ウェールズ独立600年祝祭の動き(2)

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オウェン・グレンドワーには適齢の姫キャサリンがいた。
エドマンド・モーチマー卿の人物を見こんだオウェン・グレンドワー
はキャサリンと捕虜のエドマンド卿を結婚させた。

イングランドの王はウェールズ人に野蛮な人種法を適用し、怒らせ
ていたから、このイングランド王位継承権者の血縁者との婚姻は、
オウェン・グレンドワーの地位向上に大きな意味を持っていた。
イングランド人たちはオウェン・グレンドワーの地位を単にウェール
ズの田舎騎士と蔑視できなくなった。

更に衝撃的な出来事が起こった。
エドマンド・モーチマー卿には義兄弟になるハリー・ホットスパー
(Harry Hotspur)が、ヘンリー王に反意を抱き、オウェン・グレンドワ
ーの陣営に加わったのであった。
ハリー・ホットスパーは、当時北ウェールズ地方の最高司法官
(justiciar)であった。
justiciarはノルマン王朝時代にイングランドに持ちこまれた司法制度
であった。
エドマンド・モーチマー卿の軍団と最高司法官ハリー・ホットスパー
というイングランドの二人の貴族が、オウェン・グレンドワーと同盟し
たので、軍政と民政両面でオウェンの政治的地歩は大いに高まり、
殆どウェールズ全土が彼の陣門に参じた。



1404年、オウェンはウェールズの中西部の交通の要衝マッキン
レス(Machynlleth)をウェールズの首都とした。
オウェンは、若き日ロンドンの法院での勉学や宮廷での経験を生か
した。
二院制の議会を作り、ウェールズ各地から議員を参集した。その議
会でオウェンはウェールズ王に就任した。
(1402年戴冠という説もある)

宗教面でも改革を行った。北ウェールズのバンゴール(Bangor)は、
6世紀ごろから宗教と学問の町としてウェールズ文化の中心地であ
った。オウェンはバンゴール大聖堂の司教を更迭し、自らの腹心を
その後任に任命した。

外交でもウェールズ国王として際立った手腕を発揮した。

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