休暇を利用しノンビリと福岡を散策でした(2/2)
  
 福岡滞在二日目は、早朝の散策を追えてから子供の住居の掃除を少し。
 最近の学生は、GONsanの学生時代とは随分異なりまして仲々贅沢。4年間も暮らしておりますと、チョッとした新婚家庭並みの荷物となってしまいます。

 明日、帰る際には“車に積めるだけ積んで帰って欲しい…”との事ですから、室内を眺めて考えてしまいます(^_^)“何を積んで帰ろぅか…”と。
 結局、比較的軽い本箱を積み込みまして、後は小物を詰めるだけ積み込む事にしましたが…
 お昼は、仲のイィ友達を交えましての昼食となりました。
 
 昼食後は、これも前々から出かけて見たいと思っておりました“志賀島”の「金印公園」を散策となりました。
 “海の中道海浜公園”の先が「志賀島」で、地図上で見ますと片道20km程度なんでしょうけど、国道が結構渋滞ですから仲々スンナリとは行けません。
 道中、GONsanはまたまた居眠りとなりました(^-^)

 あいにくの天候(ちょっと曇天)でしたが、海の中道海浜公園、汐見公園、金印公園…と、天気が良ければ素晴らしい景観が楽しめたのでしょうネ…
 一度は出かけてみたい…と思っていましただけに、ヤッと実現しまして結構満足なGONsanでした。
 嫁さん・GONchanは、もっと別な場所に出かけたい様子でしたが(^-^;

 

(左)汐見公園展望台から展望しました“海の中道海浜公園”方面です

  

(左)汐見公園入口付近です (中)展望台から“海の中道海浜公園”方面を (右)汐見公園展望台です

  

(左)汐見公園の展望台付近 (中)(右)志賀島の海岸沿いの景観です

  

(左)金印公園の案内標識です (中)(右)金印のモニュメントです

  

(中)(右)“志賀島”と“海の中道海浜公園”を結びます海岸上で 天の橋立のイメージが湧いて来ました(^.-)☆

  
金印を発掘したのは誰?

 金印の発掘者は志賀島村百姓「甚兵衛」ということになっていました。これは、甚兵衛の名で届け出されたからで、最近の調査によって真の発掘者は志賀島農民「秀治」と「喜平」の2人であることがわかりました。

 志賀島の古刹である「吉祥寺」の古い記録をみると、天明四年の項に「二月二三日小路町秀治田を耕し大石の下より金印を掘出す」とあります。

 他に、勝馬の某家所蔵の仙がい和尚の書に、金印を右上に押印した記述があり「右之印蓋漢之光武之時自此方窃到彼所賜之物乎倭奴者非和国之謂而」云々とのことで、その終わりに「志賀島農民秀治・喜平・・自叶崎掘出」とあります。

 これらのことから、甚兵衛はその田の持ち主であり、秀治・喜平の2人は小作人かあるいは田の溝補修のため臨時に雇われた者ではなかっただろうかといわれています。

 天明4年(1784年)2月23日志賀島のお百姓さん2人が田の溝を作り直していると大きな石が出てきたので、これを「かなでこ」で掘り外したところ、石の間に光るものを見つけました。
 お百姓さんたち(発掘者についての節)は、それをひろいあげ水ですすいでよく見ると均整な印鑑のようなものであったため、その田の持ち主である百姓「甚兵衛」のところへこれを持っていきました。

 甚兵衛は今まで見たこともないような物品なので、甚兵衛はその兄が以前奉公していた福岡の画商を訪ねそれを見せたところ、金色に輝いていて重いので「これは純金にちがいない鋳つぶして武具の飾りにでもしたら」とのことになったようです。

 しかし、この画商と親しくしていた儒学者亀井南冥(かめいなんめい)がこれを見て、印面に掘られている「漢委奴国王」の5文字から、さきの後漢書の記事がピンときたようです。

