光と陰の紫式部03

2020年3月

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03/01/日
2月は短いということを忘れていた。今日から3月。あわてて新しいページを作った。このノートの新しいページを作るという作業は毎月、月末にやることになるのだが、そのつどどうやるのだったかと少し考える。前の月の最後まで書いたところで、書いているメモ帳を通常の上書き保存ではなく、新たな名前をつけて保存することになるのだが(たとえばこのページはgen03という名前)、その時に拡張子をhtmにしないとネットに表示されない。時々間違えてそのま拡張子を変えずに保存してしまうと、ただのメモになってしまう。htmは正しくはHTMLでハイパーテキストマークアップラングィッジでネット表示用の言語ということになるのだが、書いているのはただの日本語だ。改行の時にリターンを押すのではなくタグをつける。それから別のページに飛ぶときの指定をする。これだけの約束ごとでこのページを書いている。もう20年以上そうやって書いているのだが、いまだに時々やり方を忘れてしまう。そのうちこういうものを書くのが面倒になるのかもしれないが、いまのところは毎日書くことが習慣になっている。本日は日曜日だ。東京マラソンの日だが、オリンピックのマラソンが札幌になったし、疫病の流行でオリンピックそのものの開催も危うくなってきたので、もうどうでもいいという感じがしている。ここに引っ越してきて何年にもなるが、淡路町の交差点にまで行けば現場を見られるマラソンのようすを実際に見たことはない。本日も中継を見る気にもなればふつうに10時に起き(日曜はニコライ堂の鐘で起こされる)妻が見ていたので中継のようすは気にしていたのだが、新記録が出そうになったので真剣に見た。1億円もらえるかどうかというぎりぎりのところで頑張る人間を見る機会はめったにない。新記録が出て大迫選手は1億円をゲットした。よかったね。さてこちらは昨日ようやくゲットしたiTunesを使ってパソコンの動画などをiPadに「同期」させた。有料の音楽配信などを利用する習慣はないので、パソコンの中に入っているコンテンツは無料でゲットしたものばかりだ。YouTubeのようなものもいまは合法化されているので問題はないと思われる。いまでもネットにつなげば見られるようなものばかりだが、iPadの中に入れておけばネットがつながらない環境でも見ることができる。この週末は公用はなかったし、月曜からの週にきっしり入っていた予定が軒並みキャンセルになった。オーファン委員会のシンポジウムは実施されることになっているがこれも「無観客」での実施になった。入場料をとる企画ではないので無観客でも損失はないのだが、お客さんがいないといささか張り合いがない。今週はそれだけだ。自分の仕事は『光と陰の紫式部』。いまは第三章の半ば。全体を五章だとするとちょうど全体の半分のところに来ている。12月から書き始めたのでもう3ヵ月だ。そろそろピッチを上げて仕上げないといけない。注文に応じて書いている仕事ではないので締切もない。書き下ろしの仕事はすべてそうで、いくらでも日延べができるのだが、自分なりに計画を立てて完成に漕ぎつけないといけない。『やがて物語は逆転する/物語は4つの顔をもつ』(偕成社)が送られてきた。これは6人の児童文学者の共著。定年退職後に書いた本としては初めての本になる。去年は『文芸思潮』への連載の1回目を書いたのと、昔書いた新書が文庫化されたのが出てだけで、書き下ろしの作品は本にならなかった。いま書いている作品も出版社未定で書き進んでいる。在庫がたまるだけだという気もするが、10冊ぶんくらい書き溜めてから売り込みをするくらいでもいいと思っている。

03/02/月
今日はマッサージの日。いつも早めに行って昔よく飲みにいったあたりを散歩するのだが、本日は雨なので地下道を散歩。ふだんは行かないタカシマヤの方まで歩いてみたがけっこう遠い。ここを通ってタカシマヤに行く人はないのではと思われるのだがけっこう人が通っていた。本日はこのマッサージだけ。午前中に問題を発見。彰子の入内の数日後、女御の宣旨が出た日に中宮定子が男児を産むのだが、何となくすべては内裏の中の出来事と考えていた。しかし違うのだ。まず道長の姉で一条帝の母の詮子が、道長の土御門殿の別邸から一条大路に接した一条院に転居し、それから内裏の火災があって帝が母と同居する。そこに彰子は入内することになる。それから懐妊して定子は、里邸の二条宮も焼失しているので、中宮職大夫の弟の受領の家で出産することになる。但馬守という低い身分の家なので狭小で清少納言はガックリしている。そういう話は断片的に頭の隅には入っていたのだが、時間軸がぶれていた。この状況のもとで、怨霊と陰陽師の壮絶な闘いが始まる。位置関係が狂っていたのでイメージを作り直さないといけない。

