「悪霊」創作ノート7

2011年9月

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09/01
午後は雨が降りそうなので午前中に北沢川緑道を散歩。高原に避暑に行っていたので東京は暑い。ちょっと歩いただけで汗が流れる。高原の散歩は快適だった。1時間先に到着する目標地点で目で見えていた。しかし高原には何もなかった。北沢川の周囲にはスーパーがある。高知牛乳2本買った。まだ放射能には気をつけている。高知牛乳を信頼している。夕方、女子サッカーを見る。タイ相手に苦戦。主力選手を温存したため。後半に宮間をいれると、がらったムードが変わった。一人の選手のもつ力の大きさを感じた。避暑に行っていた3日間に大量のメモを書いた。これを入力する作業をしているが、まだ集中力が出ない。高原の涼しさに体が慣れてしまって、高温と湿度に気持が萎えている。

09/02
台風の接近で一日中雨の予報だったのに起きてみるとかんかん照りだ。どうなっているのだ。湿度はとれたが暑い。とにかくメモを入力する作業を続ける。ここではピョートルの過去が語られる。ここが終わると、作品は後半戦に入る。4月に担当編集者と会って構想を話して以後、一度も報告をしていない。スイスを舞台にした部分が終わったところで中間報告したい。コメントは「やっと半分を越えました」ということになるだろう。まだ先は長い。夜は昨日に続きサッカーを見る。今度は男子。Wカップ最終予選。とにかく勝って先に進むしかないのだが、緒戦の北朝鮮とのホームゲーム。相手の固い守備に阻まれてロスタイムまでスコアレス。最後はアジアカップのヨルダン戦と同じようにバックス吉田の奇跡的なゴールで勝利した。北朝鮮の守備がよかった。人数をかけて守られれば点の入らないこともある。それでも1点をもぎとったのだから力があるといってもいいが、運もよかったのだろう。サッカーを見ながらメモをとる。ニコライが恐ろしいことを言う。実はこれと同じことを『帰郷』の中でも書いている。『帰郷』というのは30歳代の頃に『文芸』に連載して3000枚のところで中断した長篇だ。3000枚書いて完成しなかったので自分では失敗作だと思っている。明らかに『悪霊』のニコライを模倣した主人公を日本に設定したのだが、時代の流れがこの主人公を受け容れないのではという気がして、書き続ける気力が失せた。今回はドストエフスキーの原典の書き直しということで、もう一度、同じことを試みている。これは重要なことだ。結局、書きたかったことを書けるような設定にして書いているということだ。

09/03
土曜日。台風は高知に上陸したようだ。今日もサッカーをやっている。毎日サッカーがあるというのもめずらしい。このサッカーが終わる頃には、アメリカンフットボールのシーズンがやってくる。スーパーボウルの前にはこの作品を仕上げてしまいたい。

09/04
日曜日。三軒茶屋に散歩に行ったら夕立。仕方がないので西友で雨宿り。この西友はわたしが三宿に引っ越した頃(25年前)は小さなデパートといった感じだったのだが、ウォールマートに買収されてからはスーパーになってしまった。以前あったセンスのいい書籍売り場もなくなってしまい、雨宿りといっても見るものもない。それでもうろうろしていたら830円のマウスがあったので思わず買ってしまった。仕事はノートパソコンを膝に抱いているのでマウスは不要なのだが、大学の研究室で仕事をする時にマウスを使うと、ソリティアをする時にマウスがあると腕が疲れないことに気づいた(なぜそうなのか詳細は省く)。いまはクーラーを入れる時期なのでダイニングテーブルで仕事をしているのでマウスが仕える。で、この830円のマウス、けっこう使いやすい。もっと早く使えばよかった。

09/05
文藝家協会理事会。ようやく公用が始まった。まだ大学が始まっていないのでスケジュールには余裕がある。その間に中篇(第2部)を終えてしまいたい。

09/06
芝居を見に行く。井上ひさしの『キネマの天地』。商業演劇として書かれたものの25年ぶりの再演だが、この戯曲を商業演劇でやっても面白くないだろう。今回は演出家が選んだベストメンバーみたいな配役で充実していた。終わって楽屋まで三田和代さんを迎えに行き、自宅に送り届ける。元気そうだった。昨日が初日だが、明日は昼夜2回公演とのこと。台詞の多い芝居なので疲れるだろう。

