひたすら耐えるだけだ。スペインまでの直行便はない。フランクフルトで乗り換え。夜、バルセロナに到着。午後に成田を出て夜にバルセロナ着だから、それほど時間がかかっていないようだが、8時間の時差がある。日本はもう明け方だ。疲れてはいるが、明日のバス便を確かめに、ホテルの近くのバス乗り場へ行く。まだ窓口が開いていたので切符も購入。

02/08
バスは早朝に第1便が出たあと、第2便は午後になる。一日に数本しか出ないウェスカ行きである。4時間以上かかる。早朝はつらいので午後の便にした。ということで、ホテルのあるサンツの周辺を散歩してからチェックアウト。無事にバスに乗り込む。バスは予定より早くウェスカに着く。わたしはこれまで2度、ウェスカに来ているが、1度目はホアンさん(嫁の父)が車で迎えに来てくれた。2度目は長男が空港まで来てくれた。帰りは2度ともバスだったのだが、往路にバスに乗るのは初めて。それとは別に妻は2度、単独でウェスカに来ているが、2度とも列車でサラゴサ(ウェスカからバスで1時間くらいのところ)へ行ってそこまで長男が迎えに来た。ということで、妻も往路にバスに乗るのは初めて。バスは鉄道の駅に着く。この鉄道の方は何の役にも立たない。バレンシア行きが1日に1本あるだけ。あとはサラゴサ行きが数本。サラゴサに行くのもバスの方が本数が多い。30分ほど駅で時間をつぶす。ようやく長男と孫が到着。嫁さんのエレーナはまだ仕事だというので、ホアンさんの家で待つ。ホアンさんは不在。長男夫婦の家はウェスカからさらに離れているので、このホアンさんの家を自由に使わせてもらっているようだ。ホアンさんは5人の子供がいるが、エレーナが末っ子で、いまは広大なマンションに老夫婦二人で住んでいる。といっても、長女夫婦がサラゴサにいるだけで、あとは全員ウェスカにいるし、長女のところもウェスカに別荘をもっているので、週末になるとどこかの家で誰かの誕生パーティーをやっている。時間が来たので、エレーナを職場に迎えに行き、そのままヌエノの自宅へ。ウェスカから20キロくらい離れたところだが、渋滞とは無縁の無料の高速道路があるので10分くらいで着く。

02/09
昨日は夕方に着いて寝ただけだったので、本日がヌエノでの第1日。孫はもちろんわれわれのことを憶えていた。昨年の夏に次男の結婚式があって来日している。半年ほどたったわけだが、背が少し伸びた。色が白くなったのは日焼けしていないせいだ。言葉は主にスペイン語なので何を言っているのかわたしにはわからないが、時々、日本語をまぜる。ヌエノというのはウェスカの周囲にできた9番目の村ということで、小さな村なのだが、その近くに別荘地ができた。ゴルフ場に接していて、他にプールとテニスコートがある。長男たちがここに住んでいるのは、サラゴサやウェスカは街なので、マンションしかないからだ。二人ともピアニストなので、自由にピアノを弾くためには一戸建ての方がいい。ブリュッセルでは長屋式の三階建てに住んでいたのだが、このヌエノは広い庭のある一戸建てである。長男はサラゴサの高等音楽院、エレーナは近くのウェスカの音楽院で教えている。サラゴサまでの通勤は大変だが、週3回だけだし、サラゴサ市内を除けばまったく渋滞のない高速道路(無料)があるので、日本のサラリーマンよりははるかに恵まれた生活状況だ。本日は長男は休み。エレーナは仕事。孫は幼稚園(保育園との区別はない)に通っているのだが、本日は自主的に休んで、われわれの相手をしてくれる。一日中、孫と遊ぶ。

02/10
本日は長男は出勤。エレーナ、孫とともに、住宅地の周囲を散歩。アーモンド畑が広がっていて、花が咲きかかっている。去年の取り残しの実がまだついていて、割ると生で食べられる。エレーナは夕方の授業があるのでわれわれもついていき、エレーナが仕事をしている間、ホアンさんの家で孫の相手。夜、長男がホアンさん夫婦を車に乗せて帰ってくる。ホアンさんはサラゴサの病院で検診を受けて、そのまま長女のところに泊まっていた。目が少し悪くなったので自分では車の運転をしなくなったようだ。妻は1年ぶりだが、わたしは3年ぶり。妻はスペイン語で挨拶をする。わたしは身振りだけのコミュニケーション。2日連続で孫の相手をしていて、かなり疲れてきた。孫は遠くにありて思うものだと、去年の夏に痛感したが、同じことを思った。可愛いが、疲れる。顔は客観的に見ても可愛い。顔立ちは日本人で目だけスペイン人という感じで、スペイン人にはウケる。われわれは長男の幼児の頃に似ているのでとくに可愛いと思う。しかも目がつぶらだ。しかし感情の起伏が激しく、陽気に乗っている時はものすごく可愛いのだが、機嫌がわるくなると収拾がつかなくなる。長男かエレーナがいればまだしも、われわれだけで子守りをするのは大変な負担である。

