ノルマンディー歴史紀行

ルーアンの史跡めぐり(2)


焚刑と列聖の意味



春寒やジャンヌ・ダルクの塔の下

 8時半過ぎルーアン右岸駅下車、すぐ見えるのがジャンヌ・ダルクが
捕らえられて投獄されていた円塔の牢屋である。



 2月から4月にかけて、この冷え冷えとした石の牢獄で19歳のジャン
ヌは処刑されるまでの3ヶ月間過ごした。彼女は何を考えたであろうか。
映画「ジャンヌ」は獄中のジャンヌの心の葛藤も描いている。

 「あれは本当に神の啓示だったのか?」
 「神とは何か?」
 「何故神は救ってくださらないのか?」
 人がジャンヌを疑ったように、映画「ジャンヌ」では良心の化身が自己
に問いかける。

 ジャンヌは、素直なおとなしい農村の少女であった。文字は書けなか
ったという。最初に神の啓示があって以来、救国の剣を取るまで5年の
月日がたっていた。 剣を取っても人は殺めず、常に旗をかざして先頭
に立ち、兵士たちを鼓舞してきた。

 戴冠後のシャルル7世王にとって、「フランスから英軍を追い返せ」と
叫び続けるジャンヌは邪魔な存在となっていたのだ。

 「何故王は戦おうとしないのか?」「なぜ王は身代金を払って助けて
くれないのか」ジャンヌは虚しくなっていたであろう。

 ジャンヌは異端の疑いありとして宗教裁判にかけられる。
 
 自己保身の高位聖職者たちは、神の啓示を説きながら、俗人ジャン
ヌにおりた啓示は認めるわけにはいかなかった。
 高位聖職者たちは、ジャンヌが過度の信仰から夢を見た結果だとし
て彼女の魂と肉体を救済しようとした。
 しかしジャンヌは神の啓示を主張し、頑として責め苦に屈しなかった。
  ジャンヌは戦乱に苦しむ農民の子として、暖衣飽食の高位聖職者に
厳しい言葉を投げかえした。

 宗教裁判では「魔女に憑かれた女」として、処分は俗権である代官
にゆだねられ、ルーアンの代官は残酷な火刑を宣告した。

 ジャンヌが聖人としてローマ教皇庁に認められたのは、約500年後
の1920年である。
 20世紀は、フランス国民が「無私無欲の愛国の象徴」をジャンヌに
求めた時代であったのかもしれない。

サントゥアン教会とモン・サン・ミッシェル

 ジャンヌ・ダルクの塔からサントゥアン教会への道路沿いには、ノル
マンディー独特の木組みの建物が見かけられ、飽きない。



 立派な市庁舎の広場に出る。
 ルーアンは、ノルマンディー地方の州都である。古くからハイ・ノルマ
ンディーの中心地であった。ルーアンに対して、ロー・ノルマンディーの
中心は、次に訪れるカーンである。

 市庁舎に隣接して、堂々たるゴシック様式の大寺院が建っている。
サントゥアン教会である。天空に向かって、いくつもの尖塔がそそり立
っている独特の建築はフランボワイヤン様式というらしい。
 中世、サントゥアン教会が究極のゴシック建築とみなされていた。





 昨日訪問したモン・サン・ミッシェル修道院の内陣は、このサントゥア
ン教会の建築を真似したものである。というのは内陣増築当時のモン・
サン・ミッシェル修道院長ギヨーム・デストットヴィルはサントゥアン教会
の院長でもあった。

 デストットヴィル院長は、サントゥアン教会の建築家ギヨーム・ポンテ
ィスにモン・サン・ミッシェルの設計図を引かせたのであろうといわれて
いる。

ノートルダム大聖堂

 サントゥアン教会からノートルダム大聖堂の裏に出た。この辺りは古
い木組みの建築が多い。敷石が濡れているのは朝方の雨のせいだ
ろう。側面を通り、大聖堂の正面に出た。「昼は雄大、夜は繊細」とい
われる素晴らしい建築である。

 ウィリアム征服王はルーアンの郊外で没し、ジャンヌはこの町で数奇
な運命を終えている。

     征服王、ジャンヌも哀れ
               ルーアンの大聖堂に春の雨降る  憶良


 堂内をゆっくり拝観する。ジャンヌのチャペルがある。焚刑にあって
いるジャンヌの像の前に、教会には珍しい真剣が供えられている。イ
エスとマリアの刻銘が剣の上下に彫られている。

     焚刑の乙女に供う剣(つるぎ)あり
                   イエス・マリアの銘刻添えて 憶良


 聖堂の雰囲気は荘厳すぎる。気分転換にセーヌの川岸に出た。
ジャンヌの骨や灰はセーヌに流されたという。
 大きな引き舟が上下している。パリなど内陸へ、あるいは英仏海峡
へと通ずる流通の動脈なのだと実感する。

レジスタンス

 その名もジャンヌ・ダルク通りを駅の方へ戻る。途中に裁判所があ
る。ジャンヌを3ヶ月間裁いた由緒ある裁判所は、ナチス・ドイツ占領
下にあっては、レジスタンスの無名の戦士たちを裁いたようである。

 第2次大戦時代の激戦を示す無数の弾痕が残されている壁面に、
ナチス・ドイツに立ちあがった市民のレジスタンスを称え、その犠牲を
悼むプレートがはめ込まれてあった。イングランドの侵略に反抗した
ジャンヌ。ナチス・ドイツの占領に抵抗したレジスタンスの市民たち。
2つの抵抗運動に、フランス市民の愛国精神を見た。

       ジャンヌ・ダルク裁きし館(たて)の弾痕に
                 レジスタンスの激しさを知る  憶良


 裁判所と道路を隔ててすぐのところに、ジャンヌが処刑された旧市
場広場がある。古い町並みのルーアンにはそぐわない近代的な教会
が立っている。壁面一面、ジャンヌを悼むステンドグラスになっている。

 ノートルダム大聖堂でも旧市場広場の教会でも、何人かの敬虔な
信徒たちが静かに長い祈りを捧げていたのが印象的であった。

   

カーン逍遥

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