09/07
大学がまだ休みなのでスケジュールに余裕がある。本日は何もスケジュールが入っていない。ひまなのでどうでもいいことを考えてみよう。
その1。女子サッカーでオーストラリアが生き残る可能性について(ほんとにどうでもいいことだが)。これは実は日本にも関わってくる問題である。まずいまの時点でオーストラリアは1勝2敗。残りの2戦で2勝しないといけないことは明らかだ。これで3勝2敗になり勝ち点は3。対戦相手は韓国と中国。すでに望みを断たれている韓国に勝つのは当然として、中国に勝つことに意味がある。北朝鮮はすでに2勝1引き分けで勝ち点7で、しかもタイ戦を残しているので、日本に負けたとしても3勝1引き分けで勝ち点10となり、オーストラリアを上回る。しかし日本は3勝しているとはいえ、残り試合は北朝鮮と中国なので連敗の可能性がある。それでやっと、勝ち点9に並ぶので得失点差が問題となる。中国はどうか。日本が連敗するという想定では、中国は日本に勝つことになるので、2勝2引き分けで勝ち点は8。だからオーストラリアが中国に勝っておけば勝ち点で上回ることになる。ということは、オーストラリアには2位通過の可能性がわずかに残っているようだが、実は大変に難しい状況である。なぜか。明日、オーストラリアが中国に勝ってしまうと、その時点で中国は、最終戦で日本に勝っても日本を上回ることができなくなる。するとモチベーションがなくなることは間違いない。だがその前に、日本が北朝鮮に勝つか引き分ければ、オーストラリアにはその時点で脱落が決まる。そう考えると、オーストラリアは中国戦に対してモチベーションが最初からないということになる。結果として、中国はオーストラリアに勝つ。これで中国の勝ち点は8になる。中国にはまだチャンスがある。日本が北朝鮮に負けた場合、勝ち点は9のままなので、最終戦で日本に勝てば逆転できる。引き分けならどうか。日本の勝ち点は11となるので、最後に日本に勝てば逆転できる。日本が北朝鮮に勝った場合はどうか。北朝鮮の勝ち点は最後にタイに買ったとしても10となるので、中国は日本に勝てば逆転できる。この想定では日本はすでに1位通過が決まっているのでモチベーションが下がっているかもしれない。だから中国にはまだチャンスがあるということになる。こうした考察によって結論として言えることは、日本は北朝鮮に勝っておかないと、本気の中国とアウェイで最終戦を闘わなくてはならないということだ。
その2。タバコの増税について。これは賛成。わたしはタバコを吸わないからということもあるが、喫煙者の疾病率が明らかに高いという現状を見れば、医療保険を支えるためにも喫煙者を減らす必要がある。どうしても吸いたいという人には、税金を余分に払って、そのぶんを医療保険の支えに回せばいい。タバコの価格を千円以上にしておけば、若者たちがタバコに手を出さなくなるだろう。ただし、タバコというものには中毒性がある。最近の研究ではニコチンを摂取すると脳の回路が変化して、食欲や性欲が抑制される。タバコを急にやめると、欲望が高まっていらいらすることになる。若者が最初からタバコに手を出さなくなるというのはとてもいいことだが、貧乏な老人がいらいらするというのは、社会不安を引き起こすことになるだろう。微量のニコチンが入った医薬品を普及させて、段階的にニコチン中毒から脱出できるようなシステムを構築する必要があるだろう。

09/08
初台の著作権情報センターで著作権と言論の自由委員会。いつものメンバーで雑談をする。まあ、弁護士の方が多いので勉強になる。帰ってテレビを見る。女子サッカー。押されっぱなし。疲労がピークに来ているようだ。せっかく相手のオウンゴールで得点したのにロスタイムで失点。引き分けの結果は残念だが、負けていてもおかしくない試合だった。この勝ち点1でオーストラリアに抜かれる可能性がなくなった。それでオーストラリアのモチベーションが下がるのではと心配したのだが、実はオーストラリアにもまだ可能性がある。残りを全勝して勝ち点9になれば、北朝鮮がタイに負けるか引き分けの場合に2位になる可能性がある。ということで、午後8時からのオーストラリアと中国の試合を見たが、出だしは中国の圧倒的優位で、このまま中国が圧勝すれば明日の日本戦もその勢いと観客の応援で押し切るのではないかと思われた。しかし中国選手の観客の元気は長くは続かなかった。結局、地力にまさるオーストラリアが勝って日本のオリンピック出場が決まった。さて、自分の仕事。委員会に早く着いたので始まる前に少しノート。サッカーを見ながらさらにメモを増やした。いまはパリが舞台。ここはストーリーを展開するところなので深い対話はないのだが、女性がたくさん出てきて華やかなところなので、流れを活かしながら展開したい。小説の面白さはこういうところにある。

