「悪霊」創作ノート6

2011年8月

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08/01
月曜日。8月になった。本来ならまだ大学の前期の授業をやっている時期なのだが、震災による電力不足に対応するために夏休みを1ヶ月早めたので、4週間前から夏休みになっている。これはわたしにとっては貴重な時間のプレゼントだ。文藝家協会がらみの公用も先週の火曜日に終わったので、水曜日から仕事場にこもっている。この間も『実存と構造』の再校ゲラを1日で仕上げたのだが、主に『新釈白痴』に取り組んでいる。ここ数日で前半の山場を通過した。以前にも前半の山場を通過、といったことを書いたかもしれない。つねに山場だということだ。実は最大の山場はオープニングで、書き出しさえ書ければあとは勢いをつけて前進できる。だからその時点で山は越えているのだが、読者を退屈させないために次々と山が来ないといけない。山とは、書き手にとっては、ちょっと書けるのかどうかわからない、というくらいの緊張感を伴うプロットのことで、書き手に緊張感がないと読者は退屈する。だから書き手はつねに緊張していることになる。ふだんであれば、著作権の会議に出たり、大学で授業をしたりして、その間に緊張を緩めているのだが、仕事場にいると緊張が持続することになる。で、妻の買い物についていったりするのだが、昨日は孫を見に行って、大いに緊張が弛んだ。さて、担当編集者からの連絡で『男が泣ける歌』の原稿を増やしてほしいという指示があった。本のボリュームがわからないので、10曲ぶん多めに楽譜を渡してある。あとで削るのはもったいないので、その10曲ぶんの原稿はあとから送ることにしてあった。頭の中ではできている原稿なので、いつでも書けるのだが、これを緊張を緩めるために用いることにして、『悪霊』のあいまに毎日少しずつ書いていきたい。

08/02
昨日のページには『男が泣ける歌』の追加原稿を少しずつ書いていく、と書いたのだが、1日で必要な原稿が書けてしまった。ただちに担当編集者に送り、あとはまた『悪霊』。ゲラや追加原稿で少し間があいたのと、しばらく主人公のニコライの出番がなかったので、ニコライの心理の流れが見えなくなった。それで最初から読み返すことにした。冒頭部分は何度も読み返しているのだが、読み返す度によくできていると思う。書く前は想像もできなかったほどにいい感じに仕上がっている。この密度がどこまで持続しているかを確認したい。

08/03
義父母が到着。妻の両親である。わたしの両親はすでにいない。身軽である。老人の親がまだ生きているというのは老人にとって負担である。男の子の場合、母より先に死なないというのが最大の親孝行だとわたしは考えている。で、母が亡くなってわたしはまだ生きているので、親孝行だったと思っている。義父はこの仕事場を陣頭指揮で建ててくれた人で、夏や正月はともに過ごした。わたしの息子たちも義父にはよく遊んでもらった。その義父と義母も高齢であるので、この仕事場まで来るのが難しくなった。これが最後になるのではないかという思いで今回も招いた。妻の妹が車を運転して到着して、新幹線で帰っていった。帰りは妻が運転していくことになるだろう。子どもも孫もいないので老人だけの生活になるが、まあ、そういうことも多かったので慣れている。『悪霊』進んでいるが、いまは少し停滞している。わたしが停滞しているのではなく、話の展開が停滞している。原作のある作業なので、切り捨てるわけにもいかない設定がある。それをどうやってエキサイティングに語ることができるかが課題だ。なるべくコンパクトに語りたい。ペテルブルグの話はあとわずかで終わる。いま5章なのだが、6章はスイスに舞台を移す。6章で第1部が終わるのではないかと思っている。

