ノルマンディー歴史紀行

ルーアンの史跡めぐり(1)


”ジャンヌよ、剣を取れ”



高齢者割引とクレディット・カードで購入、2等快適のSNCF

 3月7日早暁ホテルを出発、地下鉄でサン・ラザール駅へ。
目的地はノルマンディー公とジャンヌ・ダルクゆかりの町ルーアンであ
る。

ルーアンへの2等切符を、憶良夫妻は「DECOUVERTE SENIOR」を利
用し、かつクレディット・カードで購入した。

 「DECOUVERTE SENIOR」というのは60歳以上の高齢者割引であ
る。口頭でいうか、メモ紙に書けばよい。割引率はなんと25%。外国人
旅行者にも適用される。
 更に100フラン以上の金額にはどの駅のどの窓口でもクレディット・
カードが使えるから、現金の持参や、慣れないフランス語での会話は
いらない。駅員はどこでもにこっと微笑んで手続きしてくれる。

 IT革命とは、具体的にはこのようなことだろう。日本のJRはフランス
SNCFの爪の垢でも飲んで、マネしてほしいと思った。JRでもクレデ
ィット・カードは使えると言い訳するかもしれないが、一部の駅の限ら
れた窓口である。SNCFのように全駅全窓口には及ばない。

 個人旅行の解説書は、主として若者向きであり、「DECOUVERTE
SENIOR」の解説や、クレディット・カード利用が出来ることが記載され
ていないこともあるので、参考までに書いた。

 出発の番線は10分前ぐらいにボードに出ると、「フランス鉄道の旅」
に書かれたいたが、その通りで、25番であった。改札は各自が改札
機に挿入してパンチをする。それを後刻車掌が車内で検札する。
 急行であるが切符は乗車券1枚で済むのも煩わしくなく旅人にはあ
りがたい。

 2等の席はリクライニングこそないが、ゆったりとしている。こうしてみ
るとどうも日本の車両は多人数を効率的に運ぶことに設計思想があ
るようだ。
 シーズン中なら席はないかもしれないが、この時期は空いているの
で2等車両で十分である。

悠々たるセ−ヌの流れ

 ノルマンディー海岸ル・アーブルへ向かう列車はパリを出るとすぐに
セーヌ川に沿って走る。東京とちがって郊外に出るとすぐに田園風景
となる。セーヌには朝霧が立ち込め、自然のままの川岸や、木々が生
えている中州などの景観に見惚れる。

 川幅の広い悠々たるセ−ヌの流れを見ていると、なるほど、その昔
ヴァイキング達が軍船を連ねて漕ぎ上ってくるのは容易だったろうと、
酋長ロロ(初代ノルマンディー公)に思いを馳せる。

 8時36分ルーアン到着。パリからは急行で約1時間の行程である。
 ルーアンは古くからノルマンディー地方の州都である。落ち着いた雰
囲気の街である。「遊ぶのはパリ、住むのはルーアン」という言葉があ
るそうだ。丘あり、大河あり、大聖堂あり。さもありなん。

 歴代ノルマンディー公と関わりが深いルーアンであるが、とりわけイ
ングランドを征服し、ノルマンディー公兼イングランド王となったウィリア
ム1世に触れておこう。

 ウィリアム公はイングランド侵攻に先立ち、万一の事態を考慮して嫡
男ロバートをノルマンディー公後継者として残しておいた。征服後もイ
ングランドには帯同しなかった。

 嫡男ロバートはパリのフランス王と懇意となり、その後二度にわたり
父ウィリアム公に反撥し、父子は剣を交える事態になった。
 ウィリアム公は嫡男ロバートとの戦闘で落馬、ルーアン郊外で数奇
な人生を閉じた。
(詳しくは、連載中の「われ、国を建つ」に掲載予定)

 英仏の抗争では、オルレアンの聖少女「ジャンヌ・ダルク」も、郷里か
らは遥かに遠いこのルーアンで火刑になり、命を落としている。

 ルーアン逍遥に先立ち、ジャンヌ・ダルクと当時の英仏抗争の背景
と関係都市の所在地を概観しておこう



”ジャンヌよ、剣を取れ”

 ジャンヌはパリやオルレアンやルーアンなどの大都市に育った乙女
ではない。1412年、パリから東へ約250キロも離れた、ロレーヌとシ
ャンパーニュの間にある寒村ドンレミーの中農の生まれである。
 人柄のやさしい篤実な田舎娘であったという。

 当時イングランドは強大であった。イングランド王ヘンリー5世は、フ
ランス王シャルル6世の息女カトリーヌを王妃にしていた。
 ヘンリー5世はフランス王位継承権を主張していた。

 フランス国内は、カトリーヌの兄である王太子シャルルを支持する
アルマニャック派と、これに対抗するブルゴーニュ派に分かれていた。

 紆余曲折は省略するが、1420年、フランス中部のブルゴーニュ地
方の領主たちは、イングランド王ヘンリー5世と合従連衡し、フランス
王太子シャルルに反乱した。
 フランスの北半分は、連合軍の占領地となった。

 ”ジャンヌよ、剣を取れ。シャルルを国王に戴冠させよ”との神の声が
田舎娘に降りた。

 ドンレミーはイングランド軍とブルゴーニュ派の席捲する地域の中で、
僅かに占領されていない地域であった。ヴォークルールの町の守衛官
ボードリクールが王太子シャルル支持派であったからである。

 1428年、16歳の少女ジャンヌは守衛官ボードリクールを説得し英
軍占領地を通り抜け、ロワール川流域のシノン城にいたフランス王太
子シャルルに面談し、神の啓示を伝えた。

 王太子を説得し軍勢を借りたジャンヌは、純白の衣装に白い甲冑を
まとい、フランス王旗を高々と掲げ、当時英軍に包囲されていたオルレ
アンの町の救援に向かった。

 ジャンヌは先頭に立ち、全軍を鼓舞して、遂にオルレアンを解放した。

 1430年、ジャンヌは王太子シャルルをランスのノートルダム大聖堂
でフランス国王に戴冠させた。シャルル7世である。
 フランス王がランスで戴冠式をあげるのは、5世紀末、初代クロヴィ
ス王がランスで洗礼を受けて以来の伝統であった。

 ジャンヌはフランス全土からイングランド軍を追い出すべく、シャルル
7世にイングランド軍攻撃を要請したが、戴冠後のシャルル7世は厭
戦的で和平を望み、またジャンヌの人気を妬んだ。

 王の積極的支援なきままに、英軍占拠のパリ奪回に失敗した。その
後パリ北東コンピエーニュの攻撃最中、故意か偶然か、敵中に孤立し、
ブルゴーニュ軍に捕らえられ、イングランド軍に売り渡された。

 1431年2月から3ヶ月間、イングランド軍占拠のルーアンで裁判に
かけられ、「悪魔に憑かれた女」として、5月火刑を宣告された。
 剣を取って2年あまり、19歳の美貌の少女はルーアンの市場に数奇
な運命を閉じた。



ルーアンの史跡めぐり(2)

憶良氏の世界管見(目次)へ戻る

ホームページへ戻る