09/09
わりとヒマなのは今週まで。来週から少しハードになる。本日は公用なし。そのまま終末になる。わたしには休みがない。公用がないということは自分の仕事に集中できるということ。女性たちがたくさん出てくるシーンを書いているので楽しい。それなら女性ばかり出てくる話を書けばいいようなものだが、そういうわけにもいかない。深刻な哲学議論ばかりしている作品の中に、ほっとする場面を入れるといったコンセプトでここのところを書いている。舞台はパリ。パリへは何回か行ったことがあるので土地勘がある。いちばん楽しかったのは息子二人とブリュッセルから新幹線みたいな列車で行った時。ブリッセルに留学していた長男はフランス語が話せるので、何の心配もなく街歩きができた。子どもというのは育てるのは大変だが、大学生くらいになった子どもと街を歩いたり酒を飲んだりするのは楽しかった。が、それもつかのま。二人の息子はそれぞれに仕事をもち、家庭ももっていまは独立している。わたしの友人の中にはいまだに子どもがパラサイト状態だと嘆く人もいるが、少しうらやましい気もする。
このところ毎日サッカーという感じだったが、女子サッカーのオリンピック出場も決まって一段落となった。と思ったらついにフットボールのシーズンが始まった。開幕戦はパッカーズ対セインツ。今年のスーパーボウル覇者と、去年の覇者の対戦だ。立ち上がり、セインツは立て続けにミスが出て、ホームのパッカーズが得点を重ねた。まあオープン戦だからミスが出るのは仕方がない。両チームともオフェンスはいい感じに仕上がっている。優勝候補だ。今シーズンの展開について、わたしは何の情報も得てはいないのだが、とりあえず注目しているチームを挙げておく。マニング兄が負傷したと伝えられるコルツが心配だが、マニング弟のジャイアンツは注目したい。スーパーボウルで負けたスティーラーズと、去年の覇者セインツ、それから補強がうまくいったと伝えられるイーグルスも注目だ。何となくチーム名が好きなベンガルズにも頑張ってほしい。これくらいのチームが各地区で上位をキープしていくと楽しくなる。というようなことを書いていても、フットボールに興味のない人には何のことかわからないだろう。わたしがフットボールに熱中するのは、日本のプロ野球のことを忘れたいからだ。野球は面白くない。女子サッカーは面白い。勝つからだね。わたしは巨人ファンだが、負ける巨人は嫌いだ。そこが阪神ファンと違うところだ。

09/10
土曜日。パリを舞台にした部分が終わった。あともう一度スイスに戻って短い章がある。それで中篇(第二部)が終わる。全体の三分の二のところまで来たかなという感じがする。