08/04
仕事場での日々。『悪霊』は順調に前進しているが、それだけの毎日。まあ、それが作家の本来の日常なのだが、ふだん雑用で多忙なので、執筆だけの日々になるとかえって集中力が持続しない。大学のアキ時間とか、さまざまな会議中などの方が、アイデアがひらめくことが多い。とにかく8月はほとんど公用がないのでこの状態が続くことになる。とはいえ義父母がいてあまり集中力が出ない状況の中で、本日は前半部の最大の山場を突破した。つねに山場を書いているみたいだが、ニコライがキリーロフに自殺をけしかける、作品全体の中でも最大の山場が、ごく自然な流れの中で展開できた。これまでは、どこかに一つの場面を作って盛り上げるつもりだったのだが、本日、勢いの中でごく自然にこの問題がクリアーできた。こういうことがあると、本当にドストエフスキーの霊が乗り移って、お筆先で文章を書いている感じがする。ドストエフスキーの霊が、自分が書き足りなかったところを、わたしの指先に乗り移ってキーボードを叩いている。サッカーの松田選手が心筋梗塞で亡くなった。このことの感想。心筋梗塞、怖い。松田選手はハンサムなディフェンスで、日本代表では3バックの右だったからディフェンスに徹していた印象があるが、Jリーグでは果敢に善戦に駆け上がるイメージがあった。ご冥福をお祈りしたいが、わたしはこういう出来事には悲しみの気持はもたない。彼はやるだけのことをやって燃え尽きたのだと思う。ご家族にとってはショックだろうが、一般のファンが悲しむことはない。長生きすることが幸福ではないし、スポーツ選手は覚悟の上でやっているのだと思う。話はコロッと変わるようだが、小説家は長期戦だ。わたしは60歳の時に「折り返し地点」と感じた。120歳まで生きるのかといわれそうだが、プロの小説家になったのが30歳くらいだから、ここまでが30年、あと30年現役で仕事をしたいと考えた。こういう人物が頓死するのは、悲しむべきことだ。そう思っていた矢先、立松和平や、つかこうへいが亡くなった。作家の独善的な言い方かもしれないが、スポーツ選手の花の時期は短い。こういう時に、悲しまずに、よかったね、と言ってあげることが、その選手を評価することだとわたしは思う。

08/05
台風の接近で東風が吹いているようなので、ドイツ気象局のホームページを見たら、福島原発の拡散予想図が消えていた。7月の末には表示されていたので、8月になった時に削除されたのか。もう心配ないとドイツ気象局は判断したのだろう。福島原発では依然として強い放射線が出ているようだが、これは放射線なので心配ない。放射線は光と同様、直進するので、自分のいるところから原発が見えなければ安全である。問題なのは放射性物質(粉塵)が福島県全域に降り積もっていることだ。チェルブノイリの事故では全員待避になって30年近くが経過した現在でも住民の帰還が許されていない強制待避地域と同程度の放射性物質が、福島県全域に降り積もっている。だからこそ県民の全員の身体検査を今後数十年続けることになっている。つまり福島県人のすべてが、広島・長崎と同様の「被曝者」として扱われているわけだ。問題はその粉塵がそのままになっていることで、台風が来るとその粉塵が四方に飛び散る可能性がある。福島原発そのものは放っておいて、土壌の除染を一刻も早くしなければならないのだが、政府は放置している。県民が自発的に除染に取り組んでいるところもあるようだ。表土を剥ぎ取って、深い穴に埋める。これだけのことをすれば、県民の被曝も大幅に経るし、周辺への飛散も防げる。ただ山林の汚染はどうしようもない。那須高原の牧場などは汚染物質が福島県から飛んでくることを防げないだろう。気の毒だとは思うが、若い人や子どもは牛肉を食べない方がいいだろう。牛乳も危ない。わたしがいまいる仕事場は東京よりも西にあるので、少しは安全かなと思っている。わたしは老人だから放射能の心配をしても仕方がないのだが、それでも可能な限りは長生きしたいと思っている。まあ、東京は大丈夫だ。柏や流山のホットスポットは3月15日あたりの雨が原因で、これは少量の粉塵が降っただけで、これが飛散しても問題はない。ローマなど、花崗岩の建物がたくさんあるヨーロッパの都市と同程度の放射能なので心配する必要はない。問題は福島県人だが、全員が病気になるわけではない。わたしは専門家ではないので具体的な数字をいう立場にないが、たぶん0・5パーセントくらいの人が10年後から20年後に何らかの症状が出る程度だろう(子どもはもっと増える怖れがある)。福島県の人口は200万人くらいだから、1万人くらいに症状が出るということになるだろうか。死者ももっと少ない。交通事故やタバコの被害などより低いだろう。だからといって、車にも乗らずタバコも吸わない人が福島県に住んでいるというだけで被害を受けるわけだから放置しておくことはできない。政府は県民に過剰な不安感をもたせないように、安全を強調しているのだが、安全だといわれると不安が高まる。正確な情報を出す必要があるだろう。

