お山の杉の子


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お山の杉の子
国民合唱曲

作詞 吉田  テフ子
補作 サトウハチロー
作曲 佐々木 すぐる
唄  安 西 愛 子
1.むかしむかし そのむかし 
  椎の木林の すぐそばに 
  小さなお山が あったとさ あったとさ 
  丸々坊主の 禿山は 
  いつでもみんなの 笑いもの 
  これこれ杉の子 起きなさい 
  お日さまニコニコ 声かけた 声かけた 
 
2.一(ひい)、二(ふう)、三(みい)、四(よう)、五(いい)、六(むう)、七(な)、 
  八日(ようか)九日(ここのか) 十日(とうか)たち 
  ニョッキリ芽が出る 山の上 山の上 
  小さな杉の子 顔出して 
  はいはいお日さま 今日は 
  これを眺めた 椎の木は 
  アッハハのアッハハと 大笑い 大笑い 
 
3.「こんなちび助 何になる」 
  びっくり仰天 杉の子は 
  おもわずお首を ひっこめた ひっこめた 
  ひっこめながらも 考えた 
  「なんの負けるか 今に見ろ」 
  大きくなって 国のため(大きくなったら 皆のため) 
  お役に立って みせまする みせまする

4.ラジオ体操 一二三(ほがらかに) 
  子どもは元気で 伸びてゆく 
  昔々の禿山は 禿山は 
  今では立派な 杉山だ 
  誉れの家の 子のように (誰でも感心 するような) 
  強く 大きく 逞(たく)ましく 
  椎の木見おろす 大杉だ 大杉だ 

5.大きな杉は 何になる 
  兵隊さんを 運ぶ船(お船の帆柱 はしご段) 
  傷痍(しょうい)の勇士の 寝るお家 寝るお家(とんとん大工さん たてる家 たてる家 ) 
  本箱 お机 下駄 足駄 
  おいしいお弁当 食べる箸 
  鉛筆 筆入れ そのほかに 
  嬉しや(楽しや) まだまだ 役に立つ 役に立つ

6.さあさ負けるな 杉の木に 
  勇士の遺児なら なお強い(すくすく伸びよう 皆伸びよう) 
  体を鍛え 頑張って 頑張って(スポーツ忘れず 頑張って 頑張って) 
  今に立派な 兵隊さん(すべてに立派な 人となり) 
  忠義孝行 ひとすじに(正しい生活 ひとすじに ) 
  お日さま出る国 神の国(明るい楽しい このお国) 
  この日本を 守りましょう 守りましょう(わが日本を つくりましょう つくりましょう
1944年(昭和19年11月)

 上掲の歌詞のうち、右側の括弧の中の赤字の部分は戦後に改作されたものであり、その左側の 元の歌詞に対応している。

 「お山の杉の子」は第二次世界大戦も末期の昭和19年、小国民文化協会が行った少国民歌の懸賞募集の第1位入賞歌であった。終戦とともに放送やレコードの販売が禁止になり、この歌をもう一度復活させようと、サトウハチローが改作したものである。
 なお、このような歌詞改作措置は他の唱歌・童謡にも見られる。例えば、『汽車汽車しゅっぽしゅっぽ』で知られる「汽車ぽっぽ」という歌も、元は「兵隊さんの汽車」という題で、『兵隊さんを乗せて』『僕等も手に手に日の丸の 旗をふりふり送りましょう』等の歌詞が含まれる軍国童謡であった。また、卒業式の定番曲である「蛍の光」の歌詞は、明治初期の成立時には4番まで存在したが、これも『千島の奥も沖縄も八島のうちの守りなり』など"不適切な"部分があるとされ、戦後になって3番以降は削除された。

 ところで、歌詞中の「杉の子」は何を示しているのであろうか。一般的には、「杉の子」は子供の隠喩であり、杉の木が早く成長して皆の役に立つように、君たちもそうなろうじゃないか、と歌いかける童謡であろう。もっとも、戦中編と戦後編それぞれにおいて、「杉の子」こと子供達の行末は時代を色濃く反映したものになってはいるが。

 作詞者の吉田テフ子は1920年、椎材の産地として有名な、徳島県の宍喰町の素封家に生まれた。子供の頃、木材の供出が多く禿山が増えていったことを回想しての詞であると言われている。彼女の死(昭和48年、享年52歳)の翌年、昭和49年11月、宍喰町町民センター前に「お山の杉の子」の歌碑が建てられた。【徳島県宍喰町ホームページ(http://www.town.shishikui.tokushima.jp/index.html)】

 なお、野村信之氏の「お山の杉の子*評」(http://www3.ocv.ne.jp/~nom-sin/sugi0.html)では、この歌が日本の風土にどのような影響を与えたかという視点からユニークな問題が提起されている。