09/11
日曜日。アメリカの同時多発テロから10年、東北の震災から半年。どちらも直接に関係していたわけではない。ただ世界と日本にとって大きな出来事であったから、じわじわと自分にも関わってきた。10年前はまだ長男がブリュッセルに留学していて、テロの余波でベルギーサベナ航空がつぶれて、予約していた便に乗れなくなった。いつも使う安売りチケットだとアウトだったかもしれないが、文化庁が発給してくれた正規料金のチケットだったので、日航のアムステルダム発の便に変更してくれた。ブリュッセルからアムステルダムの空港までは無料のバスが出ているということで、そのバスの乗り場をネットで調べて長男にメールで伝えた。以上が同時多発テロに関してわたしが受けた影響。震災の方は、永田町の地下鉄出口で直接に揺れを体験し、その後の物資の不足(コンビニから弁当とパンと水が消えた)と電力不足を体験したが、大学の授業が短くなるという、ラッキーなこともあった。ちょうど震災の直後に、怪しい腫瘍の摘出のために入院したので、入院中に余震でベッドが揺れたことを除いては、震災のことは視野になかった。自分の命の方が大切だ。その病院のベッドで『悪霊』の原典を読み返していた。それから現在まで『悪霊』と関わっているので、わたしの頭の中では『悪霊』の世界の方が現実的だ。大学の先生をしているので今シーズンも新たな学生との出会いがあったし、妻が孫2人をつれてスペインに行ったりしたので(わたしは行かなかった)、スペイン3人娘や日本男児2人の孫たちのことを考えることもあったが、全体として『悪霊』の世界にどっぷりとひたりきっている。わたしにとっては『悪霊』がテロであり津波のようなものだ。テロも津波も失われた命は帰らないが土地は復興するだろう。ただ原発の問題は永遠に続く。放射性物質のセシウムやストロンチウムは、ゼロにはならない。30年経ってやっと半分になる。チェルノブイリの強制避難の人々はいまだに帰還が許されていない。そのロシアの強制避難の基準でいえば、福島県民は全員が避難しなければならない。避難せずに多くの人々がそのまま居住している。早急に除染しなければならないが政府の対応は遅れている。それでも半年経って、地域の住民が率先して除染の作業を進めるようになった。これはすごいことだ。希望がもてる。ただ山間部に降り積もった粉塵を除去するのは事実上不可能なので、今後数十年、影響は出続けるだろう。その意味で、どこかの不見識な大臣が言ったことは、実は正しい。本来、福島県全域は死の街にすべきなのかもしれない。福島県に行って埃を浴びた人は、新幹線に乗る前に体をハタキで叩いて埃を落とすべきなのだ。こういう言い方をするからといって福島県民を差別しているわけではない。事実を認めて対策を考えないといけないということだ。500ベクレルという政府の食料品の安全基準は犯罪的なもので、せいぜい5〜10くらいに設定すべきだと多くの識者が指摘している。いまの安全基準で合格したものは、400ベクレルくらいの放射能をもっているかもしれないのだから、そういう安全だと称するものを子どもや若い女性に与えるのは犯罪だといっていい。安全だといわれるものを産地を見て敬遠する人がいても、それは風評被害ではない。わたしは老人だから平気でサンマ(北海道のものも危ないといわれている)などを食べているが、子どもと、これから妊娠する可能性のある若い女性は、大いに風評を気にかけなければならない。ただし、500くらいに安全基準を設けないと、日本人の食べるものがなくなってしまうというのが政府の考えだろう。食料が足りなくなれば輸入するしかないとわたしは考える。それこそが緊急の処置というべきだろう。田畑を除染すれば安全な食料はいずれ確保できる。そういう希望があるのだから、緊急事態だといって給食で子どもに放射性物質を食べさせるようなことがあってはならないと思う。以上が震災から半年のわたしの感想であるが、わたしのようなマイナーな作家が何かを言っても仕方がないので、とりあえずはあとしばらく、『悪霊』の世界にひたることにしよう。

09/12
久しぶりに大学。やたらと長い会議に出席。その後、自分の部屋でフットボールの結果をチェック。マニング兄が負傷欠場のコルツは惨敗。ロスリスバーガーが健在のはずのスティーラーズがなぜか負けている。ビックのイーグルスは快勝。わたしの勘では今シーズンはベンガルズと49ナーズがダークホースではないか。気がついたら研究室のフロアに誰もいなくなっていた。夕方6時から宴会だったのだ。あわててバスに乗る。ビアホールに着くとちょうどジョッキが配られたところだった。わたしのぶんも注文してあった。二次会にも参加。この大学ではかつて土岐善麿が教えていたのだが、土岐先生は94歳まで教鞭をとっておられたそうだ。何だか励まされたような気分になった。

09/13
集英社の担当者来訪。『実存と構造』の見本届く。『マルクスの逆襲』に続く2冊目の集英社新書。これは実存主義や構造主義の解説書ではない。いっしゅの文学論だが、いかに生きるべきかの指針となる思考モデルを、文学作品を例にとりつつ示したもので、いわば人生の指南書のようなものだ。実存主義と構造主義を対比しながら、この二つの思想が表裏一体のものであることを、わかりやすく展開している。まあ、わかりやすい本になっていると思う。

