光と陰の紫式部05

2020年5月

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05/01/金
また月が替わった。月が替わる度に新しいノートのページを作る。『光と陰の紫式部』というタイトルの5番目のノートだ。実際に書き始めたのは去年の12月からなので今月の末までに完成すれば半年で1つ作品が出来たことになる。まあ、いいペースではないかと思う。80歳までこのペースが保てれば20冊くらい本が出来ることになるが、出してくれる出版社がないのでデッドストックがたまっていくことになるが、カフカや宮沢賢治は生涯にわたってデッドストックを書き続けたわけで、作家というのはそういうものなのだ。ドストエフスキーだってせいぜい2000人くらいの読者を相手に書き続けていた。『いちご同盟』の文庫が61刷まで行っているということの方が異様な事態といえるだろう。とりあえず10冊くらいのデッドストックがたまるまでは営業活動をせずに溜め込んでいくつもりだ。さて、世の中は疫病で大恐慌状態になっている。ぼくは終戦直後の生まれで、高度経済成長の中で育った。だから昨日よりも今日の方が幸せになる、がんばっていればどんどん豊かになる、という楽観の中で人生を歩んできた。自分が生きている間に、こんな絶望的な世界情勢が訪れるとは、夢にも思っていなかったので、こういうこともあるのかと、呆然としている。大学の先生は去年の3月で定年退職し、自分の作品は出してくれる出版社がなくなったので、世界とは関係が絶たれている。だからただ傍観するばかりだ。もしも大学の先生をまだ続けていれば、ネット授業など、慌ただしく対応を迫られていただろうが、いまは文藝家協会とSARTRASの仕事しかしていないので、ほぼリタイア状態といっていい。しかし作家として、それなりに考えていることはある。『光と陰の紫式部』も草稿がほぼ出来上がったので、今月は世界情勢についてもこのノートに書き込んでいきたいと思っている。
さてこの連休前後の日々は浜松の仕事場で過ごしている。去年の連休は浜松祭の凧揚げを見に行った。今年は凧揚げも山車も中止。毎年、山車には小学六年生が乗って太鼓を叩くのだが、今年の六年生はその機会もないままに中学生になってしまうと関係者が嘆いていた。その山車が賑わうのは夜になってからだが、昼間は進軍喇叭を吹きならずパレードがある。浜松の子どもは全員が進軍喇叭を吹けるらしい。今年は何もない。本日は都田テクノにあるカインズホームに行った。妻が障子の貼り替えするので必要なものを買いに行ったのだ。ホームセンター内のマクドナルドで昼食のハンバーガーを買って隣接している公園で昼食。なだらかな起伏の緑地が広がっているいいところだが、人は数えるほどしかいない。車で片道30分ほどかかるが、緑の多い地帯なので快適だ。『光と陰の紫式部』はゴール直前。あとはヒロインが死ぬところを短くまとめればいい。30ページ(90枚)の章が5つに半分くらいの終章がついた。まあ、ほどほどの長さに収まったと思う。ここまで書いてきて何となく焦点がぼけているようにも感じていたのだが、昨夜、寝酒を飲んでいる時にひらめくことがあった。この作品はある意味で中宮彰子を中心に話が展開していく。彰子の出番を増やせば焦点が見えてくるということに気づいた。いまプリントを読み返し始めているので、彰子が出てくるようになれば書き込みを挿入していけばいいだろう。
新型コロナウィルスについて思うこと。欧米ではcovid19という言い方をしている。「2019年発生のコロナウイルス」ということだろう。最近報道でも言われているように、最初に隅田川の屋形船で発生したのは武漢から直接入ったウイルスで感染力も致死率も弱かった。イタリアからスペインに広がったのは第二次のウイルスで感染力も致死率も高いもので、卒業旅行でイタリアなどに行った学生が持って帰ってしまった。この時期に航路を閉鎖したり、空港で足止めにするなどの対策を立てていればいまのようなひどい状況にならなかったはずだが、過去を悔やんでも仕方がない。それでもその後、検疫が強化されているので、ヨーロッパに比べれば感染者も死者も少ない状況だが、油断をするとすぐに拡散していくので、あと1ヵ月閉鎖状態を続けるのは妥当だろう。日本はすべてを保健所が管理しているため、検査の件数が少なく、患者数が少ないように見えているけれども、実際はもっと広がっているはずで、抗体をもった健常者が増大している。そういう人が人口の半分を越えれば大きなパンデミックにはならないはずで、それを狙っているのだろうが、逆に言うと抗体をもっている人は陽性だということで、基礎疾患をもった老人は感染する可能性がある。これは仕方のないことで、老人が死ぬのは必然だと割り切るしかない。ぼくも老人の一人として、静かに死んでいくことを受け容れるしかないと思っている。ただ世界状況を考えると、アフリカと南アメリカが心配で、さらに医療崩壊が進むと、マラリアやデング熱の対策も遅れて、さまざまな風土病が広がる。世界の人口の半分くらいが消滅してしまうかもしれない。これでイナゴの被害が加わる。数百年に一度の恐ろしい事態が確実に生じるのではないかと思われる。コロンブスとともにアメリカ大陸にわたった人々は、14世紀のペスト禍を経た人々だった。彼らが南北アメリカに疫病を広め、逆に梅毒を持ち帰ってしまった。人の交流は疫病の蔓延をもたらす。そう考えると、これから半世紀くらいは、海外旅行を自粛するムードが広がりそうな気がする。

05/02/土
週末。ゴールデンウィークの5連休。といってもリタイアした老人にはほとんど影響がない。文藝家協会とSARTRASの事務局がお休みになっているのでメールが来ないので少し気分が落ち着くくらいだ。妻が障子の貼り替えをするというので昨日カインズホームに行ったのだが、糊が塗りにくいというので、三ヶ日の町のコメリに行く。ついでに野菜なども買う。あとは障子の貼り替えを少し手伝う。湖岸に散歩。作品のラストシーン。少し書いてみた。いい感じになりつつある。まだ少しかかる。
と夕方このページに書き込んだのだが、夜の11時くらいに、どうやら草稿のエンドマークを打てそうな気がした。予定どおり最後には式神を登場させて締めくくった。「光と陰」というタイトルで書き始めた時から、こういうエンディングを考えていた。式神が出てくるのは、リアリズムから外れることになるが、ただの歴史小説では読者が得られないし、小説としてのわくわく感がないので、少しでも話をおもしろくする試みとして、安倍晴明や式神を登場させることにした。この試みはうまくいっていると思う。

