暁に祈る


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暁に祈る

作詞 野村俊夫
作曲  古関裕而
唄   伊藤久男
1.ああ あの顔で あの声で
  手柄頼むと 妻や子が
  ちぎれる程に 振った旗
  遠い雲間に また浮かぶ

2.ああ 堂々の 輸送船
  さらば祖国よ 栄えあれ
  遙かに拝む 宮城の
  空に誓った この決意
3.ああ 傷ついた この馬と
  飲まず食わずの 日も三日
  捧げた生命 これまでと
  月の光で 走り書

4.ああ あの山も この川も
  赤い忠義の 血がにじむ
  故国(くに)まで届け 暁に
  あげる興亜の この凱歌
1940年(昭和15年4月)


佐々木 康監督による昭和15年の松竹映画「征戦愛馬譜・暁に祈る」の主題歌。配役は徳大寺 伸、田中絹代、佐分利 信などであるが、なかに「歌う兵隊」として歌手の伊藤久男も出演している。なお、主題歌にはもう一つ「愛馬花嫁」の唄がある。
なお、作曲者である古関裕而は自伝『鐘よ 鳴り響け』の中で、「暁に祈る」誕生について次のように述べている。

 《昭和15年の春、コロムビアから「陸軍馬政局が、愛馬思想普及のため、松竹映画で『暁に祈る』を制作することになった。その主題歌を作曲して欲しい」と連絡があった。作詞者は幼少の頃からの友人野村俊夫君、歌手も同じ福島県出身の伊藤久男君。つまり福島県生まれの3人が揃ってやるというかねての念願がかなえられることになった。
 野村君から第一稿が届き、さっそく曲をつけ、伊藤君が歌って軍の関係者に聞かせると、どうも作詞が気に入らぬという。その後も幾度も、書き直しの繰り返しで3人共ほとほといや気がさしてきた。多分7回目頃の「あああの顔で……」に始まるこの詞がようやくOKとなった。後で野村君は作り直すのがいやになり、「ああ」とため息が出たので、それを冒頭に持ってきたと冗談まじりに話していた。》

 《私(古関)はこの詞を見た時、中支戦線に従軍した経験がそのまま生きて、前線の兵士の心と一体になり作曲が楽だった。兵隊の汗にまみれ、労苦を刻んだ日焼けした黒い顔、異郷にあって、故郷を想う心、遠くまで何も知らぬままに運ばれ歩き続ける馬のうるんだ眼、すべては私の眼前にほうふつし、一気呵成に書き上げた。
 しかし、歌い始めの「ああ」に思い悩んでいた時、詩吟の好きな妻が詩吟をやり始めた。これだとばかりに「あ−あ」を、すらすらとメロディーが流れ始めた。さっそく軍部や映画関係者、ディレクター等が集まって、試聴が行われた。その結果OKが出て直ちに吹き込みし、映画の封切と同時にレコードが発売された。
 映画はあまりヒットしなかったが、レコードの方は大ヒットとなり、伊藤久男君の若さと情熱が大衆の胸をうち、たちまち全国に流行した。これは愛馬思想も含まれているが、数多い戦時歌謡の中で、輸送船で出征するシーンを歌ったものとしてもまた珍しくこの曲だけであったから、翌16年からの太平洋戦線に、各地に向かう兵士、家族はこの歌を合唱し、別れを惜しんだのである。
 後に陸軍海上部隊名が、暁部隊と称したので、間違って「暁に祈る」を暁部隊歌と思った人もあったと聞いた。また軍馬よりも「ああ、堂々の輸送船」が2番目に出ていて肝心の馬は3番で、「苦労を馬と分けあって」と出てくるので馬の影がうすかった。》

 《野村俊夫君は昭和41年10月、61歳で亡くなった。彼の死を悼む友人知己が相計り、「暁に祈る」の詩碑を福島市の信夫山第一展望台に、昭和48年10月に建立した。
 碑は3個の岩に銅板をはめ込んだもので、右側の石には、県知事、木村守江氏の筆により「暁に祈る」の第1節が書かれ、左側の右には私自身の書いた曲譜が刻まれ、まん中の右にその由来を記した趣意が書いてある。
 信夫山は、福島全市を見渡せる絶好の場所で、我が古関家の墓地もそこにあり、春秋の彼岸に桜や紅葉を賞でて訪れる人々も多い美しい所である。彼の詩魂も安らかであろう。》
http://fps01.plala.or.jp/~edih/nomura2.html

(参考)なおこの詩碑の除幕式の時、古関裕而は彼をこのような言葉で偲んでいる。
 「野村氏と私は福島市の大町で向かい合って育った友人であり、私の先輩であった。昭和6年に野村氏が上京してからコンビを組んで来た仲である。それにしても死去されるのが早すぎた。もっともっと仕事をして良い作品をたくさん残して頂きたかった。野村氏の死が悔やまれてならないのは、私一人だけではないと思う。」
http://fps01.plala.or.jp/~edih/nomura.html