09/14
本日は歯医者に行っただけ。『悪霊』はリーザの心情を表現するところで少し停滞していたのだが、うまく突破できた。このリーザという女性は原典では充分に描かれていない。しかし彼女は作品の途中で暴動に巻き込まれて死んでしまう。なぜ彼女が死ななければならないのか、原典をいくら読んでもわからない。このあたりが、『悪霊』という作品があまり人気がない原因ではないかと思われる。確かにこの作品は男たちの抗争を描いたもので、女性の出番は少ないし、『罪と罰』のソーニャやドゥーニャ、『白痴』のナスターシャとアグラーヤ、『罪と罰』のグリューシェンカのような魅力的な女性が出てこない。この点を少し補強したいと思って、ダーシャ、マリーについてはかなり書き込んだつもりだ。自殺する少女マトリョーシャもかなり書き込んだし、まったくの通りすがりの脇役なのだが、バクーニンのそばにいる少女(実在の女性革命家がモデル)も印象的になるように書き込んだ。そんなふうに女性陣を強化しているので、ヒロインであるはずのリーザをちゃんと描かないといけない。まあ、いい感じで描けたと思う。

09/15
ペンクラブ理事会。自分の仕事も少し。しばらく主人公のキリーロフが出てこないのでこのあたりで出しておきたい。

09/16
日本点字図書館で本間賞の選考。暑いので妻に車で送ってもらったが、選考がすんなり決まったので電車で帰ったら、妻がまだ戻っていなかった。デパートでも行ったのだろう。さて、『男が泣ける唄(仮題)』のゲラが昨日届いた。『悪霊』の第2部の終わりに差しかかっているのでこれを書き終えてからと思ったが、ゲラのことを気にかけていると集中力がなくなるおそれがあるので、本日からゲラに取り組むことにした。この本はわたしの好きな「泣ける歌」を集めてエッセーにしたもので、原稿の枚数は多くないが、挿入されている楽譜もわたしが校正しないといけないのだろうか。たぶんそうだろうね。どうすれば校正できるのか。実際に歌ってみるだけでは音符の間違いはチェックできないだろう。ギターかピアノのメロディーを弾いてみるしかない。けっこう大変だ。
ということでゲラに取り組んだのだが、短く情緒的な文章なので集中力が必要だ。一章だけで疲れてしまった。全部で六章なので、毎日一章ずつやればいいだろう。楽譜のまちがいもあるので、これは別に集中的に対処したい。

09/17
土曜日。長男の誕生日だが、まあ、どうでもいい。スペインにメールを送る。長男が生まれた時、わたしは玩具業界誌の編集記者で、要するにサラリーマンだった。それから38年経ったのだと思う(息子が38歳になったので)。38年という年月が何なのかよくわからないが。『悪霊』中篇のエンディングがなかなか完了しない。ゲラの方は2章をやり始めたのだが、気になることがあって昨日見た1章の楽譜で試しに歌ってみたら、楽譜の間違いが思っていたより多いことに気づいた。これはちゃんと見ないといけない。

09/18
日曜日。暑い。しかしテレビで「宇宙の渚」というのを夕方に放送するというので、まだ陽の高いうちに散歩。テレビそのものは、まあ、大した映像ではなかったが、雷が下に落ちるだけでなく宇宙に向けて電子を放出しているさまを映像でとらえていたのは、初めて見るものだったし、想定外のものだった。ゲラは3章まで。『悪霊』は主人公のキリーロフが久々に出てくる。これが終われば第2部が完了する。

