プリンス・オブ・ウェールズの故事(前頁より)


大首長リュウェリン公の孫リュウェリン・アプ・グリフィズ(ウェールズ語の発音
ではスウェリン・アップ・グリフィス)もまたイングランドの有力貴族レスター伯
シモン・ドゥ・モンフォールと提携しつつ、辺境領主の領地を逆征服する二重政策
を踏襲した。

シモン・ドゥ・モンフォール伯はイングランド王ヘンリー三世の妹婿になるが、貴
族のリーダーとして王権に対立していた。
一時はヘンリー三世と王子のプリンス・エドワード(懺悔王にあやかりエドワード
と命名された。後述のエドワード一世)を幽閉した。
この時、各州か2名のナイト、各市から2名の市民、自治都市から2名の代議員を
出席させる議会(Parliament)を作ったので、シモン伯は「下院議会の創始者」と
いわれている。

しかし、1265年5月、プリンス・エドワードは幽閉を脱出した。
8月にシモン伯率いる貴族連合軍を破り、シモン伯をはじめ全員を殺害した。
1272年ヘンリー三世が死去し、エドワードは十字軍遠征の旅先アルプスの麓で
イングランド王位を宣言し、「エドワード一世」と名乗った。


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