03/03/火
夕方秋葉原に散歩。けっこう人がいる。花粉が舞っている。外出する時は必ずマスクをする。花粉を防ぐのが目的なので、使い捨てにせずに何度も使っている。疫病患者のいそうなところには近づかない。ぼくは社会主義者なので、学校を休みにする首相の決断には賛成。豪華客船の客を野放しにしたのは首相のミス。一貫性がないところが問題だ。野外のスポーツ観戦まで中止になるのはいかがないものか。それにしても音楽イベントが軒並みに中止になっている。首相の権限のすごさを、国民が唯々諾々と認めてしまうのは問題だ。相撲を強行開催して天皇をお招きするとか、それぐらいの気概を見せてほしかった。

03/04/水
雨なので本日は終日パソコンに向かっていた。建物の配置が想定と違っていただけでなく、いろいろと説明不足のままで怨霊が登場していた。これでは唐突なので、そこに到る経緯をやや詳しく書くことにした。説明が増えるので展開のテンポが削がれるのだが、あとでプリントして読み返して、必要なら削除したり縮小すればいい。四納言もこのあたりで少しずつ登場させたい。

03/05/木
オーファン委員会のシンポジウム。今年で4年目の文化庁後援の実証事業。例年ならJASRACさんの隣のけやきホールでやるのだが、疫病流行のため無観客での座談会となった。委員長としての開会の挨拶とパネリストとしての発言。必要なことは話した。これで今週の公用は終わり。スケジュールとしては昨日が武蔵野大学の先生方との会食、明日が旺文社コンクール表彰式というのが入っていたが中止。まあ、楽でいい。『紫』はようやく、修正の部分が終わってすでに書いてある領域につながった。やれやれ。来週の文藝家協会理事会も書面回答となったので、明日から6日間の休みとなる。自分の仕事に集中したい。

03/06/金
しばらく公用のない日が続く。パソコンに向かっている。怨霊が出るシーンを里内裏などの位置関係を間違って書いていたので、少し前に戻って修正を加えているうちに、いろいろと書き込みが多く、このまま怨霊のシーンが終わると3章も終わりになりそうだ。この作品は紫式部の晩年に焦点を当てるので、これからが山場になっていくのだが、そこで寂寥感みたいなものをいかに描けるかがポイントになる。出版することは当面考えていないので長くなっていもいいと思っているが、こちらが飽きてしまわないようになるべくコンパクトに語っていきたい。ただ出だしの式神が出てくるところがかなりおもしろいので、このおもしろさを持続できるのかがポイントだ。『人麻呂』では忍者の闘いがあったので最後まで盛り上がりが続いたのだが、紫式部の晩年がどうなるのか、実は何のアイデアもない。源平合戦の遙か前で話としてはおしまいになるのだが、道長の死のあと、摂関政治が衰退していく予兆みたいなものが出せればと思っている。人生の寂寥感というのは、ぼく自身が晩年にさしかかっていることとも関わってくると思うので、これは大事な作品になっていくはずだ。公用がない日は、放っておくと一歩も外に出ないことになってしまうので、散歩に出ることにしている。プリントのチェックなどがある場合は少し離れた喫茶店まで行って仕事をするのだが、いまはパソコンに直接打ち込んでいる。散歩のコースとしては湯島天神往復、水道橋から神保町、三越本店のあたりまで、といったところが多いのだが、飽きてしまった。三宿に住んでいたころは、北沢川、烏山川、蛇崩川といった、もとの川筋が緑道になっているところがいろいろあって、そこを歩いたものだ。もちろん水のある目黒川もあった。このあたりはそういう散歩コースがない。ふと思いついて、丸ノ内線で茗荷谷まで行くことにした。茗荷谷で降りたのは一度きりで、小石川植物園に行ったことがあるが、地上に出ている丸ノ内線に沿った細い道を歩いてみたいと思った。で、歩き始めたら、起伏があっておもしろかった。電車のガードをくぐるところは、井の頭線の駒場東大前のあたりに似ていると思った。スマホの地図などは見ないようにして、西に傾いた太陽の方角を頼りに南東を目指して歩いていくと、江戸川橋の近くに出た。以前、定期的に通っていた凸版印刷のビルがあった。あれは何の会だったか。自分が座長をして、パソコンの文字コードをつけかえる計画を立てていたのだが、挫折してしまった。日本独自の新しい方式を見当するという国策的な企画に乗せられて無駄な試みをしてしまった。それではパソコンに詳しい人々と議論をするのは楽しかった。結果は出なかったが自分にとっては有意義な体験であり思い出も残っている。御茶ノ水に引っ越す前のことで、妻に何度か車で送ってもらった。帰りは江戸川橋か飯田橋まで歩いたものだ。いまはこれから自宅に戻ろうとしている、と考えると不思議な気がした。そこからさらに進むと後楽園に出た。ドームのある遊園地ではなく、昔の庭園の方だ。ここまでくればなじみの散歩コースで、後楽園のわきの遊歩道を通ってドームの前まで行き、そこから水道橋に出ると、40年前にサラリーマンをしていたころの勤め先のあったビルの近くだ。前は通らなかったが、道の向こうにそのビルがいまもあることを確認した。そこからはさらに頻繁に歩く散歩コースで、よくいく喫茶店の前を通って自宅まで戻った。7500歩。少し歩きすぎたかもしれない。