09/19
月曜日だが祝日。何の日か知らない。まだ暑い。温度計が30度になったところでエアコンを入れる。夕方、散歩のために外に出ると急に涼しくなっていた。ケータイで妻に電話してエアコンを止め窓を開けるように言う。わたしの自宅は丘の上にあり風通しがいい。散歩は坂を下った昔の北沢川の上に造った人工の緑道をたどる。そのあたりは風が通らないはずなのだが、けっこう涼しい。『悪霊』はいよいよ第2部の終わりなのだが、ここは急がずにじっくり書きたい。ゲラは4章。とにかくこの本は文章に密度があるので校正にも集中力が必要だ。急に涼しくなったので、部屋を閉め切った上で、3章と4章の楽譜をチェック。ギターを弾きながら歌ってみる。楽譜の間違いがかなり多い。こちらの指定ミスもあるし、もともと参考にした楽譜のコードが間違っていると感じられるものもある。自分が覚えているメロディーと楽譜に微妙な差異がある場合もある。幸いなことに、いまはユーチューブがあるから、音を聞いて確認することができる。えらい手間がかかるが、仕方がない。男が歌うというコンセプトなので、女性の歌を一部、わたしが移調している。これが楽譜の版下を作る人に伝わるかといった、かなりいい加減な指示だったのだが、思ったより間違いは少ない。それでも間違いがあるのは、人間のやることだから仕方がないし、もともとの楽譜が間違っていることもある。楽譜の修正とか校正とかは、初めての体験だ。こんなに苦労して、わたしも版元もほとんど利益が出ない仕事だ。儲けるのはジャスラックなのだが、この本はわたしの音楽に対するオマージュのようなものなので、作詞家、作曲家の方々に、少しでもわたしの思いと、売り上げの一部が届けばいいと思っている。夜中、ファルコンズ対イーグルスの試合を見ながら、『悪霊』第2部の最後のところ。ここはかなり長くなる。ダーシャとキリーロフという、わたしの新釈バージョンの主役コンビが、この第2部の最後の場面で見せ場を作る。このことによって、わたしの書き換えバージョンが、ドストエフスキーの原典とまったく違う領域に踏み込んでいることを読者に伝えたいのだが……。まあ、伝わらないだろうなと思いながら書いている。
どうでもいいことだが、愛知県の花火大会で福島県産の花火が市民からの苦情で打ち上げられなかったことについて。わたしの考えを示しておく。これは京都の大文字と同様で、放射能で汚染された材木や花火を燃焼させると、放射性物質が飛び散るのではないかという懸念だ。これについてどこかの大学教授が「安全である」とコメントしているが、これには明らかに根拠はない。花火は食品ではない。花火を直接に食べる人はいないから、内部被曝はない。ただ花火はただの炭の粉ではない。燃焼の促進するために窒素酸化物が火薬として入っているし、さまざまな色を発生させるために金属が入っている。これらが汚染されていた場合、窒素酸化物や金属の酸化物が地上に降ってくる。これが土壌を汚染したり、粉塵となって人の肺に入るということも考えられた。だから、安全だということに根拠はまったくない。そのことを認めた上で、花火くらいいいじゃないか!。これがわたしの意見である。放射能が怖くて花火が見られるか。もともとすべての金属や、窒素やイオウは、有害物質なのだ。花火は有害物質の塊なのだ。多少の放射能が追加されていても、そんなものは微々たる危険にすぎない。楽しいものには多少の危険はつきまとう。花火のためなら、放射能の危険は無視していい。わたしはそう思う。

09/20
文藝家協会で学習塾関係者と協議。必要なことは説明できた。本日も昨日に引き続き涼しい。天気予報は猛暑が続くと言っていたのだが、午後になっても気温は上がらない。けっこうなことだが、台風が近づいているらしい。わたしは明日は歯医者に行くだけ。明後日の大学が休みにならないかと密かに期待していたのだが、明日の夜中に通り過ぎていくようだ。

09/21
本日は歯医者だけ。台風接近の豪雨の中を歯医者に行く。終わって外に出ると急に空気が温んでいた。おい、また夏に逆戻りかよ。「泣ける歌」のゲラは文章については完了したが、楽譜の間違いが多いので、実際に演奏して確認しないといけない。参考にしている楽譜にも間違いがある。いまはユーチューブがあるのでたいていの曲は原典を聞いて確認できる。歌手が楽譜どおりに歌っていないこともあるだろうが、いいかげんな歌手もレコードの録音の時はまじめに歌っているはずなので、確認したい。台風は浜松から宇都宮と餃子で有名な街を貫いたようだが、東京でもかなり風が吹いた。田園都市線は早い段階でストップしていたが、夕方には首都圏のすべての電車が止まってしまった。こちらは徒歩で行ける歯医者に出かけただけなので支障はなかった。台風のコースに近い仕事場が心配。

