今回はコラムの表題にもなっているシェリフについてです(写真①)。彼こそ、達つぁんが自転車世界一周の途中でマラリアと赤痢を併発した時に救ってくれたギニア人医師。達つぁん自身も「命の恩人」と公言し、世界一周後に行っている活動の大きな原動力になっている人です。とにかく陽気でチャーミングな男です。といっても写真だけでは分かりえないと思いますので動画と音声で実感してください。②の「ギニア人医師の勉強」の画面で見られる映像は、いっとき達つぁんが講演会で上映していたものです。
今回はコラムの表題にもなっているシェリフについてです(写真①)。彼こそ、達つぁんが自転車世界一周の途中でマラリアと赤痢を併発した時に救ってくれたギニア人医師。達つぁん自身も「命の恩人」と公言し、世界一周後に行っている活動の大きな原動力になっている人です。とにかく陽気でチャーミングな男です。といっても写真だけでは分かりえないと思いますので動画と音声で実感してください。②の「ギニア人医師の勉強」の画面で見られる映像は、いっとき達つぁんが講演会で上映していたものです。
もしかしたら、井戸1本作るのに2年間は時間をかけすぎだという意見もあるかと思います。しかし達つぁんは、ギニアにはギニアの文化と独自のやり方があり、それを尊重する方法がプロジェクトを成功に導くと考えたのでしょう。シェリフがリーダーとなり、村人が自ら関わるようになるまでにこれだけの期間が必要だったのです。”オーナーシップ”という言葉をよく達つぁんは使いますが、村人たちが井戸作りに参加してくれれば、「自分たちの井戸」という所有者としての愛着心を強く持つようになり、永続的にドンゴル村の井戸は維持される。井戸の完成ではなく、維持され続けることこそがこのプロジェクトの成功だと考えているのです。(写真⑧)
井戸を作る上で、達つぁんには明確な意思がありました。『ボクが作るんじゃない。みんな(ギニアの人たち)が作って、完成後はみんなが維持・管理をする。その”お手伝いをする”ためにボクはいるんだ』ということです。でも達つぁんは、この意思をギニアの人たちに理解してもらうのは簡単なことではない、とも考えていたのではないでしょうか。
アフリカで、いわゆる”援助”は頻繁に行われています。しかしそれは、援助をする側のやり方で進められることが多く、援助をされる側は当然受身となり見ているだけとなることがあるそうです。すると、援助の案件が終了した後に、仮に壊れてしまった場合に現地の人たちだけで修理・再現が困難になるケースが出てきてしまうことがある。これを達つぁんは懸念し、自らのプロジェクトでは、みんな(ギニアの人たち)が関わるスタイルを模索したのです。そのためのキーマンとなったのがシェリフでした。
プロジェクトを推進するリーダー的な役割を担ったシェリフは、地元の井戸掘り技術者を見つけてきました。彼らの手法は、ツルハシとスコップを使う手掘りでした。例えば、ギニアに拠点をもっているドイツや中国の業者に頼んで、大きなボーリングマシンを使い短期間のうちに掘る方法もあるでしょう。しかし、達つぁんと長い時間をかけて話し合い、意思疎通を図ってきたシェリフは手掘り工法を選択したのです。(写真④)2ヶ月間泊り込みで作業する職人さんの住まいや食事の世話は、シェリフの号令のもと、村人たちに分担されました。さらに、シェリフ自身が工事に参加する姿勢は、村人の心にも響いたようで、ほとんど全ての村人が何らかの手伝いをする結果につながりました。(3歳ぐらいの男の子が小さなドンブリを頭にのせて小石を運ぶ光景を目にした時には微笑ましい気持ちになったものです・・・写真⑤)
完成後を見越して村人に、井戸の維持と管理の重要性を説き続けたのもシェリフでした。(写真⑥)やがて村人は衛生担当や修理担当といったスタッフからなる「水管理委員会」を形成。大事な井戸・貴重な水を守るための意識が村人に徐々に根づいていったのです。彼らは井戸が完成する前に、積立金までしていました。これは、ほとんど自給自足の生活を送り現金収入があまり無いドンゴル村民にとっては、かなりの決意です。
そして、達つぁんが日本での仕事の都合でギニアを離れている間も、これらのことは継続的に行われ無事井戸は完成したのです。シェリフは、自分が住む町での医療業務と並行してのことでしたので、その負担たるやかなりのものと想像されます。(本人は仮にそう思っていても口にはしないでしょうけど)
さて、この映像を収録した2003年にスタートしたのが恩返しの井戸掘りプロジェクト。2005年6月の完成まで、ギニアのドンゴル村を舞台にまる2年を要したこのプロジェクトは、シェリフの力なくしては成功しなかったと達つぁんは言います。(写真③)