02/11
日本では祝日だが、スペインではふつうのウィークデー。本日も長男は出勤。その車に便乗してサラゴサに行く。孫もついてくる。長男が仕事をしている間、孫とサラゴサのインデペンデント通りを散歩。広大な幅をもった大通りの繁華街だが、孫の機嫌がわるくて困惑する。長男は生徒の試験がおわったばかりでヒマな時期だったようで、1時間ほどで戻ってきた。長女の家で昼食をごちそうになる。豪華な具の入ったパエージャ。スペインでは日本の昼食にあたる時間にバーで軽くタパスと呼ばれるおつまみを食べ、それから2時くらいに本格的な食事をする。それが一日のメインのディナーで、夕食はまたおつまみ程度。朝もコーヒーにビスケット程度だ。仕事をしている人も長大な昼の休憩をとるので、勤務も6時くらいまであるが、スペインの日没が遅いので、冬でも明るい。小学校も昼休みが長いので終わるのは6時くらいになる。

02/12
本日はホアンさんがわれわれを昼食に招待してくれた。孫の洗礼式の時に長男がエレーナの家族全員を招いた時に使ったスポーツクラブ付属のレストラン。孫は上機嫌だった。こういうレストランでは、シェフお任せの前菜の他に、皿を2つ、選択する。1つ目はスープかサラダか魚料理、2つ目がメインディッシュということになる。わたしは山羊のチーズ入りのサラダと豚を頼んだ。サラダといっても野菜だけでは済まない。妻の注文したサラダには大量の魚介類が入っていた。豚は足をペキンダックみたいに皮がカリカリになるまで焼いたもので、そのカリカリのところはいいのだが、鳥に比べれば皮下脂肪がたくさんあるので、わたしの胃には負担がかかる。豚足がついていて、これはなかなかよかった。ここのシェフは日本で働いていたことがあるそうで、日本人が来るというのははりきったのか、前菜はテンプラだった。オードブルふうになっていて、天つゆをソースのようにかける。スタイルは奇妙だったがエビが新鮮で美味であった。食後、ラウンジに席を移して飲んでいると、長男夫婦、次男夫婦も来た。3年ぶりの挨拶。長女夫婦とは昨日会ったので、残っているのは次女夫婦だけだが、これはついに会えなかった。午前中に妻と二人でヌエノ村に行ってみた。往復で1時間かかる。古い教会がある。バーも一軒あったが人の気配がなかった。村を一周したが人の姿はなく、犬に吠えられただけだ。

02/13
日曜日。ハカへ行く。位置関係を説明すると、スペインの東の端にバルセロナがあり、中央にマドリッドがある。その中間くらいのところに、第5の都市のサラゴサがある。アラゴン州の州都だ。昔はアラゴンという国があったから、日本でいえば京都みたいなところ。長男はそのアラゴン州立の高等音楽院に勤務している。ウェスカはアラゴン州に3つある県の県庁所在地である。サラゴサから北に70キロ。ヌエノはそこから20キロ北。さらにそこから50キロほど北に行くとピレーネー山脈につきあたり、その先はフランスである。そのピレネーの麓の観光都市がハカだ。イスラムからの国土回復運動の最初の拠点になった古都で、その次の拠点がウェスカだった。ウェスカも18年間くらいアラゴンの首都だった歴史がある。ハカはスキーリゾートの街として、オリンピックの候補地にもなったくらいだが、今年は市街地にはまったく雪がない。周囲の山を見渡しても雪はなく、スキーをするにはフランス国境近くまでいかないと無理だろう。夜は、長男夫婦の孫が友だちの家に出かけていったので、妻と二人きりでヌエノで過ごす。二人きりというのは楽でいい。何となくほっとする。この家にはテレビが1つしかなく、長男夫婦の部屋にある。それでラジオをつけるとサッカーをやっていた。サッカーをラジオで聞くというのは何だか不思議なもので、しかもスペイン語だ。しかしゴールの時のアナウンサーが「ゴーーーーール」と長く叫ぶには同じなので、ベッカムが得点したのはわかった。