05/03/日
昨夜の夜中近くに草稿が完了した。エンディングに近づいてからは手探りの状態でとにかく必要な項目を闇雲に入力してゴールに辿り着いたという感じだ。プリントを読み返してチェックしていかないといけない。この仕事場にはプリンターがないのだが、5章の終わりまではすでにプリントしてあるので、読み返しの作業はすでに始めている。タイプミスも見つかるし、後半の文体と少し変わっているところもあるのだが、出だしのところは登場人物が若いので、文体に多少の変化はあった方がいい。ただ皇太子という言葉はなるべく使わない方がいい。当時は皇太子の御所を東宮と呼んでいたので皇太子そのものも東宮と呼んでいた。いまの日本でも皇太子はいなくなった。天皇の弟ぎみは皇嗣と呼ばれることになった。平安時代も皇位の兄弟継承が多く、帝の弟が東宮となり、皇太子と呼ばれることもあるのだが、厳密にいえば「子」ではなく「弟」だから皇太弟と呼ぶべきかもしれない。とにかくややこしいのでなるべく東宮と呼んだ方がいい。ということで「皇太子」とあるところを赤字で「東宮」に変更する。この読み返しでの最大のポイントは、上東門院彰子のイメージをもっと鮮やかに描きたいということで、彰子の登場シーンを追加していく。長い描写は必要ないのだが、印象的なセリフはしゃべらせておきたい。なるべく短くシーンを挟み込んで、テンポを損なわないようにしたい。本日は庭の草刈りのあと^鼻湖の湖岸を散歩。

05/04/月
東京から離れていると曜日の感覚がなくなるのだが、メールが全然来ないので世の中が休みだということはわかる。昨日は『麒麟がくる』を見たので今日は月曜日のはずだが世の中は休日のようだ。この日は何の祝日だろう。名も無いただの休日なのか。昨夜は夜中から雨が降り出して、明け方まで降り続いていた。リビングルームにいると雨の音がうるさいくらいだが、寝室は階下なので静かだ。曇り空で時々雨がぱらついていたのだが、午後3時を過ぎたころに陽が射してきたので湖岸を散歩。プリントのチェックも進んでいる。名も無い日だと思っていたのが、「緑の日」だということが判明。しかし、「緑の日って何」という疑問は残る。

05/05/火
子どもの日。子どもはいない。昔はいたのだが、いまは大人になってしまった。孫は6人いるが、こういう状況では孫の姿はラインで送られてくる写真やビデオで接するしかない。今日も湖岸を散歩。あとはプリントのチェック。第2章まで終わった。いい感じで前進している。

05/06/水
まだ連休が続いている。連休のあとでほぼロックダウンが終わるはずだったが5月末まで延長とのこと。こちらはリタイアした身だから関係はないが、四日市の孫2人がどうしているか気にかかる。スペインの孫4人はまだ動きがとれないようだが、庭のある家に住んでいるので庭で遊んでいるようだ。鯉のぼりを揚げている写真も届いた。周囲のスペイン人たちは不審がっているだろうが。スペインの長男のところは娘3人のあとに息子を生まれた。孫はスペイン語で育っているが、日本名ももっている。末の男児の日本名が鯉のぼりの吹き流しに入っている。自分の名前が入っていることがわかっているのかいないのか。まあ、子どもたちは両親といっしょにいるのでだいじょうぶだろう。去年の3月まで大学の先生をしていたので、学生たちのことが気にかかる。いまの学生は貧乏だ。ぼく自身が大学生だったころも学生は貧乏だったが、貧乏の質が違っている。50年前の大学進学率がどれくらいだったか。ぼくの高校は進学校だったので100%が進学したけれども、国の全体では10人に1人くらいだったのではないか。早稲田の学生たちも、裕福とはいわないまでも、ある種のゆとりはもっていた。貧乏でも、自由があった。それは特権であり、一種のエリートだったと思う。明治時代の子どもは尋常小学校を卒業すると奉公に出た。農村では農作業の担い手になった。そうやって働かないと生きていけなかった。ぼくたちの世代でも、高校を出れば働いて実家にお金を入れる、という環境の人が多かったはずで、早稲田などの私立の大学生は恵まれていたのだろうと思う。しかしいまの大学生はエリートではない。2人に1人が大学生になる時代だ。逆にいうと大学に行かないとよほど成績が悪いか素行がよくなかったのだろうと思われてしまう。そこそこの学力があり真面目な高校生なら大学に進学するというのが当たり前の時代になっている。だが、子どもを大学に進学させるだけのゆとりのない親は少なくない。アルバイトをして学費も自分でまかなっている学生が多くなっている。今回の疫病で、多くの学生がアルバイトをできなくなっている。学費が払えないだけでなく生きていくことも難しくなっている。首相や都知事は「自粛」という言葉を軽くつかっているけれども、それは学生には死の宣告に等しい。そういうことを彼らはどれほどわかっているのだろうか。学生に特別の援助が必要だと思われる。こういうことを言うと、老人たちが、学生はまだ恵まれている方だ、と反論するだろう。それは大学生がまだエリートだった昔の大学を出た人たちの常識なのだ。いまの大学は「一般大衆」とか「民衆」と同義語だと思う。

05/07/木
連休が終わった。まだ浜松の仕事場にいる。静岡県は何日も感染者を出していない。数日前に熱海で感染者が出たくらいで、ぼくの仕事場がある浜松はもう長くゼロが続いている。学校はまだ休みだが、一般の商店は今日からはオープンしているらしい。そう思って、時々出かけるラーメンと浜松餃子の店に行くと、そこは連休中もオープンしていたらしい。客は少なかったけれども、ごくふつうに店が開いている。本日はホームセンターと八百屋に行った。妻が八百屋に行っている間にこちらはスーパーに行ってウイスキーを3本買った。今回は明後日に東京に戻るけれども、会議の日程を確認して、6月にもまたこちらに来たいと思う。小説家はどこでも仕事ができる。ここは仕事場だから、仕事場で仕事をするのは日常なのだ。ただしここはスーパーに行くにも車が必要で、妻の運転に頼らないといけない。ぼくも免許はもっているが、去年の免許の更新で自動車教習所で講習を受けただけで、もう長く路上で運転していない。東京にいればスーパーまで歩いて行ける。コンビニもあるし、弁当屋もある。一人でも生きていける。しかしここは空気がいい。散歩のコースも快適だ。眺めもいい。自然の風が気持よく吹き抜けていく。まあ、郵便物の確認をしないといけないので明後日には東京に戻ることにしている。