 これこそ「後漢の光武帝が倭奴国の使者に賜った印綬」であろう・・というわけで金印はたちまち街中の話題になったとのことです。そして、「そんな貴重なものは早速お役所に差し出せ」ということになりました。
 そこで、当時の志賀島村庄屋武蔵は「志賀島村百姓甚兵衛申上る口上之覚」という甚兵衛の口上書一札とともに郡役所に届け出たのです。

 ところが、亀井南冥は金印を自家の宝物にしようと思い、郡役所に15両で買いとりたいと申し出たが許されなかったので、それでは100両出そうといいました。そのため郡役所はたいそう驚き、さきの甚兵衛口上書を添えて黒田の藩庁にまで届け出ました。

 藩庁では直ちに亀井南冥ほか修猷館教授ら数名に金印の考証をさせるとともに、甚兵衛には白銀五枚を与えて金印を黒田家に収めました。それ以来、黒田家の家宝として庫裡深く所蔵されてきました。

 金印は明治になって国宝に指定され昭和29年の再指定で改めて第1級の国宝となり東京の国立博物館に保管されていました。その後、昭和54年黒田家から福岡市に寄贈され、市美術館の開館とともにその黒田記念室に保管し、一般に展示公開されています。

 印文は「漢」「委」「奴」「国」「王」の5文字が白文で彫っていますが、その解読のしかた如何によって金印のもつ意義が変わってきます。

 発掘当時、亀井南冥は委奴を「ヤマト」と読み当時の天皇に授けられたものだろうとしていましたが、修猷館教授らは委奴とは日本国の古号であり「漢代の日本国王の印」と解釈していたようです。

 その後、多くの学者は委奴を「イト」と読み倭人伝の「伊都国」の王に授けられたものだろうとしていましたが、のちに三宅米吉博士によって

     『漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王』

と読む説が発表され、現在これが定説となっています。その意味は、委は倭の略字で日本国の古号であり奴は福岡地方の古地名ですから

     『漢の国の属国である日本の福岡地方の国王』

という意味に現在のところ解釈されているようです。

何故、志賀島に埋もれていたのでしょうか?…

 この貴重な金印がどのようなわけで志賀島の西海岸に埋もれていたか、ということについて、以下のようないくつかの学説があります。

  「王宮説」 ・・・ 王宮の跡だろうとの説
  
  「墳墓説」 ・・・ 倭国王のお墓だろうとの説
  
  「隠匿説」 ・・・ 当時日本国内が乱れたので、隠したのだろうとの説
  
  「遺棄説」 ・・・ 日本を漢の属国扱いにした不届きな印は棄ててしまえというわけで海に棄てたのだとの説
  
 ところが、王宮説にしても王墓説にしても辺ぴな志賀島の西海岸にその所在をもとめることは不合理だと考え、学者たちがいろいろ試案した結果、隠匿説や遺棄説が出てきたのでしょう。

 それは「金印は奴国王あるいは伊都国王がもらったもの」とばかり思いこんでいたからのことで、もし金印が福岡市の南部か春日市あたりで出土しておれば「奴国王宮説・墳墓説」が堂々と通ったことでしょう。

 また糸島地方のどこかそれらしい場所で発掘されていれば「伊都国王宮説・墳墓説」となったのではないでしょうか。

金印の形は?

 金印には正方形の台の上に蛇がとぐろを巻いたような「つまみ」がついておりその下のところに穴があって「ひも」を通すようになっています。

 台(印体)の大きさは、一辺が約23_の正方形で厚さ約9_、総高約22_で重さは約109c、金位は22金ぐらいとのことです。

 今から2000年ほどむかし今の福岡地方に「奴の国」(なのくに)とよばれる原始小国家がありました。この奴の国の使者が中国(当時、後漢の国)に行って、光武帝(時の皇帝)から「印綬」をもらったということですが、これについて後漢の史書「後漢書」には次のように書いています。

 「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也光武賜以印綬」 

 この「印綬」が天明4年に志賀島の西海岸の田の中で偶然発掘された国宝「金印」であります。
 建武中元2年は西暦57年ですから平成10年から逆算すれば1941年前になります。
  

--- 以上は“観光パンフレット”からの引用です ---


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