02/14
長男、エレーナともに出勤。孫だけ残りそうになったので、拝むように頼んで幼稚園に行ってもらった。妻と2人だけの静かな一日。妻が風邪気味なので一人で散歩。目の前に見えているゴルフ場の反対側まで行ってみた。土曜、日曜にはゴルフをする人の姿が見えたが、ウィークデーになると人の姿はない。クラブハウスにはレストランとバーがあるようで、道路に向かって看板が出ているから、会員でなくても利用できるのだろう。ビールでも飲みたいと思ったが、妻がいないと会話ができないのでやめた。

02/15
長男は本日は休みの日だが、木曜と金曜の生徒を振り替えたのでサラゴサに行く。エレーナの音楽院が短い休暇で木曜、金曜が休みになるので、明日から急にマヨルカに行くことになった。ということで、本日は妻と2人だけ。ヌエノの村にも行ったし、ゴルフ場も行ったので、散歩もやめた。三宿の自宅からなら、下北沢にも三軒茶屋にも行ける。少し足を伸ばせば中目黒や渋谷にでも歩いていける。しかしヌエノの周囲には何もない。人の姿もない。長男の家は広々としている。すべて同じ形の家が並んだ建て売り住宅だ。広大な地下室があって、そこが長男の練習室になっているのだが、行ってみると半分は孫の玩具の置き場になっていた。この家は夫婦の寝室とエレーナの練習室の他は、すべてが孫の遊び場で、いたるところに玩具が山積みになっている。スペイン人は子供に甘い。しかもエレーナは5人兄弟の末っ子だから、孫には伯父、伯母がたくさんいる。スペインではクリスマスではなく、翌年の1月6日に東方三博士がプレゼントをもってくることになっているのだが、そういう時に、ドッと玩具が配給される。子供が入れる犬小屋みたいなプラスチックの家とか、大物もあるので、置き場がなくなってしまう。われわれに支給された部屋も、孫の玩具の物置になっているところのようで、玩具の中で寝ている感じだ。昨日と今日はたっぷりと時間があったので、資料を読みながら「空海」のことを考えた。ようやくクリアーな全体像が見えてきた。1章80枚ほど書いたところで先に進まなくなっているのだが、結局、もう1度、最初から書き直すべきだという結論に近づいている。

02/16
長男の車でサラゴサ空港へ。州都の空港にしてはものすごく小さい。去年、結納を渡しに行った宇部空港よりも小さい。何しろ目の前に飛行機まで、乗客はぞろぞろと歩いて行って乗り込むのだ。この飛行機はパックツアーのための臨時便のようだ。旅行会社が企画した団体旅行の隙間にわれわれが入ったようで、しかもわたしと妻はサラゴサには戻らないので、パックとは別の扱いになっている。それで少し割高になっているのだが、長男たちの5泊6日(といっても最終日は月曜の早朝に戻るのだが)はかなり格安のようだ。マヨルカはショバンがジョルジョ・サンドと過ごして「雨だれ」を作曲したことで有名で、最近ではサッカーの大久保選手が移籍したことでも話題になった。地中海に浮かぶ小さな島である。しかし飛行場について驚いた。バルセロナ空港より大きいのではと思われる広大なターミナルがある。スペイン人は住居が地中海沿岸の人も多い。むしろここに来るのはイギリス人やドイツ人のようだ。われわれが泊まったホテルもスペイン人の客は少なかった。

02/17
昨日はホテルに着いただけだったので、本日がマヨルカ観光の第1日。中心地のパルマの大聖堂を観光。ところでマヨルカはmallorcaと書く。この「ll」がクセモノで、南米文学のバルガス・ジョサは別の出版社ではバルガス・リョサと表記する。魚介類入りの炊き込みご飯のことを日本ではパエリアというが、スペイン人の多くはパエージャという。セビリアもセビージャという人が多い。とにかく、「ジャ」か「リャ」のどちからで、だから「マジョルカ」か「マリョルカ」というべきところだが、地元のカタラン語では「マヨルカ」というのだろう。イギリス人やフランス人は「majorca」と書いて「マジョルカ」と発音する。ドイツ人はこのスペルでも「マヨルカ」だ。イタリア人はこんなところには来ない。