08/06
広島原爆の日。今年は改めて原爆について考えることになる。広島、長崎に続いて、日本人は福島でも被曝することになった。これはわたしの推測にすぎないのだが、戦争中の軍部の上層の人間は、ドイツでウランの核分裂が観測されたという情報は知っていたはずだ。その研究の助手をしていたユダヤ系の女性科学者がアメリカに亡命し、アメリカが原子爆弾を作る可能性についても熟知していたはずだ。しかし、アメリカが源氏爆弾を作るり、その爆弾を日本に落とす可能性については「想定外」だったのだろうと思う。津波が来るという当たり前のことさえ「想定外」であった日本の官僚にとっては、日本がアメリカに負けるということも「想定外」だったのだろう。官僚にとって「想定外」というのは、厳密に検討した上でその可能性を否定するということではなく、面倒なことは考えないようにしておくということなのだ。広島や長崎の惨禍は充分に可能性のあることであったのに、考えないようにしていた。その結果、被曝することになったのだから、これは人災であるし、日本の官僚による人災だといっていい。だからこそ広島の原爆碑には「あやまちはくりかえしません」と書いてあるのだが、そのあやまちを福島でくりかえしてしまった。困った国に生まれたものだと思うが、日本人の一人一人が責任をとらなければならないとも思う。

08/07
日曜日。『新釈悪霊』前篇完了。ただし昨日、この作品をこれまで考えていた二部制ではなく、三部として、前篇、中篇、後篇によって構成することとした。ということで、まだ三分の一が出来ただけにすぎないのだが、この三部は同じ長さではなく、内容によって適当に長短があってもいいことにした。なぜ三部にしたか。この作品は原典を「後篇」として、そこに到る「前篇」を創作するというのがコンセプトだったのだが、ここまでの感じで、前篇がかなり長くなりそうだという手応えを得た。そこで、前篇のうちのペテルブルグの部分だけを前篇とし、これから先のスイスに舞台を移してからを中篇とする。原典にある部分は最後の後篇になる。ここは思いきりコンパクトにするとともに、少しエンディングを作り替える。原典を書き換えるわけだが、そういうこともあっていいだろうと、勝手に解釈している。スイスの部分はたぶん短くなる。もしかしたら半分くらいのところまでは来ているのかもしれない。何しろここまでで600枚くらいになっている。通常ならこれで半分ということにしないと、本が分厚くなりすぎる。だがいまは長さのことは考えていない。よりよき作品を完成させたいという思いだけがある。読者の読む苦労、版元の販売の苦労などは、考えないことにする。還暦を過ぎた作家に怖いものはない。

08/08
第6章の冒頭、ここからはシャートフが語り手になる。主体が変わることについて、この小説によるドストエフスキー評論シリーズでは初めての試みだ。『罪と罰』は捜査官ザミョートフ、『白痴』はイッポリートが視点となった物語を展開した。作品の成功(自画自賛!)は二人の人物の個性に負うところが大きかった。『悪霊』の場合はここまではキリーロフが視点となって引っぱってきた。うまくいっていると思う。全体の半分はキリーロフの視点で行けると思うのだが、どうしてもキリーロフが不在のシーンが出てくるので、前篇から中篇に移行するこの段階で、視点が変わることがありうることを読者に提示しておく。すべりだしはうまくいっている。