03/07/土
昨日地下鉄に乗ってから散歩したのがいい感じだったので、今日は丸ノ内線で反対に向かおうと思ったが、昨日は4駅目の茗荷谷から歩いたので、今日は4駅目の霞ヶ関かと思ったのだが、霞ヶ関なら千代田線でも行ける。ということで千代田線の霞ヶ関から日比谷公園、皇居前広場を経て、自宅まで帰って来た。全然おもしろくなかった。やっぱり知らない道を歩いた方がスリルがあるし、細い坂道がないと楽しめない。

03/08/日
今日は一昨日と同様、茗荷谷から歩いた。一昨日は通らなかった道を歩いてみたが、途中からは同じ道になった。後楽園のジェットコースターが見えるとそっちには行きたくないので、後楽園の庭園の方に行ってしまった。次回は別のルートを辿りたい。テレビで女子マラソンを見た。一山という選手が圧倒的に強かった。大相撲の無観客試合を見た。プロ野球は無観客でもいいが、相撲は観客の声援がないと盛り上がらない。制限時間がいっぱいになったのも観客の声がないとわからない。夜はチベットのドキュメントを見たのだが考え込んでしまった。こんな山奥まで行って撮影する意味がわからなかった。ただタレントみたいな人物がいない構成はよかったと思う。

03/09/月
本日の散歩。茗荷谷から白山、本郷、東大校内を突っ切って湯島。そこからはいつもの散歩コース。8000歩。やや疲れた。散歩ばかりしているようだが、仕事もしている。第3章がようやく終わった。

03/09/月
今週は週の後半に会議が二つあるだけ。今日も茗荷谷に行ってみた。茗荷谷マニアになりつつある。今日は小石川植物園の方に行ってみた。清水橋という陸橋が道路を跨いでいる。これはいい感じのところだ。そのまま先に進むと東大の前に出た。赤門をくぐって構内に入り、湯島に抜けた。そこから先はいつもの散歩コース。毎日、よく歩いている。

03/10/火
近くの主治医にいっていつもの薬を貰う。今日は血液検査も。この日のために1週間ほど寝酒を控えた。夜食を食べないと3日で1キロ経る。2キロ減らして血液検査。夜は久々に夜食。

03/11/水
妻が大阪に旅立った。疫病流行の最中ではあるが、まあ老いた両親の見舞いは待ったなしだ。こちらは一人きりなので宵の口から一人で酒盛りを始めた。ただしメジャーで計って酒量はコントロールしている。体を壊すと老人は生きていけない。元気で明るい老人になりたいと思っている。本日の散歩は本郷三丁目から菊坂を下った。途中で右手の丘に登ると一昨日渡った清水橋に出た。渡ると小石川の方に行ってしまうので引き返し、東大の北側を回って池の端に出た。疲れたので湯島から千代田線に乗った。

03/12/木
中野坂上の著作権情報センターで理事会。終わってから新宿まで裏道を散歩。けっこう歩けた。都営地下鉄で3駅ぶん歩いたことになる。しばらく妻が不在だが、暴飲暴食をしないように自制している。