09/22
ついに大学が始まった。M大学。客員教授として2年通い、専任になって半年を終えた。まあ、かなら慣れているとはいえ、長い夏休みの期間は自分が大学の先生であることを忘れている。本日、大学に出向いて教壇に立つと、何だか勝手が違う。あれ、先生ってどうやればいいのだったか、と戸惑うことになる。新しい教室だと、機材の使い方がわからず戸惑うことになる。ワイヤレスマイクが定位置になくて電池が切れていたこともあって、有線マイクをひっぱりだしたりして、初期設定に時間がかかった。しかししゃべり始めると、たちまちしゃべる機械になって語ることができる。二十年も大学の先生をやっていれば、何も考えなくても言葉が出てくる。しかし講義というものは一回ごとのパフォーマンスで、そのつど出来不出来があるところが面白い。今日は後期の一回目で、戸惑いはあったが精神が高揚していたので、いい出来ではなかったかと思う。台風一過、自宅から大学まではピーカン晴れが夏が戻ってきたかという暑さだったが、午後は一転、曇天になり雨が降り始めた。どうやら寒冷前線が通過したようで、湿気はあるが快適な涼しさになった。これで夏が終わったといえるのだろうか。ありがたいことだ。今年の夏も暑かった。その暑い夏の期間、よくがんばってきたと思う。『悪霊』は前史が終わる。『カラマーゾフの兄弟』は、後篇を書けばいいのだが、『悪霊』の場合は全篇を書けばいい。これがドストエフスキー評論シリーズの狙いだった。その前史は終わろうとしている。あとは原典を圧縮してつなぐだけでが、そこからがお楽しみ。結末を大胆に変える。ドストエフスキーそのままでまとめたのでは面白くない。ドストエフスキーも「想定外」の変換をすることによって、ドストエフスキーの作品は21世紀によみがえることになる。

09/23
金曜日だが祝日。三宿神社のお祭りに出向く。小さな神社だが店も出ていてけっこう賑わっている。ゲラを送付。楽譜の間違いがかなりあったので、まだあるのではと心配だが、どこかで区切りをつけるしかない。楽譜の間違いというのは版下の入力ミスではなく、参考にしたもとの楽譜が間違っている。もともと楽譜というのは、作曲家が書いたスコアではなく、レコードを聞いて誰かが起こしたものだから、間違いが起こるのは仕方がないのだが。

