ウェールズ独立600年祝祭の動き(2)

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オウェン・ウェールズ王は、近隣諸国に使節を送った。

アイルランドは渋々ながらこの戴冠を承認した。
イングランドと抗争を続けているスコットランドは、対照的に積極的に
承認し、友好的であった。

さらにイングランドとの間で、後年「百年戦争」と呼ばれる泥沼の戦を
展開していたフランスには、北ウェールズのセント・アサフ(St.Asaph)
聖堂の司教を大使として派遣し、友好条約を締結した。
セント・アサフの聖堂は小さいが、6世紀に創建され、ウェールズに影
響力のある由緒有る教会であった。

フランス、スコットランドとの連帯を強化するために、カトリックの本山
教皇対策もとった。
当時教皇庁はローマ教皇庁教皇とアヴィニヨン教皇庁に分裂していた。
教皇が二人いたのである。
イングランドが支持していたローマ教皇庁教皇に対し、フランスとスコッ
トランドはアヴィニヨン教皇庁教皇を教皇と認めていた。
1406年、オウェン・ウェールズ王は、アヴィニヨン教皇庁教皇派に接
触し、時が来れば一教会と二つの大学を寄付しようと申し出ている。

これら一連のイングランド包囲戦略は、政治・外交だけでなく、スコッ
トランドとフランスの支援のもとに軍事面でも成果をあげた。
ウェールズ軍は国境を越え、一時はイングランド西部の都市ウースタ
ー(Worcester)までも侵食したほどである。



今やオウェン・ウェールズ王は、祖先リューエリン皇太子を大幅に上
回るウェールズ全土にわたる政治体制と、軍団と人脈をもって、イン
グランドのヘンリー王に堂々と対抗していた。

ヘンリー王の軍も二度ばかり勝利し、その都度「自由を与えるので、
服従してはどうか」と申し入れたが、オウェン・ウェールズ王は頑とし
て臣従は拒否し、抵抗を続けた。

しかしオウェン・ウェールズ王のウェールズ支配にも翳りが出てきた。
ヘンリー四世はウェールズの貴族たちに個別に折衝し、自由と引き
換えにイングランドに臣従する者が増えてきた。

ヘンリー四世は1413年3月20日逝去した。若い頃十字軍に加わ
り、リトアニアに遠征した際かかった癩病が発症したといわれている。

オウェン・ウェールズ王は、最後までイングランドに臣従せず、ゲリラ
的な抵抗を続けたが、忽然と消えた。いつどこで死亡したか不明で
ある。
一説には1415年頃といわれているが、ヘンリー四世の波瀾の生涯
とともに、終始抵抗したライバル、オウェン・グレンドワーの生涯も終
わったようである。

ウェールズには『消えたオウェン・グレンドワーはいつか世に出てくる』
という伝説がある。

そして600年後、オウェン・グレンドワーは自由と独立の象徴として、
ウェールズの人々の心に甦ったのである。


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