08/09
義父母帰る。彼らは高齢であって、この仕事場に来るのは最後になるかもしれない。妻が車を運転し、新幹線が帰ってくるのを、近くの駅まで迎えにいく。自分が車を運転するのは何年ぶりか。前日、『男が泣ける歌』の担当編集者から、楽譜入稿前の最終チェックをしてほしいと楽譜が送られてきたのでチェックを入れる。移調したものもあるので、これを版下を作る人が理解してくれるかどうかわからない。まあ、やってみるしかない。あとは編集者の仕事だ。その楽譜を宅急便で送る。今日の仕事はそれだけ。『悪霊』は時間の整理が必要なので原典を読み返してチェック。物語は農奴解放の年に始まる。これははっきりしていて1861年、ニコライが除隊になったのが1863年、すると故郷に帰るのは同年か1864年、原典の舞台はそれから4年後なので、68年ということになるか。シャートフが故郷に帰るのはその1年前と設定されている。するとスイスにおいて主要登場人物4人が結集するのは1866年ということになる。翌年がインターナショナルのジュネーブ大会なので、その準備のためにゲルツェンもバクーニンもジュネーブにいるということはありうるだろう。しかし歴史学者の詳細な研究で歴史的事実に符合しないということになるかもしれないので、時期や季節を少しぼかす必要がある。スイスで必要なのは女たちをしっかり書くことだ。とくにシャートフの妻のマリーは重要だ。

08/10
猛暑が続いている。朝からエアコンをかけている。第二部(中篇)に入っていて、とりあえず前進しているのだが、これでいいのかという疑問はある。ニコライがしばらく出てこない。早めにニコライを出すという展開も考えたが、あとが続かないので、しばらくニコライを出し惜しみして、この主人公が出てきたら一挙に全篇の山場に突入するという展開を考えている。どの場面は緊迫して面白いという長篇はかえって疲れる。少し息を抜く時間がほしい。というようなことを書き手が考えていていいのかはわからないが、ストーリーを展開するためにはこういうことも必要だろう。ドストエフスキーの原典は思いきり主人公を出し惜しみしている。それでは退屈なので、引っぱりすぎないように注意したい。

08/11
今日も猛暑。暑いと思っただけで疲れる。

08/12
コーラスの練習。本日は吉祥寺のイタリア料理店の地下にあるホールで練習。その後、上の店で宴会。大いに盛り上がる。自宅に帰る。自宅に帰るのは久しぶり。暑い。熱気がこもっている。シャワーを浴びてすぐに寝る。