05/08/金
明日は東京の戻るので浜松市三ヶ日で過ごす最終日。プリントのチェック、第3章が終わった。2章までやや低調だったのだが、3章で盛り返した感じがした。妖怪が出てくるところがうまく書けている。ただの妖怪ではなく、ヒロインの心理につっこんでくるところが狙い目で、そうでなければこの作品を書く意味がないところだ。読者に伝わるかどうかはわからない。小説を書くということの難しさもそこにあるのだが、自分で最良の状態に仕上げてあとは運を天に任せるしかない。ただいまのぼくは現代の読者からは離れたところで仕事をしているので、読者がどころにいるのかもわからない。極端にいえば読者は自分自身だけなのかもしれない。それでいいと思っている。たぶんドストエフスキーもそう思っていたのではないかと思う。ぼくもシェストフや小林秀雄や埴谷雄高や江川卓を読むことによって、ドストエフスキーがわかってきたところがあった。同時代にそこまでわかってくれる読者がいたとは思えない。カフカも宮沢賢治も読者がいないところで作品を書き続けた。ぼくの場合はまだ恵まれていると思っている。本は売れていないがそれでも売れない本を出してくれる版元や編集者に恵まれていた。いまは出版不況に疫病がからまって、もはや本を出すということを前提とできなくなっている。それでもぼくは書き続ける。それでいいと思っている。

05/09/土
午前9時30分に浜松三ヶ日の仕事場を出発。午後2時に自宅に到着。途中、清水と海老名で休憩。2回の休憩はたっぷりと休んだのだが、それでも休憩時間を除くと実質3時間半で帰り着いた。自分がまだ30歳代のころ、一人で仕事場に向かう時はそれくらいの時間で到達したが、そのころは暴走族のようなやや危ない運転をしていた。妻の運転でこんなに短時間で移動できたのは初めてのことだ。渋滞がないと道路というものはこれほど便利なものかと思う。今回の2週間滞在したので自宅に戻ると知らないところに来たような気分になった。仕事場ではリビングに大きなテーブルがあり、そこで食事もするしテレビも見るし仕事もする。大きなテーブルなので端にパソコンやら資料やらを置いていても充分に食事ができる。自宅に帰ると、リビングの一部ではあるのだが、いちおう自分の仕事のスペースが設定されていて、ゾーンの中に入った感じがする。その感じも久し振りだ。自分の机があり、そこにパソコンが載っていて、左に資料を置く棚があり、右に書見台兼用の楽譜立てがある。情報に囲まれて仕事をしているという感じがする。仕事場ではネットはつながるのでメールは見ていた。自宅の郵便受けに2週間ぶんの郵便物がたまっている。さて、草稿は仕事場にいるうちに完成した。プリントのチェックが残っているが、終章はまだプリントしていないので、とりあえずプリントするところから始めたい。

05/10/日
東京での日常が始まった。とりあえず散歩に出る。日曜なので車の数も少ない。竹橋のあたりのお堀まで歩いた。走っている人がいる。皆マスクをつけて苦しそうだ。こちらは集合住宅の外に出てからはマスクを外していたのだがあわててマスクをつける。こちらは感染するようなことはしていないのだが、走っている人の呼気は通常の何倍も遠くまで届くというので用心のためだ。昨日までは浜名湖が一望できる仕事場にいた。毎日、湖岸を散歩していた。車が少ないとはいえ、アスファルトジャングルの散歩は快適なものではない。月末ごろに会議があるのでしばらくは東京にいないといけないのだが、来月はまた仕事場に行きたいと思う。自分の仕事はほぼ引きこもり状態なので、いくつか所属している組織の会議があるだけだ。ネットでできる会議もあるけれども、そうもいかない会議もある。まあ、それが唯一の社会とのつながりなので大事にしたい。

05/11/月
近況を書けという依頼が来た。ホームページに出す無償の仕事だが、読む人はいるので心をこめて書いた。自分の仕事の状況や、孫に会えないが、ラインで写真や動画が来るから、それでいいといったことを書いた。最後に、自分は終戦直後に生まれたので、高度経済成長とともに生きてきたので、自分が生きている間にこれほどの経済縮小を体験するとは思ってもいなかったといったことを書いた。皆、そう思っていることだろう。ぼくが生まれる直前に、新円切り換えと預金封鎖があった。これで日本から金持がいっそうされた。そういった話を母から聞いた覚えがある。これは自慢話の一種で、母はありったけの金かきあつめて郷里の田舎に赴き、親戚に小分けにして郵便貯金をしてもらった。皆、貯金などない農民だ。勤労者の初任給に家族の人数をかけたお金しか引き出せないのだが、小口の預金に分散したので難を逃れたという話だ。もちろんこんなことは原稿に書かなかったのだが、日本経済はゼロから出発することになるので、どのように復興するかを見守るのが楽しみだといったことを書いた。預金封鎖の話は夢物語ではない。現実に起こり得ることだ。それでも自分の住居とか、わずかながらの年金がなくなることはないだろう。飲み屋やクラブが衣料品店は、やや過剰気味だったと思う。ゼロから出発して、ほんとうに必要なものだけが復興していけば、日本経済は元気になるはずだ。ただその過程では大量の失業者が出る。日本銀行が大量にお金を刷ってばらまくことになるので、どこかでデフレが収束して、超インフレの時期が来るだろうと思う。下手をすると不況下のインフレという、スタグフレーションが起こるかもしれない。しかしこれは世界的なものだ。日本はまだ完全なロックダウンを実施していないので、ある程度の産業はもちこたえていくだろう。だが運輸、旅行、飲食など特定の産業は、ゼロからの出発になる。たいへんな事態になるとは思うけれども、がんばって復興させるしかない。

05/12/火
文藝家協会総会。本来なら市谷の私学会館で理事会、総会のあと懇親会があるのだが、すべてキャンセルして委任状だけの総会。理事長、副理事長、監事だけの会議。出久根、林真理子、三田と並んだその合間にはアクリル板があって、それらしい雰囲気になっていた。淡々と議事を進め、少しの雑談のあと散会。往路は都営地下鉄で市谷まで行き、有楽町線への乗り換えは避けて徒歩で麹町に向かった。帰りはすべて徒歩。これで9000歩。いい運動になった。