03/13/金
国立国会図書館で会議。10時開始で1時間で終了。行きは千代田線の国会議事堂前から歩いたのだが、帰りは皇居の内堀に沿って歩いて帰ることを試みた。桜はまだちらちらという感じ。幼稚園児が走り回っているだけ。堀に沿って公園になっているのでのんびり歩ける。とくに代官町の方に行く道を横断して千鳥ヶ淵の方に行くとランニングの人もいなくなる。九段の坂を下って九段下まで来たところで、地下鉄に乗った。九段下から先はいつもの散歩コースなので歩いても楽しくない。『光と陰の紫式部』は4章に入っている。陰陽師が出てくる話なので動きのある場面を挟んでいく必要がある。

03/14/土
朝から冷たい雨。いやに寒いと思ったら気温は5度だという。エアコンを2つ稼働させる。午後から雪が降り出した。しかも吹雪に近い。散歩は休み。毎日7000歩だからたまに休んでもいいだろう。それでも妻がいないのでコンビニに食料の調達に行く。雨には濡れないがブリッジを渡って隣のビルのファミマまで行った。真冬のような寒風が吹いていた。

03/15/日
スペイン在住の長男からラインで情報が送られてきた。中国や日本で疫病の流行が問題となっていた時期、スペインはカナリア諸島で患者が出ただけで、スペイン本土は安全地帯ということで、対岸の火事といった感じだったが、隣のイタリアで爆発的に感染が広がっているので時間の問題だと心配していた。いままさにスペインは戒厳令状態で、スーパーから物資が消滅してしまっている。そのスーパーの写真が送られてきた。ただ長男は倉庫などのある大邸宅に住んでいるし冷蔵庫は2台もっているので備蓄はたっぷりあるとのこと。彼らは時々、車でアンドラ(消費税がない国)まで行ってトイレットペーパーなどを購入している。ぼくと妻は狭小な集合住宅に住んでいるので備蓄がまったくない。こちらは花粉症なのでマスクがなくなると困るのだが、同じマスクを何回も使ってしのいでいる。老夫婦2人だけの生活なので食欲もそれほどない。長男のところは子どもが4人もいるので備蓄があるか心配していたが、倉庫の備蓄の写真が送られてきて安心した。この疫病がいつまで続くのか。70年生きてきたがこんな事態は初めての経験だ。終戦直後に生まれたので、親からは戦時中の統制経済の話を聞いている。預金引き出し制限の話も聞いている。いまは電子決済の時代だがそんなものは政府の一存で停止できる。やはり物資の備蓄が必要だろうし、多少の現金は用意しておいた方がいいだろう。この疫病は簡単には収まらないだろうと思われる。もっと死亡率が高ければ、保菌者が死に絶えたところでパンデミックは収束するのだが、元気な保菌者がいるのでどこまでも際限もなく広がっていくだろう。これは結核に近い病気ではないか。ぼくは幼稚園のころからツベルクリン反応が陽性だった。結核は陽性でも症状が出ない人が多い。陽転といって、陰性だった人が陽性になった時に発病する恐れがあるので過激な運動は控えるということになっていた。ぼくが小学生だったころは、クラスに二人か三人、陽転の生徒がいて、体育の授業を見学していたものだ。この病もそんな感じて、国民の大半が陽性になった時点で、収束ということになるのではないか。感染した高齢者がどんどん死んでいくことになるが、老人が減るのは仕方がないことというよりも、国家としては働かない高齢者が減った方がよいとも考えられる。死にたくない高齢者は自分で用心するしかない。ぼく自身はまだ元気なので、小説をあと10本くらい書いておきたい気がしている。ただライフワークというものはある程度は書いてしまったという満足感はあるので、ここで死んでもいいというくらいの覚悟はある。早めに感染して元気なうちに抵抗力をつけた方がいいという気もしている。