08/13
土曜日。前日早く寝たので朝4時に目が覚める。そういえば先月のコーラスの練習の時にも翌朝4時に目が覚めた。ちょうど女子Wカップの決勝だったので全部見られた。本日は何事もなし。パソコンを仕事場に置いてきたのでノートにメモ。夜が明けてから、M大学の武蔵野文学館というところに寄贈する資料を探す。生原稿はないかと依頼されている。生原稿は実は稀少である。35歳の時から専用ワープロを使っている。芥川賞をもらったのが29歳だから、手書きで書いていたのは数年だ。それ以前のボツになった未発表原稿がどこかにあるかもしれないが、探すのがめんどうだ。ふと思いついて、当時の担当編集者の遺品の中から戻ってきたものがどこかにあるはずだと探してみると、あった。芥川賞受賞後第一作の『赤ん坊の生まれない日』。B6原稿用紙だ。芥川賞の『僕って何』の原稿は編集部から日本文学館に寄贈されているはずだが、これはB5だったように思う。とにかくこの生原稿は貴重だ。別棟の倉庫に行ってこの作品の初版単行本に、『いちご同盟』と『Mの世界』の単行本を探してきた。これに『いちご同盟』映画版のビデオ。DVDも出たはずだが手元にない。ビデオの方がパッケージが大きいので資料としては見映えがするだろう。旧盆なので指定券を買ってある。時間が来たのでようやく東京駅へ。グリーン車に乗る時は、スペインの新幹線に乗った時に貰ったイヤホンをつねにもっていく。スペインの新幹線をイヤホンをくれたのに、どうして日本の新幹線はくれないのだろう。イヤホンを差し込む穴はあるのに誰も利用していない。普通席でもFMラジオをもっていると音楽が聞ける。イヤホンを差し込むとNHKラジオで高校野球をやっていて、滋賀の八幡商業が満塁ホームランで逆転したところだった。逆転したのはいいのだがエースに代打を出したので予選でも投げたことのないピッチャーが出てきた。ラジオだからアナウンサーの報告を聞くだけだが、驚異的に遅い球を投げるらしい。打つのは帝京だから、2点差などはすぐに打ち返されるのではと心配したが(滋賀県にゆかりはないが判官贔屓)、1四球を出しただけで三者を打ち取った。逆転満塁ホームランよりもこちらの方がすごい。仕事場のある駅に着いた。妻が迎えに来るはずで車が見えないなと思ったら次男の車から妻が手を振っていた。昨日の夜、仕事場に着いたらしい。孫2人は座席で熟睡している。しばらくは孫が逗留していくようだ。

08/14
孫たちをつれて昼食に出たがどこも満員。ようやく中華料理店の和室でくつろぐことができた。孫の姿がかわいい。中ジョッキ3杯飲む。夕方、次男が帰っていった。本日、夜勤があるとのこと。労働者はつらい。ということは孫の相手はわたしがすることになるのか。皆が寝静まった夜中、突然、ドストエフスキーが乗り移ってきた。大量のメモを書く。この作品の最大の山場は、主人公ニコライが、3人の人物に自分の思想を吹き込む場面なのだが、そのうちのシャートフの部分がおおよそ書けた。あと2人だ。

08/15
終戦記念日。これまでわたしにとって終戦記念日というものは自分とは無縁のものと感じられていた。自分の戦争を知らないのだからそれが自然だと思う。しかし今年は何かが違っていると感じられる。福島第一原発事故に遭遇して、戦争というものの本質が見えた気がする。マスコミの報道が信用できないということが第一の実感だ。いまはネットの時代だからさまざまな情報が入る。文部科学省が小学生の許容放射能を年間20ミリとしたが、多くの人々の批判によって1ミリに撤回したのがその代表だが、こういうことはマスコミが先に批判すべきところだ。しかしマスコミはただ文部科学省の発表を、戦中の大本営発表と同じく無批判に報道しただけだった。現在のテレビ局やラジオ局は、電波の割り当てを国から受けている。そのことによって限られたチャンネルを数局が分け合い、独占的な利益を受けてきた。マスコミは国を批判できない。そのことが明らかになった。幸いなことにインターネットによってわれわれは正しい情報を得ることができる。わたしは初期の段階からドイツ気象局の日本地図を見ることで、汚染が同心円的に広がるのではなく、風向きの変化によってきわめて不規則に拡散することを知っていた。原発からいったん北西に向かった汚染は福島市のあたりから急に南下して郡山から日光、さらに群馬県に山麓にまで広がる一方、もう一つの細い流れが茨城県から柏や流山にまで到達したことを、ほとんど正確に把握していた。だが、いまだにテレビの情報だけを見て右往左往している一般大衆がいる。そういう人々は、東北の薪を京都の送り火で焼くことにも反対する。これは過剰反応だ。警戒しなければならないのは、東北でとれた魚をもちこんで、皮や骨がゴミとして捨てることだ。その放射能は、薪などの比ではない。何が危険で何が安全なのかを、マスコミは独自に調査して見識をもって報道しなければならいのだが、どうやらそういう見識をもったテレビ局は存在しないようだ。これは円高をあたかも日本全体の損失であるかのごとく報道するテレビ局の姿勢にも現れている。円高になっても円安になっても、得をする人と損をする人がいる。それだけのことで、トータルとしては日本が得をするとか損をするといったことはない。たとえば老人は同じ年金で安い輸入品をゲットできる。輸出産業の利益が減ることはあるだろうが、それはその企業が高額の外国人社長の給料を減らすなどの対策を立てればすむことだ。マスコミの報道が国家権力によって誘導されていると感じる人が増えているのではないかとわたしは思う。そうすると何を信じたらいいかわからず混乱する人々が増え、世の中がざわついて、イギリスのような暴動が起こる可能性につながるのではないかと危惧される。穏やかにテレビを眺め、報道を信頼できるような体制を確立できないものかと考える。