05/13/水
昨日の総会は何かへんな感じだった。どうして3人だけの出席だったのだろう。何か規定があるのかもしれない。公益社団法人なので内閣府の管理のもとに置かれている。疫病流行の非常事態なので最少人数で総会を開くマニュアルみたいなものが用意されているのかもしれない。今年度は理事長交代の時期でもあるので3人で決めていいのかとも思ったが、理事選挙は2月に実施され、選ばれた理事は総会の承認が必要で、これはすべてお任せという委任状を受けているので異議なしということで、その後の最初の理事会で互選で理事長が選ばれ、その理事長が副理事長などを指名することになるのだが、まあ、そのあたりは前理事長が推薦と打診をしていて、これも書面で理事の承認を得ているということで、とにかくこの難局を乗り切ったということだろう。三田は今後も副理事長を続けることになる。いま自分のプロフィルを調べたら2006年から副理事長をやっているので、14年間副理事長をやっていて、これから15年目に入るということだ。まあ、だからどうだということではないのだが。本日も水道橋まで散歩。いつも水道橋でUターンするか猿楽町回りで帰るのだが、本日は神保町まで回った。4月後半から自粛閉店していた古書店が店を開いているので神保町らしくなった。が、マスクをつけての散歩は暑苦しい。浜松の仕事場ではマスクなしで散歩していた。水道橋まで往復だと、御茶ノ水駅前のごちゃごちゃしたところ以外は人と密にすれ違うことはない。駅前を通らないコースだと、居住している集合住宅のエレベーターの中だけマスクをすればいい。それでも神保町の古書店が開いているのを見て、少しずつ日常が回復していくのを感じた。それにしてもこれから暑くなるのでマスクはたいへんだ。ぼくは花粉症なので2月から4月にかけては必ずマスクをしているのだが、暑いシーズンにマスクをすることはない。時々、喘息気味になるので、そういう時はマスクをつけることもあるが、まあ、昨日のような会議での外出はこれからもめったにないのではと思われる。といいながら、月末までに2件は会議のスケジュールが入っている。

05/14/木
真夏のような暑い日が続いていたが、今日は少し涼しくなった。遠出をしようと思い、どこに行くとも定めずに歩き始めた。何となく秋葉原の電気街の方に行きかけたのだが、そのあたりにはコロナウイルスが漂っているような気がしたので、台地の方に移動し、湯島天神の近くまで行ってから、東大病院から三四郎池と考えたのだが、東大構内を部外者がよぎるのも何だかなあという気がしたので、細い道を歩いていたらいつものコースに戻ってしまった。後楽園遊園地。動かないジェットコースターが絶滅した恐竜の骨のように見える。これを動かす時に油をさしたりたいへんな手間がかかるのではないかという気がした。結局、小石川後楽園(まだ閉まっている)の外を回って水道橋に戻り、とちのき通りを自宅の方に向かった。帰って確認すると9500歩だった。少し歩きすぎた。とはいえ、快適な散歩コースは小石川後楽園の外周くらいなので、そこに行くまでが大変だ。もう少しいいコースが自宅の近くにあればいいのだが。昔、三宿に住んでいたころは、北沢川緑道、烏山川緑道など、昔の川を暗渠にして遊歩道にしたコースがいくつもあった。いま住んでいるところは街の中なので、結局、水道橋往復みたいな感じになってしまう。さて、明日からは東京と大阪を除く地域が規制解除になるようだ。四日市から名古屋に転居しようとして名古屋からの通勤がダメということで四日市にいる次男のところはどうなるのか。名古屋の学校が始まると単身赴任状態になるのか。スペインの長男のことも気にかかる。スペインは学校はまだ閉鎖されているけれども、外出禁止は解除されたそうだ。それで人々はどっと街頭にくりだし、街路はお祭騒ぎになっているらしい。スペイン人の気質を考えると、第2波、3波は必ず来る。ところで統計学者のプランが新聞に出ていた。67歳以上の高齢者を外出禁止にして、若い人は自由に働いてよいことにすれば、若い人の全員が感染者になり抗体ができるので、それでパンデミックは収束するというのだ。しかし高齢者の1人としてはこのプランには賛成できない。いっそうすべての人々に自由を与え、高齢者が感染しても呼吸補助装置を与えないということにしたらどうだろう。高齢者を入院させないことにしたら医療崩壊は防止できる。高齢者は病院へは行かず墓場に直行することになる。外出制限で閉じ込められるくらいなら、いちかばちかで感染して、死んでも文句は言わない、というスタンスで対応した方がストレスがないように思われる。ぼくは傷みとか呼吸困難には恐れを感じているけれども、死ぬことそのものには恐れはない。誰だって必ず死ぬのだし、あと何年か生き延びたとしても、あまりいいことはないような気がする。本日のニュースでいちばん驚いたのは、歩道橋の上から跳び降りた女性の死体がそのまま何キロか先まで運ばれ、後続の車に指摘されて気づいたトラックの運転手が、荷台から死体を下ろして逃走したという事件。これは犯罪だろうか。ひき逃げではないが、まだ生きている可能性のある遺骸なら通報を怠ったことになるし、一目で死んでいることがわかるようなら、死体遺棄ということになるのだろう。しかし荷台に人が跳び降りて死ぬというのは、運転手にとっても災難だ。災難はどこに転がっているかわからない。運が悪いとしかいいようがない。

05/15/金
SARTRASの分配委員会。ネット会議なので楽。それでもiPadを楽譜立てにセットし、パソコンには事前に届いた議事次第や資料を表示し、カメラに映り込むものを整理して準備をする。本日は必要があって2度ほど手を挙げて発言した。ぼくの部屋は前方に窓があり頭上に照明があるので自分の顔がクリアーに映っている。人によっては暗がりの中でもやもや動いているような映像もあるし動きがスムーズでないこともある。まあ、とにかく会議ができるのでそれでいいのだ。軽く散歩。昨日9000歩を越えたので、本日はオーガニックの弁当屋で夕食の弁当を買ってすぐに引き返した。