02/18
ポルトクリストという港町の近くの洞窟に行く。われわれは島の西側のビーチに滞在しているので、パルマを横断して東の端までの長いドライブ。日本には秋芳洞という広大な鍾乳洞があるので、驚くほどの穴ではないが、地底湖があってボートに乗せてくれたので孫は喜んだ。ボートに乗れるのは先着順なのだが、大部分のドイツ人観光客には情報が伝わらなかったようで、われわれはすばやく乗り込むことに成功した。ふだんはのんびりしているスペイン人だが、こういうことになるとすばしっこくなる。ちなみに長男はスペイン人になりきっている。もともと日本人としては時間の感覚にとぼしく、のんびりした人物だったので、スペインが肌に合っているのだろう。

02/19
本日は島の北にあるバルデモサ。ジョルジョ・サンドとショパンが滞在していた修道院がある。観光客向けのピアノの演奏もあって、「雨だれ」を弾いてくれた。孫はたいへんに喜んだが、自宅に2人もピアニストがいるのに、家では聞かせてもらっていなのだろうか。

02/20
日曜日。長男たちはもう1泊するのだが、わたしたちは明日の月曜日に帰国するので、バルセロナに移動する。チェックアウトして荷物をホテルの倉庫に預けてからパルマへ行き、ベルベル城などを観光。空港への往復だけはバスだが、島内観光はレンタカー。長男は実に運転がうまくなった。路上駐車が多いので、狭いスペースに一発で車をすべりこませる技術を修得したのだろう。しかもマニュアル車である。長男はブリュッセルにいる時にホンダのオートマを買ったのだが、これはエレーナに譲り、もっと小さいプジョーのマニュアルを通勤に使っている。勤め先の高等音楽院は都心にあるので、繁華街の路上に駐車するのに苦労するそうだ。現在、別の場所に新校舎を建設中とのことで、そこには教職員用の駐車スペースは確保されることになるようだ。ホテルに戻ってもわれわれの部屋はない。ロビーにいると、巨大なワニが近づいてきた。孫は毎日、夕方にホテルの温水プールで泳いでいたのだが、われわれは疲れ果てて部屋で休んでいたのだが、今日は部屋がないので、プールへ見に行くことにした。西日が当たる暖かいプールで、孫は巨大なワニの浮き輪(輪ではないので空気入ビニールというべきか)で遊んでいた。夕方、旅行会社が手配した送迎バスに乗って、孫たちと別れた。

02/21
出発まで少し時間があるのでホテルの周囲を散歩。いつもバス乗り場に近いサンツのステーションホテルを利用するのだが、このホテルはパック旅行の旅行会社が手配してくれたもので、サンツから地下鉄で2駅くらいのところ。大通りを渡るとサンツの駅が見えた。それほど離れていない。歩いても10分くらいで行けるだろう。市場があって、スペイン人にとっては早朝だが、半分くらいの店は開いていた。さて、あとは帰るだけだ。来るときはフランクフルトで乗り継ぎだったが、帰りはパリのドゴール。3年前に来たときもバリで乗り継いだのだが、この時はフランス航空を利用したので隣のターミナルに移動するだけだった。今回はフランス航空から全日空に乗り継ぐので、少々厄介ではないかと予想はしていたのだが、想像以上の大移動だった。

02/22
今度は時差の関係であっという間に時間がたつ。夕方、無事に三宿に到着。と思ったら、家の方が無事ではなかった。トラブルが生じていて対応に手間がかかった。が、とにかく、命が無事で家に帰れたことを喜びたい。わたしはふだんからヨーロッパ時間で生活しているので時差ボケはない。妻が寝てから、いつものように仕事を開始した。気分転換に、パソコンを帰ることにした。ふだんは使っていない古いデスクトップを使って、まったく最初から「空海」を書き始めることにした。白紙のところに「空海」と文字を打ち込むと快感があった。まず空海が入滅するところからスタートして、空海の目で人生を振り返ることにした。この方が、哲学的なものを説明しやすいし、死から始めて人生を語った方がエンディングがうまくいく感じがする。朝まで仕事をする。かなりの分量を書いた。

02/23
時差ボケはないがまだ感覚が少しボケている。近所に散歩に出かけたのだが、工率のよくない歩き方をした。メールと手紙の整理はしたが、まだ届いた雑誌などの整理が必要だ。部屋の片づけもしたい。まだ「スペインの孫」のページなので、思い出を語りたい。孫はつねにスペイン語をしゃべっているのだが、わが長男は日本語で語りかけるので、聞き取りはできる。日本語も少しは話す。レンタカーでドライブしている時、妻が孫に「キャラメロ」をやると、2つくらい食べてもいいね、とスペイン語で言っていたのだが、そのうちエレーナに聞こえないように声をひそめて、「もっと」と妻に日本語でささやいた。的確な状況判断だ。