08/16
孫たちとの日々が続いている。パソコンを叩いていると一歳の孫が近づいてきて、あーだこーだと、可愛いことを言うので集中力が持続しない。それで会議中やアキ時間などと同様、ノートを広げてメモをとっていく。いまドストエフスキーの霊がわたしにとりついているので、ノートを広げボールペンを手にするとお筆先のごとくオートスクリプトが始まる。何ぼでも書けるという状態になる。このぶんではメモだけなら8月中にスイス篇が終わってしまうかもしれない。最後の後篇は原典を圧縮すればいいだけなので、スピードは上がるはずだが、スイス篇は何もないところを進んでいるので、まるで背の立たない海を泳いでいる状態だ。まだ向こう岸が見えていない。このスリルは充実感と紙一重で、嬉しいような不安なような感じが持続している。この暑い夏もそろそろ終わりに近づいている。今週の日曜日は大学の何かの行事がある。何をするのかは知らない。当日、大学に行ってみて、言われたことをやればいいのだろうと思っている。今月の大きな行事はそれだけ。あとは文化庁の会議が一件だけなので、自分の仕事に集中できると思っている。ドストエフスキーの霊がいつまでついていてくれるのかはわからない。三宿に戻るのが少し怖いが、まあ大丈夫だろう。

08/17
まだ孫たちがいる。7月の末からずっと仕事場にいるのだが、義父母がいて帰ったと思ったら孫たちが来て、何となく落ち着かない状態が続いている。その中で集中力を切らさずに仕事は続けているのだが、自分の仕事の世界とは別に、自分の実人生というようなもののことを少し考えた。義父母というのは妻の父母だが、わたしもずいぶんつきあいは長い。彼はいわば、人生を終えようとしている人々だ。わたしも老人だがまだ現役で仕事をしている。義父母は仕事からリタイアして余生を送っている。余生というのはいわば死を待っているということで、来年なのか数年後なのかはわからないが、死を待つことの他にはなすべきこともないという人たちだ。これに対して三歳と一歳の孫たちは、これからの人々だ。まだ自分が何ものになるのかもわからない。どんな仕事をし、どんな人生を送るのかもわからない。人生を終えた人々と、これから人生を始める人々。彼らと生活をともにしたそれぞれ数日間、わたしは人生というもののことを考えずにはいられなかった。人生とは何かとかそういった哲学的なことではない。彼らは人生は終わり、別の彼らは人生はこれから始まるという、ただそれだけのことだが、それが人間についての考察のすべてだといってもいい。その中で、わたし自身は中途半端な位置にいる。まだ人生は終わってはいない。だがこれから始まるというわけでもない。半分より少し進んだところをまだ生きているというスタンスだ。いま書いている『悪霊』がこれからどうなるのかということもわからない。作品を書くということがわたしにとって人生そのものなのだが、いま関わっている著作権の問題や、M大学の問題についても、問題が山積していてこれからどうなるのかわからないという状態だ。わからないから先が楽しみということもできるし、けっこうしんどいことだという気もする。しかし半分くらいは終わってしまったのだという、達成感と無力感が相半ばしているような感慨もある。とにかくいまなすべき仕事があるというのは幸福なことだと考えている。わたしと同世代の人々の中には、すでにリタイアしている人も少なくないのだ。それに比べればわたし自信はまだ発展途上だし、大いなる可能性を秘めていると考えていい。さあ、がんばろう。毎日、自分に言い聞かせている。