05/16/土
朝から雨。散歩は休み。プリントのチェックは第5章に入っている。いよいよ大詰め。作品は盛り上がっている。ただこの作品は荘園整理によって摂関家が衰退していくという理屈っぽい設定を背景としているので、その理屈がただの説明ではなく自然に読者に伝わるようにしないといけない。これは一種のマジックで、タネが見えてしまってはよくない。どのように自然に理屈を読者に伝えるかというところに細心の注意が必要だ。疫病はようやく第一次の収束の気配を見せているが、油断するとまた拡散するだろう。しかしテレビの報道や散歩で神保町あたりを歩いた感じでは、まだドッと人が街路にあふれるという状態ではない。その点、スペインでは人が街路を埋めている。そこに民族の気質みたいなものがよく出ている。日本人は用心深く自制心に富んでいる。「きずな主義」みたいなものを本能的なもっているのでファシズムになりがちな怖いところがある。ぼくは散歩の時、人のいないところではマスクを外す。車がいなければ赤信号でも道路を横断する。身の周りの小さなところから「きずな」を外していきたいと思っている。しかし飲み屋に行ったりはしない。もともと自宅で1人で飲むのが好きだからだ。自宅で1人で小説を書くのも好きだ。自宅でギターをかかえて1人で歌うのも好きだ。ひきこもり体質があるのだろう。妻の甥がチリにいる。チリは他の南米諸国よりも疫病の蔓延が少なかったのだが、ここに来て二次的な爆発が起こっている。スペインが心配だ。次男一家のいる三重と名古屋も心配。次男のところは長男が名古屋の中学に入ったので名古屋に引っ越したのだが、勤務先が名古屋からの通勤を認めていないのでまだ四日市にいる。名古屋の学校が始まって、通勤の条件がそのままだと単身赴任状態になってしまう。次男は依然、鶴岡に単身赴任していたこともあるので、まあ、いざとなればそういうことになるだろう。ぼくは仕事場が浜松にあるので静岡県の状況も気にかかる。五月の連休は浜松にいたのだが、いつもいく志都呂のイオンモールが閉鎖していたので、カインズホームなどに行っただけだった。来月も行きたいと思っているので静岡の規制緩和に注目している。

05/17/日
『光と陰の紫式部』のプリントをチェックする作業。かなり挿入する文章が増えて、赤字では書き込めないところもあり、ノートに挿入部分をメモ。いろんな記号をつけてどこに挿入するか書き留めているつもりだが、実際に入力する時に混乱しそうだ。しかしこの挿入で、ようやく作品に筋道が通った気がする。ただ無理に挿入した箇所もあり、プロットの展開がなめらかになっているか、もう一度最初から読み返してみる必要がある。この作品は全五章というプランで書き始めたのだが、予定をオーバーしたため、通常のサイズの半分くらいの「終章」を追加した。ここは少し文体が変わっているかもしれないが、エピローグというのはそういうものだから、とくに問題はないだろう。いつものように小石川後楽園まで散歩。7000歩くらい。

05/18/月
本日は新宿のマッサージへ。都営新宿線で往復。電車はすいていた。マッサージもすいていた。というか、いつも午後の早い時間はすいている。朝から小雨だったが傘をさすほどではなかった。出かける前にプリントのチェック完了。とにかす明日から入力作業を進めたい。

05/19/火
ひさしぶりに妻と散歩。東京駅の大丸まで行って夕食の弁当を買って帰った。この時期にデパートに行ったのは初めてだが、入口と出口が限定され、消毒液が用意されていた。午後4時くらいだったので客は少なかった。魚屋には生のサカナがたくさんあった。今日中に売れるのか気にかかった。八重洲の地下街はどこもシャッターが下りていた。いつも賑わう玩具屋さんのゾーンも閑散としていた。

05/20/水
朝起きてネットにつないでメールを確認し、いまはプリントを読み返す作業なのでパソコンを閉じてプリントを見ていたらネットで確認したいことがあったのでiPadで検索しようとしたらネットにつながらなかった。さっきつないだばすりのパソコンもつながらなくなっている。こういう時は配電盤の横に設置してあるNTTのルーターを初期化するのが通常の処置だが、何度やっても回復しないのでNTTに電話をかけて状況を説明したら、おりかえし工事担当者から連絡するということで、どうせこの時期だからなかなか電話はないだろうと思い、とりあえず4GでつながるiPhoneからGmailでSARTRASと文藝家協会に連絡を入れた。しばらくすると文藝家協会からおりかえしのメールが届いたので、こちらから出したメールが届いていることはわかったのだが、ふと気がつくとその返信を見ているのがiPadだった。iPadで昨日とりこんだ週刊誌を読んでいたのだった。ぼくのiPadは妻から譲り受けたもので電話の機能はついていない。だから4Gにはつながらないのになぜメールが来たのだろうと不審に思っていると、Wi−Fiルーターが機能していてネットにつながることがわかった。いつの間にか回復していたのだ。パソコンもつながったので、そのことをSARTRASと文藝家協会にメールで報告した。明日ネット会議があるので、欠席になるかもしれないと前のメールで連絡していたのだが、やっぱり出席という報告をした。しかしなぜ修復したのかはわからない。そう思っていたらNTTから電話がかかってきた。プロバイダーのASAHIネットに問題があったようだ。テレワークの普及でプロバイダーもキャパシティーの限度に近づいているようだ。こういうことが起こらないように何とかしてほしい。ということで一件落着。散歩に出たついでに倉庫にしている賃貸マンションに行って資料の入れ換えをしたあとメールボックスを確認するとチラシなどにまじってなぜかアベノマスクが2セット入っていた。10万円が2セットだと嬉しいのだが。

05/21/木
SARTRASの理事会。今回もネット会議。昨日、ネットが故障するという事態があったので心配したが、まあルーターや回線の故障ではなくプロバイダーがオーバーヒートしたためとわかったので、問題はない。例によって一回だけ発言。終わって散歩に行こうと思ったが車の点検に行った妻が帰ってこない。荷物をとりにこいとか、そういうオーダーがあるはずと思って待っていたら、思ったとおり電話がかかってきて、ロビーまで荷物をとりにいった。それから散歩に行くつもりだったが雨が降り出したので散歩は休み。天気図を見ると名古屋までは晴れている。今月の初め、浜松の仕事場にいた時も、東京だけ雨ということが何日かあった。来月はまたはまた仕事場に行きたいと切に思う。