02/24
「天才科学者たちの奇跡」の見本届く。きれいな装丁になっている。担当編集者2名と三宿で飲む。いい本ができたので楽しく飲めた。次は何にするかという話しもした。こちらとしては日本史をやりたいという提案もしておいた。小説は売れないが、トリビア的な知識を求める人は少なくないので、小説を書きながら仕入れた知識をまとめれば面白い本になる。こちらの得意分野は神話から平安末期までだが、神道、仏教についての知識もあるので、この範囲内ならいい本が書けると思う。

02/25
早稲田大学文学部文芸専修および表現芸術系専修の教員の懇親会。4年ぶりということになるか。以前は学校の中の会議室みたいなところでやっていたが、今回のマンションの一階みたいなところで、似たようなものだが、ケータリングの料理は少し豪華(?)になっていた。ワインもたくさん用意されていた。4年のブランクはあるが、知っている先生も多いので、ブランクは感じない。キェルケゴールのいう「反復」の楽しみのようなものがある。慣れている場所だが、さらに充実した仕事をしたいという意欲はある。出かける前に孫の写真を一枚プリント。いやがられながら皆に見せる。

02/26
上尾で講演。上尾という町があることは知っていたが、行ったことはないし、どこにあるかも正確には知らなかった。大宮の少し先だ。渋谷から高崎行きになる。担当者から時刻の指示があって、これに乗り遅れるわけにはいかないので早めに駅に行く。すると一本前の篭原行きというのが来たが、二階建てのグリーン車があるではないか。これに乗りたくなり、ホームを見るとスイカ用のグリーン券発売機があった。早速スイカを入れて、行き先を上尾に指定したら、スイカは出てきたが切符は出てこない。これでいいのかと不安になったが、横にいた、いかにもこれから群馬に帰りますという感じのおじさんも同じようにスイカだけを受け取ってホームの先の方に向かったので、これでいいらしい。二階席に乗り込むと、座席の天井にスイカをくっつけるポイントがあって、説明書きにしたがってスイカをかざすと、ランプが赤から青に変わった。これで車掌さんは検札の必要がなくなる。よくできたシステムだ。講演そのものは、話し慣れたテーマ(老人問題)なので、楽しく語れた。

02/27
日曜日。何ごともなし。

02/28
文化庁著作権分科会に出席。今シーズンはスタートが早い。理由は不明。去年は法律改正がゼロだったので、どこかから突き上げがあったのか。2月は何もないと思って旅行に出かけたのだが。
さて、今月も終わった。ほとんどが旅行だったので、創作ノートにならなかったが、わたしが生きている記録が創作ノートでもあるので、その意味では、いろいろな情報が提供できたと思う。わたしは小説を書くということを、生きることと重ねて考えているが、小説の基本は広い意味での私小説だと考えているので、たとえ『空海』について考えている時でも、結局は自分について考えているのだし、空海を描くことで空海について考えている自分を描いているのだ。外国に行くと、当たり前のことだが、視野が広がる。とくに長男のところに行くと、嫁さんの親族と会う。彼らはわたしを親戚だと考えているし、わたしもそう思っているのだが、知らない土地に親戚がいるということは、何だか奇妙なことである。それが人生だし、だから人生は面白いということもできる。とくに孫がいると、こいつは何ものなのだ、と思い、その存在の重みにドキッとしたりする。もちろん、孫とは、去年の夏の3週間と、今回の2週間のつきあいでしかない。リュウノスケとの15年の方が重いことは確かだが、リュウはもういないのに対し、孫はいまもスペインにいるし、また会える。それで、時々は、孫のことを考える。というか、写真を用意していて、会う人ごとにいやがられながらも見せて回るということをする。それが健全な「じいちゃん」の生き方である。孫はスペイン語しかしゃべらないが、わたしに向かっては「じいちゃん」と呼びかける。呼ばれる度に、自分が「じいちゃん」であるということを認識する。そういう認識の旅であった。
先週の後半から毎日、公の仕事(創作活動以外の社会と関わる仕事)が毎日あって、多忙な日常が戻ってきた。スペインのウェスカ、ヌエノ、そして番外のマヨルカの思い出も、遠い記憶になっていく。さて、ページをめくって、本格的に「空海」の世界に没入していきたい。


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