08/18
孫たちが帰っていった。疲れが出て仕事は小休止。一つ考え違いをしていたことに気づいた。この作品を書き始める当初、バクーニンの恋人として18歳くらいの女性を登場させることにしていて、実在の女性革命家ヴェーラ・フィグネルを出すことにしていたのだが、その後、ドストエフスキーの原典を読み返すうちに年号が入っている部分をたどっていくと、当初考えていたよりも5年くらい早い時期に原典の舞台が設定されていることに気づいた。ということはヴェーラは13歳ということになる。これでは話にならないかと思ったが、これぐらいの少女とつきあっている革命家というのも面白いのではないかと思い、そのまま使うことにした。本日はこのプランが可能かどうかの思考実験についやした。思考実験というのは要するに頭の中で場面を思い描くことで、まだ各段階ではないがおよその段取りを考える。まあ、いけそうだという気がしている。

08/19
三宿に移動。涼しくなっている。たまっていた郵便物を整理。

08/20
土曜日。散歩に出ただけ。『悪霊』の主人公ニコライは、革命家のバクーニンをモデルとしている。そのニコライとバクーニンが対決する。この作品の想定外の山場だ。

08/21
日曜日。だが、M大学のオープンキャンパス。模擬授業というものが設定されていて小説創作の基礎篇みたいなことを1時間しゃべった。1時間ですべてを語るというのは不可能なのだが、話してみると意外に内容のあることが話せた。大教室に立ち見が出るほどの盛況だったので元気が出たせいもある。父母の皆さんもいて、やはり大人の方が手応えがあった。笑ったり、うなずいたりしてくれる。こういう微妙な反応があると元気が出る。高校生だけだったら、暖簾に腕押しみたいな感じで元気が出なかっただろう。そのあと個別の説明会にも出てから、別件で武蔵野文学館のインタビュー。これは大学内にある資料室みたいなもので、わたしの資料も作ってくれることになった。ありがたいことである。が、朝から夕方まで大学にいたのでやや疲れた。

08/22
月曜日。歯医者に行っただけ。まだ涼しい。ありがたいことだ。金曜日に三宿に戻ってきたのだがまだ一度もエアコンを作動させていない。さて『悪霊』だが、主人公ニコライは一種の伝道者だ。正義を説きながら人を悪の道に踏み誤らせる不思議な人物で、シャートフ、キリーロフ、ピョートルという三人の人物に伝道するところがこの作品の最大の山場となる。それを書くためにこの作品を書いているといってもいい。原典では過去を振り返る形でこの三つの伝道について語られるのだが、肝心のことは何も書かれていない。ドストエフスキーが書かなかったことを、具体的なシーンにして読者の前に提示するというのがわたしの狙いだ。本当にそんなことができるのかは、やってみないとわからない。ドストエフスキーの霊がわたしに憑依する瞬間がある。その神秘的な体験を核にして乗り切ろうという、やや無理な構想であるが、これまで書いた『罪と罰』や『白痴』でもそうした驚くべき瞬間を体験したので、大丈夫、何とかなると思っている。最初のシャートフへの伝道はすでにノートにメモしてある。概略だけのメモだが、台詞についてはやや過剰なほどにメモしてある。むしろ削りながら整えるだけでいいのでこのシーンはほぼできたと考えている。キリーロフについては導入部だけのメモがある。ピョートルについてはまだ何も考えていないのだが、この人物は革命家なので、宗教には関わらないから、ドストエフスキーの霊を頼りにする必要はない。だから三つのシーンがわたしの頭の中ではほぼ完成している。少し怖い。こんなものを書いてしまっていいのかというくらいに怖い。しかしいまは何も考えずに、ゴールに向かって進んでいきたい。