05/22/金
パンデミックというものはカミュの『ペスト』にリアルに描かれているのだが、あれはナチスドイツに侵略されたパリという状況の比喩として描かれたように思っている。実際にアフリカ北海岸で疫病が流行したわけではない。SF的な近未来小説ではパンデミックはよく描かれているし、ゾンビに襲われたら自分もゾンビになるとか、吸血鬼に血を吸われたら吸血鬼になるというのも、一種のパンデミックだろう。昔、『カサンドラクロス』という映画を見た。これも疫病の話で、細菌研究所から盗まれた細菌が列車内で広がったために、列車を古い鉄橋に導いて全員を殺して収束させるというひどい話だった。ストーリーではその細菌が酸素に弱いということがわかって、酸素のテントの中に入れれば回復することがわかり、列車を破壊する必要がないということになったのだが、すでにポイントが切り替えられた列車のカサンドラ鉄橋から落下するというような話であった。列車が鉄橋から落ちても下の川に死体が浸かると病原菌が広がるという気がするし、酸素で菌が死ぬというのも、確かにぬか漬けなどは時々掻き混ぜて酸素を送り込んで雑菌を殺すということがあるので、そういうこともありかなとは思うが、それならもっと早い段階でそういう可能性を試しているはずで、要するに列車ごと鉄橋を落とすスペクタクルを楽しむ映画かと思った。いずれにしても、映画や小説で描かれるパンデミックは、疫病がものずこい勢いで広がっていくという前提に立っている。死亡率が高いと、患者をすべてどこかに囲い込んで死ぬのを待っていればそれで解決ということになるのだが、わたしたちが初めて体験したパンデミックは死亡率がそれほど高くなく、感染しても発病するしない人もいるということで、大したことがないというところが問題点だ。元気な人が歩き回ればそれで感染は広がってしまうし、健常者が抱えている病原菌はどこまでも生き続ける。つまり病原ウイルスを絶滅させることは困難だということだ。日本の疫病死亡者は千人に達していない。毎年インフルエンザでは三千人ほど死んでいるらしいので、その点では恐れるほどの病ではないのだが、元気な保菌者がいるということが、パンデミックの長期化につながりそうで厄介なことだ。高齢者と糖尿病など重症化の可能性の高い人だけ自粛を続け、元気な人はふつうに外に出て、ウイルスを広めた方が、かえって収束が早いかもしれない。元気な人が全員保菌者となり抗体をもった段階で、ウイルスは絶滅する。ぼくは高齢者なので、ごく近所を散歩するだけで社会には出ていかないようにするということに同意できる。しかし大企業の役員や政治家の多くは高齢者なので、これを一掃する必要があるのかもしれない。トランプとかプーチンとか、いなくなった方がすっきりする政治家は少なくない。そんなことを考えている。自分の仕事はプリントのチェックが半分を越えた。紙が真っ赤になるくらいチェックを入れている。入力がたいへんだがかなり読みやすくはなった。ただエンターテインメントとしてはまだ理屈っぽい感じがするし、リアルな歴史小説にしては陰陽師が出てくるところが嘘っぽい感じになる。もともと無理な試みをしているのだが、無理なことに挑むのがこちらの楽しみだともいえるので、やめられない道楽だということになる。パンデミックの中の在宅のひまつぶしとしては贅沢な楽しみだと思っている。本日は小石川後楽園まで散歩。帰りに女坂を登ったのでやや足が疲れた。

05/23/土
『月刊サイエンス』を定期購読している。今月はパンデミックの特集だ。この疫病がどのように収束するかというテーマの論文があったので期待して読んだが、いまぼくがもっている知識を上回るものではなかった。専門家でもわからないというのが正直なところのようだ。感染しても重症化しない人が増えるか、ワクチンが開発されるか、いずれかで抗体をもった人が圧倒的に増えることによってウイルスは消滅する。ただしその後、突然変異でウイルスがより強力になる可能性があるが、それでも抗体をもっいれば重症化するリスクは少なくなる。まあ、そんなことだろう。ぼくのような高齢者は副作用のないワクチンの開発を期待するしかない。ぼくは毎年、インフルエンザの予防注射を受けている。5年に1度という肺炎の予防注射も去年受けた。帯状疱疹の注射も受けた。これは50%しか効かないと事前の説明を受けた。これは有料だし、かなり痛かった。こういう予防注射の1つとして、新たなコビッド19のワクチンも来年くらいにはできるだろう。その前に体調を調えて学校に通い始めた孫と接触してゆるやかな感染をするのも手ではないかと思う。2年ほど前に水疱瘡になった孫と密に接触したことがある。自分が水疱瘡になったのは5歳くらいの時で、その時できた抗体はもう消えているのではないかと思うが、その密な接触でも感染しなかったから、まだ抗体は残っているのかもしれない。というか、水疱瘡はウイルスは体内にまだ残っていて、それが時として帯状疱疹を起こすということなので、危ないと思って予防注射を受けたのだ。この帯状疱疹というのは発疹が出てから3日以内に対応できれば悪化することはないと言われているのだが、治療が遅れると激しい痛みが残り、そうなると根治させることが難しいと言われている。外国に旅行中に発疹が出たりすると治療が遅れる可能性があると心配していたのだが、当分、外国に行くこともないだろう。ぼくは去年の夏はイギリスに、その前の夏は中国に行った。そういう旅行をしておいてよかったと思う。さて、プリントのチェックは3章が終わった。1回目のチェックでは1〜2章が弱いと感じたのだが、今回読み返してみるとそういう印象はなかった。うまくいっているという気がした。もちろん今回はかなり赤字を入れて説明を増やしたり無駄をカットしたりしたので読みやすくなっていると思う。3章の妖怪が出てくるところは描写を増やしたのでよくなった。まだ何か足りない気がするので山場のシーンは再度チェックしたい。3章以後はすでにチェックの赤字で真っ赤になっているのだが、そこにさらに赤字を入れていく。入力作業がたいへんだが、チェックが完了したらただちに入力しないと、赤字の記号だけだとどこをどう直せばいいかわからなくなる。いまなら直した時の記憶が残っているので記号や矢印に不備があっても記憶で補えるだろう。次の仕事は7月末締切の『文芸思潮』の100枚なので、できれば6月のあたまからは書き始めたいのだが、入力作業と並行して進めていくことになるかもしれない。

