奥貫家長屋門

川越市久下戸、奥貫家   




 川越の城下を囲むように蛇行した入間川が荒川と合流する付近は、西にも新河岸川が流れる低

湿地帯で、その中に島のように浮かぶ奥貫家屋敷があります。奥貫家は当地の大名主でしたが、

八潮の和井田家のように屋敷地の周囲に環濠を巡らすなど、中世土豪の方形館の様な屋敷構えを

見せています。さらに、この屋敷と共に正面に建つ長屋門も奥貫家の格式を物語っています。

 明治以降に建てられた長屋門なら身分に関係なく立派なのがありますが、この長屋門は江戸中

期に建てられたもので、名主であっても、江戸時代の農家がこれだけの武家長屋門を建てる事は

許されませんでした。奥貫家は、例えば東京杉並の田中家のように領主との特別な関係があって

このような武家長屋門を建てる事が許されたのだと思います。(注1)


    奥貫家長屋門


 この長屋門は水田地帯に面して

いて、その堂々とした姿を遮る物

のない広大な田畑越しに見せてい

ます。江戸中期以前の門で、これ

だけ保存状態よく残された長屋門

は珍しいです。




     長屋門入り口


 古い豪農屋敷の多くは幕末とか

の一揆に襲われ、門にも傷等が見

られるものですが、奥貫家は以前

の善政のお陰で襲撃を免れたそう

です。(注2)それでも300年

前に建てられた長屋門は、罅割れ

た木肌に時代を感じさせます。






     奥貫家遠望


 長屋門だけでなくその屋敷構え

も注目で、屋敷林の周りには総構

えの堀が巡らされていて、まるで

中世土豪の方形館のようです。こ

れで田植えの時期とか周囲の田に

水が張られていたら、まさに土豪

屋敷の景観になるのですが。






    奥貫家ジオラマ


 奥貫家屋敷は文化財には指定さ

れてないので、屋敷内の様子を見

る事は出来ません。ただ川越市立

博物館には奥貫家屋敷のジオラマ

が展示されていて、これを見ると

主屋も当時のままのようです。


注1・・・寛保二年に大洪水が起こり、川越近郊の農民達にも深刻な被害が発生しました。その

   時に、奥貫家の友山(雅卿)は屋敷の蔵を開き、足りない分はさらに米を買い集めて、多

   くの飢えた農民たちを救いました。時の川越藩主はこの救済事業を褒賞して、友山に時服

   佩刀(衣服と刀)、絵画、盛餐(食事の席)を与え、幕府からは門閭旌表(門に表彰する

   事)の褒賞を受けたそうです。当時これだけの事業が出来たので、奥貫家には既に長屋門

   くらい在ったのかも知れませんが、現在の長屋門は約300年前に建てられたとの事なの

   で、この褒賞に際して藩や幕府公認の元に建てられたのではないかと思います。

注2・・・大洪水から22年後の明和元年に付近一帯に大規模な農民一揆が起こり、奥貫家にも

   その打ち壊し勢が迫りましたが、友山に助けられた恩を覚えていた農民たちは、奥貫家に

   は何もせずに引き上げたそうです。