陣 幕 と 城 山

杉並区今川、道灌公園付近 同区西荻北二丁目付近 




 早稲田通りの今川三丁目交差点付近は昔から陣幕と呼ばれ、2kmほど北にある石神井城を攻

略する為に大田道灌が陣を敷いた場所といわれています。そのため宅地化される以前は道灌山と

もよばれ、交差点の近くには道灌公園と名付けられた公園もあって、この謂われを今に伝えてい

ます。この陣幕の古地名だけでは単なる伝承にすぎないと思われるのですが、坂を下った井草川

(現況暗渠)に架かる橋は道灌橋と呼ばれ、さらに北には愛宕山塁があり、また陣幕より南の荻

窪八幡神社の境内には道灌手植えの槇の老木があり、その南の善福寺川の南岸には城山(注1)

と呼ばれた高台があって、それらがほぼ一直線(注2)に位置しています。さらには、これらの

愛宕山塁、陣幕、城山の地に立つと、いづれも北に川を臨むひらけた高台になっていて地形的な

共通点も見うけられるのです。こうなると単なる伝承としては(注3)片付けられないように思

われるので本章でとり上げる事としました。


道 灌 公 園


 この付近が市街化される以

前には、陣幕、道灌山の他に

も、この時の合戦の戦死者を

葬ったとされる「おこり塚」

や井草川へ下る「道灌坂」、

上井草付近に「道灌掘」など

道灌にゆかりの地名がいくつ

か残されていました。






陣幕の丘


 北側の上井草運動場付近の

丘から見渡した陣幕の丘で、

中ほどの窪地が井草川の跡で

「道灌橋」が架かっていまし

た。道灌公園はこの坂を上り

きった交差点の右手奥にあり

ます。






道灌橋跡の石碑


 井草川は暗渠にされて今は

遊歩道となっています。また

現在の道路(上の写真)は後

からのもので、元の道は20

mほど東にあったようです。

この碑も道路から東に入った

遊歩道の脇にあり、隣接して

「道灌橋公園」があります。






城山の丘


 これも陣幕の丘と同じく北

から撮ったものです。中ほど

の善福寺川を渡り、そのまま

坂を上れば城址の丘です。城

山の謂れは、近くの荻窪八幡

由緒によれば、源頼義が奥州

からの帰途に兵を駐留させた

事に始まるとされています。



注1・・・・ 杉並で城山という古地名があったのは善福寺川南岸の西荻図書館の付近ですが、

      日本城郭体系に北岸の荻窪八幡神社付近と誤って掲載された為に、その後の書籍等

      にも誤った場所が紹介されているようです。かつて城山と呼ばれていた付近の坂上

      に立てば(西荻北2−36の辺り)善福寺川の蛇行により三方を川に囲まれた舌状

      台地先端の城址であることが想像出来ると思います。ただ、地名として残ったのは

      水の手があり人が定着した低地の地域ですが、道灌勢が陣を置いたのは愛宕山塁や

      陣幕の地のように見晴らしの利く丘の上だった筈です。

注2・・・・ 推測なのですが、これらは石神井城攻略時の太田道灌勢の進軍ルートで、戦況の

      推移により本陣は前進させたのでしょうが、退却時の為にそれぞれの渡河地点には

      兵を残し後詰の陣を築いたのではないでしょうか。

注3・・・・ この付近には地元にだけ伝えられてきた面白い言い伝えがあって、「石神井城主

      豊島泰経は毎朝井草八幡あたりへ遠乗りに出かけていたが、文明九年の初夏に現在

      の上井草四丁目あたりの切り通しで百姓に化けた道潅の手勢に襲撃されて死んだ」

      というものです。ただ勝者の道潅としてはあまり外聞の良い話ではないので公には

      されず、目撃した地元農家の間でだけ親から子へと伝えられてきたのかもしれませ

      ん。道灌の戦術からして、あながち考えられない話でもないように思います。



    アクセスガイド


  陣 幕・・・西武新宿線中央線 上井草駅より南に徒歩約800m(道灌公園)
        または  中央線 西荻窪駅より北に徒歩約1500m(同)

  城 山・・・中央線 西荻窪駅より北東に徒歩約400m(西荻北2−36付近)






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