05/24/日
小石川の清水橋まで散歩。このあたりには樋口一葉、宮沢賢治、夏目漱石などが住んでいたらしい。明治から大正にかけての郊外住宅地だったようだ。清水橋を渡ったところの台地には高級住宅地みたいな感じのところがある。一方で菊坂の左右には地の底のような場所がある。高台の高級住宅地と、谷間の貧民街が共存しているところがこのあたりの面白さだ。ひまだからオークスの中継を見ていた。牝馬ががんばって走るところはなかなかいい眺めだ。優勝候補がしっかり勝ちきるところは感動的だった。スペインの長男たちはようやく家族で外出できるようになった。名古屋に引っ越した次男はようやくロックダウンが解除されて次男が名古屋から四日市の勤務先に通えるようになった。それまでは一家で旧居の四日市にいたのだが、いまは名古屋に戻ったようで、市立小学校に次男の次男の登校班の顔合わせがあったそうだ。住んでいる集合住宅に何人か同学年がいるようで、固まって登校することになる。長男は学区のない中学校の新入生ということで全員が初対面ということになるが、次男は学区の小学校に転入するのでうまく融け込めるかが心配だが、風変わりな読書家ではあるが人見知りはしないので何とかなるだろう。ぼく自身は屈折のある人間なので、他人とはうまくつきあえないところがあるのだが、二人の息子は妻に似て人付き合いがうまい。孫たちも皆、とても明るい。ぼくの人生は孫たちによって明るく彩られている気がする。

05/25/月
近所の眼科クリニックに行く。半年一度の検査。とくに目が悪いわけではない。高齢者なのでいずれ緑内障や加齢黄斑変性が進行する。何年か前の人間ドックで注意報が出されたので眼科に通っている。今回も問題なし。年齢相応と言われたので、ある程度の危険領域に近づいているのかもしれないが、治療をするほどではないということだ。というか、この種の目の異常は疫病などではなく加齢によるもので、治療法はないといってもいい。回復はしないが、進行を遅らせる手段はあるらしいということで、半年に一度の検査を受けている。いまのところまだ大丈夫ということなので、とりあえず、ほっとした。歯医者と違って、目医者は善良で、無駄な処置はしないし薬も出さない。まあ、近視で眼鏡やコンタクトを必要とする人が多いので、老人の相手をしなくても商売が成立するということだろう。本日は東大病院の方に行こうと思って湯島の先まで行ったのだが、やや疲労を感じたので東大病院の手前で引き返してきた。細い道を右往左往して遠くまで行ったつもりでいたが、湯島天神のところまですぐに戻ってしまった。昨年の年末、スペインにいる長男一家が3週間ほど滞在した宿泊施設の前を通った。家族6人が泊まれる寝室にリビングとキッチンがついた部屋で、クリスマスの時は長男の嫁さんがディナーを設定してくれた。といっても上野でお総菜を買ってきて並べただけだが。上野の小ホールを借りて家族だけのコンサートを開いたりもした。そんな思い出が遠い昔のように感じられる。これから何年かは気軽に旅行もできないだろう。プリントのチェックは最終の5章に入った。といってもそのあとに半分くらいのサイズの終章がついているので、あと1章半残っているわけだが、山場は通過したという感じをもっている。

05/26/火
散歩に出たのだが小雨が降っていたので駅前の丸善に入って本を1冊買って帰ってきた。『宇宙と宇宙をつなぐ数学』加藤文元著。望月新一という人の「宇宙際タイヒミューラー理論」の解説書とのことで前から気になっていた。読んでわかるかというのは問題ではない。1つの試みが同時代になされるということだけでわくわくする。たとえばデカルトが体を鍛えるために軍隊に入ったもののすぐに疲れて医務室のベッドに横たわり意気消沈しているところにハエが飛んでいるのを見て、x座標とy座標という2つの数直線で座標を作ればハエの飛行軌道が方程式で表現できることに気づいたとか、この種の話が好きなのだ。あとは横軸に実数、縦軸に虚数のグラフを作るとxのn乗が1となる数式の解が円周上に等間隔で並ぶことから17角形(257角形も)が作図できることに気づいたとか、そういう「発見」の物語に興味をもっている。たとえばアインシュタインは友人と喫茶店でお茶を飲んでいた時に、その友人がお茶にどんどん砂糖を入れているのを見て、そのねばねばになった砂糖水の粘度から砂糖分子の大きさが計算できることに気づいたという話も好きだ。それからキャベンディッシュが空気の1%はアルゴンだと発見していながら自分のノートに結論を書いただけで、その後100年間、誰もそのことに気づかなかった話とか、まあ、こういう話は自分でも本に書いているので、それなりに楽しんでいるのだが、この望月教授の新しい理論も、どうやら画期的なものらしい。ところで自分の仕事もやらないといけない。紫式部の生涯を書いているわけだが、後三条帝の後見となった藤原能信と紫式部の接点はすぐには見つからなかったので、草稿ではほとんど能信に触れていなかったのだが、荘園整理によって貴族の世が終わり新たな武士の世が到来するというパラダイムシフトに紫式部が関わっているという架空の物語を書くにあたって、荘園整理を進めた後三条帝と関わりのある能信をちゃんと描いたおかないといけないと数日前に散歩の途中で強く思った。ということで、敦良親王の生後五日目の宴席で十五歳の能信が騒ぎを起こすという話(これは史実)に宴席の責任者の紫式部が関わるということもありうるだろうということでシーンを追加した。ちょうど話の切れ目にあたっているのでプロットの流れをそぐわけではないが、主要登場人物が一人増えるとそれだけ話がややこしくなっていく。登場人物の大半が「藤原さん」という物語なので読者がどこまでついてきてくれるかわからないが、もともと売れそうもないテーマで小説を書いているので、読者の反応はもうどうでもいいというくらいの心境になっている。とにかくノートに2ページほどのメモを書いたのでこれで先に進める。

05/27/水
藤原能信が出てくるところ。1回目の書き込みに続いてもう一箇所を書き込んだ。ここでヒロインが登場することになるが、すごい山場とはいえないものの重要なシーンなのでじっくりと考えたい。散歩は小石川後楽園への往復。よく行く定番コースだ。ドーム球場の前をすぎて小石川後楽園の塀の脇に出ると気温が体感で5度ほど下がる感じがする。やはり樹木があると気温が下がるのだろう。春の終わりらしい気候ではあるが、これ以上暑いとつらという、ぎりぎりのところまで来ている感じがする。

