作曲者 八洲秀章は、『桜貝の歌』、『あざみの歌』、『山のけむり』など多くの叙情歌の作曲者として良く知られているが、作詞者の和田隆夫については申し訳ないが余り記憶になかったので、その略歴を歌詞の次にご紹介する。
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作詞 和田隆夫 作曲 八洲秀章 唄 岡本敦郎 |
1 なつかしの アカシアの小径(こみち)は 白いチャペルに つづく道 若き愁い 胸に秘めて アベマリア 夕陽に歌えば 白いチャペルの ああ 白いチャペルの 鐘が鳴る 2 嫁ぎゆく あの人と眺めた 白いチャペルの 丘の雲 あわき想い 風に流れ アベマリア 静かに歌えば 白いチャペルの ああ 白いチャペルの 鐘が鳴る | 3 忘られぬ 思い出の小径よ 白いチャペルに つづく道 若きなやみ 星に告げて アベマリア 涙に歌えば 白いチャペルの ああ 白いチャペルの 鐘が鳴る |
1948年(昭和23年) |
和田忠朝(隆夫) (1911(明治44)年12月2日ー1996(平成8)年12月23日。享年86歳。) 島根県能義郡広瀬町に生まれる。1929(昭和4)年に島根県立松江商業高校を卒業、古河電気工業株式会社に就職し、東京勤務となる。会社勤めで金属を扱う一方、文学青年であった和田は同人雑誌に投稿する若き詩人であった。 流行歌の作詞を志していた和田は1937年、作詞家名を和田隆夫とし、タイヘイレコードから『さみだれ軍歌』(歌・筑波高)で作詞家デビュー。歌謡界では画期的な会社勤務と詩作との両立を果たした。東京・世田谷において結婚生活を送り、出征、終戦、そして復員後の1946年、新たに日本伸銅協会に勤務する傍らキングレコードに所属、1948年『ダンスパーティーの夜』(林伊佐緒)の大ヒット曲を生む。同年、コロムビアレコードの専属作詞家となり、『チャペルの鐘』(岡本敦郎)、『嘆きのブルービギン』(黒木曜子)、美空ひばりの『陽気な渡り鳥』『月形半平太の唄』『バイ・バイ・ハワイ』や『東京ファンタジア』(二葉あき子)など幅広いジャンルの作品を書くヒットメーカーに。 作詞家として多忙をきわめ、家庭よりも仕事を優先する和田であったが、本業である伸銅協会の設備の近代化、合理化、品質の向上、産学共同体制の強化などの諸問題について建設的な提言を行い、日本伸銅業をして世界第二位の地位を築くに至らしめる大きな功績を成し遂げた。1958年、全国伸銅工業組合専務理事に就任。1964年に社団法人日本銅センターの専務理事を兼務。 特筆されるのは、1968年、皇居の新宮殿造営における和田の大きな功績である。1964年に起工した新宮殿は、屋根を始め柱・梁の外装材の全てに800トンもの銅板が使用された。時あたかも、米国銅山とチリ銅山の長期ストに加え、ベトナム戦争は激化の一途を辿り、軍需要のため米国は銅の輸出規制を実施して価格が高騰し、新宮殿造営が危ぶまれる状態となった。こうした情勢下で最後の要請を受けた和田は、「日本の国のシンボルである新宮殿のためならば」と快く承諾するとすぐさま渡米して、旧知の「MILES METALS CO.」の社長に協力を求め特別価格で取引を成功させた。その結果、宮内庁における当初どおりの予算・工事で落成された。
1971年には工業標準化功労通商産業大臣賞、翌1972年に藍綬褒章、1982年には勲四等旭日小綬を授章。
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