09/24
土曜日。神田方面に散歩。爽やかな季節になった。猛暑がぶりかえさないことを祈る。

09/25
日曜日。コーラスの練習と飲み会。久しぶりにほぼフルメンバーが集まった。全員高齢者だが、何とかこのメンバーでもちこたえている。

09/26
月曜日。M大学。先週の木曜日からわたしの後期はスタートしたのだが、月曜日の後期最初の授業。必要なことを話した。学科会。どうも月曜の方が疲れるようだ。

09/27
外字異体字協議会。座長なので司会をしないといけない。今年の初めから始まった会議で、わたしの提案で始まったようなものだから、しっかりと進行しないといけない。自分で提案した時は雲をつかむような話だと自分でも思っていたのだが、多くの人々のご協力で、かなり具体的に進行している。ありがたいことだ。ネット業界の人の中には漢字不要論とか、漢字なんてテキトーでいいと主張する人がいる。彼らはネット上に流れるものはただの情報だと考え、意味はわかれば、横書きでいいし、正確な漢字などでなくていいと考えている。そういう考え方が蔓延していると、日本のネット業界は、永遠にケータイの延長でしかない寂しい状態になる。すべての紙の本が、ネットで閲覧でき、ネットで読んだ人が紙の本を買うという、ケータイ小説では実現していることが、すべての本に拡大されれば、出版業界も文学も元気になる。そのために、紙の本でふつうに使われている漢字をすべて表記できるシステムを確立することが必要だ。こんな当たり前のことがいまは実現していない。いま「噂」という字をここに表示したが、XPのわたしのパソコンでは、ツクリの「尊」の一画目と二画目は「ソ」になっている。しかしビスタやセブンで見ている人の画面では、その部分が「八」になっているはずだ。そんなふうに勝手に文字が入れ替わってしまう。この「八」の方を正字といい、とくに文学作品では校正の人が「八」の伝統を守ってきた。印刷所では「八」の文字に独自の外字番号をつけて印刷してきた。この外字番号は印刷所ごとにつけたものだから互換性がない。これを統一して印刷データがあればすべての本を電子書籍に変換できるようにしたいというのがわたしの構想だ。同時にその外字に対応した文字フォントをクラウド上に載せておいて、そのクラウドに文章を置けばすべての漢字を正しく表示できるようにもしたい。そういう外字を何文字にするかはこれから協議するのだが、ごくわずかなら、フォントメーカーも文字を追加してくれるはずだし、この部分をオプションとして安価に頒布したり、コンテンツメーカーが買い取ってファイルに貼り付けたりすれば、どの端末でも正しい漢字が表示できるようになる。これはぜひとも実現しなければならないことであり、もし実現できればすごいことだ。
話は変わるが、猿之助が猿翁になり、亀次郎が猿之助になり、香川照之が中車になり、その息子が政明くんが団子になるのだという。これはすごいことだ。わたしの母は猿之助のファンだった。おもだか会というファンクラブに入っていた。わたしが学生だった頃、猿之助の歌舞伎を観るためにしばしば上京した。だからわたしやわたしの妻もいっしょに観劇した。猿之助はタカラヅカのスターだった浜木綿子と結婚して照之が生まれたが、舞踊家の藤間紫とおそらく不倫をしたのだろう。浜木綿子は息子をつれて離婚した。香川照之は東大文学部に入ったが、のちに役者になった。猿之助は息子に会おうとしなかった。猿之助は弟の段四郎の息子に芸を伝えて猿之助を襲名させることになったのだが、同時に香川照之と和解して、祖父の先代猿之助の弟だった中車の名跡を継ぐ。さらに子息はいまの猿之助が子役だった頃の名の団子を継ぐ。話は長くなるが、猿之助の父の段四朗は女優の高杉早苗と結婚するなど軟弱なところがあったので、祖父の猿之助は孫を芸養子にして子どもの頃から鍛えて、猿之助を継がせた。祖父から孫への継承である。孫にすべてを伝えて先代猿之助は猿翁となった。いまの猿之助は甥を鍛えたわけだが、さらに孫に自分が子役だった頃の名の団子を継がせて、さらに遠大な夢を実現させようとしている。わたしは『実存と構造』という本を出したばかりだが、このように同じことがくりかえされる状況を「構造」と呼んでいる。神話や伝説には「構造」があるのだが、現代の歌舞伎の世界にも、まるで絵に描いたような「構造」があることに驚くとともに、人間の営みというものはすごいものだと思わずにはいられない。

09/28
本日は公用は休み。終日自宅で仕事に集中する。ついに第2部が完了。いよいよ最後の後篇に入る。ここからは原典で描かれた時間の流れなので、ドストエフスキーの原典を圧縮して展開するだけでいい。だが何を切り捨て、何を重点的に描くから判断が必要だ。ともかく最初から書いていけば何が必要なのかがわかってくるだろう。

09/29
M大学。大学に行くと一日がつぶれる。木曜日は3コマ。90分×3コマ、ひたすらしゃべり続ける。同じことを何度も言っている気がする。まあ、それでいい。重要なことは何度でも言うと最初に学生たちには言ってある。けっして老人ボケのせいではない。

09/30
妻に送ってもらって書協で図書館関係者との定期協議。終わってどうしようかと考えたが健康のために歩くことにした。自宅に帰ってもすぐに文化庁の会議があるので、都心でぶらぶらした方が効率的だ。神保町まで歩いた。40年近い昔に働いていた会社のあったビルの前を通った。40年前だよ。遠い昔だ。地下鉄で内幸町まで行ってルノアールで仕事をする。それから文化庁へ。会議が終わると文化庁の人に拉致されて打ち合わせ。それで本日の公用は終わり、長い一日であった。夜中は自分の仕事。もう後篇(第3部)に入っている。ようやく原典の時間の流れになる。主人公のキリーロフが出てきた。この作品は単一の視点ではなく、時々視点が変わる。第2部の終わりはダーシャという女性の視点になっていた。やはりなじみのあるキリーロフの視点になった方が安定する。





以下は随時更新します


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