03/16/月
月曜日らしいが公用がなくなってきたので曜日の感覚がない。風が強い。散歩に出る。けっこう寒いではないか。郵便を出す必要があったので御茶ノ水駅の方に行く。まあ、淡路町の方に行ってもポストはあるし、道を一本渡れば神田の本局もあるのだが、何となく御茶ノ水駅の方に出た。大学の先生をしていたころは通勤に使っていたのだが、定年退職したあとはJRに乗ることがほとんどなくなった。いつも利用していた聖橋口の改札口がそのうち閉鎖になるらしい。丸善の向かい側に臨時改札口ができるようで、少し遠くなるが、すでに完成しているエスカレーターやエレベーターは利用できるようだ。新宿の方に行く時は都営新宿線を使うので、東京駅に行く時くらいしかこの駅を使わない。さて、本日は水道橋まで歩いて、40年前に勤めていた会社が入っているビルの前を通った。ビルはそのままある。最上階に大家さんが入っている個人所有のビルだ。1階と2階に事務所があった。いまは飲み屋になっている。小川町の方に回って、6月のオープンするビルのあたりに行ってみる。このビルができたために皇居の緑が見えなくなった。それでもここにスーパーが入るようで、自宅のある集合住宅に地下にあるスーパーが、競争のため値下げしたり利便性を高めるくふうをするのではと期待している。これまでは近くに競合店がないので殿様商法をやっている感じだった。コンビニで食料を調達する。大阪に行った妻がまだ帰ってこない。いろいろと雑用があるようだ。

03/17/火
今日は火曜日。夕方に散歩。何か茗荷谷が好きになったので散歩のコースができてしまった。小石川植物園から言問通りを越える清水橋、東大構内に入って三四郎池、さらに湯島天神からいつもの散歩コースで聖橋を渡って自宅に戻る。9000歩。このコースはなかなかにいい感じで、交通の激しい道を通らずに済む。とくに清水橋という陸橋は気に入っている。

03/18/水
日本点字図書館理事会。多くの会議が書面決議になっているが、ここは理事の人数が少ないので開催。ここではいつも議長をすることになっているので内職ができない。夜、ようやく妻が帰ってきた。ぼくの自由の期間が終わった。さて、このページをネットで読む人の中にFootballに関心のある人は皆無だろうが、ぼくの日記なので最近の関心事を書いておく。2月のSUPERBOWLが終わっても、各チームは大事な闘いを続けている。契約更改だ。チームと選手はそれぞれに契約を結んでいる。単年契約のこともあるが、たいていは数年の契約を結ぶ。その契約期限が終わった選手は新たな契約を結ぶことになる。成績のよかった選手はギャラのアップを求める。ところがFootballの場合、サラリーキャップというものが設定されている。全選手のギャラの合計金額がここを超えてはいけないという金額が設定されているのだ。これは年ごとに上昇はするのだが、1年をフルに活躍した選手たちは当然のようにギャラの上昇を求めるので、ふつうに対応するとサラリーキャップを超えてしまう。そこでギャラが高すぎる選手は放出することになる。トレードの場合もあるし、単に契約しない場合もある。で、そのトレードが始まっている。最大の話題は昨年のSUPERBOWLの覇者ペイトリオッツのQBブレイディーが放出され、バッカニアーズに移籍することが決まった。そうするとバッカニアーズのQBウィンストンが放出されることになる。18年のシーズンでプレーオフに残ったチャージャーズのベテランQBリバースはコルツに移った。コルツは昨シーズンの開始前にQBのラックという名選手が引退して、シーズンはブリセットという若手で乗り切ったのだが、そのブリセットはどうするのか。タイタンズのQBマリオタは成績不振で途中で控えに回されていたのだが、レイダーズに移籍した。ここにはQBのカーがいるのだが、実力は互角なので競争になるだろう。レッドスキンズの控えQBキーナムがブラウンズに移る。ここでも控えだろう。ぼくにとって最大の関心は、セインツの控えQBブリッジウォーターがパンサーズに移籍したこと。控えではあったがブリーズが怪我で5試合出られなかった時に先発して5戦全勝だった。かつてはバイキングスで大活躍したQBで、怪我で移籍して控えに甘んじていたのだが、パンサーズでは先発として起用されるのではないか。そのパンサーズにはニュートンというQBがいたのだが、怪我で不振に陥った。そのニュートンの動向も注目される。パンサーズはセインツと同じNカンファ南地区だから、ブリーズとブリッジウォーターの対決が見られる上に、ここにはバッカニアーズもいるのでブレイディーの登場する。この地区は突然、激戦地区になった。というようなことで、4月はドラフトもある。各チームの戦力ががらっと変わってしまうので、地区優勝チームの予想をするのが難しくなる。ファンとしてはわくわくするような日々を過ごすことになる。しかしアメリカもコロナの影響で、ドラフト候補の選手をスカウトが訪問することができなくなっている。訪問せずにドラフトが始まってしまうのか、これも注目される。今年のドラフトでは即戦力のQBが少なくとも2人いる。成績のビリのベンガルズはジョー・バロー、ブービーのレッドスキンズはトゥア・タゴバイロアを指名するものと思われる。

