ウェールズ独立600年祝祭の動き(1)

(前頁より)


ウェールズは1282年イングランド王エドワード一世に征服されて以来
王政は絶え、イングランドの支配下にあった。
エドワード一世が、わが子(後のエドワード二世)を従来の「イングランド
の皇太子」とせずにわざわざ『Prince of Wales』と命名した故事が、今な
お継承されていることは衆知のことである。

イングランドの圧制に叛旗を翻したのが、オウェン・グレンドワー(Owen 
Glendower)(またはGlyndwr、 Glyndyfrdwy)であった。
オウェンはエドワード一世に滅ぼされた最後のウェールズ皇太子リュー
ウェリン(LLewelyn)の子孫である。

当時の呼び名はOwain Ap Gruffyddといい、ウェールズの歴史書ではこ
の名前が使用されており、ウェールズ人にはOwain Glyndwrとして知られ
ているようであるが、イングランドではシェークスピアが歴史劇「ヘンリー
四世」で使ったというGlendowerが使われているのも面白い。

閑話休題。
オウェン・グレンドワーは1364年に生まれ、北ウェールズの祖先の裕福な
地所を相続した。
その所領の一つが、彼の名前にもなっているディ川(River Dee)沿いのコ
ーウェン(Cowen)の町に近い Glyndyfrdwyである。



長じて法律の勉強を志し、ロンドンに出てある法学院(the Inns of Court)
に入学した。法学院は弁護士検定機能を持っており、InnerTemple,
Middle Temple, Lincoln's Inn, Glay's Innの4学院があった。
支配されているウェールズから、はるばるロンドンに来るのであるから相当
に優秀な青年であったとみられる。


その後彼はイングランド王リチャード二世の小姓に登用された。
1387年、20歳のリチャード王は23歳のオウェンを騎士に叙任した。
リチャード王は14歳の時、ワット・タイラーの暴動事件を見事に収拾し、
声望が高かった。以来オウェン・グレンドワーの人生はリチャード二世と
深くかかわることになる。
当時リチャード二世の周辺は王位を狙う諸侯の政争暗躍の巷であった。




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