05/28/木
『光と陰の紫式部』と題する作品のパソコン打ち込みによる草稿が完成したのは5月2日で、浜松の仕事場にいる時だった。仕事場にはプリンターがないので東京を出る前に、5章の途中くらいまで打ち込みが終わっていた原稿をプリントして浜松にもっていっていたので、ただちに最初からプリントのチェックを始め、東京に戻った18日に1回目の赤字チェックが終わった。その段階で何かしら不満足な感じが残ったので翌日から、赤字の入ったプリントのままで最初から読み返すことにした。1章と2章が何か物足りない感じだったのだが、読み返してみるといい感じになっていることがわかって安心した。ただ2度目のチェックでかなり赤字が追加されたので、3章以後もじっくりと読み返しているうちに、プリントした用紙に書き込めないほどの赤字が入っていったので、一部は新たに挿入部分をノートにメモするようになった。そういうメモがかなりたまっている。気になっていたところは通過したのであとわずかでゴールだ。本日も小石川後楽園。しっかりと散歩できているが、どうも寝違えたようで首が固まっている。

05/29/金
本日は日本点字図書館の理事会の予定だったのだが、いつも事前に届く書類が来ていないのでメールで確認すると、今回は書面での審議となるとのこと。こちらの郵便物の見落としだったようだ。毎日大量の郵便物が来るので、どこかに紛れたのか、予定表に記入するのを忘れたのか。老人になったせいか、そういうことが時々ある。これはまずい。とにかく本日の予定がなくなったのでいつものように散歩に出ただけ。お昼過ぎにブルーインパルスの飛行があるとのことで、昼食中に空を気にしていたら、東京駅の方に飛んでいく編隊を発見。ぼくの住居は高層住宅なので空がよく見える。編隊を発見したといっても見えるのは飛行機雲だけだが、時々機体が太陽光を反射してキラキラしているのが見えた。荏原病院の上空で右折して、自衛隊病院の方に向かうところがよく見えた。自衛隊病院は昔住んでいた三宿にあり、隣接した三宿病院の人間ドックに通っているので懐かしかった。浜松の仕事場は目の前の浜名湖の対岸が自衛隊の基地で、戦闘機が着陸していくのを見ることがある。着陸寸前なので機体の形がはっきり確認できるほどサイズが大きい感じがする。パラボラアンテナを背負ったへんな飛行機もよく見かける。どうやら自分は飛行機を見るのが好きなようだ。3月ころだったか、国際便の羽田着陸のコースが変わるというので、新宿や渋谷の上空を大型旅客機がテスト飛行するのを、飽きずに見ていたことがある。南風の時はそのコースになるとのことで、そういう飛行機が頻繁に見られるかと期待していたら、コロナのために飛行機そのものが飛ばなくなってしまった。本日はブルーインパルスはその埋め合わせみたいなもので、素晴らしい眺めだった。窓の開かない部屋から見ているので爆音はまったく聞こえなかったが、飛行ルートの下にいた人々はびっくりしただろう。新宿、渋谷に住んでいる人は、国際便が復活すれば騒音に悩まされることになる。気の毒だとは思うが、飛行機を見ると、あ、ヒコーキ、と思ってしまう。さて、その飛行機を見たせいでもないだろうが、集中力が出てきて、散歩に出る前に2度目のプリントチェックが完了した。これでいちおう、第一次の草稿が完了したと考えていいだろう。プリントが真っ赤になっているので赤字の入力にかなりの手間がかかるし、わけがわからなくなっているところや、新たにノートにメモしたところは、入力の段階で多少の書き直しが必要だろうが、とにかく本日で一つの区切りができたと思っている。ということで、本日5月29日に、第一次草稿が完成したとここにメモしておきたい。

05/30/土
昨日、草稿完成、とこのノートに書いたのだが、夜中になっていろいろ考えるうちに、紫式部の娘の大弐三位について、説明があるだけで具体的なシーンとしては登場させていないことが気にかかった。少女時代と、出仕してからと、2つくらいシーンを入れたい。ということで、まだ完成ではない。それでも赤字の入力作業は進めていて、とりあえず第一章が完了。大弐三位が登場するのはもっとあとだ。どこに新たなシーンを挿入するかも検討していて、いちおう話の流れが削がれないようなポイント2箇所に印をつけてある。描写についてはこれからじっくりと考える。本日は散歩の途中で考えごとをしている間に、何となく短いコースで自宅に帰ってしまった。まあ、そういう日があってもいいだろう。昨日の夜に『キングダム』という映画をテレビで放送していて、長沢まさみが好きなのでビデオにとってあった。昨日の夜中にとりあえず見たのだが、本日もう一度、字幕を出せるようにして見直したら話がわかりやすかった。夜中のアニメを時々見ていたのだが、漫画ふうにデフォルメされた人物ではなく、人間が演じている実写映画はさすがにリアリティーがあるし、役者の演技にも工夫があっておもしろかった。

05/31/日
赤字入力は第2章が終わった。ここまでは直しが少ないので何とか進捗しているのだが、ここから先は手間がかかる。新たに追加するシーンはまだ書けていない。先週、オークスを見たので、本日もダービーを見る。どちらも本命が圧勝した。めでたいことだ。馬が一生懸命に走っている姿には胸があつくなる。2位になった馬が悔しそうな歩き方をしているのが印象的だった。さて5月も終わった。まだ『光と陰の紫式部』は完成していない。次のページも同じタイトルの6番目ということになる。6月と7月は『文芸思潮』に連載している『遠き春の日々』という自伝みたいな作品の3回目(最終回)を書かないといけない。久々に締切のある仕事なので早めに書き始めたいのだが、6月に入っても赤字入力の作業が半月くらいはかかりそうだ。8月から何を書くかについてはまだ何も考えてはいないのだが、『柿本人麻呂』では持統女帝と元明女帝という強い女を描き、その勢いで紫式部を書いたので、もう一人くらい強い女を描きたいということから、北条政子の資料を2冊ほど手元に置いている。まだ読んではいない。その他に強い女っていただろうか。待賢門院璋子とか、建春門院滋子なども魅力的だが、何かを達成したという人ではないのでテーマが弱いかな。神功皇后の話が半分くらい書いて投げ出してある原稿もあるのだが、これはいまのところ自分のモチベーションが盛り上がっていない。北条政子を書くだけで半年くらいはかかるので、今年はそれで終わってしまうだろう。その内に何か思いつくかもしれない。



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