03/19/木
SARTRASの理事会は書面会議のはずだったが文化庁の要請で緊急に役員会という形で実施。やや紛糾。必要な発言をしたが本日の会議は収拾がつかなかった。今月中にまた理事会を開くようだ。SARTRASは愛宕神社の近く、森ビルの虎ノ門ヒルズの隣の東洋ビルというところにある。いつも千代田線の霞ヶ関から歩いていたのだが、本日は復路にマッカーサー通りを散歩。ここは終戦直後にアメリカ大使館に向けて太い道路を通すという計画があり、道路予定地に建築制限をかけたまま何十年も放置されていたところだ。幻のマッカーサー通りと呼ばれていた。そのあたりの土地を森ビルが買い占めて、高層ビルの地下に道路を通すことになって道路はすでに通っている。森ビルは周辺の土地も押さえたようで、日本のシャンゼリゼ通りとして整備するらしい。以前、ぼくが理事長をしている日本メンデルスゾーン協会の事務所がこの近くにあり、道路建設の進捗状況はそのつど目にしていた。久し振りにその道路を歩いてみたが、温暖な晴天ということもあって気持がよかった。帰りは都営三田線の内幸町から神保町へ。乗り換えて小川町へ行くのはめんどうなので、地上に出て歩いて自宅に向かう。5000歩。

03/20/金
妻が大阪に戻っていてしばらく車を動かしていなかったので、とりあえず永代橋の先の方に向かった。いつもはその先のスーパーに行くのだが休日で混んでいそうなのでお台場の方に向かった。行ってみると海岸沿いの駐車場が閉鎖されていた。オリンピック対応なのか。そこで去年まで勤めていた武蔵野大学のキャンパスの近くまで戻って、用意していたおにぎりなどを食べた。文学部は武蔵境のキャンパスだが、本部が有明にあるので、学院長との面談やセンターテスト、大学院の入試などでこちらに来る機会も多かった。2年前のセンターテストは実施責任者だったので近くのホテルに泊まり込みだった。いまとなっては懐かしい思い出だ。大学のキャンパスには新しい校舎が完成していた。敷地外にも新校舎の建設が始まっていた。データサイエンス学部という新学部が出来たので校舎を増設したようだ。まあ、とにかく車を動かしたので安心だ。

03/21/土

今日は妻とお花見。都営地下鉄で市谷まで行って、土手沿いの桜を見たあと靖国神社へ。それから武道館の方に回った。桜はまだ三分咲き程度だが、初夏のような暖かさで、明日には満開になるだろう。

03/22/日
道を挟んだところにある神田本局で書留を受け取ったあと、スーパーで酒などを買う。本日は仕事はこれだけ。

03/23/月
すっかり茗荷谷が気に入ったので、この前と同じコースを歩く。東大構内に入るとどこかの学部の卒業式だったようで、角帽にガウンという学生がたむろしていた。到るところに満開の桜があったが、東大病院の前の道路の並木がなかなかの眺めだった。

03/24/火
今日も水道橋のあたりまで軽く散歩。世の中はコロナ騒ぎでたいへんなようだが、老夫婦だけの生活にいまのところ支障はない。スペインにいる長男一家のところは外出禁止令のような状態でどの家庭も引きこもり状態らしいが、子どもが4人もいる家庭なので賑やかだし、スペインでは珍しい庭のある家に住んでいるので子どもは元気みたいだ。ただこの時期、伴奏ピアニストの長男はアンドラで開かれるサキソフォンの国際コンクールで毎年仕事があり、出稼ぎに行っていたのが今年はキャンセルとなり、収入減となったそうだ。ただ本人も嫁さんも州立音楽院の教員なので給料は貰えているとのこと。四日市にいる次男一家は名古屋に引っ越す準備。名古屋大学の附属中学に通う長男のための引っ越しだが、次男も転校することになる。これまでの友人たちとの交流がこのコロナ騒ぎで断たれてしまった。残念だが新天地で新たな友だちを見つけてほしい。父親は名古屋から四日市に通勤することになるのでいろいろとたいへんだろうが、まあ、がんばってほしい。離れたところに家族がいるというのは、心配ではあるが、ただ見守るだけなので楽といえば楽だ。ラインで寄せられる情報をただ見守ることしかできない。『光と陰の紫式部』はもう後半に入っている。リアリズムで描くところとファンタジー的なところがスムーズにつながっているかは、プリントにして読み返さないとわからないが、あとでいくらでも修正できるので、いまはもうラストシーンまで一気に書き進むつもりだ。4月末を草稿完了の目標としている。出版社未定の仕事なので締切があるわけではないが、ずるずると時間がかかってしまうのはよくない。自分が死ぬ時が一つの大きなリミットなので、その地点までに10篇くらいは作品を書き残しておきたい。