08/23
医者に行く。月に一回行く近所の医者。主治医である。血圧とアレルギーの薬をもらう。この薬はごく軽いもので、しかし死ぬまで必要なものだ。4月から大学の専任になったので私学共済というものに入っている。これにいくら払っているのか知らない。給与明細を見ればわかるのだろうが。それまでは文芸美術保険というものに入っていた。これは人頭税みたいなもので自分の妻のぶんを払っていた。これは金額がはっきりしているので、月々の医者から貰う薬の値段を考えて「元をとった」かどうかがわかった。給料から天引きされる保険はその点がよくわからないが、とにかく天引きされることを拒否できないので、あまり考えないようにしている。シャートフの部分ほぼ終わったが、次へのつなぎの部分が必要だ。全体の半分を越えてはいると思うのだが。長篇を書いていると、南極点到達に失敗したスコットのことを考える。南極点には到達したのだが、アムンゼンに先を越され、なおかつ帰還の途上で力尽きてなくなったのだ。この南極点にあたるのが、長篇小説の「半分」のところだ。半分のところに到達しても意味がない。ちゃんとゴールに帰還しなければならない。

08/24
いまは作品の最大の山場を書いている。シャートフ、キリーロフ、ピョートルの3人に、主人公ニコライが次々に思想を吹き込む場面。昨日、シャートフの部分が完了、今日はキリーロフ。仕事場で書いたメモがあったが時間が経過して読み返すと使い物にならなかった。よくあること。直前のシャートフの部分との流れがあるから、予定が変わる。キリーロフは全篇の主人公なので内面が描かれている。そこでこのキリーロフの部分は可能な限りコンパクトにした。完了。明日はピョートル。これが山が越せる。

08/25
ピョートルをやろうと思ったが少しいたずらをしたくなった。この場面、ドストエフスキーがジュネーブに滞在している。ニコライはバクーニンが出会うくらいだから、主人公がドストエフスキーに会ってもいいと考えていたが、さすがにそれは冒険すぎる。ピョートルと会うことにした。ピョートルのモデルはネチャーエフだが、ピョートルがネチャーエフの感じでドストエフスキーに会うという話にしたいと思う。こういういたずらはこの作品の各所に仕掛けられている。『罪と罰』の予審判事ポルフィーリーがすでに登場している。捜査官ザミョートフを最後に出したい。暑くなった。昨日、久しぶりにエアコンを作動させた。本日はエアコンが必要だろう。

08/26
今週は日曜日に大学で働いたので曜日の感覚がずれている。一週間が長く感じられる。ようやく金曜日だ。文化庁の会議。帰ろうとすると田園都市線が止まっていた。他の線との比較はできないが、田園都市線はよく止まる。線路に欠陥があるのではないか。夕方、豪雨。急に涼しくなった。

08/27
土曜日。昨日の豪雨で寒冷前線が通過したようで今日も涼しい。散歩に出ると汗ばんだが、陽が落ちると寒いくらいだ。世界陸上などを見ながら仕事をしている。

09/28
日曜日。今日も涼しい。明日から避暑に出かけることにしているのだが、これくらいなら耐えられる。

09/29
天気予報では猛暑が復活するとのこと。台風もまだ来ないということなので、予定どおり避暑に出かける。高原のホテルで2泊することになっている。中央高速、事故で渋滞。予定が狂ったが、ほぼ予定どおり高原のホテルに到着。さすがに涼しいが、寒いほどではない。初めて来るところだがいいホテルだった。ジョッキ2杯と日本酒を飲む。

09/30
高原を散歩。好天で日焼けした。

09/31
三宿に戻る。三鷹のあたりで渋滞。避暑地にてかなりのメモを書いたので、当分はこれを入力する作業になるだろう。山場は越えた。


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