03/25/水
妻と花見に行く。昔住んでいた三宿の近くの北沢川緑道。その先は目黒川の桜は有名でたいへんな人出になるのだが、上流の北沢川は住宅地の中にあるのでほとんど人がいない。このあたりは川が暗渠になっていてその上に人工のせせらぎが流れている。そこにぎっしりと桜の樹が並んでいる。こんな素晴らしい花見の名所だが近隣の人しか見に来ない。昔は三宿に住んでいたので毎日のように桜を見に行ったものだ。いまは御茶ノ水に引っ越したので千代田線で下北沢に移行かと思ったのだが、妻が都営地下鉄にタダで乗れるので新宿まで都営地下鉄で行き、小田急の各駅停車で世田谷代田で降りた。そこから緑道の桜並木を歩く。途中のベンチでおにぎりを食べる。旧宅の近くを歩き、街並の変化に驚いたりする。いちばんすごいのは、三宿通りが近くの洗濯屋の前で途切れていたのが、立ち退きが進んで、道の形が見えている。とりあえず淡島通りまでの工事があとわずかという段階になっている。計画ではさらにその先に道路が延び、東北沢まで到達すると、そこから先は笹塚の方向にすでに道路ができていて、中野通りとつながることになる。環状6号と7号の間を通る6・5くらいの重要な道路になるはずだ。このあたりはスーパーが何軒もあって競合している。深夜は不夜城のごとくレストランやスナックが店を開けている。そこに27年間も暮らしていて、なじみの編集者と徹夜で飲んだものだが、もはや人と酒を飲む気力はなくなった。人生の黄昏にさしかかっていて、先に希望といったものはない。ただ作品の構想がいくつもあるので死ぬまでは書き続けたいと思っている。

03/26/木
本日の散歩は本郷菊坂。1時間歩いただけだが9000歩になった。明日は会議の予定だったが中止。持参するつもりの書類が1点あったので郵送する。そのためポストまで歩いていったので500歩ほど追加。これは老人にとっては歩きすぎだ。このところ会議が中止になってパソコンに向かう時間が長く、腰が少し痛んでいる。歩いている時はまったく問題ないのだが、椅子から立ち上がった時に腰に張りがある感じだ。まあ、この種の状態には慣れている。時間が解決するはずだ。

03/27/金
本日はSARTRASの会議の予定だったが中止となった。日本にも戒厳令の日が近づいているのか。長男のいるスペインはすでに完全封鎖の状態になっている。スーパーは開いていて、運転手が一人で買い物に行くのはOKだが同乗者は認められないとのこと。長男はアンドラへの出稼ぎができなくなっただけでなく、公務員の給料が減額になったと連絡してきた。夫婦ともに公立の音楽院の先生なので、二人とも給料が減額になるらしい。これは大きなダメージだ。次男は四日市の企業に勤める研究者なのでいまのところ実害はないが、次男の長男の通学の関係で引っ越しすることになった。ところが引っ越し業者に頼むことはできないとのこと。会社の規定で、引っ越し業者と密度の高い接触をした社員は一定期間は出社できなくなるとのこと。次男は研究職で会社の設備を使わないと仕事ができないのでテレワークはできない。ということで、自分の車で少しずつ荷物を運ぶことになる。まあ、たいへんだが乗り切るしかない。ぼくと老妻の生活にはまったく変化はない。とはいえ講演会や大学のカルチャーでの講義が中止となったので、臨時収入がなくなってしまった。それに会議が中止になったのでパソコンの前に座る時間が長くなり腰が少し張っている。今日も散歩に出た。いつもと逆のコースで湯島天神から東大の三四郎池、それから清水橋の方へ行くつもりが、三四郎池を過ぎたところで考え事をしているうちに北門の方に出てしまい、えらい遠回りになってしまった。そのため万歩計を見ると9980歩だった。あと20歩なので自宅の中でしばらくスマホをポケットに入れていたので1万歩を突破した。これは老人にとっては歩きすぎだ。明日の散歩は短めにしないといけない。『光と陰の紫式部』はついに紫式部と清少納言が対決。二人とも陰陽師という設定なので式神同士が大決戦となりそうだったが、そんなスペクタルを書くのが主旨ではないので短めに切り上げた。これで4章の山場が終わり、最終章に移行することになるのが、その前に彰子の出産までは書いておきたい。そのあたりからは紫式部日記に記録が残っているので、史実から大幅に外れることはできない。なるべくコンパクトに語っていくことにしたい。

03/28/土
スペインの長男から随時ラインで報告が入る。スペインでは来週からほとんどの企業が経済活動を停止することになった。従業員はすべて一時解雇となり、失業保険で70%の収入を補填するのだという。長男と嫁さんは公務員なのですでに減給が決まっている。すでにイタリアも同様の措置がとられている。それに比べれば日本の規制は緩い。これで大丈夫かと不安になる。本日は水道橋まで往復の散歩。いつも水道橋までの散歩の時は後半は神保町の方に回るのだが、本日は外堀の向こう側の道を進んで、帰りは線路沿いの道をたどる。これだと約4000歩。老人にはちょうどよい距離だ。

03/29/日
朝からすごい雪。大手町のビルがまったく見えない。3時ごろまで降っていたが積もりはしなかった。ただビルの隙間から見える東御苑の音楽堂の屋根が白くなっていた。『光と陰の紫式部』4章完了。このノートはまだ3巻だが、その少し前からノートは書き始めていた。まあ、いいペースでここまで来たと思っている。

03/30/月
さまざまな行事がほぼキャンセルとなっているので、毎日、散歩に出るしか外出の機会がないが、散歩をしないと体がもたないので、散歩を仕事だと考えて外出している。本日は大手町の方に歩いていき、鎌倉橋の先の運河に沿ってJRの方に進むと、歩行者だけの立派な橋があった。このあたりは昔は国際便の郵便局があって、何度かスペインの長男に荷物を送りに来たことがある。昔のことだ。最近はスペインの関税が厳しくなって荷物を勝手に開封されるようになったし、日本食関連の食品や調味料はスペインで調達できるようになったので、荷物を送らなくなった。いつの間にか郵便局そのものがなくなっている。さて、『紫』は5章に入るのだが、ここで時間を飛ばして、いきなり紫式部日記の記述に沿って進めることにする。本人の日記が残っているのであまりフィクションをもちこむことがためらわれる。それに5章を最終章と考えるのでここからはエピローグふうの文体にしてコンパクトに語っていくことになる。半分くらいのところで道長の死をもってくることになるか。道長が死んでも紫式部は生きているのでまだ話は続いていく。

03/31/火
今日は水道橋往復。桜陰高校のあたりを通った。このあたりは台地から急坂を降りて水道橋に向かう。なかなかいい感じの坂だ。さて、今月も終わった。疫病のために世の中が死んでいる感じだ。去年の3月まで勤めていた大学のホームページを見ると、新年度の1学期はすべてネット授業になるとのこと。退職していてよかった。自宅のパソコンにネット授業のパフォーマンスをもちこむのはめんどうだ。昔、スペインの孫たちとテレビ電話みたいなものを試みたことがあるが、めんどうなのですぐに止めてしまった。とにかく自宅でカメラの前で授業をするなどということは、やってはいられない。ギャグを言っても誰も笑ってくれない。そんな環境でクリエイティブな授業はできないよ。昔、早稲田の先生をしていた最後の方で、休講した場合はビデオ撮影のスタジオに出向いて、カメラの前で90分の補講をするようにという通達があった。そんなことはやっていられないので、一回も休まずに授業をやった。とにかく退職していてよかった。文藝家協会の会議も、SARTRASの会議も、いまはストップしている。今月は国会図書館と日本点字図書館の会議、それてSARTRASで1回緊急会議をやっただけか。オーファン委員会のパネルディスカッションというのもあった気がするが、月の後半はまったくスケジュールが空白になった。それも何だか寂しい感じがする。4月になってもこの状態は変わらないだろう。


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